第三章 ◆第04話





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 冬のてつくような寒さがやわらぎ始めるころ、カデュラスの王宮では歓春の宴を催すのが古くからの習わしだ。それは、命が芽吹く春の訪れを祝うもので、取り仕切るのは王妃と決まっている。

 マハールの御代では、王妃シャロアの権勢を誇示するかのように、それはそれは盛大に行われていたという。四家の面々が顔をそろえ、マハールではなくシャロアに拝謁したそうだ。王妃様のご威光は陛下をしのいでおられる。そんな噂が、貴人たちの間でまことしやかにささやかれたのだとか。

 シャロアが急死して三年。王妃不在となり宴は開かれなかった。しかし、タナシアが王妃となったことで、再び開催される運びとなった。


「初めてのことで、不安ばかりなのです」


 ラシュリルを清寧殿へ案内して王宮の作法などを簡単に説明したあと、ゆったりとお茶を飲みながら、タナシアが数日後に予定されている歓春の宴の話に触れて眉尻をさげた。

 清寧殿は、周りを竹林に囲まれた静かな御殿だ。使ってある木材などは一級品なのだろうが、外観は御殿というにはあまりに質素で慎ましい姿をしていた。清寧庵と呼ぶほうがしっくりくる。


「ごめんなさいね。ここに来たばかりのあなたに話しても、分かるはずもないのに」
「いいえ、王妃様。わたしにお手伝いできることがありましたら、なんでもおっしゃってください」


 優しい方ですのね、と向けられる笑顔に心がちくりと痛む。宰相様からは、王妃様はなにもご存知でないと聞いた。ただ、人質の処遇に困った陛下のためにあなたを引き取ってくださるのだと。ラシュリルはタナシアに笑顔を返しながら、笑うのってこんなに難しかったかしらと内心で戸惑ってしまった。

 アユル様と一緒にいたい。
 今まで自分の気持ちばかりを考えていたけれど、こんなにおおらかで人の良さそうな王妃様をだますようなことをしてもいいのだろうか。身分や政治的な価値に重きをおく結婚だとしても、王妃様だって心を持った一人の人間なのに――。


「あなたを王宮でお預かりするためには身分が必要ですので、わたくしの女官としただけです。それは便宜上のこと。あなたは、なにもなさらなくてもよろしいのですよ。キリスヤーナにお戻りになられる日まで、仲良くいたしましょうね」

「……はい、王妃様」

「それでは、わたくしは歓春の宴の用意があるので失礼します。あとは、宰相殿の姫君にお任せしますけれど、困ったことがあったら華栄殿のカイエという女官に申しつけてください」


 ラシュリルの横で、カリンが礼儀正しくタナシアに一礼する。ラシュリルが頭をさげようとしたとき、タナシアが言った。


「そうだわ。わたくしは外のことにうとくて知らなかったのですが、キリスヤーナの方も玉佩をお持ちなのですね」


 しゃらん、と高く結われたタナシアの髪に挿されたかんざしが音を立てる。ラシュリルは自分の腰帯に目を向けた。


「キリスヤーナで玉佩を持っているのは、わたしだけです」
「あなただけ?」
「はい、これはわたしではなく母のもので……」
「そう、母君の玉佩なのですか。また改めてあなたのお話を聞かせてください。キリスヤーナのことも知りたいわ」


 一瞬、今まで優しくほほえんでいたタナシアの表情が冷たくなったのは気のせいか。ラシュリルは背筋に冷たいものが走るのを感じながら、タナシアを見送った。


「ラシュリルの様子はどうだ」


 アユルは、清殿の一室で夜の膳に箸を伸ばしながらコルダに尋ねた。無事に清寧殿に入られたようだと答えが返ってきて、内心でほっと胸をなでおろす。それに、歓春の宴の準備に追われて、少なくとも三日は王妃から夜のお誘いはかからない。


「嬉しそうでございますね、アユル様」
「まあな」


 コルダが熱い茶を淹れる。それを見て、アユルは「そうだ」と箸を置いた。


「いかがなされました?」
「お前が華栄殿に用意した酒だが、あれはなんだ。この世のものとは思えない不味さだったぞ」

「蛇酒でございます。サリタカルの山奥に棲むまむしを数年も漬け込んだ大変稀少なものでして、ぜひ陛下にと侍医長が」
「尻を出せ」

「は?」
「蝮だと? そのようなものを私に飲ませるとは。私自ら杖刑じょうけいに処してくれる」

「いえ、アユル様。落ち着いてわたくしの話をお聞きください」
「黙れ」


 アユルはすっと立ち上がって、棚から乗馬用の短鞭を取る。それで手の平を軽く打ちながら迫ると、コルダは「ひい」と後ずさりして両手で尻をおさえた。そして、情けない声で「優しく打ってください」と懇願した。


「なにが優しくだ、馬鹿者」
「申し訳ございません。尻の痛さを想像したら、つい」
「確かに、尻など叩いてお前が動けなくなっては私が困るな。今回は許すが、二度目はないぞ」


 まったく、と呆れた顔でアユルは座って食事を続ける。そして、コルダの方を向いてまた「そうだ」と言った。


「こ、今度はなにでございますか?」
「お前、キリスヤーナで私が頼んだことを覚えているか?」

「王女様の身をあらためて報告せよとの密命でございますね」
「いろいろとあって、すっかり忘れていた」

「王女様の母君様ともお会いになられたことですし、もう不要でございましょう」
「いや、今から報告しろ」

「長くなりますが、よろしいですか?」
「構わない」


 では、と、コルダは調べたことをすべてアユルに報告した。アユルは終始神経を尖らせて、ラシュリルから聞いた話と相違がないかを慎重に探りながら聞いたのだった。





 三日後、華栄殿で歓春の宴が行われた。
 ほんわりと暖かな陽差しが気持ちのいい日だった。女人たちの装いが春色の重ねに衣替えされたことも相まって、今日の華栄殿は一足先に春が訪れたかのような華やかさだ。

 王と王妃、そして宰相を筆頭に高位の者が臨席する大掛かりな祝宴に、ラシュリルは圧倒されて、末席にカリンと二人で借りてきた猫のように座っていた。女官の中には、異国の王女を見てこそこそと耳打ちし合う者もいたが、そんなことに気づく余裕もない。

 広大な庭に設けられた大きな舞台に、管絃かんげんの奏者と舞楽面をつけた舞い手が上がる。演じられる曲目は、遥か昔、大陸が乱世だったころに実在した美貌の名将の逸話にちなんだものだという。博識なカリンが先日、その逸話が書かれた書物を王宮の書庫から探して見せてくれた。


「ありがとう、カリン。あなたのお陰でとっても楽しいわ」


 カリンが嬉しそうにうなずいて、舞台を指さす。次の瞬間、甲高い囃子はやしがこだました。異世界にいざなうような美しい管絃のしらべと優雅な舞に、ラシュリルは我を忘れて魅了された。

 ラシュリルの様子をしばらくながめて、アユルは隣に座っているタナシアに空っぽの盃をさし出した。


「王女をそなたの女官としたのか?」

「はい。わたくしの女官であれば、不躾に扱われることはございませんもの。ですが、名目上のことですのでご安心くださいませ。それに、庭に近い女官たちの席からは、カリナフ殿の舞がよく見えましょう。カリナフ殿は当代随一の舞い手と名高い方。王女殿が喜んでくださるとよいのですけれど」


 アユルが「そうか」といつもの口調で言うと、タナシアは酒の入った漆器を手にとって盃を満たした。小さな盃の中で、透明な液体が小波さざなみを立てる。


「美しい女だな」


 ぼそりとつぶやいて、アユルはタナシアが注いだ酒を一気に飲み干した。タナシアが、アユルの独り言を言葉として理解するには時間が必要だった。やっと言葉を嚥下えんげした時、さらに信じられない一言が静かに、しかし雷鳴のとどろきのような威力で落とされた。


「今宵、王女を余の寝所に」


 聞きたくない。本能が、美しい雅楽の音や皆の楽しそうな笑い声まで遮断する。自分の左胸の心音さえも感じなくなって、タナシアはアユルの顔を凝視して固まった。


 ――陛下は今、なんとおっしゃったの。


 王女のなにが、夫の目を惹きつけたのだろう。タナシアは、小首をかしげて目を見開く。舞ではなく、末席の一点を見つめる夫の横顔。美しく整った容貌かたちは目元も口元も優しげで、瞳には慈愛の念すら宿っているように見える。

 あやめの扇を手渡してくださった時の優しい笑み。夜の淫らな御姿。そのどれもが、唯一の妃である自分一人だけのもの。未来永劫、陛下の御髪の一本さえ他に譲りたくない。ましてや、異民族の女人などには――。


「この国の衣をまとうと、天女さながらだな。キリスヤーナ人であることを忘れてしまう」

「お、お戯れを。王女がいずれキリスヤーナへ帰る身であること、陛下が一番分かっておられるはずです。それに、異民族の者を陛下の寝所に侍らせるなど、わたくしは王妃として」

「王妃」


 言葉を遮られて、タナシアはごくりと喉を鳴らす。


「は、はい、陛下」
「命じたはずだ。王命には、はいと一言で従えと。王妃がそのようでは秩序が乱れる」


 アユルの淡々とした声と冬の凍てつく寒気のような冷たい目に、タナシアは戦慄した。いつだったか、寵を得ていないと父上に言われたことがある。その時は、そんなはずはないと否定できたのに、今は実感できてしまう。怖い。陛下に愛されなくなるのが怖い。

 表情を凍りつかせて、わなわなと唇を震わせるタナシアの沈黙が、アユルの怜悧な狡猾さを加速させる。


「返事もしないとは。ああ、そうか。余を若造と呼んだ父親と同じく、そなたも余を軽んじているのだな?」


 思いもよらない言葉に、呼吸が一瞬止まる。早く謝罪してお怒りを鎮めなければ。そう思うけれど、射抜くような冷たい目が恐ろしくて声が出ない。さらに「興ざめだ」と鼻を鳴らされて、タナシアの思考は完全に停止してしまった。



 澄み切った青空の下で響き渡っていた管絃のしらべが止んで、舞い終えた貴公子が舞台の上で舞楽面をはずす。同時に、ため息と歓声が混じったざわめきが起きた。

 宴が終わり、ラシュリルはタナシアの近くに行って、宴に招いてくれたことの御礼と挨拶をした。アユルや賓客たちはすでに退出していて、華やかな宴の名残りだけが殿内に満ちている。


「楽しんでいただけて、なによりです。それで……、王女殿。あなたにお伝えしなくてはならないことがあります」

「はい、王妃様」

「陛下が今宵、あなたをご所望なされました。後程、華栄殿の女官を清寧殿に遣わします。ねやでの作法なども女官が指南いたしますので、粗相なきようお務めください」


 ラシュリルは、きょとんとして「はい」と間の抜けたような返事をした。
 カデュラスの暮らしに慣れてきたとはいっても、まだ馴染めないことがたくさんある。それに加えて、王宮には様々な規則やしきたりがあるようで、時々、こうして頭がついていかなくなるのだ。


「戸惑っているようですね」


 タナシアが、はらりと檜扇ひおうぎを広げる。その悲しそうな憂いの顔が、ラシュリルの心に刺さる。傍にいるというのは、こういうこと。こうして王妃様を傷つけてしまう。王妃様のことを耳にした時から覚悟していたはずなのに、目の当たりにすると心の揺らぎをおさえられない。


「あなたには申し訳なく思います。陛下のお手がついた方を王宮から出すことはできません。キリスヤーナへ帰る日を待ちわびておられたでしょうに……」


 タナシアは同情する言葉をかけながら、丹念にラシュリルを観察した。
 黒曜石のような瞳も色づいた唇も、申し分がないほど美しいとは思う。けれど、王宮は女の園。美しいだけなら他にもたくさんいる。

 分からない。一体なぜ、陛下は王女を見初めたのか。異国の、異民族というものに興味が湧いたのだろうか。遅くまで独り身を貫いた挙句に、女官を追い出してしまうような陛下が?

 タナシアの目線が、下におりていく。
 王女が持っている玉佩も気になる。清殿にあったものに見えて仕方がない。この手に取ればすぐに分かるけれど、そのようなことをして陛下の耳に入れば、清殿に忍び込んだことが露見してしまう。


 ――口惜しい。


 このようなことになるのなら、王女を引き取ったりしなければよかった。真っ黒で気持ちの悪いものが、胸につかえて息が苦しい。夫が今夜、王女を抱くのかと思うと気がおかしくなってしまいそう。


「王妃様、どこかお悪いのですか?」


 ひどく心配した様子で、王女が近づいてくる。
 気が弱く、王妃の器ではないと父上になじられたこともある。けれど、この身には高家の血が流れ、今はれっきとしたカデュラス国王の正妃。異民族の分際でわたくしに触らないで。


 ――穢らわしい。


 タナシアは檜扇を閉じて、にこりとほほえんだ。


「宴で少し疲れてしまっただけです。本当に優しい方ね。わたくしは大丈夫ですので、早く清寧殿に戻って支度をなさってください」


   

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