もうすぐ、夏の衣から冬の衣へ更衣するころ。今の瞬間はゆっくりに思えるけれど、過ぎてしまうと一日はあっという間で、歳月はよどむことなく過ぎていく。
どれだけ季節が巡り時が流れても、大切に想う気持ちは絶対に変わらない。だからこそ余計に、目に見えない重圧をひしひしと感じてしまう。
共に夜を過ごせば過ごすほど、周りはまだかまだかと期待する。そのうちに、高家の方が妃として王宮に来るかもしれない。
幸せな日常の裏に潜む不安に駆られて、ラシュリルはこのところ、以前のように閨でアユルに応えられなくなっていた。
「ラシュリル」
「はい」
「世継ぎのことは、まだ急がなくてもよいと思っている」
「でも皆さんは……、待ち望んでいるのでしょう?」
「私がよいと言っているのだから、よい」
一際大きな花火が空を赤く染めて、耳をつんざくような音を響かせる。その度に、人々の歓声がどよめきとなって押し寄せた。
ラシュリルは、体を抱くアユルの手に自分の手を重ねた。自然に指と指が絡まって、ラシュリルの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「アユルさまの言葉は魔法みたい」
「気が楽になったか?」
「はい」
「爺どもは老い先短く、待つということが出来ないのだ。気に病まずに大目にみてやれ」
そんな言い方、酷いわ。
笑いながら言うラシュリルの声を、花火の轟音が打ち消す。ぐっと体を引き寄せてられて、ラシュリルは振り返るようにアユルの顔を見上げた。
向けられる眼差しからさえも愛情を感じて、心がじんわりと温かくなる。大好き。心の底から溢れるように湧いてくるのは、ずっと変わらない想い――。
「アユルさま、わた……」
言葉を奪うように、ふたつの唇が重なる。ラシュリルは、身をひるがえしてアユルの首に腕を巻きつけると、ぎゅっとアユルを抱きしめた。
以前と何も変わらない。唇から伝わってくるのは、愛おしいという気持ちだけだ。
「はぁ……っ」
一瞬だけ離れて、またすぐに境界が曖昧になるほど深くくちづける。大好き。乱れて熱く甘くなる互いの息にくすぐられるように、体の中心に熱が宿っていく。
大きな手が背中を撫でる。その何気ない動きにすら、肌が敏感に反応してしまう。
――愛して。
声に出来ない言葉を、口の中でもつれ合う舌に乗せる。
それに応えるように、アユルがしゅるっと腰帯を解いて衿を左右に割り裂く。はだけた小袖の中で、右の乳房を包み込むようにやんわりと角ばった手が揉んで、親指の腹がその淡い中心をかすめた。
体に宿った熱が、全身へ、隅々まで飛び火する。
ラシュリルは、塞がれた口の中でおさえられない声を上げた。苦しくてもどかしい。嬉しくて幸せ。心の中で混ざり合う様々な思いが、長く乾いていた秘所を潤していく。そこにアユルが触れて、ラシュリルの腰が無意識にぴくりと跳ねた。
思わず膝立ちになったラシュリルの胸にアユルが甘く噛みついて、指で恥裂を広げて花芽を弄る。ぬるりと指が滑る感触に、ラシュリルは背筋をぞくぞくさせながら必死に耐えた。しかし、耐えるにも限界がある。
「……ぅんんっ!」
つんと尖った胸の頂をちゅうっと強く吸われた途端に、全身が震えて頭が真っ白になった。
夜空には、絶えず大輪が咲いて垂れて、火薬の匂いが部屋に流れてくる。靄がかかったような視界に閃光が弾けて、自分が仰向けに空を見ているのだと気付く。
――綺麗な花火……。
そう思ったのも束の間、今度は大好きな人の顔が視界を遮る。凛々しくて、花火よりもずっとずっと綺麗……。
うまく体が反応しない夜、嫌な顔ひとつしないで朝まで手を握って眠ってくれた。次の夜も、その次の夜も、無理強いされたことは一度もない。浮気だってされたことはない。
愛していると言葉にすればたった一言だけれど、想いは計り知れないほど深くて強い。その言葉の通り、大事に深く愛されているのがわかる。わたしも深く愛している。大好きなのに、いざとなると体が言うことをきかなくて、それがとてもつらかった。
「アユルさま。わたし、アユルさまと愛し合いたいの。お世継ぎとかそういうのを考えずに、ただアユルさまと愛し合いたい……」
瞳を揺らしてはにかむラシュリルに、アユルが「私もだ」と優しい笑みを返す。そっと頬に添えられたアユルの手に、ラシュリルは甘えるように擦り寄った。
「……んっ」
アユルが、ラシュリルの首筋に吸いつく。赤い跡を点々と描きながら、鎖骨へ、胸へ、柔らかな鳩尾へ。愛しい妻の体に、愛情の証を刻む。
「恥ずかしい……」
ラシュリルが小さく抗議して、軽やかな笑いが肌をくすぐる。そして、淡い茂みにくちづけたアユルが、不意にむくりと体を起こした。
「どうかしたのですか?」
「……いや。今宵は、花火を見せたくて城を出たのだ。このようなことをするためではなかった」
ばつが悪そうに、アユルがこめかみの辺りを人差し指で掻く。その仕草が可愛くて、ラシュリルは両手で顔を覆って身悶えた。
「どうした」
「何でもありません」
「ほら、起きろ」
「はい」
アユルが、ラシュリルを起こして着物の衿を合わせながら「すまなかった」と言う。ラシュリルは「いいえ」と首を横に振った。すると、アユルが「続きは城へ戻ってから」と何食わぬ顔で言ったので、ラシュリルは声を立てて笑った。
「ちちー!」
「いけませんよ、王女さま。そちらにはまだ陛下と貴妃さまが!」
「いや、ちち! ちち!」
騒がしい声に、アユルは薄っすらと目を開けた。眩しい光が、部屋を煌々と照らしている。どうやら、相当寝過ごしてしまったらしい。隣を見ると、ラシュリルは安らかな寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
寝所の向こうから、セシルの元気な声が聞こえてくる。静かに寝床を出て、そこに脱ぎ散らかした夜着を素早く纏う。疲れているようで、ラシュリルは少し身じろいだだけで目覚める様子はない。
――昨夜は、遅くまで相手をさせてしまったからな……。
アユルは、妻の素肌が晒されないように掛布を整えると、急いで寝所を出て声のする方へ向かった。
「あっ! ちちー!」
アユルに気付いたセシルが、女官の静止を振り切って全速力で突進してくる。アユルは、それを両手で受け止めて軽々と抱き上げた。満足したのか、可愛らしい顔がにこにこと上機嫌に笑う。
「これ、セシル。また摘み食いをしたのか?」
困った子だと呆れながら、アユルはもちもちとしたほっぺについた菓子くずを手で払う。そして、腕に乗った愛おしい重さを抱きしめた。
庭の見える廊下に出ると、とうに日が高く昇っていた。これから支度をしても朝議には間に合わないし、有能な宰相がいるから一日くらいは問題ない。ラディエからは何かしら言われるだろうが、それも致し方なしと腹を括る。
「コルダ」
「はい、アユル様」
「私の着替えと、魚の餌を持って来い」
「かしこまりました」
着替えを済ませて、アユルはセシルと一緒にいつもの池へ向かった。セシルが自分で歩くと言うので、その歩幅に合わせてゆっくりと歩く。大人の足でも距離のある場所だ。少し歩いては立ち止まり、花を拾い、実を口に入れながら、ふたりは時間をかけて池へ辿り着いた。
池の畔にセシルと並んで、魚の餌を取り出す。空腹だったので、セシルとひとつずつ餌を摘み食いしたら殊のほか美味だった。餌を投げ終えると、今度は石板の橋を渡って池の真ん中にある四阿まで行った。今日は、たっぷりと時間がある。アユルは、セシルが飽きるまで遊びに付き合ってやった。
清殿に戻ったのは昼のころ。ラシュリルと他愛もない話をしながら食事をして、風通しの良い縁側でセシルと昼寝をする。
その日は、夢のように穏やかで幸せな一日だった。
翌日は、案の定ラディエの小言が待っていた。ラディエと言えば愚直の権化だ。真面目一徹、情に脆いが融通は利かない。昨日一日朝議に顔を出さなかったことは大目にみるとして、夜の奇行を見過ごすわけにはいかぬとアユルに詰め寄った。皇極殿の書院で、文机を境界に王と宰相が対峙する。
「陛下。夜に人目もはばからず堂々と城を抜け出すとは何事ですか。国王が夜遊びに耽っては、他に示しがつきませぬ」
「あれはな、そなたらが悪い」
「なぜ我々が?」
「そなたたちが世継ぎ世継ぎと焦って女官にまで手回ししたせいで、貴妃はすっかり恐縮してしまったのだぞ」
「あ……、いえ、悪気ではなく国の一大事でございますれば……。いやしかし、それがあの奇行とどういった関係が?」
「あの日は、貴妃の気を紛らわそうと花火を見に行っただけのこと。やましいことはしていないのだから、夜遊びでもなければ奇行でもない」
ラディエは眉間にしわを寄せて難しい顔をしたあと、しかし、と腕を組んだ。そして、陛下と貴妃様が仲睦まじいのは良いことだと、ひとりで納得して頷いた。
「こちらからも言いたいことがある」
「何でございましょう」
「高家の者を入宮させるなど、愚かしいことをするのはやめておけ」
「王宮に妃がひとりとは前例がございませぬ。もしもの時は、必要でございましょう」
「必要ない。次にこのような噂でも立てば、そなたを杖刑に処す。宰相が下位の武官に尻を叩かれるなど、末代までの恥だぞ」
「なっ……、なんたることを!」
「心配ばかりを先立たせるなと、いつも言っているだろう。世継ぎのことも然りだ、宰相」
ラディエが、ぬぬぅと声にならない小さなうめき声を上げる。アユルは、涼しい顔で文机に視線を落として筆を手に取った。
セシルが三つになった年の冬、再び皇極殿に中年たちのすすり泣きが響く。今度は王女の時よりも盛大に長く、中年たちはすすり泣いた。待望の王子が生まれたのだ。
特に国を預かる大宰相ラディエにおいては、王子誕生の喜びに耐えきれず気をやり、武官に抱えられて皇極殿から運び出される始末。これは尻を叩かれるより恥ではないか、とアユルは高座で笑った。
慣例に倣って、生後ひと月後に王子はハユマと名付けられた。これは、歴代の王の名から付けられたもので、ハユマが王位を継ぐ者であることを暗に示している。
姉になったセシルは、大人たちの真似をして弟の世話に勤しんだ。もう、魚のことなど忘れてしまったのだろうか。父娘で池に行くことも無くなってしまった。
ある日、朝議を終えて清殿の奥室へ行くと、小さなハユマを抱いたラシュリルとセシルが楽しそうに話しをしていた。
「おかえりなさい、アユルさま」
「ちちうえ!」
アユルが腰をおろすな否や、セシルが膝の上にちょこんと腰掛ける。冬の衣を着ているとは言え、セシルはずいぶん重たくなった。小さくて弾力のある柔らかい手を握れば、可愛らしい顔が無邪気な笑み返してくる。
「ちちうえ、だいすき!」
「そうか」
大きくなるにつれてますます愛おしい妃に似てくるセシルを、アユルは力いっぱい抱きしめた。そして、いつか手元を離れるその日まで、変わらぬ愛情を注ぐと決意を新たにするのだった。
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