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愛はくちづけに溶けて
       
     

第七話 明星




「……んっ」

 唇が離れた隙に息を大きく吸い込む。けれど、肺が膨らむ前に上唇を啄まれて、すぐにまた口を塞がれた。途切れ途切れの短いふたつの呼吸が、絡み合って混ざり合って、口の中が不思議な甘い蜜で満ちていく。

 まるで、深い水の底へ沈んでいくようだった。その感覚はとても不思議で、息は苦しいけれど、微睡まどろみの中にいるみたいに気持ちがいい。

 頭がくらくらとして、体から力が抜ける。すると、熱を残して唇が離れた。
 夢から覚めるように目を開けると、白い肌をほんのり朱に染めたカリナフの顔があった。タナシアは小袖の懐から手巾を出して、カリナフの口元に当てよう手を伸ばした。カリナフが、それをかわしてタナシアの手首をつかむ。

「べ、紅が移ってしまっておりますので……」
「構わないよ。君は本当に、生真面目だな」

「申し訳ございません。このような時、どうすべきなのか……、何もわからないのです」
「その方が、私は嬉しい」

「茶化さないでくださいませ。は、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうなのですから」
「本心なのだが」

「本当に嬉しいとお思いなのですか?」
「そう、嬉しい。とてもね」

 カリナフが、腑に落ちない様子で顔を真っ赤にするタナシアの両腕を片方ずつ順に自分の肩へ乗せる。するりと五衣いつつぎぬが滑り落ちて、火桶の炭がぱちっと小さく弾けた。

「私を抱きしめて、タナシア」

 そう言って、カリナフがタナシアの背中に両手を添えて体を密着させる。
 自分の左胸から、規則性の無い乱れた大きな鼓動が響いて一瞬だけ意識が遠のく。タナシアはしばらく躊躇して、それから腕をカリナフの首の後ろで交差させた。そして、戸惑いながら少しずつ腕に力を込める。

 抱きしめられたのも初めてだけれど、他人を抱きしめるのも初めて――。

 力加減はこれで良いのかしら。カリナフさまは苦しくない?
 ひとり戸惑うタナシアの肩に、カリナフが顔を埋める。すべてを委ねるようなその重みは、信頼を寄せられてるかのようで……、くすぐったくて嬉しくもある。

 ぽこぽこと、水面で泡が弾けるように心が喜びに沸き立つ。同時に、その裏側で過去が楔を打ち込まれた薄氷のようにひび割れる。

 婚儀の日に思いを馳せて感じたものは、果たして本当に「幸せ」だったのかしら。互いを慈しむ言葉やあたたかな抱擁を交わした事など無かったのに、陛下との間に夫婦の絆というものは存在したのかしら。

「カリナフさま」

 声が震えて、双眸からほろほろとしずくが落ちた。
 何も知らずに生きていたのだと、今さら思い知る。父上の期待と重たい家門を背負って、陛下の御心を望んだ。

 ――その気持ちに、温度はあった?

 ふたりで歩いた日々。一緒に食した質素な朝食の美味と長閑な時の流れに噛みしめた幸福。我が身を嘆くばかりのわたくしに、カリナフさまは寄り添って多くの事を教えてくださった。

 どうして、わたくしが一族誅殺の刑を免れて生き延びたのか。どうして、カリナフさまは辺境の地での任に就いたのか。旅路の途中で幾度か尋ねて、その度にひらりとはぐらかされた。カリナフさまは、言葉少なく多くをお話しにならない。けれど、足跡を辿ると答えが見える気がする。
 カリナフが、涙に気付いてタナシアの頬に唇を寄せた。

「また陛下を思い出させてしまった?」

 いいえ、と首を振るタナシアの耳元に柔らかな吐息がかかる。そして、耳朶を甘噛みするようにカリナフが言った。

「今宵は一緒に眠ろう、タナシア」

***

 木枯らしは、日が沈んでも止むことはなかった。
 奥の院からビアヌが着替えや化粧道具を持って本邸に来たのは、日暮れから少し経ったころだった。仕事を片付けるというカリナフの邪魔にならないよう、タナシアは別室に移ってそこにあった本を読んで時間を過ごし、夕食まで済ませた。

「奥様、湯殿の用意ができましたので湯浴みをなさいますか?」
「カリナフさまは、もう湯浴みをなさったのかしら」
「まだお仕事をなさっているようです。ですが、先に奥様に湯殿をお使いいただくようエンデさんに言われました」
「では、そうしましょうか」
「はい、奥様」

 ビアヌが、タナシアの後ろに膝立ちになって丁寧に髪の元結を解く。かもじを外した髪は、背中の中ほどくらいの長さになっていた。

「だいぶ伸びましたね」
「そうね」

 丸鏡の中で、タナシアとビアヌが目を合わせて微笑む。黒い漆塗りの乱れ箱に入れられた髢を見て、タナシアは自分の髪を触った。

「ねぇ、ビアヌ。あなたにお願いがあるの」
「何なりとお申し付けを」
「わたくしの髪を肩の長さに切り揃えてくださらない?」
「嫌です、奥様。せっかく伸びて参りましたのに、勿体ないです」
「勿体ないのはわたくしの髪ではなくて、その髢よ。髪が伸びてしまったら、髢が要らなくなってしまうでしょう?」
「それで良いではありませんか」
「大切な髢なの。ずっと付けていたいから……、ね? お願い」

 タナシアが胸の前で手を合わせて懇願すると、ビアヌは渋々「わかりました」と返事をして鋏を探した。カデュラスでは、髪を切りたいなんて言う女性はいない。髪は美しさの象徴のひとつで、それを切り落とすのは夫と生き別れた未亡人か世捨人か罪人くらいだ。

「奥様」
「どうしたのです?」
「屋敷に押し入った盗賊に髪を切られたと旦那様からお聞きしましたけど……。物騒な所なのですね、カナヤは」
「……え、ええ。そうなのです」
「一度行ってみたいと思っていましたが、そのお話しを聞いて怖くなりました」

 確かに、罪人とは言えないし、夫婦を演じるのなら未亡人とも言えない。世捨人と言う年齢でもないから、不慮の事故を装うのが一番自然だとは思うけれど……。
 すっかり騙されているビアヌが憐れで可愛くて、タナシアの顔が優しくほころぶ。

「奥様。本当に、本当に宜しいのですね?」
「いいわ」

 喉をごくりと鳴らして、ビアヌがタナシアの髪に鋏を入れる。ざく、ざく。髪が切られて、王宮を出た時と同じ長さに近付く度に、過去が体から切り離されていくようだった。
 運河を渡って生まれ変わる。カリナフの言葉が、真実味を帯びてタナシアの背中を押した。

 ビアヌがタナシアの髪を乾かし終えた丁度そのころ、時を計ったかのように家令が迎えに来た。寝殿は、本邸から渡り廊下を二本渡った先にあると言う。
 タナシアは、家令のあとをついて寝殿へ向かった。吹き荒む風は、いくらか落ち着いていた。それでも、暗い庭から乾いた葉擦れの音や何かが軋む音が聞こえてくる。

 弧を描く廊下を渡りながら夜空に目をやると、大きな月と無数の星が見えた。思わず足を止める。凍てつくような冷え冷えとした空気は澄んで、夜空が壮大な一枚絵のように美しくて幻想的だった。

「どうなさいました、奥様」
「……星がきれい」
「先ほど、旦那様も同じことを言っておられました」
「カリナフさまが?」
「はい。大抵の方は月に感嘆なさるものと心得ますが、旦那様と奥様は感性が似ておられるようですね」
「そう……、かしら」
「夫婦は似ると申しますから。ささ、奥様。冷えますので、急ぎましょう」

 寝殿に着いて、タナシアは左胸をおさえた。
 しんと静まり返った広い部屋には、家具も調度品も無い。明かりも燭台がひとつ置かれているだけ。奥の御簾が人が屈んでくぐれるくらいの高さまでおろされていて、そこにとこがひと組み敷かれていた。心音が、左胸を突き破りそうな勢いで鼓動する。

「……カリナフさま?」

 ひゅうっと冷たい風がひと筋、部屋を吹き抜けた。
 御簾をくぐると、カリナフが窓を開けて外を見ていた。昼間はきつく結われていた髪が羽衣のようにふうわりと風になびいて、顔がゆっくりとこちらを向く。

「星があまりにも美しくてね」
「わたくしも廊下でそう申しましたら、家令にカリナフさまと感性が似ていると言われました」
「そう。良い事だ」

 窓を閉めたカリナフが近付いて、腕の中にタナシアを閉じ込める。それから、一瞬体が浮遊したような気がして、次の瞬間には床の上にふたりの体が重なるように雪崩れていた。
 間近で合わさるふたりの視線。きらりと光る黒曜石のようなカリナフの目に、タナシアの呼吸が鎮まって瞳が揺れる。

「怖い?」
「……少し。わたくしは、清い身ではないので……」
「君は美しいよ。空で一際輝く金の星みたいに」

 一気に熱を孕んで上気した顔に、カリナフの影が差す。タナシア、と囁くような小声のあとに唇を食まれて、胸の上でぎゅっと拳を握った手が大きな手に包まれた。


   
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