第四章 ◇第10話




 がやがやと、華やかな賑わいが奥室まで聞こえてくる。
 支度を終えたラシュリルは、姿見の前でどきんどきんと激しく高鳴る胸をおさえた。守りたいと意気込んで覚悟を決めたのはいいけれど、カデュラスの高官たちの前に出るのは、やはり尋常ではない緊張を伴う。


「とてもお綺麗ですわ、貴妃様」


 ラシュリルを取り囲む五、六人の女官が満足そうにうなずく。その横で、カリンもにこやかに笑っている。少し顔の向きを変えると、結われた黒髪に挿された銀細工のかんざしから垂れる飾りが、ちりちりと小さな音を立てた。

 日が高くなって、強烈な日差しが庭にそそいで風が熱気を運んでくる。じっとしていても、汗ばむような暑さだ。


「陛下がお越しです」


 コルダの声に、心臓が口から飛び出しそうなくらい跳ねて緊張が頂点に達する。ラシュリルはその場に座して、女官と同じように床に両手の指をついた。


「支度は済んだか?」


 アユルがつかつかと部屋に入ってきて、半分ほど下ろされた御簾をかいくぐる。足音がものすごい速さで近づいて、ラシュリルの前でぴたりと止まった。


「堅苦しい礼はよい。立て、ラシュリル」


 ほら、とさし伸べられた手を取って、ラシュリルは立ち上がる。アユルの思惑により行われることになった儀式ではあるが、れっきとした国事。アユルは純白の礼服に身を包んでいて、いつにも増して気品と威厳に満ちていた。


「思ったより時間がかかりましたね」
「ああ、祈祷師が念を入れて邪気を払ってくれたからな。あとで盛大に賞賛して、褒美をやるとしよう」


 アユルが、うんざりした顔をする。アユル様のために心を込めたのでしょうにと、ラシュリルは内心で祈祷師に同情した。


「それはそうと、指先が冷えているな」
「身分の高い方ばかりがお越しになっているのかと思うと、やっぱり落ち着かなくて」
「たぬきが並んで、行儀よく座っていると思い込め」
「たぬきですか?」


 私はいつもそうしている、とアユルが真顔で言うものだから、ラシュリルはおかしくなって吹き出してしまった。

 コルダが、御簾を上げて「そろそろお時間になります」と言った。アユルは、ラシュリルの手を握ったまま広間へ向かった。二人の後ろを、コルダとカリンがついてくる。その五歩ほど後ろに、茶器や器を持った女官が続く。

 広間では、かしこまった服装の貴人たちが席について王のお出ましを待っていた。王の到着を告げる太鼓が鳴ると共に、奥室まで聞こえていたにぎわいがぴたりと止む。

 襖が開いて、ラシュリルの喉がごくっと小さく上下する。その音すら大きく聞こえてしまうほどの静寂の中、アユルはラシュリルの手を引いたまま広間に入った。
 驚くような顔をした者、眉をひそめる者、様々な表情とすべての視線が二人に向けられる。再び高まる緊張と不安。


 ――わたしは、受け入れてもらえるのかしら。


 真夏の酷暑が嘘のように背筋がぞっとして、手の平が汗で冷たく湿る。すると、アユルが握る手にぎゅっと力を入れた。まるで、私が傍にいるから臆するなと勇気づけるように――。
 一段高い上座に、二つの膳が並んでいた。アユルとラシュリルがその席に着くと、高官たちが深々と上座に向かって頭を下げた。

 アユルが「面を上げろ」と命じて、皆が姿勢を正す。
 ラディエを筆頭に左右にずらりと並ぶ高官たちと、その間に色鮮やかな衣装を着た若い女性たち。宴は、なごやかな雰囲気で始まったように見受けられた。しかしそう時間が経たないうちに、ラシュリルの耳に貴人たちの密やかな声が聞こえてきた。


「異国の者が陛下と並んで上座に上がるとは」
「ご寵愛が過ぎて、清殿に住まわせておられるのだとか」

「なんと、それが事実ならば許しがたきこと。それにあの衣の色……。代々王妃様が身につけてこられたものであるぞ。陛下はなにを血迷っておられるのか」
「大事に至る前に、なんとしてでも陛下に正妃を娶っていただかなくては」


 怖い。胸にじんわりと広がる恐怖心を打ち消すように、ラシュリルはタナシアの仕草を思い出しながら優雅に檜扇を広げた。そして、声をひそめる貴人たちと同じように檜扇で口元を隠して、アユルの耳に顔を近づける。


「アユル様。高家の姫様たちに焼き菓子をご用意したのです。お召し上がりいただいてもよろしいですか?」
「構わないが……。ああ、なるほど。それで禄をもらいたいと言ったのだな?」
「はい。カデュラスでは材料が高いので、これだけの人数の分を作るとなると手持ちが足りなくて」
「当たり前に禄を受け取ればいいだろう」
「いいえ。普段は困ることはありませんから、あんなにたくさんの額は必要ありません」


 ラシュリルと会話をしながら、アユルの目がちらりと貴人たちに向く。すると貴人たちは、慌てて口をつぐんだ。無礼なことを言っている者がいると、ラシュリルがアユルに告げ口をしているとでも思ったのだろう。


「まったく、我が妻は稀代の貧乏性だな」
「真顔でそう言われると、結構、心が傷つくというか恥ずかしいというか」

「真顔で言わねば、あの者たちに気取られてしまうだろう。そなた、いつの間にそのような技を身に着けた?」
「アユル様にも聞こえていたのですか?」

「当たり前だ。まだ続けるようなら、宰相を呼んでつまみ出してやろうかと思っていた」
「そんなことをしたら宴が台無しです。せっかく、姫様たちと仲良くなろうと思っているのに」

「仲良くとは、どういう意味だ」
「焼き菓子の甘さは、毒のように怖いのですよ」


 ラシュリルは、神妙な面持ちでアユルから離れて扇を閉じる。高家の姫君たちを見ると、それぞれがかわいくて美しくて、顔見知り同士で言葉を交わす仕草などが故郷の幼馴染を思い出させる。

 管楽の調べが響いて、庭の白砂の上で若い貴公子たちの舞が始まった。
 ラシュリルはカリンを傍に呼んで、この場にいる女性たちに焼き菓子と苺の果実茶をふる舞うように言った。清殿の女官が、手分けして手の平に乗るくらいの千代紙の包みを姫たちに「貴妃様からです」と手渡していく。

 暑さを忘れてしまうような爽やかな薄青色の包みを開くと、中には指先でつまめる大きさの菓子が入っていた。丸い形、星の形、花の形。不揃いでいびつなそれらは、一つ一つ丹精込めて作られているとひと目でわかる。そのうちの一つを頬張ると、カデュラスの菓子とは違った香ばしい甘味が口いっぱいに広がった。


「美味しい」


 あちらこちらから感嘆の声が上がって、幸せそうな笑顔が咲く。さらに、冷たい苺の果実茶が彼女たちの心を鷲づかみにした。舞が終わるとすぐに、姫たちがわらわらと上座に集まってきた。彼女たちはアユルに挨拶をしたあと、焼き菓子と果実茶の礼もそこそこにラシュリルに詰め寄った。


「あれはなんという菓子なのですか?」
「貴妃様がお作りになったのですか?」
「キリスヤーナには、他にどのような菓子があるのですか?」
「あのお飲み物は一体……!」


 彼女たちの勢いに気圧されるラシュリルの横で、アユルが声を立てて笑う。あわよくば我が娘を王妃に、などと目論んでいたであろう官吏ちちおやたちは、示し合わせたように目を点にして魂が抜けたような顔をしていた。いつの間にかカリンや女官たちまで加わって、ラシュリルたちは長いこと会話を弾ませた。

 その夜、ラシュリルはカリンに髪を乾かしてもらいながら、宴で言葉を交わした姫の名前と笑顔を思い返していた。結局、話がつきることはなく、日を改めて茶話会に彼女たちを招待することになった。


「よかった、優しい人ばかりで」


 我が妻と言われた時、嬉しくてたまらなかった。
 アユル様を守るとはいっても、誰かといがみ合って争うようなことはしたくない。できることなら、皆が笑顔になれる方がいい。

 真っ先に頭に浮かんだのは、故郷でのティータイムの光景だった。あの時間だけは、厳格な伯爵夫人も別人のように優しい顔つきになった。もっとも、故郷の習慣がここで通用するのか自信はなかったのだけれど。


「ありがとう。あなたたちのお陰で、とても楽しい一日になったわ」


 ラシュリルが、昨日一日、暑い中焼き菓子作りを手伝ってくれたカリンと女官に礼を言うと、わたしたちも楽しかったと満面の笑みが返ってきた。

 些細で意味のない努力かも知れないけれど、まずは一歩を自分の足で踏み出さなければ。この国で、この王宮で、一生を過ごすと決めたのは自分なのだから。
 コルダが、そろそろと様子をうかがうように部屋に入ってきた。


「貴妃様、陛下がお待ちでございます」


   

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