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第三章 ◆第07話





 ◇◆◇



 晴天の空に灰色の雲が広がり始め、それから程なくして大きな雨粒がぽつりぽつりと落ちてきた。雨は、すぐに本降りになった。


「宰相様、その鳥かごはなんです?」


 コルダは、外廷と王宮を繋ぐ廊下の途中で足を止めた。腰をかがめて、ラディエが持つ大きな鳥かごを覗き込む。すると、かごの中から「こっこっこっ」と鶏の短い鳴き声が聞こえた。


「我が自慢の雄鶏だ。王女殿がいたく気に入っていると娘から聞いていたのを思い出してな」
「まさか、それを王女様にさし上げるおつもりですか?」
「そうだが、まずいことでもあるのか?」
「まずいといいますか……」


 正直なところ、年頃の姫君が雄鶏をもらって喜ぶのだろうかとコルダは疑問に思う。しかし、それは口にせずに、ラディエを清寧殿に案内することにした。

 アユルはまだ王宮に戻ってきていないし、夕餉までまだたっぷり時間もある。それに、アユルからラシュリルに届けてほしいと預かっているものもあったのだ。コルダは清殿に立ち寄ってから、ラディエと共に遠い清寧殿を目指した。


「コルダ。お前が持っているその桐箱はなんだ?」
「こちらは、陛下が王女様に下賜なさる袿でございます」
「下賜とはいささか大袈裟ではないか? まだ妃でもあるまいに」


 はっはっはっと笑うラディエに、コルダは困ったように苦笑いした。


「それが昨夜、陛下が王女様を寝所にお召しになられまして」
「なに?」

「ですから、陛下が王女様を寝所にお召しになられたのです」
「聞いてないぞ」

「言っておりませんので」
「待て。王妃様は、それをお許しになられたのか?」

「もちろんです。王宮は王妃様が取り仕切るきまり。いかに陛下といえども、掟を破ることはできません」


 ラディエは足を止めた。そして、両手がふさがったコルダに無理やり鳥かごを持たせて、もと来た廊下を引き返す。


「ちょ、ちょっと宰相様。お待ちください、宰相様ーっ!」
「悪いな、コルダ。それを王女殿に渡しておいてくれ。私は陛下のもとへまいる」
「そんな御無体な……」


 桐箱と大きな鳥かごを抱えた半泣きのコルダを残して、ラディエは疾風はやてのごとく去っていった。


「よく降るわね」


 ラシュリルは、吹き抜けの渡り廊下から庭に目をやった。
 清寧殿の母屋もやと寝所や書庫などがある離れとを結ぶ廊下は、幾重にも折れ曲がって庭の中を巡っている。晴れの日は太陽の陽差しを免れ、雨の日は濡れることなく庭を散策できるように造られているのだ。

 大きな苔の固まりと化した岩、花芽をつけ始めた桜と対に植えられた橘が、篠突く雨に打たれる。廊下の屋根を叩く雨、木々の葉を打つ雨、枝から遣水やりみずに落下する雨。いろんな雨の音が重なって、少し哀愁漂う旋律を奏でる。

 心に訴えかけるような趣あるカデュラスの風情は、上品で清々しくてとても好感がある。廊下にたたずんで、ラシュリルは雨音に耳を傾けた。


 ――アユル様と出会った時も酷い雨だったわ。


 あの日から、色々なものが一変した。
 アユル様に愛されて、アユル様を愛して、傍にいられるのはとても幸せなことだ。その一方で、恐ろしくもある。エフタル様の辛辣しんらつな言葉。カデュラス人ではないというだけでさげすんで、家畜でも見るかのような目をして「お前」と言った。


 ――アユル様もコルダさんをお前と呼ぶけれど、温かさが全然違うわ。


 エフタルの姿や表情を思い出して、ラシュリルはぞくりと肌を粟立たせる。きっと、友好的なのはごく一部で、ほとんどはエフタル様と同じような目で見ている。わたしの存在が、大好きな人の人生に影を落としてしまうのが怖い。同時に、今までどれほど恵まれた環境に身を置いていたのかを思い知る。


 ――皆、どうしているかしら。


 ハウエルとマリージェ、ナヤタに幼馴染おさななじみの令嬢たち。それから、カリノス宮殿で見送ってくれた面々を思い出して、じんわりと目頭が熱くなる。

 母屋の方からカリンが向かってくるのに気づいて、ラシュリルは袖でそっと目尻を拭った。そして、いつものように笑みを浮かべる。決して、無理に笑うわけではない。カリンのさらりとした尼削ぎの黒髪が左右に揺れる様が可愛らしくて、つい顔がやわらいでしまうのだ。


「どうしたの?」


 ラシュリルが尋ねると、カリンは『コルダ殿』と母屋を指さした。ラシュリルとカリンが客間に行くと、コルダが背筋を伸ばして座っていた。


「こんにちは、コルダさん」
「王女様に、ご挨拶申しあげます」


 いつになく神妙な顔で深々とコルダがひれ伏す。


「どうなさったの、コルダさん。顔を上げてください」
「恐れ入ります」


 コルダはもとの姿勢に戻ると、いつものように目を細めた。そして、ラディエに押しつけられた鳥かごをそそそっとラシュリルの方へ両手で押した。

 こっこっこっ、ばさばさばさっ。
 どこかで聞いたような声と音に、ラシュリルとカリンの目が点になる。


「宰相様からお預かりいたしました。どうぞ、お受け取りください」
「どうぞって、コルダさん」
「申し訳ございません、王女様。返品は承りません。どうぞ、お受け取りください」


 ラシュリルは、カリンと顔を合わせてぷっと吹き出した。鳥かごを覗けば、雄鶏が鋭い眼光を向けてくる。カリンが庭に雄鶏を放ってやると、彼は雨の中、新雪のように真っ白な体を堂々と伸ばして新居の探検に出かけていった。


「雄鶏さんはここが気に入ったみたいね。宰相様に御礼をしなくちゃ。コルダさんにも」
「あの、王女様。実は、わたくしがお届けしたかったのは雄鶏ではなくこちらなのです」
「まだ、なにかくださるのですか?」
「はい。アユル様が、こちらを王女様にと」


 コルダが、桐箱を開けてたたまれた衣を広げてみせる。深い群青色の袿。キリスヤーナの瑠璃で染めた逸品だとすぐに分かる。ラシュリルは、コルダから袿を受け取って愛おしそうに胸に抱きしめた。ふわりと、ほのかに、桂花の香りがする。


「歓春の宴の前日でしたか、アユル様がご自分でお香を焚きしめておられました」
「……そう。嬉しい」
「いかがですが、王女様。王宮の暮らしは思いのほか、窮屈きゅうくつではございませんか?」
「窮屈ではないけれど……」


 エフタルの顔が頭をよぎって、ラシュリルは言葉を詰まらせる。コルダが、桐箱から花のついた切り枝を出してラシュリルに渡した。


「清殿のお庭に咲いている桃の花です。もう春でございますね」
「え、ええ」

「わたくしは、長い年月をアユル様の傍で過ごしてまいりましたが、あんなに優しい顔で花を摘むアユル様を初めて見ました。王女様のためなら、アユル様はどのようなことでもなさるのでしょう」

「コルダさん……」

「王女様。詳しくは申しあげませんが、わたくしは罪人の子です。それでも、こうしてアユル様にお仕えしております。王女様は、もう充分にアユル様の御心をご存知のはずです。アユル様をお好きなら、強くおなりくださいませ」


 庭で、こっこっこっと雄鶏が鳴く。大降りだった雨は、いつの間にか小雨になっていた。





 貴人たちの屋敷が並ぶカナヤの大通りを抜けて、花街の方へ下ったひなびた所に、年老いた男が一人で暮らしている。

 この男、若いころは才能ある絵師として名が通っていたのだが、今から二十年ほど前に売れる絵・・・・を描けなくなった。顔料を溶かす薬品が目に入ってしまい、失明こそ免れたが、視覚から色が消えてしまったのだ。


「頼んでおいたものは出来上がっているか?」


 滅多に人が訪ねてくることのないあばら家に例の武官がやってきたのは、男が具のない汁粥のような粗末な昼飯をすすり終わった時だった。

 絵師として、皆がうらやむほどの大金を稼いでいたのは遥か昔の夢話だ。今は、時々こうして舞い込んでくる胡散臭い仕事をこなして、ちまちまと稼いだ小銭で命を繋いでいる。

 白と黒しかない男の視界は摩訶不思議で、紙に書かれた絵の輪郭を、その細部まで正確にとらえる。そして、絵師の才能は、視覚で捉えた絵を正確に模写した。それは絵に限らず、文字でも一緒だった。


「へぇ」


 男は、晴れた日の昼間でも薄暗い部屋の奥から、筒状に丸めた書簡を数本抱えて武官の前に座った。そして、書簡を床に並べて、そのうちの一本を武官に取ってやった。武官が、鳥の瞬膜のように白く濁った男の両目に顔をしかめ、渡された書簡を広げる。それには、確かにエフタルから渡された走り書きと同じ文言が、カデュラス国王の筆跡で書かれていた。


「さすがだな」
「へぇ。これ以外に、なんの才もねぇもんで」
「たいしたもんだ」
「見本に預かったやつは、こっちで燃やしちまってもかまわねぇかい?」
「そうしてくれ」


 男は武官の目の前で、床に並べた書簡を一本ずつ囲炉裏の火にくべる。燃えていくカデュラス国王直筆の書簡。それらはすべて、アユルが即位前に書いたものだ。武官は、雨に濡れないように偽の書簡を布に包んで懐深くしまう。それから、銭の入った袋を出した。


「謝礼だ。分かっているとは思うが、このことは」
「金さえもらえればそれでええ。忠告なんざいらねぇよ。この老いぼれは絵師を辞めてから、てんで人とのつき合いがねぇ。それに、貧しい生まれで字も満足に読めねぇのよ」


 男が、しっしっしっと手で武官を追い払う。武官は、周りを警戒しながら男の家を出て傘を広げた。向かう先は、件の茶店だ。通りの石畳を、武官は小走りで駆け抜けた。


「よく降る」


 はめ殺しのガラス窓を伝う雨に、カリナフは深いため息をつく。
 春の訪れを祝ったばかりだというのに、今日の雨で華栄殿の庭に残る宴の跡も流れてしまっただろう。春を謳歌する彼の人が幸せであるようにと、ひとさしの舞に込めた願いも届くことなく虚しく散った。


「カリナフ様」


 武官の低い声がして、部屋の扉が開く。カリナフは手酌で酒をあおって、あたかも今までそうしていたかのように装って武官を迎えた。


「書簡はできたか?」
「はい」
「見せてみろ」


 武官が、懐から布に包まれた書簡を出す。彼の体温で温もったそれに、カリナフは真剣な面持ちで目を通した。


「驚いたな。見慣れた陛下の手蹟そのものだ」
「見事なものでございましょう?」

「これを書いたのは何者だ」
「絵師です」

「絵師だと?」
「はい。花街の隅に住んでいる、昔は名をはせた有名な絵師だった男でして、今は」

「その者の人となりに興味はない。逃さぬように見張っておけ」
「わ、分かりました」

「書簡をエフタル様に届けて、キリスヤーナの使者が陛下に謁見する日を聞き出してこい。ここで待っている」


 行け、とカリナフが書簡を武官に戻して、顎をくいっと小さくしゃくる。武官が再びカリナフの元に戻ってきたのは、数時間後のことだった。

 夕暮れ時になって、カリナフはやっとダガラ城の朱門をくぐった。勤めを終え、皇極殿から朱門へ向かう貴人たちが、すれ違う度に深々と頭をさげていく。はじめはそれに応えていたカリナフだったが、次第に面倒になって、扇で顔を隠して歩速を早めた。


「朝議をさぼるとは何事ぞ」


 皇極殿に着くと、仁王立ちのラディエが腕を組んで待ち構えていた。


「申し訳ございません、宰相様。諸用がございまして」
「朝議よりも大事な用か?」
「ええ。それよりも、まだお帰りになられないのですか? 残業とは、大変ですね」
「そなたと二人そろって清殿にこいと、陛下に言われているのだ」
「さようでございましたか」


 悪びれた様子もなく笑うカリナフを恨めしそうににらんで、ラディエが「行くぞ」と歩き出す。二人は、外廷と王宮を取り次ぐ女官に先導されて清殿に向かった。


「実はな、カリナフ」


 前を歩く女官に聞こえないように、ラディエは小声でカリナフに語りかける。


「陛下が、キリスヤーナの王女を妃になさるそうだ」
「は?」
「話せば長くなるが、そういうことだ」
「分かるように説明ください」
「かくかくしかじか、ここではそれしか言えぬ」
「宰相様、ふざけないでください」


 カリナフが眉間にしわを寄せたところで、女官が清殿の扉を開けた。中から出てきたコルダが、ラディエとカリナフの顔を交互に見て、陛下がお待ちですと会釈した。


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