「眠くなりましたか?」
ラディエの声に、ラシュリルは目をごしごしと擦った。その横で、カリンが温かい果実茶を淹れる。
「ごめんなさい。無理をいって講義をお願いしたのは、わたしなのに……」
ラディエがダガラ城から帰ってきたのは、夕方より少し早い時間だった。
考えてみれば、カデュラスについて知っているのは、言葉や文化など表面的で浅い事柄だけだ。このままでは、本当にアユル様の足手まといにしかならない。そう思ったラシュリルは、ラディエに講師になってほしいと頼み込んだのだった。
身分やしきたり、王宮内部のいろいろと他にもたくさんのことを知りたい。真剣な目をしたラシュリルに、ラディエは二つ返事で快くそれを引き受けた。ラディエは熱血漢だ。鉄は熱いうちに打てと申しますから、と夕食後に抗議が始まって、気づけば真夜中になろうとしていた。
「これはすまない。王女殿が真剣に聞き入ってくれるものだから、つい夢中になってしまった」
「いいえ。宰相様の説明は分かりやすくて面白いので、わたしも時間を忘れてしまいました」
「そう言ってもらえると嬉しいが、王女殿に無理をさせてしまっては陛下にお叱りを受けてしまう。今日はこのあたりでやめておきましょう」
ラディエを見送って、寝支度を済ませる。ラシュリルは、カリンが寝床を整えてくれている間にも、時間を惜しむようにラディエが置いていった書物を読んだ。
カリンが、御簾をおろしてラシュリルの肩を軽く叩く。床の用意ができたと知らせてくれたのだ。
「遅くまでつき合わせてしまって、ごめんなさいね」
ラシュリルが申し訳なさそうに言う。カリンは、頭を振って「大丈夫」と口を動かした。声を失った分、カリンは表情や動作で感情を伝えるのが上手い。くりっとしたつぶらな瞳がくしゃっと細くなると、その度に心が癒やされる。
「明日も早くから雄鶏さんが起こしにくるわ。早く寝ましょう」
明かりを消して、ラシュリルとカリンは向かい合って横たわる。ラシュリルとカリンは、すっかり打ち解けていた。毎日、二組の布団を並べて、どちらかが寝つくまで話をする。
ラシュリルが、雄鶏の新雪のような真っ白な羽と熟れた苺のような真っ赤な鶏冠の気高さについて語ると、くすくすと笑うような息づかいが聞こえた。結局、二人が眠りについたのはだいぶ時間がたってからで、翌朝に早く寝なかったことを後悔する羽目になるのだった。
半月ほどがたち、ラシュリルがラディエ宅での生活に馴染んできたある日。ラディエが、詔書を手に王宮から帰ってきた。今日の朝議で、陛下直々に手渡されたものだとういう。
ラディエに詔書を見せられて、ラシュリルは思わず目を点にした。キリスヤーナ国王の人質を、王妃が預かると書いてあったのだ。
「ということは、わたしは王宮へ行くのですか?」
「さよう」
「王妃様……」
「タナシア・セノル・アフラム様です。先日お教えしたとおり、我がカダラル家と同じ四家の一つ、アフラム家の方です」
「どのような御方なのですか?」
「どこかの風変わりな王女殿とは違って、大変奥ゆかしく、王妃として申し分のない御方です」
ラシュリルより先にカリンが笑う。
ラディエは、ラシュリルの向かいで腕を組んだ。先日、カリナフから恐ろしい話を聞いたばかりだ。サリタカルで見つかった陛下のものではない詔書。それに王印を押したのは、王妃様ではないかという。もしもそれが真実なら、とんでもない重罪だ。
だが、とラディエは目を細める。なによりも、陛下が恐ろしい。毎夜のごとく華栄殿に渡り、王妃様と仲睦まじく過ごしていると貴人たちの間で噂が立っている。王女との関係を知った今、それを鵜呑みにするほど頓珍漢ではない。
正攻法では、王女を王宮に召し上げるのは無理だ。陛下の手がつく可能性のある女官、ましてや妃として異民族の者を王宮に入れるなど、臣下たちが絶対に納得しないからだ。
――王妃様に王宮の門を開けさせるとは……。
そのころ、キリスヤーナ国王の書簡を持った三人の近衛隊士が、サリタカルの王都を過ぎようとしていた。このあたりになると、キリスヤーナ人の容貌はとても目立つ。彼らが今夜の宿を探しあぐねていると、一人の好々爺が近づいてきた。白髪に曲がった腰、優しそうな目元と口調に、人柄の良さが表れている。
「お困りのようだが」
「宿を探しているのですが、今夜はどこも空きがなくて途方に暮れております」
「それは難儀なことだの。どれ、わしの家にお寄りになるかね?」
「よろしいのですか?」
にこりとする好々爺に、三人は希望の光を見出したような笑顔でついていった。しかし数日後、原生林の中で彼らの遺体が見つかる。容姿からキリスヤーナ人と断定されたが、遺体の損傷が激しいうえに身ぐるみを剥がされていて、身元の判明には至らなかったという。
タナシアは、カイエを連れて清寧殿に向かった。今日は、キリスヤーナの王女を王宮に迎える日だ。。先だって、女官たちに調度品や衣服などを準備させたが、手抜かりがあっては面目が立たない。カイエの手を借りながら、殿内を入念に見て回る。
「王女殿はおいくつくらいの方なのかしら。陛下にお聞きしてみたけれど、分からないとおっしゃって……。お若いらしいのですけれど」
「もうすぐお会いするのですから、それから袿の色などは変えても差し支えないかと思います。お申しつけくださいましたら、すぐにご用意いたします」
「あなたには苦労をかけますね」
「過分なお言葉、痛み入ります。そろそろ皇極殿へまいりましょう」
「そうね。もうすぐ時間ね」
二人は皇極殿へ急いだ。清寧殿から皇極殿を目指すと、王宮の広さを実感する。普段、華栄殿でじっとしているタナシアにとって、清寧殿からの道のりはとても遠く感じられた。王宮と外廷を結ぶ廊下を渡り終えると、皇極殿の付近にアユルの姿があった。タナシアが、小走りでアユルを追いかける。
「陛下」
アユルは、タナシアの声にふり返った。かんざしの垂れ飾りをしゃらしゃらと鳴らしながら、タナシアが傍に来る。
「そのように息を切らして何事だ」
「清寧殿へ行ってまいりました」
「そうか、大義だな」
「王女殿にお会いするのが、楽しみでございます」
「キリスヤーナとの今後に影響することだ。くれぐれも頼んだぞ」
「はい。陛下のお力になれるよう、誠心誠意尽力いたします」
婚儀の日を彷彿とさせるように高座に並んだ王と王妃に、文武百官がひれ伏す。皇極殿の末席で、ラシュリルも周りと同じように身を低くした。
「面を上げろ」
アユルの声が静かな殿内に響く。皆が顔を上げると、アユルは王女を御前に連れてくるようラディエに命じた。ラシュリルが、武官につき添われて末席からしずしずと歩いてくる。アユルは、健やかなラシュリルの様子に内心でほっとため息をついた。
「カデュラス国王陛下に、ご挨拶申し上げます」
ラシュリルは高座の前に座って、ラディエに教わったとおりアユルに礼をとる。次に、体を少し横に向けて、タナシアにも同じように一礼した。
「王妃、王女を連れていけ」
「かしこまりました」
タナシアが、高座をおりて武官に目配せする。それに応えて、武官がラシュリルを廊下へ連れ出した。
アユルは、ちらりと右に視線を向ける。ラディエの横で、エフタルが苦虫を潰したような顔をしていた。王女を王妃に預けることに、最後まで反対したのはエフタルだけだった。しばし待てとラディエに言って、アユルはタナシアとラシュリルを追って広間を出た。
冷たい風が、皇極殿の廊下を吹き抜ける。廊下には、たくさんの女官が並んで座っていた。絹織物に特段詳しくはないけれど、女官たちが着ている衣が上質なものだということくらいは分かる。二十人ほどいるだろうか。皆、王妃に仕える女官だというのでラシュリルはとても驚いた。
「そう緊張なさらないでください」
廊下に出てきたタナシアが、武官をさがらせてラシュリルに言った。はい、とぎこちない笑顔で答えるラシュリルを、タナシアが好奇心をあらわにした目で見る。
「わたくしたちと変わらない容姿をしているのですね。キリスヤーナ人というから、見たこともないような髪や目の色をしているのだと思っていました」
「母がカデュラス人なのです」
「そう、それで」
タナシアは、ほほえみながら好奇心とは別の目をラシュリルに向けた。質素な袿に控え目な化粧。装身具も一切ない。それでも、十分に美しい。なぜか、仄暗い不安が胸をよぎる。
「王妃」
アユルの声に、タナシアははっとして我に返った。すぐ目の前に、アユルが立っていた。
「これから朝議でございましょう? 宜しいのですか、陛下が席をはずしても……」
「そなたらを見送ったらすぐに戻る」
アユルの視線が、タナシアの隣にいるラシュリルに移る。タナシアは、もう一度ラシュリルを見た。緋袴の腰帯に結ばれた玉佩が、袿からちらりと覗いている。キリスヤーナでも玉佩を身に着ける習慣があるのだろうか。
それにしても……、緑色の鉱石に赤い飾り紐。
どこかで見なかったかしら……。
「どうした、王妃。顔が真っ青だぞ」
「い、いいえ、陛下。すぐに王女殿を清寧殿にご案内いたします」
「ああ、あとは任せた」
タナシアが、一礼してアユルに背を向ける。その一瞬、アユルはラシュリルと目を合わせてにこりとした。ラシュリルが、王妃と共に王宮へ続く廊下を曲がっていく。二人の姿が見えなくなるまで、アユルはずっとその様子を見ていた。
