乗り込んだ船は、生家の楼閣のような門ほどの高さがあった。その商船は、大きさの異なる三つの大きな帆を掲げる木造船で、船の航行に従事する船員と荷を管理する商人、許可を得た乗客の百人ほどが乗船している。
船は運河を下りながら、いくつもの寄港地で停泊した。
天候が悪い時は、数日そこを動かない事もあった。カリナフとタナシアは、寄港地で船をおりて食事をして寝泊まりした。そうして運河を下ることひと月と少し、ふたりを乗せた商船はカシュに着いた。
カシュはタナン公国との交易の要所で、人と物資と金が行き交う大都市だ。初代王より永世の身分を賜りし四家のひとつ、アフラム家の所領として古くから栄えてきた。その規模たるや、王都カナヤに匹敵すると言っても過言ではない。
国司の邸宅は、カシュの中心部を外れた郊外にあった。国司が政務を執る国府とは、少し距離があるという。
色の煤けた青竹の御簾垣に沿って歩くと、邸宅の表門が姿を現した。カリナフが、門を守る厳つい顔の男に玉牌を見せて家令を呼ぶよう命じる。すると、すぐに小柄な青年が侍女を連れて出て来た。エンデと名乗るその家令は、カリナフを若様と呼んで親しみを込めた笑みをふたりに向けた。
「ご到着を待ち侘びておりました。長旅でお疲れでございましょう。ささ、こちらへ」
門をくぐって、せせらぎに架けられた土橋を渡る。
足元に気をつけて、とカリナフが言った。橋を渡り終えると、砂利敷きの通路がまっすぐ伸びていて、その先に本邸と思しき建物が見えた。
カリナフとエンデの後ろをついて歩きながら、タナシアは通路の両脇の並木に目をくれる。冬の気配が色濃くなる中、落葉を終えた木々が寒そうにそこに並んでいた。
桜かしら。生家の自室から眺めた淡い桃色の花を思い出して、万感胸に迫る。
しばらくして、本邸に着いた。階の最下段に腰掛けて、カリナフが履物を脱ぐ。タナシアもその隣に座って、同じように履物を脱ごうとした。
「奥様の居室はあちらです。衣装なども奥の院に揃えてありますので、侍女がご案内致します」
エンデが、タナシアに向かって言う。しかし、奥様の自覚などタナシアにあろうはずがない。タナシアは、構わず脱いだ履物を階の袂に揃えた。
「タナシア」
「はい、カリナフさま」
「家令が君を呼んでいる」
「奥様とおっしゃったのでは?」
「そう、君の事だ」
「わたくし?」
「夕食は君の部屋で一緒に摂る。私はそれまでに用事を済ませるから、君は部屋でゆっくり休め」
タナシアは、魂の抜けたような返事をして脱いだ履物に再び足を通す。そして、侍女と奥の院へ向かった。
侍女はビアヌと名乗り、年は十七になると言った。タナン人の血が混じっているそうで、肌が日に焼けたような小麦色をしている。ビアヌは、体を動かしながら快活に喋って屈託なく笑う、年齢よりも少し幼く見える可愛らしい少女だった。
奥の院には、本殿と書庫や書斎のある書院、それから寝殿、湯殿があって、それぞれが渡り廊下で繋がっている。本殿に入ると、内部には五つの部屋があった。通されたのは南を向いた座敷で、白地に細やかな桃の花が描かれた薄絹を垂れた几帳や黒い漆塗りの文机などが置かれていた。
「お湯の用意も出来ております、奥様。先に湯浴みをなさいますか?」
「ええ、そうしようかしら」
湯殿で体を清めたあと、ビアヌが着せてくれた衣は真っ白な小袖と緋袴、橙色を基調とした五衣だった。そして、乾かした髪にカリナフの髪で作られた髢が付けられた。
まるで、以前のわたくしに戻ったかのよう。姿見に映る自分の姿に、わずかな戸惑いが生じる。
夕刻になって、カリナフが奥の院を訪れた。
単衣と指貫に、狩衣ではなくて重ねた袿を羽織っただけの寛いだ格好に、タナシアはどきりとした。深い藍色の袿は気品があってよく似合っているし、きつく結った髪も凹凸のはっきりとした面差しが引き立って素敵だ。垂れ髪よりもずっといい。けれど、どきりとした理由はそれではない。
普通、成人した男性が軽装で女性を訪ねるなどあり得ないからだ。
――これでは、本当に夫婦みたい。
カリナフは、部屋中を隈なく見て回った。どうやら、調度品などに不備はないかを確認したかったらしい。一通り見たあと、カリナフは満足した様子で用意された席に座った。
「髢も届いていたようだな。衣の色合いも君によく似合っている。あとで家令と侍女を労っておこう」
「ありがとうございます、カリナフさま」
「足りない物があれば、家令に申し付けるといい」
「宜しいのでしょうか、このような暮らしをしても。わたくしは……」
「構わない。国司の身では以前のような暮らしは再現してやれないが、高家の尊厳の欠片くらいなら守れるだろう」
冗談めかして、カリナフが笑う。タナシアは、カリナフと向かい合うように座り直した。
「単刀直入にお聞きいたしますけれど、妻というのは何か事情があっての事でしょうか」
「嫌か?」
「いいえ、いいえ、カリナフさま。案じているのです。わたくしのような者をここに置いては、将来の妨げとなるでしょうから」
「なぜ?」
「わたくしは、許されざる罪を犯した咎人です」
「王妃であったタナシアは、もうこの世にはいない。運河を渡って生まれ変われと言ったはずだ」
「ですが、わたくしは生きております。罪は消えないのです。戯れであっても事情があるにしても、カリナフさまの妻にはふさわしくな……っ」
言葉を遮るように、節くれ立った右手が左の頬を覆う。右手はそのまま、すすっと顔の輪郭を撫でて、舞い扇を翻すようなしなやかな動きで顎をつかんだ。
「戯れや事情だけで、妻などと呼ぶものか」
「なりません。国司になったとは言え、カリナフさまはティムルの名を継ぐ尊い御方です。いつか、相応の方をお迎えにならなくては」
もういい、とカリナフが顔を近付ける。そして、タナシアの唇に短いくちづけを落とした。真綿の花が触れるような一瞬の柔らかい感触に、タナシアの二重まぶたが持ち上がってまつげが小さく震える。今のは、何――?
ねぇ、タナシア。
唇が擦れそうな距離で、低い声が囁く。
「は、はい、カリナフさま」
「目を閉じないのか?」
「どうして目を閉じるのですか?」
「理由を聞かれても……。くちづけをする時、普通は閉じるものだろう」
「くちづけ?」
それは何ですの? とタナシアが真顔で続けざまに問う。それは何ですの、と口の中で反芻して、カリナフはタナシアから離れた。
「あ、あの、カリナフさま。わたくし、気に障る事を申しましたでしょうか」
「君は……」
「はい?」
「いや……。用を思い出した。私は本邸に戻って仕事を片付ける」
「もう間もなく食事が届きますけれど……」
「私の分も君が食せ」
「いいえ、そのように沢山は……」
カリナフは立ち上がると、からくり人形のようにぎこちない機械的な動きでそそくさと部屋を出た。足が、まるで地に着いていない心地だった。廊下で膳を持った侍女とすれ違ったが、構わず庭におりて一目散に本邸を目指す。
危うく、君は陛下と夜を過ごさなかったのかと尋ねそうになった。くちづけを知らぬとはどういう事だ。まさか、未通なのか? いや、そのような馬鹿な話があるか。
エフタル様の事だ。間違いが起きないように、タナシアの身辺には目を光らせていたに違いない。陛下に嫁ぐまで色恋沙汰には縁が無かっただろうから、そのような事に疎いだけかも知れない。しかし、陛下とはそういう機会もあったはずで、知らぬというのはおかしい……。
訳が分からぬ。
もしや、私を男として見ていないのか? はっ……、ま、まさか、私を嫌っているのか?
だが、髪や足に触れても嫌がる様子は無かった。とすれば、やはり私を男と見ていない……。堂々巡りだ。訳が、分からぬ。
その夜、カリナフは食事も摂らず頭を抱えて一晩中苦悩した。しかし、タナシアがそれを知る由もない。
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