アユルの黒衣に焚き染められたお香の香りがふわりと漂って、それにつられるように魂の抜けたタナシアの顔が横を向く。
「陛下」
恐怖に震えて今にも消えてしまいそうな声は、ただ鋭利な視線を呼び寄せただけだった。どうしたら、こんなにも冷たい目を人に向けられるのか。タナシアは、無限に広がる闇のようなアユルの目を見て戦慄する。
「陛下、お願いでございます。信じてくださいませ。わたくしは、本当に陛下をお慕い申し上げているのです」
「黙れ」
タナシアの必死な表情が先程のエフタルの顔と重なって、アユルは思わずゆるみそうになった口元を引き締める。そして、書簡を紫檀の軸に巻いて、短刀の切っ先をそうするように軸先を白い喉元に突きつけた。
「陛下は、王女殿の兄に命を狙われたのでございましょう? ですから、わたくしは陛下をお守りするために……!」
「余の命を狙ったのは、キリスヤーナ国王ではない。いつまで王命を無視してしゃべり続ける気だ」
ラシュリルは今頃、華栄殿で王妃を待っているのだろう。だが、ことが終わるまでじっとしておいてほしかっただけで、王妃と会わせる気はさらさらない。王宮で繰り広げられるおぞましくて陳腐な闘争を、ラシュリルが知る必要はないのだ。それから、私の残酷さも――。
「立て。これから皇極殿でそなたの罪を明らかにする」
タナシアの目からほろりと涙がこぼれて、きらびやかな衣装に落ちる。やがてそれは、ぽつぽつと厳かに降る雨粒のように、次から次へと正絹の上で音を立てて弾けた。
アユルは、タナシアの手首を乱雑につかんで立ち上がると、二巻の詔書を持って清殿を出た。
「あの」
ラシュリルは、肩をすくめて女官に話しかけた。女官はラシュリルをきっとにらんだまま、つんとした顔をして返事をしない。カリンが応戦するようにつぶらな瞳で女官をにらみ返して、ようやく「なんでございましょう、貴妃様」と棘のある声が返ってきた。
そもそも王宮の女官たちはラシュリルに友好的ではないが、特に華栄殿の女官はあからさまに敵意のようなものを向けてくる。異民族であるうえに、王妃様から陛下を奪う悪しき存在なのだから当然だ。
「飲み物を用意していただけませんか? できれば、香りのあるものを」
「はい?」
「王妃様に召し上がっていただきたくて焼き菓子を焼いたのですけれど、紅茶がどうしても手に入らなくて……。王妃様がいつも飲んでいらっしゃるもので、香りのついたお茶などないですか?」
はあ、と顔をしかめた彼女は、いつも王妃様の傍らにいる女官だ。
――えっと、名前は……。
いつだったか、なにかあればカイエという女官に申しつけてとタナシアに言われたのを思い出して、ラシュリルは「カイエさん」とにこやかに呼びかけてみた。ふいに名前を呼ばれて、カイエの険しい顔が崩れる。しかし、それは一瞬のことで、すぐにまた愛想のない表情に戻ってしまった。
「キリスヤーナの菓子など、王妃様のお口に合うはずがございません。それに万が一、毒などが入っていたなら一大事です」
ラシュリルは皿に被せた布を取って、焼き菓子を一つ食べてみせた。横からカリンも同じように頬張って『甘い』と幸せそうな顔をする。人に害のある毒ではないけれど、ある種の毒であることは間違いない。菓子の甘さは一度覚えたら最後、これなしでは生きていけなくなる。
「ほら、毒なんて入っていないわ。カイエさんも一つどうぞ」
ラシュリルは、皿から焼き菓子を一つ取ると、カイエの手に乗せてにっこりと笑った。眉間にしわを寄せたカイエが、しぶしぶ焼き菓子を口に入れて袖で口元を隠す。そして、もぐもぐと咀嚼して小声で「美味しい」と言った。
ラシュリルが「よかった」と嬉しそうな顔をすると、カイエは少し悔しそうに唇を噛んだあと、観念した様子で茶器を用意してくれた。
「カイエさん、それはなんですか? かわいらしい花ですね」
「こちらは、王妃様が好んでお飲みになられている菊花茶の小菊です」
「菊花、茶……」
「貴妃様のお国にもございますか?」
「いいえ。けれど、飲んだことはありますよ。お兄様が先王様に謁見した時に、カデュラスで買ってきてくださったの」
「さようでございますか」
「でも、煎じたお茶しか見たことがなかったから……。菊ってこんなに綺麗な黄色をしているのですね」
「小菊という種類の菊でございます。陛下から賜って大層お気に召したようで、王妃様は毎日朝と昼にこちらを飲んでおられます」
そう、とつぶやくように言いながらラシュリルは思った。菊花茶の話をどこかでしなかったかしら、と。乾燥した黄色の小さな菊花が入った器をながめて、記憶を遡る。
確か、飲んではいけないと言われたのではなかった?
記憶が鮮明になるにつれて、どくんどくんと鼓動が激しい律動に変わっていく。王宮で煎じられる菊花茶を飲むと――。
神妙な面持ちで急に黙り込んだラシュリルに、カイエが「貴妃様?」と言った。
陛下とコルダは何かを示し合わせていたに違いない。ラディエとカリナフは、がやがやと騒がしい皇極殿でアユルの帰りを待ちわびていた。しばしと言った割には長い気がする。しびれを切らしたラディエが立ち上がろうとした時、通用口の襖が静かに開いてアユルが戻ってきた。その後ろを、うつむいたタナシアがついてくる。
朝議の場に、王妃が姿を見せるのは稀だ。仲睦まじい国王夫妻の噂を耳にしていた官吏たちは、タナシアを見て頬を紅潮させひそひそと声をひそめた。アユルが高座に腰をおろして、ラディエを傍に呼ぶ。そして、手に持った二つの書簡をラディエに手渡した。
タナシアが部屋の隅に座り、高座のアユルに向かって深々とひれ伏す。王妃とは王の隣に並ぶ唯一の者であり、臣下と同じ場所に座ることなどあり得ない。床にひれ伏すとはどうしたことか。官吏たち、ただならぬ光景に驚いて固唾をのむ。
「王妃様。そのような所にかしこまって、どうなされたのです? どうぞ、陛下のお隣に」
カリナフの落ち着いた声が、静まり返った皇極殿に響く。タナシアは、びくりと身を震わせて「いいえ」とか細い声で答えた。
カリナフがタナシアから向かい側に視線を移すと、エフタルが魂の抜けたような顔をしていた。カリナフは、ぱらりと扇を広げて顔の半分を隠してほくそ笑む。念願叶う瞬間が近づいている。そう確信したのだ。
「宰相」
「はい、陛下」
「今そなたに渡した書簡を読み上げろ。一言一句、絶対に間違えるな」
「かしこまりました」
ラディエは咳払いをして、サリタカル国王から預かった銅の交易に係る詔書から順にキリスヤーナ国王を始末せよとサリタカル国王に命じる詔書まで読み上げた。少し間をおいて、一人の文官が「陛下」と声を上げる。
「キリスヤーナ国王には死を以て償わせる。それが陛下のご意向でございますか?」
文官が言うと、今度は別の文官が「陛下」と口をはさんで、最初の詔書にあった銅の量が報告と違っていると指摘した。
「それに、サリタカル国王に命じてキリスヤーナ国王を死罪に処するとは。これが陛下のご一存ならば、今一度お考え直しくださいませ」
「一存もなにも。どちらの詔書も、余には覚えがない」
「覚えがないとは、いかがな意味でございましょう」
アユルは脇息に肘をつき、エフタルを見てふっと軽く笑った。いつもの堂々とした威勢はどこへやら。エフタルは青ざめた顔に玉汗を浮かべていた。
「王妃に聞いてみろ。先程清殿に、戻ったら王妃が余の書斎でその詔書を広げていた」
ざわ、と殿内がどよめく。どよめきは小波のように末席から押し寄せて、またたく間に隣の声も聞こえない程の大きさになった。これでは話にならぬと、ラディエが扇で床を打ちつけて「静かにせぬか!」と怒号を飛ばす。殿内がしんと静まり返ったところで、カリナフがタナシアに向かって口を開いた。
「忍び込むとは聞き捨てなりませんね。清殿は陛下の許しなく入ってはならぬ聖域。それを王妃様が知らぬ道理がございましょうか。ご説明ください、王妃様。清殿の書斎で陛下が知らぬ詔書を広げて、なにをなさっておられたのですか?」
タナシアは顔を上げて、おびえた目でカリナフを見返す。カリナフは、優雅な舞を舞う姿とはまるで別人のようだった。淡々とした声も顔立ちも、陛下と同じで怖い。まるで、切り立った崖に追い詰められたような恐怖に支配される。
逃げる場所などない。だから、早く罪を告白して楽になってしまいたいのに、出てくるのは涙ばかりで言葉は一つも浮かんですらこない。
「王妃様が、詔書をお書きになられたのですか?」
「いいえ、カリナフ殿。わ、わたくしは陛下の書斎で、詔書に王印を押しました」
再びざわめき立つ官吏たちを、ラディエが制する。カリナフは席を立ってタナシアの傍に座ると、アユルにちらりと目配せした。
「では、どなたが詔書を書いたのですか?」
タナシアは涙をこぼしながら、とても悲しそうな顔で父親を見た。同時に、皆の視線が一気にエフタルに集中する。
「すべて、わたくしと父上がしたことでございます」
「タナシア!」
エフタルが叫び、板張りの床を拳で殴りつける。
「わ、私ではない」
うわ言のように口走るエフタルの胸ぐらを、ラディエが荒くつかんだ。
「なんということだ」
「詔書の偽造など、前代未聞だ」
「まさか、大臣様がそのような」
がやがやと言葉が飛び交う中、一人の文官がのっそりと立ち上がって口上した。カデュラスの法に精通する老齢の文官だ。
「長い歴史の中で、一度もなかったこと。四家の当代と王妃様が死罪相当の重罪に手を染めるとは、国を揺るがす事態になりかねませぬ。陛下、厳正なる取り調べを」
そのつもりだと、アユルは立ち上がった。
「今この場で申し渡す。エフタルの身分を剥奪して無位の平民とする。タナシアも廃妃として、王家が与えたものをすべて召し上げる。カリナフは、二人を投獄して徹底的に調べろ」
アユルは高座をおりる間際、エフタルをふり返って拳を握った。
アイルタユナの不義密通の相手。こんな男をかばって、貴妃様は一族を道連れに非業の死を遂げた。残されたコルダの想像を絶する悲しみを、苦しみを、この男はなに一つ知らない。エフタルの罪をすべて暴き、この手で息の根を止めてやる。
「カリナフ。エフタルが口を閉ざした時は、両手両足の爪をはいで指をひとつずつ切り落とせ。死なない程度に生かし、必ず白状させろ」
「御意」
ラシュリルは、タナシアを待っていた。カイエに行き先などを聞いてみたけれど、知らないと一点張り。いつごろ帰ってくるのか、まったく分からない。とうとう西陽が差し始めて、コルダが華栄殿を訪ねてきた。コルダは女官たちと言葉を交わしたあと、客間にいるラシュリルに王妃様は戻ってこないと告げた。
「ねぇ、コルダさん。王妃様の諸用ってなんだったのですか? こんなに長い時間お姿を見ないなんておかしいわ。なにかあったのではないかと心配で……」
「申し訳ございません、貴妃様。わたくしは存じ上げないのです」
「……そうなの」
「貴妃様、アユル様がお待ちです。わたくしと一緒に清殿へお越しください」
分かりました、と焼き菓子の皿を手にラシュリルは重い腰を上げた。そして、カリンに菊花の入った器を持ってくるように言った。
華栄殿を出て、廊下を渡る。やはり人影はまばらで、いつもの王宮とは違う気がする。
コルダに案内されたのは、清殿の奥にある広い部屋だった。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央にぽつんと置かれた文机で、アユルが書物を読んでいた。
「来たか」
書物を閉じたアユルが、ラシュリルに手招きする。ラシュリルはカリンから菊花の入った器を受け取って、アユルの近くに座った。夜の気配が色濃くなり、部屋の中が翳って薄暗い。コルダが燭台に火をともすと、暖かな橙色の光が部屋を満たした。
「ラシュリルと話がしたい。二人はさがっていろ」
アユルが、コルダとカリンに命じてラシュリルの手をつかむ。ゆらゆらと、揺れる炎に照らされるアユルの顔。いつものように優しい目をして、口元は弧を描いているのに、どこか近寄りがたい雰囲気がある。ラシュリルはアユルの手を握り返して、少し困った顔をした。
「アユル様、お聞きしたいことがあるのです。王妃様がどちらに」
「私の分をちゃんと残してあるのだろうな」
「えっ?」
「焼き菓子のことだ」
