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第三章 ◆第08話




 ラディエとカリナフが、清殿の書斎でアユルに臣下の礼をとる。
 まず、カリナフが朝議をすっぽかしたことを詫びてその理由を説明する。エフタルの家に出入りしている武官と茶店で会って書簡を見たと言うと、ラディエが彫りの深い顔をしかめて語気を強めた。


「なんだと? エフタルが、また偽の詔書を?」

「はい。キリスヤーナ国王を捕らえて処刑せよと書かれておりました。武官の話では、それをサリタカル国王に送るつもりだそうです」

「サリタカル国王に送ってどうする。いきなりそのような書簡を受け取っても、サリタカル国王が応じるわけがなかろう」

「ええ。ですから、エフタル様はちゃんと用意なさっておられます。陛下に絶対の忠誠を誓うサリタカル国王が、偽の詔書を信じて素直に従うような口実を」


 はらりと優雅に扇を広げて、カリナフがアユルを見据える。アユルがそれに応えるように片眉を上げると、カリナフは平然とした顔で驚くことを口にした。


「近々、キリスヤーナ国王の使者が、直々に書簡を渡したいと陛下に謁見を求めてまいります。その使者に謁見をお許しください、陛下。その者はエフタル様が用意した偽物で、陛下の御命を狙っております」

「貴様……。なにをぬかすか、カリナフ!」


 ラディエが、怒りをあらわにカリナフの胸ぐらをつかむ。無理もない。陛下に向かって、死ねと言っているに等しいのだから。カリナフは、私を殴って気が済むのならとラディエに右の頬を向けた。


「少し落ち着け、宰相。カリナフは、こちらにとっても絶好の機会だと言いたいのだろう」


 アユルが顎をしゃくると、ラディエは鼻息を荒くしたまま席に座った。カリナフが乱れた衿を整えて、陛下の御身は必ず守るとアユルに言った。


「よい、自分の身くらい自分で守る」
「恐らく、相手は刺客としての訓練を受けた者だと思われますので、護衛をつけます」

「それでは使者が警戒する」
「しかし!」

「余の心配はいらない。キリスヤーナで身を持って学んだからな。そなたは、エフタルと使者に我々がはかりごとに気づいていることが知れぬよう、うまく手配しろ。それから、宰相は矢じりと調書をいつでも出せるようにしておけ」


 はい、とラディエとカリナフが声をそろえる。アユルは満足げに表情を崩した。あとは、偽の詔書に王印を押す隙を与えてやればいい。


「ところで、陛下。キリスヤーナの王女を妃にすると宰相様からうかがいましたが、本当ですか?」


 カリナフが、神妙な面持ちでアユルに問う。「ああ」とだけ答えて黙るアユルに代わって、ラディエが口をはさんだ。


「驚くなよ、カリナフ。陛下と王女殿はその、随分と前からそういう仲なのだ」

「意味が分かりません。随分前とはいつからです? キリスヤーナでそうなったのですか? 宰相様が同行していながら、なんたること」

「違う、違う。キリスヤーナに行かれる前からだ」

「王宮から出たことのない陛下が、いつそのような相手に出会ったとおっしゃるのか。カデュラスの者ならいざ知らず、他国の王女ですよ? 嘘も大概にしていただきたい。このカリナフ、そのような戯言ざれごとに騙されるほど阿呆ではございません」

「そう言われてもだな……」


 ラディエがしどろもどろになる様子がおかしくて、アユルはたまらず声を立てて笑ってしまった。
 同刻、華栄殿ではタナシアが衣を選んでいた。衣桁に一枚ずつ掛けられて、広い部屋いっぱいに並べられたそれは、タナシア自身のものではなく妃になる王女のものだ。


「どれも王女殿に似合いそうで、迷ってしまいますね」


 細い指で薄紅色の衣を手繰り寄せて、タナシアがカイエに言う。王妃様は人がよすぎます、とカイエがむすっとした顔をする。タナシアは、それをやんわりとたしなめた。


「わたくしも、晴ればれとした気持ちではないのですよ」
「では、なぜあの方のために衣装を整えてさし上げるのですか?」

「王女殿ではなくて、陛下のためです」
「陛下の……、でございますか?」

「そう。落ち着いて読んでみたら、宣旨には王女殿に与える位が書かれていませんでした。わたくしに任せるということなのでしょう」

「王宮を管理なさるのは王妃様なのですから、当然ではございませんか」


 そうですね、とタナシアは白い袿を衣桁から取って、先程の薄紅色の衣に重ねる。そして、春らしくていいとうなずいた。


「陛下はこの世で一番尊い御方。わたくしに王女殿の位はこうせよと命じればよいのに、それをなさらない。王妃であるわたくしを立ててくださっているのよ。陛下の温情に、わたくしもお応えしなくてはね」

「ですが、王妃様。今宵もお召しになられるほど、陛下はあの方を」


 カイエがはっと口を閉じる。タナシアは、明るい色目の重ねからカイエに視線を移した。今まで見たことのないような冷えた目を向けられて、カイエが「お許しを」とひれ伏す。


「言ったでしょう? 陛下はこの世で一番尊い御方だと。最も高貴な血を受け継ぎ、そのようにお育ちになられたのですもの。ご自分にふさわしいのは誰なのか、それが分からなくなる程、王女殿に溺れたりはなさらないわ」


 清寧殿はとても静かだった。
 カリンが、ラシュリルの髪を梳いて扇でそろりとあおぐ。雨の日は、髪が乾くのに時間がかかる。夜のお召しの知らせが来たのは、ついさっきのことだ。準備が間に合わないように、華栄殿の女官がわざと遅くに知らせたのだ。カリンにはそれが分かったが、異国で育った王女にカデュラス流の意地悪は通用しないらしい。


「カデュラスの苺は、少し酸味があって美味しいわ。キリスヤーナの苺よりも好きかも」


 幸せそうな笑顔で苺の果実茶を味わうラシュリルに、カリンもつられて笑ってしまう。しかし、のんびりとしている場合ではない。髪が乾ききらないうちに清殿へ渡る時間になってしまった。カリンは、急いでラシュリルの髪を結わえて送り出した。



 アユルがラシュリルを待っていると、華栄殿の女官が清殿を訪ねてきた。なんでも、ラシュリルに下賜する衣を選ぶのに王妃が苦心しているのだと言う。

 手短に済ませると確約のもと、アユルはしぶしぶ華栄殿へ赴いた。確かに、部屋いっぱいに衣が並んでいるところをみると、王妃が苦心しているというのはあながち嘘ではないようだ。王妃にしてみれば、初めてのことなのだから仕方がない。アユルはタナシアと一緒にラシュリルに似合いそうな色目の衣を選んだ。


「陛下にお越しいただいてようございました。わたくし一人では決めきれなくて」


 一段落して、タナシアがアユルに茶をすすめる。もうラシュリルが清殿に着いたころだ。アユルは引き留めようとするタナシアを一瞥した。


「余は穏やかに暮らしたい。王女と懇意にしろ」
「おおせのままに。陛下の御心を満たしてさし上げることが、王妃であるわたくしの務めですもの」


 いつもと、どこか王妃の様子が違う。直感でそう思った瞬間、甘えるような声で「陛下」と言って、タナシアが胸になだれてきた。胸元の衣をつかむ白く細い指と近づく朱唇。タナシアの不意打ちに、アユルは戸惑った。その隙を逃さぬとばかりに、タナシアがアユルにすがりつく。


「陛下、今宵はわたくしとお過ごしくださいませ」
「なにを言っている。王女を清殿に待たせているのだぞ。余に恥をかかせる気か」

「お願いでございます。陛下がわたくしに夫婦の情を持ってくださっているのなら、王女殿と懇意にいたします。異民族である王女殿が不憫ふびんな目にあわないように、然るべき位を与え、陛下の穏やかな暮らしに決して波を立てないとお約束します」


 タナシアが、アユルの胸に両手をついて体を伸ばした。
 煌々とともった燭台の火に、タナシアのまつげの震えが照らされる。唇が触れそうになったところで、アユルは冷静を取り戻した。

 王妃こそが王宮の主だと暗に示しておけば、満足すると甘く見ていた。呼び出した狙いはこれだったのか。大人しく気弱だと思っていた王妃が、取引きを持ちかけてくるとは……。


「その言葉に二言はないだろうな」
「ございません、陛下」


 アユルは、タナシアと目を合わせたまま女官を呼ぶ。それは、心と体が乖離かいりする瞬間だった。


「今宵はここで王妃と過ごす。王女を清寧殿へ送るようコルダに伝えろ」


 どっぷりと夜が更けたころ、アユルは黒髪を乱したまま寝息を立てるタナシアの眠りを妨げないように寝所を抜け出した。ただ体に巻きつけただけの着物の上に表着を羽織って華栄殿を出る。外は、ひどい雨だった。

 王として、ラシュリルの妃としての位を決めるのは簡単なことだ。しかし、それでは臣下たちが納得しない。だから、王宮に入った時のように、王妃が取り計らうことに意味がある。臣下たちは、王妃の後ろにいるエフタルを敵に回すような真似は絶対にしないからだ。

 それに、今の状況で王妃の嫉妬がラシュリルに向くのはよくない。目の届かぬところで毒など盛られたら、一巻の終りだ。

 階をおりて、裸足のまま真っ暗な庭に立つ。目を開けていられないような激しい雨に打たれて、瞬く間に全身がずぶ濡れになった。それに構わず、裸足のまま玉砂利の上を歩く。まるで、自分の体ではないような虚無感だった。

 濡れた衣から、不快な匂いがする。この身をさし出して得られるのなら、いくらでもさし出す。痛くも痒くもない。だが、もう、うんざりだ。あとどれだけ王妃を抱けば、雨はやみ、夜は明けるのか。

 闇雲に歩き続け、気がつけば清寧殿の前に立っていた。
 王宮のはずれにある質素な御殿は、明かりもなく巨大な影のようにそこにある。かつて、ここにはアイルタユナとコルダが住んでいた。わずらわしい王宮の喧騒を逃れた、静かでいい所だ。

 アユルは小さな門をくぐって清寧殿の敷地に入ると、そのまま御殿の階を上がって戸口の傍に座り込んだ。壁に背を預けて、真っ暗な庭に視線を泳がせる。

 どれほどそうしていただろうか。きぃと蝶番ちょうつがいの軋む音がして、アユルは自分でも分かる程、大きく目を見開いた。少しだけ開いた扉から、ひょこっとラシュリルが顔を出したのだ。


「アユル様?」


 ラシュリルが、廊下に出て近づいてくる。


「起きていたのか。もう真夜中だぞ」

「なんだか眠れなくて……。離れに行こうとしたら、物音が聞こえて見にきたのです。そしたら、アユル様がいるんですもの。会いたいって思っていたから驚きました」


 嬉しそうに顔をほころばせて、ラシュリルが目線を合せるようにすぐ傍に座った。愛らしい笑顔に心が解けていく一方で、嫌な不安が湧いてくる。コルダからなんと聞いて清寧殿に戻ったのだろう。今まで王妃と一緒だったと知っているのだろうか。


「不用心だな。私だったから良かったものを」
「お説教なら中でゆっくり聞きます。その濡れた服をどうにかしないと、風邪を引いてしまいますよ」「よい、そろそろ清殿に戻ろうと思っていたところだ。そなたも休め」


 ラシュリルは、立ち上がってアユルの腕を引っ張った。衣から水が滴るほど濡れている。大体、こんな時間にこんな所に一人で座っているなんておかしい。コルダさんから、アユル様は急用で戻れなくなったと聞いた。どんな用だったのかしら。いいえ、今はそんなことはどうでもいい。


「とにかく中に入ってください。すぐにコルダさんを呼んできますから」
「よいと言っているだろう。私から離れろ、ラシュリル」

「なぜですか?」
「王妃を……」

「王妃様がどうしたのです?」
「王妃を抱いてきた。私の体から王妃の匂いがする……。だから、近づかないでくれ」


 空を切り裂くように紫色を帯びた閃光が走り、それからすぐに地を揺らすような雷鳴が轟く。雷光に浮かぶ、アユルの顔を流れる雨の筋。それが涙のように見えて、ラシュリルはなにを考える間もなく、咄嗟にアユルを胸に抱き締めていた。


「いつもと同じですよ。アユル様の香りがします」
「……許せ」
「どうして謝るのです。アユル様は、悪いことなんて一つもしていないのに」


 びっしょりと濡れて冷えたアユルに、体温を分けるように強く抱く。背に回された腕が、力強く抱き返してくる。心の痛みが伝わってくるようだった。それなのに、ただ抱き締めることしかできない無力さが歯がゆい。

 しばらくそうしていると、アユルが顔を上げた。アユルは、「落ち着きましたか?」と尋ねるラシュリルの頬にくちづけた。そして、無言のまま階をおりて、雨が叩きつける暗い庭に消えていった。ラシュリルは、アユルの唇が触れた頬を手でおさえる。


 ――あんなに悲しそうな顔、初めて見たわ。


 それから数日後、ラシュリルは王妃から位と高価な衣装を賜り、正式にカデュラス国王の妃となった。そしてこの日、キリスヤーナ国王ハウエルの使者がダガラ城を訪れた。


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