エフタルは、家人たちが並んでひれ伏す廊下を、荒い足音を立てながら離れに向かった。王宮を出る間際、御簾の向こうから聞こえてきた女官らの会話を思い出して、ますます足音が荒くなる。
「陛下が今夜、件の女官を清殿へお召しになられるそうよ。ほら、王妃様の女官として入宮したキリスヤーナの……」
「ご冗談でしょう?」
聞き違いかと思って足を止めた時、別の女官がはっきりと言った。王妃様がお認めあそばしたと。腸が煮えくり返るとはまさにこのことだ。帰国後、あれが足しげく華栄殿に通っていたのは知っている。それなのになぜ、心をつかめない!
――所詮、タナシアはその程度なのだ。シャロアの足元にも及ばぬ。
呼ばれたことのない清殿に、あろうことか異民族の女が召されるのを、どんな思いで承諾したのだ。つくづく愚かな娘よ。シャロアなら絶対に許さなかっただろう。
エフタルが離れの部屋に入ると、例の武官が下卑た笑みで迎えた。武官の顔を見て、落胆するようにため息をつく。まったく、どいつもこいつも使えぬ者ばかりだ。
「笑っている場合か。投獄されたお前の縁者が口を割る前に始末しておけ」
「ファユのことなら心配はご無用でございます、エフタル様。あの者は、自ら命を断ってでも秘密を守ります」
「どうもお前は信用できぬ。世継ぎがまだゆえ殺してはならぬと命じていたのに、致死の毒を使っただろう」
「い、いいえ、滅相もございません。某には覚えがないことなのです。ファユには、麻痺毒を塗るように申しつけました。宰相様からの知らせに驚いたのは某の方で……」
「まことか?」
語尾を上げて、エフタルが甚だ信じられぬと武官を睨む。すると、武官は懐から小さな金の筒を取り出した。
「某は、エフタル様のお力添えがあったからこそ立身できたのです。これからもエフタル様に魂を捧げ、誠心誠意お仕えいたす所存でございます。その証に、エフタル様のご命令どおり、サリタカルでキリスヤーナ国王の使者を始末いたしました。こちらをお納めください」
「ほほう。これはキリスヤーナ国王の書簡か?」
「さようでございます。部下に探らせましたら、陛下に謁見して直々に渡すよう命を受けていたようです」
エフタルは、ハウエルの書簡を流し読みして、キリスヤーナ国王も肝の座らぬ男だと鼻で笑った。銅の交易に融通を利かしてやったというのに、恩をあだで返すとはけしからん。
――なにが己の身の潔白を明らかにしたいだ。
王がキリスヤーナ国王を調べれば、いずれ我が身に辿り着く。そうなれば、サリタカル国王に送った偽の書簡も白日の下にさらされる。忌々しい。キリスヤーナ国王が一人で罪を被ってくれればよいものを……。
エフタルはしばらく考えを巡らせたあと、にたりと口の端を歪めた。金の筒に書簡をしまって、それを武官に戻す。そして、扇で口元を隠して声をひそめた。
「死んでしまった使者に代わる者を用意せよ」
「はい?」
「その者に、キリスヤーナ国王の見上げた忠誠心を託すがよい」
「……と、言いますと?」
「話の通じない奴め。まず、偽の使者を謁見させて、その書簡を手渡す」
「……はあ」
「陛下が使者に近づいたら、殺せ」
驚いて目を丸くする武官を尻目に、エフタルは文台から紙と筆を取る。そして、さらさらと筆を走らせて、書き上げたものを武官に手渡した。
「キリスヤーナ国王を捕らえて処刑するよう書いてある。これを持って、この前のように陛下の書簡を作ってこい。偽の使者と陛下が謁見する機会をうかがい、サリタカル国王に送る」
武官は、受け取った紙を懐にしまってエフタルの屋敷を出た。
街角を何度か曲がって、人通りの少ない裏通りの茶店に向かう。辺りを警戒するように見回して店に入ると、先立って伝えておいた偽名をそこの女主人に告げる。
すると、最上階の一番奥の座敷に案内された。そこでは、こんな安い茶店には似つかわしくない貴人が、両脇に女人を侍らせて優雅に酒を呑んでいた。部屋の隅には、勇壮な舞楽面が置かれている。
「カリナフ様」
武官はそろりと座敷に上がって、エフタルから預かった紙をさし出した。カリナフが女人をさげてそれを読み、くつくつと冷笑する。
――エフタル様も懲りぬ性分であらせられる。
猛々しいだけの獣は、追い詰められていることに気づかぬまま、自ら罠にはまっていく。つまり、浅はかで単純なのだ。
「某はいかがすれば……」
「エフタル様に言われたとおり、偽の書簡を用意するがよい」
「かしこまりました」
それから、と武官はキリスヤーナ国王の使者についてカリナフに話した。
武官が話したのは、使者がキリスヤーナ国王から陛下に宛てた書簡を持っていたこと。そして、エフタルに命じられて、サリタカルで使者を始末したことだった。
カリナフは、偽の使者についてもエフタルの命令どおりにするよう申しつけた。
「しかし、それでは陛下の身が危ないのではありませぬか?」
「おいそれと陛下を傷つけさせるものか。使者を見繕ったら知らせろ。それから、書簡ができたら私に見せるように」
「はい」
「ひとつだけ肝に銘じておけ。私は、エフタル様のように手緩くはない。私の信用を少しでも失えば、牢にいるファユはもちろんのこと、即座にお前は一族もろともこの世から消え去ることになる」
清寧殿に華栄殿の女官がぞろぞろとやってきたのは、空が夕焼けに染まるころだった。タナシアの女官として入宮しているラシュリルには、カリンが従者としてついているだけだ。名目上とはいえ、主人であるタナシアが身支度を請け負うのは当然のことである。
女官たちは、ラシュリルに対して実に無愛想だった。いやいやしてやっていると言わんばかりの態度でラシュリルを湯殿で磨き、王妃が用意した衣装を着せる。次に、なされるがまま身を任せるラシュリルに化粧をほどこして、小一時間ほど閨の作法を叩き込んだ。
「よろしいですね?」
三十六項目にもおよぶ作法を列挙し、片眉を上げてそう念を押したのは、カイエという若い女官だった。ラシュリルは、ごきゅっと生唾を飲みこんで肩をすくめる。カリノス宮殿の若いメイドたちは、みんな気さくで和気藹藹としていたのに、ここの女官たちは実に素っ気ない。敵意のようなものまで感じて恐々としてしまう。
「それから、明日の朝は華栄殿で王妃様にご挨拶なさいますよう」
「わかりました」
「では、お時間になりましたので参りましょう」
ラシュリルは、カリンを清寧殿に残して華栄殿の女官と清殿へ向かった。結局、清殿につくまで、誰一人口を利かなかった。
清殿の前で待っていたコルダが、カイエと言葉を交わしたあとラシュリルを殿内に案内した。
「アユル様が待ちかねておいでですよ」
コルダの笑顔が身にしみる。ラシュリルは、コルダの後ろを歩きながら殿内を見回した。初めてここに来た時は、まさかカデュラスの王宮に住むことになるなんて思いもしなかった。
迷路のような廊下を歩いた先で、コルダが部屋の引き戸を開ける。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央に敷かれた真っ白な寝具の上にアユルが座っていた。
「お待たせしました」
「遅かったな」
「ごめんなさい。わたしのお部屋からは遠くて」
「にしても、私を半刻も待たせるとは」
「そんなにですか?」
時間だと言われて清寧殿を出たのに。戸口に立ったまま、ラシュリルが首をかしげる。その様子に、アユルは事情を察してラシュリルを呼んだ。
近くに腰をおろしたラシュリルの腰帯から玉佩をはずして枕元の台に乗せ、袿を脱がす。色味の薄い地味な袿。ラシュリルから香油の香りもしない。そして、連絡もなく時間に遅れてきた。王妃の指示があったかどうかは分からないが、女官が嫌がらせをしたのは明らかだ。
「焦らされているのかと思った」
「そ、そんなことしません。恥ずかしいことを真顔で言わないでください」
「では、王妃が清寧殿に来たか?」
「いいえ。どうしてですか?」
「ひどいことを言われたりされたりしたのではないかと、心配になった」
「王妃様はいつも優しく接してくださいます。今日だって、王妃様の女官が支度をしてくださいました」
ならばよい、とアユルはラシュリルの手首をつかむ。この時を待ちわびた。今日のために、華栄殿で夜を明かしてきた。この歓びをラシュリルも胸に秘めているに違いない。しかし、アユルの心中とは裏腹に、目の前にいるラシュリルはどこか浮かない顔をしている。
「私が王妃を疑うようなことを言ったのが、気に食わなかったか?」
「そうではありません。アユル様は、その……。例えば、王妃様がわたしのことを心苦しく思っておられても平気なのですか?」
「今宵のことで嫉妬して、そなたに危害を加えるようなら看過しない。心配するな」
「わたしのことを心配しているのではありません。王妃様のお気持ちを思うと心が痛んでしまって。アユル様の言葉の意味は、そういうことなのでしょう? 宰相様から、アユル様の妃には身分とか政治的な価値が必要だと教えていただきました。けれど、王妃様にも心があるのに……」
そなたらしいな、とアユルは苦笑する。嫌がらせに気づいていないばかりか、王妃の心配までしている。ラシュリルのこういう所がよいのだが……。
「なら、やめておくか? このままここを出て清寧殿に戻れば、然るべき時にキリスヤーナへ帰れる」「……それも、嫌です。アユル様とずっと一緒にいたい。できれば……、その、来世でも」
ラシュリルが、ごにょごにょと口ごもってしゅんと肩を落とす。アユルは、思わず吹き出してしまった。
「王妃を気遣いながら来世まで望むとは、存外、欲が深いのだな」
「そ、それとこれとは別で……。わたしも気持ちを整理できないのです。王妃様には申し訳なくて、でもアユル様のことは好きだし、どうしたらいいのか」
「どうしたらいいのかは、もう何度も言っただろう。添い遂げるために、他の者が入り込めないくらい互いを愛しぬけばよい」
アユルは、ラシュリルを胸に抱き寄せてごろんと布団に寝転んだ。腕に乗った重さが愛おしい。まだ乾ききらない髪から香る匂いにさえ安らいで、心が幸福で満たされる。
ずっとこのままのラシュリルでいてほしい。だが、もっと貪欲であってほしいとも思う。私は勝手だな、とアユルは心内で自嘲した。
「ラシュリル」
名を呼べば、腕の中からつぶらな瞳が見返してくる。アユルはラシュリルの髪を手で梳いて、頭のてっぺんにくちづけた。そして、すぐに視線を腕の中に戻した。
「そうだな。誰にも邪魔されず、そなたと二人きりで幸せに暮らせるような来世なら、私も望んでみたい」
嬉しそうにラシュリルが笑う。
「だがな、ラシュリル。私には来世がない。死ねば、転生できないように魂を焼かれてしまうからな」「魂を、焼く?」
「そう。私は王位を継いだ者として、名と土に還ることのできない枯骸を残して、死後も神を演じなければならない。だから、来世を夢見るのではなく現世で命の限りそなたを愛したい」
強く抱き締められて、ラシュリルはアユルの胸に顔をうずめた。
夜着を通して、心臓の強い律動が伝わってくる。幸せにしたいと思っているのに、どうして心が揺らいでしまうのだろう。こんなわたしでは、だめ。わたしが大切にしたいのは、アユル様なのに――。
ラシュリルが、力強い腕をかいくぐるようにして顔を上げると、二人の視線が交わった。
「ごめんなさい、アユル様を責めるようなことを言って。本当は、アユル様にお会いできて嬉しい」
大好きです、とラシュリルが照れながらくちづける。
アユルはそれに優しく応えたあと、噛みつくようにラシュリルの唇を食んだ。少し手荒くしてしまっても、今夜だけは許してほしい。ずっと、この夜だけを願って王妃との日々に耐えたのだから。逃がさないように、ラシュリルの後頭をつかんで舌をねじ込む。
「……ふ、ん……っ」
二人の熱い息が口の中で重なって、くちゅっと唾液が口の端からあふれる。アユルは空いた手で、ラシュリルの太腿を持ち上げて自分の脚に乗せた。ラシュリルの舌を強く吸いながら、夜着の裾を割って指先で陰唇をまさぐる。
「は……っ、ふ、んっ」
解放した唇からもれる、ラシュリルの濡れた吐息。理性の縛りがはずれていく。愛しているとささやいて、アユルは再びラシュリルの甘い唇を貪った。
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