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第四章 ◇第06話





 ラシュリルが清殿に居を移してからというもの、アユルは書斎で仕事をする時以外、奥の部屋で過ごすようになった。奥の部屋とは、アユルがラシュリルに与えた三室のことだ。

 これでは貴妃様の気が休まる時がないのでは。そう案じたコルダが、それとなくアユルに進言してみたもののどこ吹く風でまったく聞く耳を持たない

 とはいえ、一人の妃と四六時中一緒にいて、妃のもとから朝議に行くというのはアユルの見聞や経験の中にはないことである。そして、ラシュリルは異国で育った者。時にアユルは、ラシュリルがすることに戸惑ってしまう。毎朝の日課がまさにそうだった。

 身支度を終えたアユルは、部屋を出ようとして立ち止まった。コルダが、アユルの視界を妨げないようにささっと横へのける。


「いってらっしゃい、アユル様」


 鈴を転がすような声にふり返ると、ラシュリルがにっこりと笑って小さく手を振っている。王の見送りは、黙って平伏するのが礼儀だ。だから、初めて「いってらっしゃい」と言われた時は、どう答えればいいのか分からず「ああ」とぶっきらぼうな返事をしてしまった。そのせいで、皇極殿に着くまで粘着質なコルダの小言を背中に浴びる羽目になった。


「い……、いってくる」


 アユルはぎこちない笑みを返し、御簾をくぐって扉の方へ足を向けた。背後で、コルダが笑いを噛み殺している。


「コルダ、いい加減にしろ」


 歩きながら、アユルが呆れたように言う。


「申し訳ございません。アユル様が、あまりにもらしくございませんもので」
「優しくにこやかに返事をしろと、散々、私に説教を垂れたのはお前だろう」

「それはそうでございますが。難しいのでしたら、貴妃様にあのようなご挨拶はお控えいただくよう申し上げます。やはり、王宮での礼儀作法は守っていただくべきです」
「いや、よい」

「はい?」
「……嫌ではないから、ラシュリルをとがめるな」


 アユルの耳朶が、朱に染まる。コルダは、それに気づいて恭しく一礼した。


「はい、アユル様。おおせのとおりに」


 二人が清殿を出ると、外廷の方から朝議の刻を知らせる太鼓の低い音が聞こえてきた。アユルの表情が、一転してきゅっと引き締まる。いよいよ、キリスヤーナ国王の尋問が始まろうとしていた。アユルは左胸の下辺りを右手でおさえて、硬い鉱石の感触を確かめた。懐に忍ばせているのは、今朝ラシュリルから拝借したアイルタユナの玉佩だ。


「コルダ」


 歩みを止めて、アユルはゆっくりと身をひるがえす。コルダが、少し驚いた顔で「はい」と返事をした。

 いつか、身分を与えて王宮から出してやりたい。過去に縛られず、コルダの人生みちを生きてほしいと思っている。だが、エフタルが父親だと知ったら、コルダはどうするだろうか。コルダのことだから、自害して忠義をつくそうとするに決まっている。


「アユル様?」


 コルダが、小首をかしげる。
 アイルタユナは、数日に及ぶ激しい拷問に一人で耐えた。手の骨は砕けて、愛おしい我が子の手を握り返すこともできなかった。今さら、過去に思いをはせても詮無いこと。あれこれ考えても、時間を巻き戻すことはできないし、死んだ者は生き返らない。

 アイルタユナの罪は、年月とコルダの努力によって十分にすすがれたはずだ。なにがあってもコルダを守ると誓った。だから、事実はこの胸に秘めておく。王家の名誉やエフタルのためではなく、コルダのために――。


「いかがなさいました?」
「これからもよく務めろよ」
「は、はい。もちろんでございます、アユル様」


 また太鼓の音が響く。


「アユル様、時間でございます。急ぎましょう」
「私は、牢へ行く」
「もう朝議が始まっておりますよ」
「よい、私がいなくても有能な宰相がいるからな。お前は皇極殿へ行って、キリスヤーナ国王の尋問は任せると宰相に伝えてこい」


 コルダが、礼をとって去っていく。アユルは、少し遠回りをして牢へ向かった。太陽の光でつやつやと黒く輝く玉砂利を踏みしめて、ざくざくと心地よい耳障りの足音を聞きながら庭の景色を楽しむ。王宮の庭では、初夏の花々が美しさを競うように開花していた。牢に着くと、独房の近くにカリナフの姿があった。カリナフが、アユルに気づいて駆け寄ってきた。


「朝早くから大儀だな」
「恐れ多いお言葉、恐れ入ります。一人でお越しになられたのですか?」
「ああ。それよりもそなた、朝議に出なくてもよいのか?」
「宰相様がいますから、私がいなくても問題はないかと」


 アユルは「確かにな」と苦笑する。カリナフには、エフタルとタナシアの取り調べに関する全権を委ねている。カリナフは、朝議よりも王命を優先して、職務をまっとうしているのだろう。


「エフタルに話がある。奴はどこだ」
「地下牢に入れております。私がご一緒いたします」

「地下牢にも武官を配置しているのだろう?」
「はい、もちろんでございます」

「ならば案じることはない。そなたは、タナシアの取り調べを進めろ」
「御意に」


 アユルは、地下へ続く狭い石階段をおりた。地下牢が近くなるごとに、じめじめとした気持ちの悪い湿気が肌にまとわりついてくる。地下牢は四方を石壁に囲まれていて、暗く陰湿で、数日そこに入れられたら気が狂ってしまいそうな所だ。

 牢は、二人の大柄で屈強な武官に見張られていた。真っ暗な牢の奥から「ううぅ……」と不気味な唸り声が聞こえてくる。


「エフタルを余の前にひざまずかせろ」


 アユルは武官に命じると、牢の前に置かれた椅子にどっかりと腰掛けた。武官が、鍵を開けて牢の中に入る。二人はアユルの顔色をうかがって、うずくまる肉づきのいい体の両脇を抱えた。


「ううう……っ」


 焼けただれた左腕の激しい痛みと高熱におかされて、エフタルは夢とも現ともしれぬ心地を朦朧とさまよっていた。ずりずりと体を引きずられながら、意識が過ぎ去りし日々をさかのぼる。

 どうして、シャロアへの未練を捨てきれなかったのか。良妻を得て愛らしい子にも恵まれたのに、幸福が心に根づくことはなく、怨恨だけがくすぶり続けた。幸せそうに赤子のタナシアを胸に抱く妻の顔を見ながら、いつもシャロアの面影ばかりを追っていた。


「目を開けぬか、無礼者!」


 石床の上に体を投げられ、エフタルは顔や胸を打ちつけた衝撃でようやく夢から覚めた。這いつくばるような格好で顔を上げて目を開く。すると、武官とは違う別の気配があった。椅子に座ってじっとこちらを見ているようだが、高窓からさし込む陽光を背にしているせいで輪郭しか分からない。逆光にくらむ目を凝らして、エフタルは光の陰影が描く顔立ちに唇を震わせた。


「……シャ、ロア」


 かすれた声に応えるように、人影がゆっくりと立ち上がって近づいてくる。しかし、距離が縮まるごとに幻は消え、よく見慣れた顔が視界の中ではっきりと像を結んだ。


「何事だ、エフタル」
「……へ、陛下」


 唖然とするエフタルに冷ややかな視線を向けて、アユルは武官に地下牢を出るように言った。そして、二人きりになると、目線を合わせるようにかがんでエフタルをにらみつけた。


「余に向かって先の王妃の名を口走るとは、無礼にも程がある。死者の幻影でも見えたのか?」
「お許しを……、陛下」


 アユルはエフタルの視線を捕まえたまま、懐からラシュリルの玉佩を取り出した。それをエフタルの目の前にかざして、表情のわずかな変化をも見逃さないようにじっと見据える。

 ラシュリルの母親は、アイルタユナが王の妃であり、くちなしの男がエフタルだとは知らない様子だった。アイルタユナはもうこの世にはいない。真相を知るのは、この世でただ一人だ。


「この玉佩に見覚えはあるか?」
「それは、陛下がご寵愛なさっておられる異民族の女が持っているものでございましょう」

「いいや、お前は知っているはずだ。本当の持ち主を」
「本当の持ち主? なんのことやら、私には分かりませぬ」

「妃との密通は、一族郎党道連れの死罪だろう。それなのになぜ、お前は罪を免れてのうのうと生きている?」

「さあて。そのようなこと、口になさらぬが陛下のためと心得まするが」
「お前に言われなくてもそうする。なにも、過去を暴きたくてこのような話をしているのではない」

「陛下が聡い御方で安心いたした。どこで知ったのか見当もつかぬが、陛下の御代の安寧のためにも知らぬふりをすべきだ。なにがあろうとも、王家と四家の名誉だけは守らねば」


 優位な立場を知らしめるように、エフタルがふんと鼻を鳴らして気味の悪い笑みを浮かべる。アユルは、エフタルの胸ぐらをつかんで力任せに引き寄せた。


「覚えているのなら、なによりだ。よいか、余はアイルタユナとコルダのために口を閉ざすのだ。そのことを、ゆめゆめ忘れるな」

「ふっ、偉そうに」
「お前には、必ず死罪を言い渡す」

「初代王に賜った永世の身分を剥奪した挙句に、四家の当代を手打ちにするなど正気の沙汰ではない。ただで済むと思うでないぞ!」


 エフタルが声を荒らげる。しかし、返ってきたのは「そうか」と波のない静かな一言だった。アユルの手が、エフタルの胸元から離れる。待て、とすがるエフタルの手を振り払って、アユルは地下牢をあとにした。

 その足で独房へ行くと、ちょうどカリナフがタナシアを取り調べている最中だった。しばらく、外からその様子をうかがう。


 ――私は、ラシュリルと添い遂げるために王妃を殺すと決心した。


 王家は長い年月をかけて、雨滴が少しずつ岩を削るように権威を削がれてきた。妃の後ろ盾に守られて、臣下のいうとおりに裁可の印を押すだけの飾りに過ぎない。神と崇められるには、あまりにも粗末な存在に成り果ててしまった。

 転がり込んできた好機を逃したくはない。王家に背いた咎人の血を絶ち、本来手元にあるべき権を必ず取り戻す。後々、禍根となるものは絶対に残さない。しかし……。


『陛下、お願いがございます。王妃様をお捨てになるのでしたら、どうか、どうか、私のもとへお遣わしください』


 カリナフの望み。
 それを聞いた時は耳を疑った。まさか、カリナフがタナシアに情を抱いているとは思いもしなかったからだ。カリナフが妻にできなかった相手とは、タナシアだったのだろうか。昔は、妃を下賜する習慣があったらしい。だが、正妃をそうした前例はない。なにより、タナシアは重罪人だ。

 カリナフは淡々と、木椅子に縛られたタナシアを取り調べていた。タナシアが言葉に詰まると上を向かせ、包み隠さず話すように迫る。


「我々は臣として第一に陛下への忠誠を誓わなくてはならない。この期に及んでエフタル様をかばうような真似はするな、タナシア」


 荒々しいことはしていないようだが、鬼気迫るカリナフの表情からはタナシアへの恋情など微塵も感じない。アユルは独房を離れて、牢獄の前の空き地でカリナフを待った。昼が近くなって、空から強烈な日差しが降りそそぐ。初夏ともなれば、カデュラスの空には灼熱の太陽が燃え始める。


 ――もうすぐ、即位して一年がたつのか。


 ぼんやりとそんなことを思って何気なく空をながめれば、綿菓子のような白雲が浮かんでいた。熱を孕んだ風が吹き抜けて、アユルの黒衣の裾がふわりと羽ばたく。
 陛下、と呼ばれてアユルはふり返る。一段落したのか、カリナフがこちらへ向かってきた。


「カリナフ。父君はどのような容態だ」
「床に臥せたまま変わりございません。ゆるやかに、最期の時が近づいているのでしょう」

「そうか……。憐れな」
「もったいないお言葉でございます」


 アユルが、庭を歩こうと言って歩み出す。カリナフは素直に「はい」と答えて、アユルの一歩後ろに従った。


「タナシアの取り調べが終わったら、速やかに報告しろ。余が直々にタナシアを処する」
「なりません。陛下の御手を罪人の血で穢すなど」

「罪人だが、王妃だった者だからな。下々の手で処されるのは王家の恥だ。そなたはタナシアの遺体を処分して、そのまま任地へ向かえ」


 後ろから聞こえていた玉砂利の音が止む。


「……陛下。まさか、お許しくださるのですか?」


 声色から、カリナフの驚きが伝わってくる。アユルは、歩みを止めた。しかし、カリナフの問いに答えることもふり返ることもしなかった。


「そなたと、このように今生の別れをする日が来るとは、夢にも思わなかった」
「傍を離れる不忠をお許しください、陛下」

「余の気持ちが分かるのなら、全身全霊を捧げる覚悟で任に当たれ。彼の地は、エフタルが私腹を肥やすために官位を売買し、不正が横行していると聞く。よく治めろよ」


 カリナフが、なりふり構わず玉砂利の上に座して深く頭をさげる。


「必ず、必ず、陛下の温情に報います」


 叩頭したまま声を震わせるカリナフを残して、アユルは再び歩き出した。
 キリスヤーナ国王の尋問は、数日に及んだ。ハウエルは、尋問の中で近衛隊の将校らが殺害されたのを知った。カデュラス国王への書簡を託すほど、彼らを信頼していた。大事な腹心を殺された衝撃は相当なものだった。ハウエルは、ずらりと並んだ文官武官の前でエフタルとの関係を洗いざらい告白した。

 尋問が終わると、ハウエルはラディエにラシュリルの所在を尋ねた。すると、ラディエから、妹君であっても呼び捨てにしてはならないと注意を受けた。


「なぜですか?」
「王女殿は、陛下の妃となられたので」


   
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