第四章 ◇第02話




 それからの数日間は、このところの騒ぎが嘘のように平和だった。外廷から、朝議の始まりを告げる太鼓の音が聞こえる。


「王妃様、お一人で大丈夫ですか?」
「ええ」


 気丈に答えてみるが、心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動して、書簡を持つ手もじっとりと汗ばんでいる。


 ――もう、これきりなのだから。


 胸によぎる罪悪感を打ち消すかのように、タナシアはそう自分に言いきかせる。ことが済めば、陛下は王女を失った悲しみに暮れるでしょうけど、それも一時的なこと。以前のように、わたくしのもとへ戻ってきてくださる。絶対に――。

 タナシアは、華栄殿を出て入念に辺りをうかがった。女官もまばらで、人の目は極めて少ない。ちょうど、女官たちが各々の持ち場で仕事に勤しむ時間だからだ。カイエを残して、足早に清殿へ伸びる廊下を渡る。もとから女官のいない清殿は、裸同然で完全に無防備だった。

 清殿の妻戸を開くと、扉が重たく軋みながらタナシアを殿内へ招き入れた。その一部始終を、誰よりも王に忠実な男が見ていたことに、タナシアは気づけなかった。





 不穏な風のそよぎは、清殿や華栄殿から遠く離れた清寧殿には一切届かない。用済み女の墓という気味の悪い異名を持つ清寧殿は、王宮の時の流れから取り残されたように静かだった。

 ここは代々、王の寵愛を失った妃の住処として使われてきた。タナシアに懐疑心を抱かせないようにラシュリルを入宮させ、誰の干渉も受けない自由な暮らしをラシュリルに与える。アユルはそう考えて、ラシュリルの入宮に際し、ここをラシュリルの居所とするようタナシアに命じたのだった。


「できたわ!」


 ラシュリルは、童女のような歓声を上げた。その横で、カリンがつぶらな瞳をきらきらと輝かせる。他の御殿と違って、清寧殿には日常生活に必要な設備が整っている。食事もその一つで、王宮の台盤所からわざわざ膳を運ばなくてもいいように厨房が設えてあった。どの王の御代か正確な記録は残っていないが、ある妃が食事に悪戯をされたり毒を盛られたりするのを防ぐために、禄を貯めて造ったのだそうだ。


「カリン、一つ食べてみて」


 たすきを解きながら言うと、カリンが皿に盛られた焼き菓子クッキーを一つつまんで口に入れた。もぐもぐとカリンの頬が動いて、焼き菓子を嚙み砕く音が聞こえる。

 正式な妃となったラシュリルに、初めての禄が金子で給与されたのはつい先日のことだ。びっくりして目が飛び出るくらいの額だった。受け取りを辞退すると、女官長から、陛下と王妃様のご厚意を無下になさるおつもりかと、あからさまに不快な顔をされた。さらに、受け取ってもらわないと私が罰せられると女官長が言うので、仕方なく三分の一だけいただいた。それでも相当な額だ。好きに使っていいと言われて、ラシュリルは困り果ててしまった。

 しかし、積まれた金子を見れば欲が湧くのは人のさが
 ラシュリルは、カリンに城下の市場で焼き菓子の材料をそろえてほしいと頼んだ。カデュラスの菓子も嫌いではないけれど、やはりキリスヤーナの甘い味が恋しい。


『普通は衣、髪飾り、お化粧品を買う』


 とカリンが紙に書くと、


「そうなの? でも、それではお腹は満たされないもの。焼き菓子の方がいいわ」


 と笑顔で答えが返ってきた。使いの女官に買うものを記した紙を渡しながら、カリンはラシュリルとのやりとりを思い出してくすっと笑ったのだった。


「おいしい?」


 ラシュリルは、不安げに尋ねた。カリンが焼き菓子をゆっくり味わって、『おいしい』と蕩けるような笑顔で左右の頬を両手で包む。

 マリージェの隣で、味見役を務めた甲斐があったというもの。記憶だけを頼りに作ったから自信がなかったのだが、カリンの顔を見るにカデュラス人の舌にも合うようだ。一つ残念だったのは、焼き菓子に合う紅茶が手に入らなかったことだ。


「よかった」


 嬉しそうに笑って、ラシュリルは衣桁に掛けてある袿を羽織った。焼き菓子の皿に布をかぶせて、カリンにそれを預ける。二人は、清寧殿を出て長閑な日差しがそそぐ庭を歩いた。足元から、ざくざくと玉砂利の気持ちいい音がする。

 御殿が立ち並ぶ一角にさしかかって、ラシュリルはいつもと違う様子に足を止めた。いつもなら、あちらこちらから女官たちの視線が刺さるのに、今日は人影もまばらで喧騒もない。


「変ね」


 ラシュリルは、カリンと目を合わせて不思議そうに小首をかしげた。






 ◇◆◇





 サリタカル国王から、キリスヤーナ国王がサリタカルの王都に到着したとの知らせが届いた。
 皇極殿では、キリスヤーナ国王の処遇について議論がなされていた。襲撃の件といい、使節の件といい、キリスヤーナ国王は命をもって償うべきである。いいや、それでは足りぬ。五族誅殺がよろしかろう。などと時折、物騒な言葉が飛び交っている。

 アユルは、高座で脇息にもたれかかって視線を漂わせた。五族誅殺を訴えたのは、ラディエの横にいるエフタルだ。アユルには、わずかな焦りがあった。カリナフの報告を受けてから、朝議に出ている間はコルダに清殿を見張らせている。しかし、王妃に動きはない。


 ――偽の詔書は、本当に王妃の手に渡っているのか?


 華栄殿の中での出来事は、アユルにも把握できない。女官の一人でも手懐けておけばよかったかと後悔して、そんな気は毛頭起きないと思い改める。手詰まりの状態だった。

 しかし、どうしたものかとアユルが天井に目を向けた時、コルダがしずしずと皇極殿に入ってきた。コルダは、朝議の邪魔にならないようにアユルのもとへ行き、懐から清殿の鍵をちらりと覗かせた。王妃が、罠にかかったという合図だ。


「しばし王宮へ戻る。皆は構わず続けろ」


 そう言って立ち上がったアユルに、鎮まった皇極殿の視線が一気に集中する。かしこまりました、と返事をするラディエの横からエフタルが身を乗り出した。


「陛下、お待ちください!」


 エフタルの鬼気迫る必死の形相。それは、アユルに確信を持たせるのに十分だった。


「どうした、エフタル」
「キ、キリスヤーナ国王の処遇について、陛下のお考えをお聞きしておりませぬ」
「しばし、と言っただろう。すぐに戻る」
「ですが!」


 これ、とラディエがエフタルの肩をつかむ。アユルは、エフタルに冷たい笑みを向けて高座をおりた。皇極殿を出て、早足で王宮へ急ぐ。清殿近くの庭に、ラシュリルとカリンの姿が見えた。二人が、アユルとコルダに気づいて近づいてくる。アユルは廊下からラシュリルに声をかけた。


「このような所で、なにをしている」
「焼き菓子を作ったので、王妃様に召し上がっていただこうと思って持ってきました」

「そうか。生憎だが、王妃は諸用に出ている。先触れをしなかったのか?」
「はい、うっかりしていて……。では、出直しますね」


 ばつが悪そうに苦笑いするラシュリルに、次からは先触れをしろよと言いかけて、アユルは言葉を飲み込む。次の機会などないことを思い出したのだ。


「せっかく来たのだから、華栄殿で王妃を待つといい」
「いいのでしょうか」
「よい」
「分かりました。そうします」


 ラシュリルが、華栄殿の方へ体を向ける。アユルは、ラシュリルの背中に「私の分も残しておけ」と言葉をかけた。ラシュリルとカリンが、楽しそうに顔を見合いながら遠ざかっていく。

 アユルは、清殿の妻戸の前に立った。コルダが施錠した扉。中に、王妃が閉じ込められている。白木の扉に触れると、獲物が罠に掛かった生々しい感触がした。


「コルダ、鍵を開けろ」
「はい」


 蝶番ちょうつがいの重たい音がして妻戸が開く。しかし、そこに王妃の姿はなかった。おそらく、王妃は施錠されていたことにも気づいていないのだろう。アユルはにんまりと口の片端を上げて、一直線に書斎を目指した。

 本当に長閑な気候だった。春鳥のさえずり、窓から入ってくる風も太陽の光。なにもかもが、清々しく感じられる。

 タナシアは、文机に広げた書簡を見つめた。一度目よりも簡単だった。押された王印を指先でなぞると、無意識に安堵のため息が唇から漏れた。

 ずっとここにいたい。こそこそと隠れて忍び込むのではなく、いつか、ここで陛下と過ごしてみたい。書物を読む陛下の横顔を飽きるほどながめて、他愛もない話をして。夢見るだけで幸せ。

 顔を上げて、書簡から正面に目を向ける。そこは、書斎の入り口だった。閉じた扉にアユルの優雅な立ち姿を投影して、タナシアのまなざしが恍惚とする。今日は、なに色のお召し物をまとっておられるのかしら。白でも黒でも、赤でも紫でも、陛下はどのような色を召されても美しい。

 タナシアの視線がうっとりと熱を孕み、ぴたりと閉じた扉が呼吸の音よりも静かに開く。泡が弾けるように、夢と現実が入れかわった。一瞬のことだった。


「どうして……?」


 タナシアのつぶやくような独り言を、黒衣の裾のはためきが撃ち落とす。
 近づいてくるのは、恋しく想っていた夫。二人で過ごせたらと願っていたのは確かだけれど、こんな状況を望んでいたのではない。

 朝議に出ているのではなかったの? 父上はなぜ、陛下を皇極殿に引き止めてくれなかったの? いえ、そのようなことより早く逃げなくては。逃げる……? どこへ?
 タナシアの思考がばらばらに散って錯乱し始め、硬直した体のあちらこちらが震えだす。


「これは、王妃。余の書斎でなにを?」


 文机をはさんで向かい合う涼やかな顔に、タナシアはたじろいで言葉を失った。アユルの目が、文机に広げられた書簡に向く。カリナフから聞いていたとおり、サリタカル国王にハウエルを始末させる内容だ。自分でも見分けがつかないほど、筆跡を完璧に真似てある。再び視線を戻すと、おびえきったタナシアの顔に汗がにじんでいた。


「この詔書はなんだ」
「……い、いいえ、これは」
「王印は、引き出しにしまってあったはずだが?」


 アユルは、タナシアの横に屈んで王印を桐箱に収める。そして、文机の脇に積まれた書簡の山から一つ手に取ってタナシアの耳元に顔を近づけた。


「そなたは、以前にも同じことをしたはずだ」
「な、なにを……」

しらを切るつもりか?」
「わ、わたくしには覚えがございません」

「やはり、そなたは余を若造とさげすんだ父親と同様に、余を見くびっているようだな」

「いいえ、いいえ! わたくしは陛下をお慕い申し上げております。見くびるなど、そのようなこと断じてございません!」


 信じてくださいと、タナシアが必死に首を横に振る。アユルはそれを鼻で笑った。
 所詮、王と妃を繋ぐのは利害でしかない。自覚があるのかどうか知らないが、王妃にはそれがちゃんと刷り込まれている。妃がねとして育てられるとは、そういうことだ。だから、一度目の罪を平然と強かに隠し通せたのだろう。

 見逃せば次、さらに目をつむればまた次。王妃が王宮に残れば、これから多くの罪にその手を染める。そして、必ずラシュリルにも魔の手が伸びる。多くの妃を持ちながら、子を一人しか遺せなかった先王がいい例だ。四家から嫁いだシャロアという権力者に屈したからこそ、赤子が生まれる度に死に、孕んだ女が紺碧色の池に沈んだ。

 浄土のように明媚なのは、建ち並ぶ御殿や塔の意匠だけで、中身は血の池がふつふつと沸いた地獄絵図のような世界。それが王宮なのだ。


「覚悟しろ。余は、そなたが思うよりずっと残忍だ。裏切る者を絶対に許さない」


 手で首を締め上げるようなアユルの低い声に、タナシアはひっと息を詰まらせて凍りついた。


   

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