第四章 ◇第07話





 ハウエルの尋問が行われている間、アユルは一歩も清殿を出なかった。アユルはカリナフと別れたあと、牢から皇極殿に向かう途中で急に胸をおさえて倒れてしまったのだ。さらに侍医が、度重なる心労により心の臓が弱っていると言ったものだから大変な騒ぎとなった。

 即位して一年。キリスヤーナでの襲撃に始まり、様々なことがあった。追い打ちをかけるようにエフタル様と王妃様に裏切られたせいで、陛下は病んでしまわれたのだ。官吏たちは、そう口々にアユルに同情した。しかし、これは完全なアユルの策で、当の本人は清殿の奥室で悠々自適な生活を送っている。

 これ幸いとばかりに好きなだけ書物を読み、気の赴くままにラシュリルを連れて清殿の庭をそぞろ歩く。本当は清殿を出て王宮の庭に咲く花を見ながら散策したいのだが、仮病がばれては元も子もないのでそれは我慢した。

 夕刻になると、ラディエが議事録を手に見舞いを兼ねて必ず外廷のことを報告しに来る。アユルはそれに備えて、昼下がりになると夜着に表着を羽織っただけの姿になり、額に紫色の病鉢巻を巻いて病人に化けた。夜着の衿を乱れさせて、唇の赤みを消すためにラシュリルの白粉をはたく念の入れようだ。


「どうして病気のふりをしているのですか?」


 ラシュリルは、焼き菓子を頬張りながら書物を読み耽っているアユルに尋ねた。


「エフタルと王妃の件で、私が意気消沈しきっていると臣下たちに思い込ませるためだ。そうしなければ、すぐ新しい王妃を迎えろと言われるからな」

「……新しい王妃様」
「そなたは、余計な心配をしなくてもよい」
「はい。アユル様がそうおっしゃるのなら、なにも心配いたしません」


 伏籠ふせごの中に置かれた香炉から、桂花の香りがふわっと立ちのぼる。アユルは、書物を閉じてラシュリルの方へ体を向けた。そして、ラシュリルが手際よく伏籠に衣をかけるのを見てふっと柔らかな笑みをこぼした。


「慣れたものだな」
「そうですか? そう言われると、カデュラスの人になれたようで嬉しいです」


 アユルは上半身だけを捻って、文机に置かれた茶器に手を伸ばした。小皿から乾燥させた果実を一つ茶杯に入れて湯をそそぐ。果実が湯の中でふやけると、熱いから気をつけろと添えてその茶杯をラシュリルに手渡した。


「ありがとうございます、アユル様。ああ、いい香り。カデュラスの苺は、キリスヤーナのものより酸味があって美味しいんですよ」
「そうか」


 ふぅと熱を散らすように息を吹きかけて、ラシュリルが茶杯に口をつける。鼻腔を走り抜けるような甘くて爽やかな苺の香りに、ラシュリルの顔がとろける。アユルは、ラシュリルが飲み終わるのを待って話を切り出した。


「初めて会った時のことを覚えているか?」
「もちろんです」

「私を見て、おびえていたな」
「それは……」


 ラシュリルが、カナヤの森に迷い込む前に食事をした店で聞いた、森に棲む魔物のことを説明する。


「アユル様の目が、その魔物と同じ赤い色をしていたからてっきり」
「私は魔物だと思われていたわけか」
「はい」


 なるほど、とアユルは声を立てて笑った。ラシュリルが、アユルの顔を覗き込む。


「でも、見間違いだったみたいです。雨が酷くて、視界が悪かったから」
「そうだな」


 少し迷って、アユルはそう答えた。この身に宿る人外の力について説明しても、きっと怖がらせるだけだろうし、今はそれよりも大事な話がある。

「王妃の父親が投獄されているのは知っているな?」
「はい。先日、カリナフ様がそう話しておられましたね」
「私たちが運命の出会いを果たしたころ、ハウエルはエフタルの側近と会っていたようだ。昨日、ラディエが持ってきた記録に書かれていた」


 アユルが、さっきまで読んでいた書物を指さす。嫌な予感が、ラシュリルの胸をよぎった。


「銅の交易に関して、便宜を図ってもらおうとしたらしい。私が、ハウエルの書簡を受け取ったのは即位したあとだから、その前に二人は結託していたことになる」


 ラシュリルは、結託というよくない響きを持つ言葉を反芻すると、片手を胸元にあてて握り締めた。宿に戻った時、確かにお兄様は留守だった。そのことを思い出したのだ。


「私が矢で射られたあと、ハウエルはラディエが詳細を調べ上げる前に、そなたを人質にさし出した。このことを知られたくなかったのではないかと推察すれば辻褄が合う」


 みるみるラシュリルの顔が強張って、茶杯を持つ手から力が抜けていく。アユルは、ラシュリルの手からそっと茶杯を取って、机の上に置いた。


「このような話をして悪いな」
「……いえ」
「私は身分を捨てるわけにもいかず、王でなくてはそなたを守れない。そのことを、そなたに分かってもらいたいのだ」


 アユルの真摯なまなざしに、ラシュリルは黙ってうなずいた。


「幸い、実際の交易は私の命令通りに行われている。それに、我が国の高家の者が関わることだから、臣下たちもハウエルを厳しくは追求できないだろう。だが、私がこれを看過すれば、必ずわだかまりが生じる」

「アユル様がおっしゃること……、よく分かります」

「私は、そなたとの間にまつりごとをはさみたくない。そのことを皆に知らしめるために、ハウエルにはキリスヤーナ国王の位から退いてもらう」


 夕刻が近づいて、アユルはいつものように病人らしい顔つきと格好をして部屋を出ていった。ラシュリルは、西日がさす廊下にたたずんで、庭を闊歩する雄鶏を目で追った。

 雲母を含んだ庭の白砂が、濃い橙色の夕日を浴びてきらきらと輝いている。それが、ハウエルの笑顔と重なって胸が苦しい。


 ――お兄様、どうして……?


 ラシュリルは、部屋に戻って伏籠にかぶせたままにしておいた衣を両手に抱える。尋問が終わったらハウエルたちと会わせてやるとアユルに言われて、その日のために用意していた衣だった。それを隣の部屋の衣桁に掛けて元の部屋に戻ると、ちょうどアユルが帰ってきた。


「早かったですね。宰相様は、もうお帰りになったのですか?」
「ああ。私の顔色があまりにも優れないものだから、長居などしては一大事だと逃げるように出ていった」

「かわいそうな宰相様。アユル様のことが心配で仕方がないのでしょうね」
「そう言うな。こう見えても、私も良心が痛んでいるのだぞ」


 ラシュリルが苦笑しながら、背伸びをしてアユルの額に巻かれた紫色の布を解く。アユルは背丈を合せるように身を屈めると、ラシュリルの後頭部に手を添えて顔を近づけた。


「もう、アユル様。白粉をはたき過ぎですよ」

「詔書を書いて、ラディエに渡した。ハウエルはキリスヤーナへ帰国し次第、ミジュティーに譲位することになる」
「……そう、叔父様に」

「明日、ハウエルや母君に会ってもよい。女官長に申しつけて、どこか適当な御殿に席を設けさせよう」
「いいえ、アユル様。やっぱり、会わずにおきます」


 ラシュリルは、解いた紫色の布でアユルの唇にはたき込まれた白粉をぽんぽんと拭う。
 お兄様とお義姉様。それから、お母様にナヤタ。皆に会いたい。話したいことが山ほどあるし、わたしのことは心配いらないって顔を見て伝えたい。けれど、それはアユル様のためによくない気がする。


「どうした、楽しみにしていたではないか」

「いざ会うと思うと、なんだか恥ずかしくて。ほら、わたしのようなお転婆がアユル様のお妃になっただなんて皆信じられないでしょうし、驚いて腰を抜かしてしまうかも……。その代わりに、たくさんお手紙を書きます。だからお気遣いなさらないで、アユル様」


 アユルは、にこっと笑うラシュリルの額に自分の額をくっつけて「相変わらず嘘が下手だな」と言った。


   

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