第三章 ◆第02話




 カデュラス国宰相、ラディエ・ノウス・カダラル宅の朝は早い。
 庭で放し飼いにされている雄鶏おんどりが、親切に「こけこっこー」と大音量で夜明けを知らせてくれる。

 ラシュリルは、ぼんやりと目を開けてまた閉じた。部屋の中が真っ暗だから、まだ夜なのだと思ったのだ。ごそごそと寝返りを打って頭まで布団をかぶる。


「王女殿」


 雄鶏の鳴き声と一緒に、野太い声が聞こえた。脳が一気に覚醒する。ラシュリルは慌てて飛び起きると、手櫛で髪をかき分けた。


「おっ、おはようございます、宰相様」


 いつの間にか、部屋には煌々と明かりがともされていた。
 御簾の向こうから、きっちりとした身なりのラディエが正座をしてこちらをじっと見ている。ラシュリルは、寝床を出て御簾に手をかけた。すると、美髯をたくわえたラディエが、御簾越しにきっとにらみを利かせた。


「お控えください、王女殿。年頃の女人が寝起きの姿を男に晒すなど、はしたなきことこの上ない。王女殿にはまず、陛下の傍に侍って恥ずかしくない最低限の行儀作法を習得していただかねばなりませんな」


 雄鶏がまた「こけっこっこー」と鳴いて、ラシュリルの代わりに返事をする。
 まだ夜明け前だ。一体、宰相様は何時に起きていらっしゃるのかしら。ラシュリルは、茵の上に座って眠たい目をこすった。すると、尼削ぎの女の子が御簾をくぐって入ってきた。

 年のころは、十四、五歳だろうか。くりっとした目が印象的だ。女の子が、隅っこに座ってラシュリルに会釈する。にこりとした顔が、天使のようにかわいらしい。


「その子はカリンといいまして、私の末の娘です」
「えっ、宰相様の?」
「なにを驚いておられるのです」


 だって、似てない……。という言葉をなんとか飲みこんで、ラシュリルは居住まいを正した。


「侍女がいないと困ることもありましょう。これから、カリンがあなたのお世話をいたします。なんなりとお申しつけください。もちろん、行儀作法もカリンがお教えいたします」


「宰相様のお姫様が、わたしの侍女になるのですか?」
「そうです。不服ですか?」

「いいえ、その逆です。わたしよりも身分が高い方が、どうして侍女に?」

「カリンは、幼いころ病にかかって声を失ってしまいました。嫁ぐこともできず、一生を屋敷に閉じこもって終える運命の子です。あなたにお仕えできれば、生き甲斐を持てましょう。それに、私の娘ならば、あなたが王宮に上がることになった時に女官として一緒に入宮できます」


 ラシュリルが目を向けると、カリンがにっこりと笑ってうなずいた。


「ああ、そうだ。大事なことを言い忘れるところでした。王宮からあなたに手紙が届いています。カリンに預けてありますので、お受け取りください。私は朝議があるので、これで失礼する」


 ラディエが部屋を出ていくと、カリンがラシュリルに翡翠の玉佩と手紙を手渡した。


 ――お母様の玉佩だわ。


 カデュラスに着いたら返すと言われていたのを思い出して、ラシュリルはその手紙がアユルからのものだと察する。手紙には、肌身離さず玉佩を身につけておくようにとだけ書かれていた。

 カリンが、御簾を巻き上げて東側のひさしを開く。ラシュリルは、玉佩と手紙を机に置いて、カルトナージュの小箱から折りたたまれた紙を出して広げた。荷に忍ばせて、古郷から持ってきた小箱。それに入っているのは、アユルからもらった大切な恋の手紙だ。

 紙に梳き込まれた真っ赤な紅葉が、会えない間も募っていく気持ちのよう。アユル様は、変わりなく過ごしていらっしゃるかしら。ほんの少しでいいから、お顔を見たい。声を聴きたい。ラシュリルは、それを抱きしめるように胸に押しあてた。





 正午が近くなって、王宮に朝議の終わりを告げる太鼓の音が響く。
 ダガラ城の北側にある牢では、城に勤める雑用人が拷問にかけられていた。あやつは、天地がひっくり返るほどの重罪を犯したに違いない。牢番たちは、戦々恐々として隅に身を寄せ合った。彼らがおののくのも無理はない。とりわけ高貴な四家の者が牢に足を運ぶなんて、普通はあり得ないことだ。


「見かけによらず、強情な男だ」


 カリナフが、優雅に扇を広げて美麗な顔をあおぐ。拷問を受けているのは、ファユという若者だった。両手をイスの肘掛けに縛りつけられたファユの体には、既に無数の痣や皮膚が溶けたような火傷やけどがある。


「観念したらどうだ。お前が陛下を射たのだろう?」
「ちっ、ちっちち違います!」
「いくら身を挺してかばっても、お前を利用した者は助けてくれぬぞ」
「しし、知らない!」
「口のきき方に気をつけろ」


 閉じた扇で打たれて、ファユの左頬の皮膚が裂けて血がにじむ。カリナフは、血のついた扇を焼きごての先端が突っ込まれている火桶に投げた。


「お前の心を軽くするために、一つよいことを教えてやろう。陛下がキリスヤーナへお発ちになられた折、私は陛下より密命を賜ってさる御方を見張っていた。お前がアフラム家の屋敷に出入りしている武官の縁者であること、私は既に承知している」


 ファユが、顔を引きつらせて体を震わせる。カリナフは焼きごてをつかんで、めらめらと赤くたぎる先端をファユの手の甲に近づけた。


「その御方に失脚していただきたくて、わざと泳がせていたのだ。陛下がお前に目をつけてくださったのはまさに天啓。お前が素直に罪を認めるのなら、命だけは助けてやってもよいぞ」


 ファユが、恐怖で噛み合わない顎を軋ませて声をしぼり出す。


「は……、ははは白状いたします。命だけはおおお助けください……っ!」


 朝議を終えて外廷から王宮に戻ったアユルは、その足で華栄殿へ向かった。出迎えたタナシアを連れ立って、華栄殿南殿の庭におりる。このところ、アユルが足しげく華栄殿に通うので、タナシアはすっかり上機嫌になっていた。

 陛下は、わたくしを大切にしてくださる。そう実感できたし、エフタルが華栄殿に来なくなったからだ。

 歴代の王妃たちが手をかけて育てた庭の木花は、花の季節になると庭一面を浄土のように美しく彩るという。王妃になったのは、ちょうど花の季節を終えたころだった。タナシアは、隣を歩くアユルの横顔を覗き見る。

 あの玉佩が誰のものなのか、気にならないわけではない。けれど、陛下はわたくしのもとへ来てくださる。春になったら、陛下と花を愛でながら庭を歩きたい。次の季節も、その次も。ずっと陛下と二人きりがいい。

 タナシアの視線に、アユルが歩みを止めて顔を向ける。アユルの顔を覆っているのは、タナシアの浮かれた心中とは対照的な表情だった。


「王妃に尋ねたいことがある」
「はい、陛下」

「そなたに預けていた清殿の鍵だが、女官に管理させていたのか?」
「いいえ、ずっとわたくしが持っておりました」

「余が帰還した時、女官が持っていたのはなぜだ」

「陛下をお出迎えするために皇極殿に出向きましたので、それでカイエに……、女官に一時的に預けたのです。信じてくださいませ。陛下よりお預かりした大切なものを、他人任せになどいたしません」

「そうか」


 アユルが表情をゆるめると、タナシアは安心した様子で胸をなでおろした。獰猛な歯牙に気づかないのは、鈍感なのか無知なのか。しかし、大胆にも清殿に入り、それをおくびにも出さない。もしかして、こちらの考えの上をいく強かさを持っているのか?

 アユルは、タナシアの手を取ってその甲にくちづける。飼いならしの餌づけと同等の行為に頬を染めて素直に反応するあたり、強かさは感じないが。


「そなたが以前言っていた夫婦の絆とやらを深めるには、まず互いの信用がなくてはな。王妃が信用に値する優れた人格の持ち主で安心した」

「嬉しいお言葉、ありがとうございます」


 使いに出ていたコルダが、階をおりて二人を追ってきた。コルダは、二人から少し離れた所で足を止めて深く頭をさげた。


「陛下、王妃様、失礼いたします。カリナフ様が、陛下にお会いしたいとお待ちでございます」
「分かった。カリナフを清殿に呼べ」


 アユルが、タナシアに背を向けて歩き出す。タナシアは、アユルを呼び止めた。


「陛下、今宵もお待ち申し上げております」


 アユルは、清殿の書斎でカリナフを待った。
 今夜は清殿でゆっくり一人寝をしようと思っていたが、予定を変更せざるを得なくなった。サリタカル国王から証拠として預かった偽の書簡を広げ、アユルは頬杖をつく。言質は取った。だが、一つ不可解なことがある。


 ――書簡を用意したのも王妃か?


 内容を見れば、政に関わらない王妃が作れるような代物ではない。アユルが頭を抱えていると、コルダがカリナフを先導して書斎に入ってきた。カリナフは、御座の手前に腰をおろして臣下の礼をとった。


「御下命により捕らえた者が、罪を認めました」
「余を射たのは、あの者だったのだな?」
「はい。タファという武官に命じられたそうです」
「タファ? 聞き覚えのない名だ」
「皇極殿の末席に座る下位の武官でございます。この者は、頻繁にエフタル様の屋敷に出入りしておりました」


 アユルが、カリナフに探るような視線を向ける。


「なにか」
「ずっと前から知っていたような口ぶりだな、カリナフ」
「エフタルから目を離すなと命じたのは、陛下ではございませんか」
「そのとおりだ。もしかして、余が襲撃されることもつかんでいたのか?」
「まさか。陛下が慎重な御方であることは存じておりますが、従兄弟である私をお疑いになるとは心が痛みます」


 わざと表着の袖で目元をおさえ、カリナフが泣き真似をする。アユルは、カリナフを御座に呼んで文机に広げた書簡を指さした。


「詔書ですか?」
「やはりそう思うか。よく見てみろ」
「はぁ……。では、失礼を」


 カリナフが、書簡を手に取って入念に目を通す。見慣れた陛下の文字。王印もしっかりと押されている。カリナフは、アユルの言葉の意味を図りかねた。


「これは、帰路でサリタカルに立ち寄った際に、サリタカル国王から預かったものだ」

「……お待ちください。銅の量が違っております。我々が報告を受けたのは、ここに書かれた量の半分だったはずです」

「さすがだな。病に臥せている父親に代わって、早く家督を継いだらどうだ」


 ご冗談を、と笑うカリナフの目はまったく笑っていない。


「銅の交易についてキリスヤーナで詔書を書いたが、王印の代わりに古語で名を記した。その書簡には覚えがない」
「なんたること……」


 カリナフは絶句した。書簡を持つ手が震える。


「王印は、ずっとこの部屋に置いてあった。余が留守にしていた間、清殿に入れたのは王妃だけだ」

「王妃様? 他にはいないのですか?」

「いない。清殿を施錠して、王妃に鍵を預けてキリスヤーナへ行ったからな。先程、王妃に確認したら、鍵はずっと自分が持っていたと答えた」

「では、王妃様がこの詔書を書いたというのですか?」

「王妃が政治的な文言を書けると思うか? それに、余の筆跡をここまで正確に真似るなど、王妃には不可能だろう」

「用意された書簡に、王妃様が王印を押した。そう考えるべきでしょうか」

「もしくは、ここへ誰かを手引きしたか……。いずれにしても、余を害した従者の話と合わせれば、王妃が従う人物も自然と目星がつきそうだな」

「陛下。それが真実であれば、いかに四家の者であろうとも許されません」


 カリナフの戦慄した声に、アユルは「そう、死罪だ」と口の片端を上げた。
 その夜、空には悠然と丸い月が輝いて小さな星が無数に散らばっていた。アユルは、白い夜着の上に表着を羽織って、華栄殿南殿の廊下から庭を望んだ。高欄のつるりとした手触りが、昔の記憶を呼び覚ます。

 ここは、幼少期を過ごした場所だ。初夏になれば、庭に植えられたくちなしが、むせ返るような甘い香りを漂わせていた。くちなしを植えたのは、母上だった。

 母上とたくさんの女官に囲まれて過ごす日々は、この世の春を謳歌するようにとてもにぎやかで華やかだったように思う。これ以上ないほど大切に扱われ、思い通りにならなかったことなど一つもなかった。望めばなんでも手にできたし、とがめる者もいなかった。


「陛下」


 タナシアに腕をつかまれて、はっと現実に引き戻される。女官が用意したのか、それとも自分で選んだのか。湯あみを終えたばかりのタナシアから、香油の匂いがする。


「庭をご覧になっておられたのですか?」
「考え事をしていた」
「どのようなことをお考えに?」


 ここは寒い、とアユルはタナシアの手を引いて部屋の中にいざなう。南殿の座敷には、屠蘇とその酒が入った漆器と菊花を煎じる鉄器の乗った円卓が置かれていた。その横に、真白な寝具が一組敷かれている。タナシアを体が触れるほど近くに座らせて、手ずから青磁の盃に菊花茶をそそぐ。


「キリスヤーナの王女の話は聞いたか?」


 アユルが、青磁の盃を手渡して尋ねると、タナシアは「はい」と静かにうなずいた。とはいえ、王宮は現世うつしよとはかけ離れた女人たちの住処すみかで、政治が絡んだややこしいことは誰も話さない。タナシアが王女について耳にしたのは、陛下が人質を伴って帰国なされたという風の便り程度のことだ。


「王妃に王女を預けたい」
「わたくしに、でございますか?」
「処遇に困っているのだ。王女が罪を犯したわけではないから、投獄はできない。かといって、いつまでも宰相の屋敷に置いておくわけにもいかないからな。どうしたものかと悩んでいる」


 アユルは、盃にそそいだ屠蘇の酒をぐっと一気に呑んだ。そして、いかにも苦悩しているかのように顔をしかめて、深いため息をついてみせる。しかし、特別な演技は必要なかった。コルダの用意した酒が、この世のものとは思えないほど不味かったからだ。傷によいものを、とコルダは言っていた。一体、どんな生薬を混ぜてあるのか。口に残る味も最悪だ。


 ――まさか、気味の悪い爬虫類を漬けこんだ酒ではあるまいな。


 コルダめ、と盃を持つ手に力が入る。そんなアユルの隣で、タナシアは困っている夫の力にならなくてはと意気込んだ。


「陛下、わたくしにお任せくださいませ」
「引き受けてくれるのか?」
「はい。陛下のお役に立てるのでしたら、これ以上の喜びはございません」

「さすがは王妃だ。これで憂いから解放される。では、王宮に入れる身分と御殿を与えて面倒をみてやれ」

「はい」
「そうだな……。与える身分はそなたに任せるが、御殿は一番遠い清寧殿にするとよい」
「かしこまりました」


 嬉しそうに笑って、タナシアが菊花茶に口をつける。ごく、ごくと、上下する白い喉。母上が、どのような心持ちで側妃たちに菊花茶を飲ませていたのか、それが分かるような気がする。

 タナシアが、青磁の盃を円卓に置く。アユルは、タナシアの体を抱き寄せた。道具だと思えば、体をさし出すのは容易いこと。褥の枕元に置かれた香炉から、柔らかな桂花が香る。

 今頃、ラシュリルは宰相の屋敷でなにをしているのだろうか。早く……、早く手の届く所に住まわせたい。


「あぁ……っ、陛下……っ」


 肌を晒して、タナシアがあられもない声を出す。粘液で潤んだ女陰ほとを貫いて、アユルは眉根を寄せた。雨が降っていれば、雨音がわずらわしい声をかき消してくれるのに、今宵は無情にもよく晴れた夜だった。


「はん……っ、あっ……!」


 思考から聴覚を切り離して、愛しい顔を思い浮かべる。ぎりぎりと締めつける肉襞をえぐりながら大きく息を吸うと、甘い桂花の香りに頭がくらくらした。

 アユル様、と呼ぶ屈託のない笑顔が脳裏をかすめて身震いする。まるで自慰。タナシアの腹に散った白濁に、アユルの顔が愉悦の笑みで満たされる。アユルは、気怠い体で立ち上がって夜着をまとった。そして、朦朧と浅く口呼吸するタナシアを残して南殿を出ていった。


   

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