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後日談 【前編】





 ◆◇◆



 ある日の夕暮れのこと。
 アユルは、残暑を和らげるような涼やかな淡色の衣を着た愛娘を抱いて、王宮の奥にある池の畔まで歩いた。

 セシルは、この夏ふたつになった。
 じっとしているのは食事と睡眠の時だけで、一日中あちらへこちらへ好奇心の赴くまま快活に走り回っている。

 女官たちが抱くと、自由を奪うなと泣いて暴れて抗議するセシルだが、父親に抱かれている時だけは大人しい。鉱石のようにきらきらとした青いまなこを凝らして、普段見ることの出来ない高さからの眺望を楽しんでいる様子だ。

 よほど荒れた天候でない限り、アユルは毎日欠かさず、同刻にセシルとふたりでこの池を訪れる。
 先王を反面教師として親政をとる今、朝から夕まで皇極殿かその書院に篭もる日々。王宮に戻って夕食の支度ができるまでの僅かな間が、父娘水入らずで過ごせる貴重な時間なのだ。

 池の畔で地におろしてやると、セシルは慎重に池へ近付いて水面を覗いた。落ちたら危険だと理解しているようで、普段のように勢いよく駆けることはしない。

 底の見えない紺碧色こんぺきいろの水を、金色こんじきうろこが揺らす。それに気付いたセシルが、つぶらな目を一際大きくした。


「とと! とと!」


 興奮して嬉しそうに水面を指差すセシルの横で、アユルは懐から魚の餌を包んだ紙を取り出す。それは、コルダが炊いた芋を潰して練ったもので、食いしん坊のセシルが摘み食いをしてもいいように少しだけ甘い味が付けてある。


「セシル」


 アユルが視線を合せるように屈んで餌を手渡すと、小さな指先がそれを摘んで池に放り投げた。瞬く間に紺碧の水面がうねり、大きな魚が口をぱくぱくさせて群がって来る。
 セシルは、頬の中ほどの長さに揃えられた漆黒の髪を手で払いのけて、ひとつひとつ夢中で餌を投げた。

 ばしゃばしゃ、と水と尾びれがじゃれ合うように飛び跳ねる。セシルが、きゃぁ! と歓声を上げて笑った。


「面白いか」


 アユルの問いかけに答えるように、セシルがぷにっとした白い頬にえくぼを作る。
 無邪気で愛嬌たっぷりの笑顔は、母親のそれと瓜二つだ。ラシュリルもこのように愛らしい子だったのだろう。アユルは愛する妃の幼きころを想像して、蜜のように甘い感情を心に募らせるのだった。

 餌を全部投げ終えて、セシルが物足りなさそうにアユルの手に乗った包み紙を覗く。夕焼けが西の空にしぼんで、辺りが暗くなってきた。アユルは空になった餌の包み紙を仕舞うと、セシルを抱き上げた。


「とと……」
「また明日、連れて来てやる」


 女官たちが清殿のこぢんまりとした一室に膳を並べる間、ラシュリルは自室でセシルの湯浴みの用意をする。

 木箱から取り出した小さな湯帷子ゆかたびらは、女官たちに指南してもらって自分で縫ったものだ。頑張って八着ほど手縫いしたが、どれも「貴妃さま、とてもお上手ですわ」の割に少し歪んでいる。

 部屋の隅でセシルの袿を衣桁に掛けて香を焚いていたカリンが、ラシュリルに近付いてとんとんと肩を叩く。そばの桐箱を見ると、セシルが明日着用する単衣と袿が綺麗にたたんで入れられていた。

 少し前から、セシルは女官たちと別室で眠るようになった。夕食の後に女官と一緒に出て行って、朝食まで済ませて戻ってくる。これは王宮での慣例でもあったが、もうひとつ大きな理由があった。王女誕生から月日が経ち、臣下たちが世継ぎの心配をし始めたのだ。

 もし貴妃さまに兆しがなければ、高家の者を何人か選んで入宮させる。外廷ではそんな話が出ているのだそう。それで、女官たちが配慮しているという訳だ。ラシュリルは、桐箱にセシルの湯帷子を収めて立ち上がった。


「そろそろアユルさまがお戻りになるわね。わたしたちも行きましょうか」


 部屋を出るラシュリルの後ろを、桐箱を持ったカリンがついて行く。食事をする部屋の前に着くと、丁度、セシルを抱いたアユルが向こうからやって来た。


「おかえりなさい、アユルさま」
「食事の用意は出来ているか?」

「はい、出来ていると思いますよ」
「早く食べさせてやれ。よほど空腹なのだろう。先ほどから、指についた魚の餌を舐めている」


 呆れた様子のアユルときょとんとした顔で指を口に入れるセシル。ふたりを交互に見て、ラシュリルの顔に自然と笑顔が溢れる。

 いつものようにほっぺたが落ちそうなほど美味しいコルダの料理を食べ終わると、セシルは満足した様子で女官に手を引かれて部屋を出て行った。

 清殿の女官たちの顔ぶれは、セシルが生まれる前から全く変わらない。そのお陰か性格か、セシルは人見知りというものをあまりせず皆に懐いている。両親と他の区別はあるようだが、ご飯を食べさせてくれるコルダと遊びの相手をしてくれる女官が大好きだ。


「セシルは幸せですね。皆さんに大切にしてもらって」


 セシルがいなくなった部屋は、ほっとため息が出るほど静かになる。
 これから朝までは夫婦の時間だ。以前なら、ただただ喜ばしい時間だった。もちろん今だって嬉しい。けれど、素直に喜べない。セシルのことが気になるし、皆に世継ぎを期待されているのかと思うと、その重圧に押し潰されそうになる。

 アユルが、そうだなと短く返事をしてコルダを呼ぶ。コルダが、煤けた地味な色合いの小袖をラシュリルの前に置いた。


「これは……?」
「それに着替えろ、ラシュリル」
「どういうことですか?」


 早く、と急かされて、ラシュリルは隣の部屋で着替えた。元の部屋に戻ると、アユルも濃紺の小袖に黒い袴姿になっていた。明らかに就寝する格好ではない。


「わたくしは先に行って馬を引いて参ります。アユル様は皇極殿の広場でお待ちください」
「わかった」


 首を傾げるラシュリルの前で、アユルとコルダが言葉を交わす。コルダが部屋を出て行くと、アユルは短刀を腰に差してラシュリルの手を取った。


「どこかへお出掛けするのですか?」
「城下へ」
「城下? もう夜ですよ? それに……」
「時間がない。さぁ、行くぞ」


 清殿を出ると、宿直の女官が数名、手燭を持ってこちらへ向かって来た。それから逃れるように、ふたりは階を降りた。

 アユルが、ラシュリルの手を引いてすっかり暗くなった庭を足早に進む。
 明かりが乏しくて、どこをどこへ向かっているのか分からない。月明かりだけを頼りに、玉砂利の庭から雑木林、それから竹やぶのような所を通って、王宮の外壁らしき白壁に突き当たった。そして、身を屈めないと通れないような小さな門をくぐった。


 ――前にもこの門を通った気がする。そう、初めて王宮に入ったあの夜……。


 そこから人気のない通路を抜けると、見覚えのある景色が視界に飛び込んできた。


「ここは……、皇極殿? 不思議だわ……。ねぇ、アユルさま。清殿を出てから、どこを通ったのですか?」
「それは秘密だ。私の知らぬ間に、妃が逃げ出したら困るからな」


 逃げるなんて、とラシュリルは声をおさえて笑った。悪いことをしているわけではないのだろうが、夜闇に紛れるような暗い格好に宿直の女官から逃げるような行動が、少しの背徳感を抱かせると同時に好奇心を煽る。

 大理石の石段を駆けおりた先、皇極殿前の広場にふたりが着くと、そこでコルダが黒い馬を一頭連れて待っていた。
 普段ならまだ灯っているはずの皇極殿の明かりは消え、外で焚かれた松明のそばで警護にあたっている武官がいるだけで、城内は思いのほか静かだ。


「城下で何を?」
「それも秘密だ。言ってしまったら面白くないだろう」
「そうですね」


 ふたりを乗せた馬が、蹄の音を響かせながら颯爽と朱門へ向けて駈歩する。
 ひとつ目の門を過ぎた先に、まばらな人影が見えた。勤めを終えて家路を急ぐ貴人たちだ。馬蹄の音に気付いた彼らは、振り向きざまに慌てて地にひれ伏した。誰と確かめるまでもなく、ダガラ城内で輿や馬に乗れるのは王家の者だけだからだ。


「陛下!」


 ラディエの野太い声が聞こえたような気がしたが、アユルは構わず馬を走らせた。


「月が綺麗ですね」
「もっと綺麗なものを見せてやる」
「何かしら。とても楽しみです」


 歩けば相当な距離だが、馬ならあっと言う間だ。朱門を出て、王都を貫く大通りを下る。すると、中心街には溢れんばかりの人が集まっていた。人通りの少ない脇の小路に入って、ふたりは馬をおりた。


「夜だと言うのに、すごい人。さすがカデュラスの王都ですね」
「今日は夏越しの祓いの日だからな」
「お祭りですか?」
「そのようなものだ」


 少し待て、とアユルが懐をまさぐる。ラシュリルが待っていると、アユルは雑にたたまれた紙を出して眉間にしわを寄せた。そして、家屋の軒先に吊るされた灯籠の明かりの下でそれに目を凝らした。


「この路地を左に……」
「それは?」
「私は城の外をよく知らないから、コルダに地図を書かせた」
「コルダさんも連れて来たらよかったのに」
「今宵はふたりきりがよい」


 アユルの言葉に、ラシュリルの頬がほんのり熱を帯びる。
 どこに行くにも「お供いたします」とついてくるはずのコルダが、今日はすんなりとふたりを送り出した。そのことに今更ながら気付いて、今夜の事は前から計画されていたのだと悟る。

 人通りの少ない小路と言っても、往来がまったく無いわけではない。ただ、華やかさの欠片もない装いのお陰でうまく民衆に紛れ込めているようで、誰一人ふたりに目を留めることなくそばを通り過ぎていく。その時、遠くから地鳴りのような低い爆音がどぉんと響いてきた。


「急ごう。始まってしまった」


 アユルが慌てて紙を懐に突っ込んで、右手に妻、左手に馬を引いて小路の角を曲がる。そこから何度か道を曲がったところに、煌々と明かりを灯した宿屋が見えた。どうやら、目的地はそこらしい。どぉん、どぉんと、今度は続けて音が鳴った。

 宿の前に、そこの主らしき老夫婦がおろおろとした様子で立っている。アユルはその老夫婦に黙って玉佩を見せて手綱を預けると、ラシュリルを連れて一目散に二階の部屋を目指して階段を駆け上がった。


「待って、アユルさま」


 ラシュリルは、息を弾ませながら必死についていく。キリスヤーナにいたころは、こうやって走り回ってばかりだった。そんなことを思い出して、思わず笑ってしまう。

 ふたりは、二階の奥にある部屋に駆け込んだ。はぁはぁと息を切らしながら、アユルが通りに面した南側の大きな障子窓を勢いよく開ける。同時に、眩むような色鮮やかな閃光が目に飛び込んで、少し遅れてまた地鳴りのような音が聞こえた。


「花火!」
「見たことがあるのか?」
「はい、キリスヤーナでは御祝い事のときに必ず花火を打ち上げるので。けれど、こんなに色も大きさも立派なのは初めてです」
「そうか」
「ありがとうございます、アユルさま。美しいものを見せてくださって」


 途切れること無く打ち上げられる花火の閃光と音。窓際に行儀よく座って花火に釘付けになるラシュリルを、背後からアユルがそっと抱きしめる。


「綺麗だな」
「はい、とても。いつもこの季節に王宮まで聞こえて来ていたのは、雷ではなくて花火の音だったのですね」


 ラシュリルは、体の力を抜いてアユルに背を預けた。


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