「奥様、旦那様からお届け物です」
ビアヌの浮足立った声に、タナシアは顔を上げた。
カシュに着いて半月が経った。最初はどうも受け入れ難かったけれど、奥様と呼ばれるのにも何とか慣れてきた。
読みかけの書物にしおりを挟んで閉じると、タナシアは文机を離れて席を移った。
奥の院には他にも使用人がいるのだが、タナシアの身の回りの事はすべてビアヌが請け負っている。ひとりでは大変でしょうとビアヌを労った時、旦那様からそう命じられておりますと返事があった。やはり、咎人を牢獄ではない場所に置くのには、いろいろと根回しや気遣いが必要なのだろう。
「今日は焼き菓子だそうです。カシュで有名な老舗の菓子ですって、奥様!」
「そう。では、それに合う美味しいお茶を淹れてもらえるかしら。あなたの分も」
「宜しいのですか?」
「もちろんよ」
「奥様、ありがとうございます!」
嬉しさが弾けたようなビアヌの笑顔に、タナシアは袖で口元をおさえて笑みをこぼす。
カリナフは朝早くに国府へ赴いて、帰ってくるのはタナシアが寝床に入った後だ。顔を合せる機会はまったく無い。その代わりに、国府からカリナフの名代を名乗る役人が、毎日、菓子と手紙を携えて邸宅を訪ねて来る。正午前だったり昼下がりだったりと時間はまちまちだけれど、一日も欠いた事は無い。
ビアヌがお茶を用意している間に、菓子に添えられた手紙を広げる。手紙と言っても、それは白紙だ。初めて受け取った時は驚いたけれど、紙に押し花が漉き込まれているのに気付いて、手紙は花の代わりなのだと解釈した。
「今日のお花は……、女郎花かしら」
花から枝まで黄色い押し花を指でなぞる。季節は移ろい、今は冬真っ只中。北風の冷たさに木花がじっと耐え忍ぶ季節だ。生花は手に入らないけれど、押し花なら様々な季節の花を楽しめる。
タナシアは、手紙を広げては花の名当てをして、その度にカリナフの顔を思い浮かべるのだった。
それから日が経って、木枯らしが吹き荒れる日のこと。
珍しくカリナフが昼過ぎに戻ったと聞いて、タナシアは菓子と押し花の感謝を伝えようと本邸に向かった。
エンデに案内された部屋に入ると、板の間から一段高い御座にカリナフの姿があった。風で乱れた髪や衣を、ささっと整えて御座に近付く。すると、カリナフはうたた寝の最中だった。
国府から帰ってそのまま眠ってしまったのか、そばには袍が無造作に脱ぎ捨てられていた。本人は単衣と指貫だけの姿であぐらをかいて、脇息に頬杖をついた格好で寝息を立てている。
火桶があるから部屋はさほど寒くはない。とはいえ、軽装で居眠りをしては風邪を引いてしまう。
タナシアは五枚重ねの袿を脱ぐと、静かにカリナフの肩に掛けて体を覆うように整えた。
眠りは相当に深いようで、カリナフはぴくりとも動かない。
御座の隅に置かれた火桶を動かして、カリナフに近付ける。慎重に、気を遣ったつもりだったけれど、五徳の上で鉄瓶が鈍い金属の音を立ててしまった。
ゆっくりと開くカリナフの目。
タナシアは、起こしてしまった事を詫びようとしてぐっと言葉を飲み込む。黒い瞳は、こちらを見ているようでどこかぼんやりとして虚ろだ。まだ、意識が夢と現の狭間をさまよっているのだろう。
ふと、カリナフの顔が緩む。そして、淡い桜色の花が開花するように、優しくて、柔らかくて、美しい笑みが浮かんだ。
「……シア」
消え入りそうな声。名を呼ばれたのだと気付いたのは、二、三度まばたきをした後だった。もしかして、起きていらっしゃるの?
カリナフの目を覗き込むように見ると、やはり先ほど同じで、瞳は動じずただ一点を見ている。諸説いろいろあるけれど、寝言には言葉を返してはいけないと聞く。タナシアは、じっとして様子をうかがった。
すると、儚く花が散るように、カリナフの顔から笑みがすっと消えた。
「……夢か」
そう呟いて再び目を閉じたカリナフの左手から、はらりと紙が舞い落ちる。それを拾って文字を追うと、国府の役人からの報告のようで、遺児の処遇についての指示を仰ぐような事が書かれていた。
少し影が差して、疲れが見える顔。無理もない。長旅の疲れを癒す暇もなく、見知らぬ土地で早くから遅くまで国司としての責務を果たしているのだから。
――ご自分も大変な最中ですのに、毎日わたくしに……。
折り目通りに紙を畳んで、近くの文机に置く。そして、奥の院へ戻ろうと立ち上がった。
扉から外へ出ると、相変わらず木枯らしが吹き荒れていた。ごうごうと、重たい色の上空が唸る。風が氷のように冷たくて、全身に鳥肌が立つと同時に一気に体温が奪われた。
これでは、奥の院に着く前に凍えてしまう。そう思ったタナシアは、急いで部屋に入って扉を閉めた。今度こそ音を立てないように、そっと。
起きたら御礼をお伝えして、すぐにお暇しよう。
タナシアは足音を忍ばせてカリナフのそばに座ると、冷えてしまった手を火桶にかざした。
――あたたかい。
その時、視界の隅で人影が大きく前に傾いた。カリナフが盛大に船を漕いで、その拍子に態勢が崩れたのだ。目を覚ましたカリナフが、タナシアに気付いて驚いた顔をする。
「来ていたのか」
「勝手をして申し訳ありません。菓子と押し花の御礼を申し上げたくて……。よく眠っていらっしゃったから出直そうとしたのですが、そっ、外がとても寒くて、それで暖を取っております……」
咎められたり悪い事をしている訳ではないのに、しどろもどろになる。幼い頃に魂に刷り込まれた父上への畏怖に縛られて、いつも他人の顔色をうかがってしまう。こんな風だから、陛下もわたくしに愛想を尽かして王女殿に……。
「タナシア」
そよ風のように穏やかな声が、悲観する思考に待ったをかける。いけない、わたくしはまた陛下の事を思い出していた。
「こちらへおいで」
カリナフが、腕を上げてにこやかに言う。タナシアは、火桶にかざした手を引っ込めて背筋をぴんと伸ばした。肩に掛けた五衣の重ねを広げて「おいで」とは……。まさか、懐に入れと言う意味なのだろうか。
「早く、おいで」
タナシアは、困惑の表情でしずしずとカリナフの前に座った。すると、カリナフが身を乗り出して、攫うようにタナシアを両腕に抱き込んだ。そして、瞬時、呼吸が止まってしまうほど驚愕して体を硬直させるタナシアを五衣の重ねで包む。
「外が寒いのなら、暖かくなるまでここにいればいい」
「……は、い」
「衣を掛けてくれたのか」
「……ええ」
「嬉しいよ。ありがとう」
「い、いいえ、たいした事ではありませんので」
「贈り物は気に入った?」
「は、はい。お忙しいのに、毎日お気遣いいただいて……っ!」
ぎゅっと強く抱き寄せられて、頬がカリナフの胸に押し付けられるような格好でくっつく。背と腰に巻きついた逞しい腕、上品に鼻孔をくすぐるほのかな沈香の香りに、胸が壊れたように騒ぎ出す。
「明日は何にしようか。たまには、タナンの菓子などどうだろう」
「もう充分です、カリナフさま。そのお気持ちだけで」
「欲が無いな」
ふっと軽やかに微笑まれて、頬と耳朶と目の奥が熱を帯びる。
知らなかった。人の体温がこんなにも温かくて心地いいなんて。何だか、心がとても安らぐのはどうしてなのかしら。
――ああ、幸せ。
いつか、旅の途中で心にふわりと降りた言葉が、今の瞬間に心に根を張るように染み込んでいくよう。
「タナシア」
「はい」
「先日の……、くちづけの事だが、断じて君を軽んじた訳ではないよ」
「そのような事は、思ってもおりません」
「そう、それなら良かった。それで……、嫌ではなかった?」
嫌では、無かったと思う。けれど、よく分からない。初めてだったから、何が起きたのかすら理解できていなかったもの。
紅潮したタナシアの右の頬を、カリナフの手が包む。
「愛おしい。君のすべてが愛おしい」
顔が近付いて、真綿の花のような一瞬の感触のあと、強く唇が重なった。自然とまぶたが閉じていた。触れる唇の甘美な温度が、ふたりの接点で愛おしいという言葉をじわりと溶かす。
これは、夢?
瞬時離れて違う角度で深まるくちづけに呼吸を奪われて、タナシアの口から小さく甘い声を含んだ息が漏れた。