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第四章 ◇第04話




 口調こそ穏やかだけれど、明らかに言葉を遮られた。胸がどきどきと早鐘を打って、手が汗ばむ。大体、この広い部屋はなんなのだろう。

 ラシュリルは心細くなって、肩をすくめて部屋を見回す。あるのは文机ひとつと照明だけで、他にはなにもない。本当に今日は、皆どうしたというの?


「ラシュリル」


 自分からそれた視線を呼び戻すかのように、アユルが名を呼ぶ。


「明日の朝、清寧殿から荷を届けさせる」


 つぶさに意味を理解できなかったラシュリルは、驚いた顔で視線をアユルに戻した。


「どういうことですか?」
「今宵は私と過ごし、そのままここへ居を移せ」

「居を移せって。わたしが、ここに住むのですか?」
「そうだ。この部屋と次の間、その隣の部屋も好きに使ってよい」


 にこやかな笑みを浮かべて、アユルが流れるような所作でラシュリルの袿の衿をつかむ。そして、するりとそれを脱がせて、代わりに自分が着ていた黒い表着をラシュリルの肩にふわりと掛けた。その風に、燭台の炎が濁った音を立てて揺れる。

 本当は、お兄様とお義姉様のように仲良く寄り添って日々を過ごしたい。けれど、カデュラスの夫婦の形はとても複雑だ。アユル様の妻は一人ではなく、好きだとか愛しているという気持ちや言葉より政治的な価値がなによりも大事だという。


 ――どんなに愛していても、わたしではアユル様の役には立たない。


 アユル様にふさわしいのは、王妃様のような人。これから先、そういう人が妃として王宮に来るかもしれない。わたしは、アユル様を信じている。だから、アユル様を悲しませるようなことはしたくないし、我慢もする。アユル様のことが、なによりも大切だもの。

 それなのにわたしは今、アユル様の立場よりも自分のことを考えている。愛されて、身にあまりある幸福の中にいるのに、一つ屋根の下いつも一緒にいられるって心の底から喜んでいる。


「どうした、不満か? ならば、気に入る部屋を選べ。書斎以外ならどこでも」
「いいえ、アユル様。夢みたいで、嬉しくて」
「夢ではないぞ」


 アユルの指が、ラシュリルの頬を軽くつねる。不意をつくアユルの行動に、ラシュリルは気が抜けたように笑った。


「本当に、いいのでしょうか」
「よいから居を移せと言っている」

「王妃様は……。この事をご存知で、お許しになられたのですか?」
「なぜ、王妃の許しがいる」

「だって、王宮を取り仕切っていらっしゃるのは、王妃様なのでしょう?」
「知っていようがいまいが、王妃には関係のないことだ」


 つねったラシュリルの頬を指先でなでながら、アユルが「私の言うとおりに」とつけ加える。ラシュリルは、肩に掛けられた表着に袖を通してこくりと小さく頷いた。すると、アユルが満足そうに笑んで、視線をちらりと横に向けた。


「腹が減ったな。焼き菓子は明日いただくとして、ひとまず夕食にしよう」
「はい」
「その前に聞きたいのだが、その菊の花は華栄殿で出されたのか? 私と会った時は持っていなかったと思うが」


 ラシュリルはどきりとした。笑みの消えた顔に射抜くような目。初めて会った時と同じように威圧すら感じて身がすくむ。声の響きには、明らかな疑いが含まれている。迂闊だった。どうして、菊花茶のことをアユル様に聞こうと思ったのか。華栄殿に置いてくるべきだったと、ラシュリルは後悔した。言葉に詰まっていると、矢継ぎ早に次の質問が飛んできた。


「飲めと言われたのか?」
「違います。王妃様の好きな飲み物を用意してほしいと頼んだら、これが……」

「飲んではいないのだな?」
「はい」


 そうか、と言ってアユルがコルダを呼ぶ。アユルは、コルダに食事を用意するように命じてラシュリルが着ていた袿を手渡した。


「清寧殿からラシュリルの衣を取ってこい。それから、これは今宵のうちに焼き捨てておけ」

「かしこまりました。ところでアユル様、カリナフ様がお会いしたいと申されているようで、少し前に皇極殿より使いの者がまいりました。火急の用でなければ明日にしていただきましょうか」

「そうしてくれ。明日の朝議前に書斎へ来るよう伝えろ」
「分かりました。では、すぐに食事と貴妃様の衣をお持ちいたします」


 コルダが、袿を手に立ち上がる。そろそろとコルダが一歩進むたびに、薄桃色と白が重ねられた袿が正絹のなめらかな光沢を伴って、蝶の羽ばたきのようにひらりひらりとひるがえる。その儚げで寂しい光景に、タナシアの顔が脳裏をよぎった。


「アユル様、あの服は王妃様からいただいたものです」
「知っている」


 だから処分するのだ、とアユルが言う。その表情と声は冷ややかで、いつもの優しく温かな雰囲気の片鱗もない。まるで、これ以上の追求は許さぬと釘をさされたかのようだった。

 すぐに、カリンが清寧殿から袿を取ってきた。それからコルダとカリンは、手際よく二つの膳を並べた。二人は隣の部屋で控えていると言って、コルダが菊花の入った器を、カリンが焼き菓子が盛られた器を持ってしずしずと部屋を出ていった。

 カデュラスの食事は、彩りが美しくて味も上々だ。特に王宮の食事は格別で、貴人たちでも口にできないような高価な食材がふんだんに使われている。ラシュリルは目の前の膳を見て、ほうっと感嘆のため息をついた。いつもの膳よりも皿数は多いし、その一つ一つに細工の凝った鮮やかな色の料理が乗っている。普段の食事よりも豪華だ。


「王宮の料理を作る人は、手先も器用なのですね。料理というより芸術品だわ」
「私が口にするものは、すべてコルダが作る」

「コルダさんが?」
「驚いたか」

「とっても。コルダさんって、魔法使いみたい」
「妖術使いの間違いだろう」

「ご冗談を。コルダさんは、アユル様のために丹精込めて作るのでしょうね。一生懸命な姿が目に浮かびます」


 腕をまくって真剣に料理に勤しむコルダを想像して、ラシュリルの顔が花のほころぶような笑顔になる。アユルは、それが嬉しくてたまらなかった。自分と同じように、ラシュリルもコルダを大切に思っているのが伝わってくるからだ。


「今日は私だけではなく、そなたにも真心をつくしたはずだ。だから、嫌いなものが入っていても残さずに食べてやれ」


 アユルがラシュリルに微笑みかける。いつもの優しい顔だ。安心したら、急に食欲が湧いてきた。ラシュリルは、根菜の煮物を口に入れて「美味しい」と幸せそうに言った。





 ◇◆◇





 仄暗くてかび臭い牢獄を照らす松明たいまつの下で、カリナフはエフタルを見おろした。両手両足を粗末なイスに縛りつけられたエフタルの見るも無惨な姿に、カリナフの目が細くなる。


「おのれ……」

「口の利き方にご注意なされませ、エフタル様。あなたは身分を失ったうえに、これから烙印を押されて罪人に落ちる身。己の命を他に握られて、家畜にも劣る存在になるのです。次にそのような言葉を私に向けた時は、容赦いたしません」

「だっ、黙れ……っ、生意気な青二才めが!」


 エフタルがぎりっと奥歯を噛んだ瞬間、左の頬に骨がきしむほど強い衝撃を受けた。カリナフの固いこぶしが、渾身の力で頬を張ったのだ。


「きっ、貴様……っ」
「容赦しないと申し上げました」
「……まさか、未だに根に持っているのか!」


 声を荒らげるエフタルを尻目に、カリナフは火桶から焼きごてを取る。そして、傍にいた武官に猿轡さるぐつわを噛ませるよう命じた。生まれた時から、かしずかれてきた人だ。今さら態度を改めろと言っても梨のつぶてか、と冷めた目をエフタルに向ける。


「どうして忘れることができましょう。あの日から、私はあなたに失脚していただくことだけを考えてきました。ですが、私が手を貸すまでもなかった。あなたは自ら地獄に落ちてくださいましたからね」

「やっ……、やめろ、カリナフ!」

「烙印を賜った者の行く末に怖気づいたのですか? 誇り高き四家の当代でありながら、あなたは陛下に二心を抱きました。許されざることをなさったのですから、相応の覚悟をなさいませ」


 カリナフが顎をしゃくると、武官が二人がかりでエフタルの口に猿轡をかませた。身動きの取れない体で必死の抵抗を試みるエフタルの腕に、カリナフがたぎった焼きごてを押し当てる。エフタルは目を上転させて、聞くに堪えない獣のような声を上げながら呆気なく気を失った。


「他愛のない」


 ティムル家の嫡男に生まれ、叔母は王妃という恵まれた身の上。成人の儀は皇極殿で執り行われて、文武百官の前で王直々に加冠賜った。まるで国事のように盛大な式だった。だから、自分は思いを寄せる佳人にふさわしい身分なのだと信じて疑わなかった。疑う余地がなかったのだ。

 しかし、婚姻の申し入れにアフラム邸を訪ねた時、神の系譜にあらざる身でいい気になるなと冷笑された。挙句、娘は神の隣に立ってこそ至高の幸せを手に入れるのだと、平伏した体を何度も足で蹴られた。

 皮膚が焼ける独特な臭いに顔をしかめて、カリナフは焼きごてを火桶に放り込む。そして、武官にエフタルを地下牢に入れるよう命じた。エフタルが、失神したまま武官に両脇を抱えられて地下牢へ連行されていく。


「待て」


 カリナフは武官を呼び止めて、エフタルの腰にさがったくちなしの玉佩を奪うように引きちぎった。至高の幸せを手に入れると言ったから身を引いたのだ。それなのに、なんだこの様は。腹の底から湧き上がる怒りをこらえ、カリナフはエフタルの玉佩を握った手を震わせる。

 楽に死ねると思わないでください、エフタル様。あなたは、私欲を満たすためにタナシアを不幸にした。私はもう、あなたに鼻で笑われて足蹴にされた十六の未熟な餓鬼ではない。


「連れていけ。決して目を離すな」


 二人の武官は「御意」と声をそろえて、エフタルを地下牢へ引きずっていった。カリナフは牢を出て空を見上げた。ちりばめられた星を従えて悠然と輝く月に、初夏の気配が近づいてきていることを悟る。

 陛下はあまねく大陸を照らす月、我々はそれに群がる小さな星。カデュラ家は、未来永劫、最も尊き神の系譜として崇められなければならない。陛下こそが、泰平の世の礎なのだから。


「遅くまで大義だな、カリナフ」


 今日は、ラディエも遅くまで後始末に追われていたらしい。カリナフは、ゆっくりとふり返って声の主に会釈した。


「宰相様こそ、難儀な一日でございましたね」
「いやはや、ここのところ気の休まる時がない」

「お察し申し上げます。ところで、私と夜歩きをしたくてこちらにいらしたのですか?」
「馬鹿を言うな。陛下の侍従から言伝を預かったのだ。今宵は目通り叶わぬので、明日の朝早く清殿にまいられよと」

「かしこまりました。では、明朝寝過ごさぬよう、今宵は真っ直ぐ家に戻ります」
「色男め、ふらふらと遊んでいないで早く身を固めたらどうだ。父君も気が気ではあるまい」

「ご心配なさらずとも、時機が巡ってきましたら、襟を正してよき妻を迎えますよ」
「まったく、困った奴だ。それはそうと、二日後にキリスヤーナ国王が登城する。抜かりなきよう用意しておけ」


 はい、とカリナフが歩み出す。カリナフはラディエのお節介で熱い説教を聞きながら、遥か遠くの朱門へ向かった。


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