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第二章 ◇第07話




「ラシュリル様。そんなに泣いてばかりでは、気が滅入ってしまいますよ」
「だって」


 寝起きのまま、ラシュリルは窓際のイスに腰かけた。四日がたつのに、まだ意識が戻らないという。いつものように、テーブルには朝食と大好きな苺の果実茶が並んでいる。けれど、とても口にする気にはなれない。

 ラシュリルは、真っ赤に腫れたまぶたに手巾を当てた。どすっと、矢が刺さる瞬間の鈍い音が耳に残っている。離宮で見た顔は、人の肌とは思えないほど白くて生気がなかった。矢には毒が塗られていたという。怖い。このままアユル様が死んでしまったら……。


 ――だめよ、そんな不吉なことを考えては。


 いつもしてくださるように、わたしも好きだと伝えたい。言葉だけではなくて、目で、声で、仕草で、あなたのことが大切なのだと示したい。だからお願い、早く目を覚まして――。
 テーブルに突っ伏して、ラシュリルは祈りをこめるようにアユルの名前を呼んだ。


 ――アユル様。


 かすれた小さな声が、遠くから聞こえる。アユルは、その声に応えるように眉根を動かした。頬に温かいしずくが落ちてくる。泣いているのか?


 ――ラシュリル。


 夢か……。まぶたを震わせながら、静かにアユルの目が開く。まぶしさに目がくらんで、すぐ反射的にまぶたを閉じた。それから、光に慣らすようにもう一度ゆっくりと開ける。ぼんやりと天井画をながめて、アユルは自分が離宮にいるのだと認識した。

 ぱちぱちと火の弾ける音がする。そちらに顔を向けると、コルダが暖炉の前に膝をついて薪を足していた。何気なく、アユルの視線がコルダの向こうの大きな窓に向く。空に点綴てんていする雲と数羽の鳥。そこから、綿花のようにふわりとした大きな雪がゆっくりとした速さでおりてくる。


「……ルダ」


 しわがれた声は、自分の声とは思えないものだった。口の中がからからだ。喉を潤そうと水を探すが、手の届く所にそれらしきものはない。コルダは、真剣な顔をして火かき棒で暖炉をつついている。

 アユルは諦めて、コルダが近くにくるのを待つことにした。左肩をかばうようにおさえ、ふかふかの枕を背もたれにして上体を少しだけ起こす。

 しばらくして、コルダがアユルに気づいて火かき棒を放り投げた。投げ捨てられた火かき棒が、無残に絨毯の上を跳びはねる。


「アッ、アッ、アユル様!」


 アユルは、ぎょっとした。目に涙を浮かべ、両手を広げたコルダが突進してくる。いくら腹心の侍従でも、抱き合って喜びを分かち合うのはごめんだ。アユルは、人差し指で喉をさして、必死に口を動かす。


「み、ず」
「水、水でございますね! はい、すぐにお持ちいたします!」


 なんとか、歓喜の抱擁は回避した。コルダが持ってきた白湯を口に流しこむと、喉がちくりと小さな痛みを伴って潤った。


「私は、どれほど臥していた?」
「今日で四日になります」


 左肩に、じんじんと鈍い痛みが間欠的に走る。傷は、キリスヤーナ国王専属の医者が適切に処置したが、矢に塗られた毒が奏功して化膿していた。


「ラディエはどうした」
「今回の件をお調べになっておられます。昼前には必ずこちらにおいでになるので、もうすぐいらっしゃるのではないでしょうか」

「すぐ呼んでこい」
「かしこまりました」


 コルダは、アユルから空になったカップを受け取ってベッドから数歩離れた。そして、大切なことを思い出して足を止めた。


「王女様がこちらに来られまして、大変ご心配なさっておいででした」
「ラシュリルが、ここへ来たのか?」

「はい。泣いておられましたよ」
「そうか。あれは、夢ではなかったのだな」


 アユルの顔が、色を取り戻してやわらぐ。
 コルダが部屋を出ていったあと、アユルはベッドをおりてイスに腰かけた。東側のステンドグラスに目を向ける。絵の意味はさっぱり分からないが、鮮やかで深い群青色の美しさに見入ってしまう。

 必ず返すと約束した玉佩は、清殿の書斎に置いてきた。返してしまえばそれきり、縁が切れてしまいそうな気がしたからだ。そのことも話そうと思っていた。それから、故郷を離れる決心がつくまで待つつもりでいることも。襲撃などされなければ、ちゃんと話せたのだ。


「陛下!」


 勢いよく扉が開き、ラディエが部屋に飛び込んできた。アユルは一瞬、身構える。病み上がりの今、ラディエのようながたいのいい男に抱擁されたら、今度こそあっという間にあの世行きだ。

 しかし、さすがは一国の宰相たる漢である。侍従とは違い、ラディエの行動は冷静だった。ほっと安堵のため息をついて、ラディエはアユルの足元にひざまずいた。


「お加減はいかがですか?」
「体はなんともないが、まだ指先がしびれている。それで、なにか分かったのか?」

「はい。矢に塗られていた毒ですが、キリスヤーナに自生している木の樹液から作られた麻痺毒でございました。狩りに使うもので、致死性の毒ではなく市中でも売られていて比較的入手しやすいそうです」

「なるほど。では、矢じりはどこのものだ」


 ラディエが「失礼を」と立ち上がってアユルに近づく。部屋には二人しかいない。それにもかかわらず、ラディエはアユルの耳元で声をひそめた。


「我が国のものでございました」


 ふいを突かれたように目を見開いたあと、アユルは声を出して笑った。カデュラスの武具は、特別な製法で鉄を加工して造られる。門外不出であり、他国は同じものを入手することも造ることもできない。無論、ラディエもそれを分かっているから声をひそめたのだ。


「このことは、国に知らせたのだろうな」
「あの日、すぐに文を出しました」
「文にはなんと書いた」
「陛下が襲撃されたとだけ。不確かなことを伝えれば、混乱を招くと判断いたしました」
「矢じりや矢毒のことは書いていないのだな?」
「はい。陛下の容体についても触れてはおりません」


 アユルは、顎に手を当てて考えを巡らせる。
 姿の見えない所から射抜いてきた。射手しゃしゅは、相当な腕の持ち主だと推測できる。しかし、殺すつもりはなかったのだろうか。殺すつもりなら、急所をはずしても確実に仕留められるように致死の毒を塗るはずだ。目的はなんだ?


「矢には、死に至らしめる毒が塗られていたが幸いにも一命は取りとめた。そうつけ加えておけ」
「は……?」

「この件は表向きには騒ぎ立てず、慎重に調べろ。矢じりのことは、国に帰るまでそなたの胸に秘めておけ」

「陛下……」
「死なない毒で苦しみを味わわせるとは面白い」

「先日の銅の件といい、一体なにをお考えなのです」
「心配ばかりを先立たせるな。余の言うとおりにやれ」

「かしこまりました。では早速、手配してまいります」
「ああ、そうだ。キリスヤーナ国王を呼んでくれ。話がある」


 ラディエが部屋を去ったあと、アユルはテーブルに拳を振りおろした。こみ上げたのは、自分への怒りだった。反省しなければならない。愚かなのは、無知な官吏どもではなく自分だったと。


 ――決して、二度目はない。





 嫌だ、まぶたが腫れてる。
 とりあえず着替えだけを済ませて、ラシュリルは化粧台ドレッサーのイスに座った。顔の状態を見て、化粧は諦める。今日も離宮へ行ってみようかしら。でも、勝手なことをしてご迷惑になるといけないし……。独り言を言いながら、腰まである長い髪を梳いた。化粧台の隅に置かれた時計の針は、九時十三分を指している。

 マリージェの部屋にお使いに行ったナヤタが、なかなか戻ってこない。ラシュリルは、髪を高い位置で一つに結んで窓辺から遠くの海をながめた。

 大きな雪がふわりふわりと舞っているけれど、日が差していい天気だ。それなのに、気分はまったく晴れない。出てくるのは、涙とため息だけ。

 アユル様、とラシュリルは胸の前で祈るように両手を組んだ。ばたばたと騒がしい足音が近づいてくる。


「ラシュリル様! 大変です、カデュラス国王陛下が!」


 ナヤタの叫ぶような声が静寂を破った。ラシュリルは、ひっと息を詰めた。体から力が抜けて、絨毯敷きの床にぺたんと座り込む。恐れていたことが、現実になってしまったのだわ。やっと止まった涙が、またあふれてくる。


「嘘よ……」
「お目覚めになられたそうですよ!」


「……えっ、目覚めたの?」
「はい。知らせを受けて、ハウエル様がさっき離宮に向かわれたそうです。って、ラシュリル様。大丈夫ですか?」

「てっきり、アユル様がお亡くなりになってしまったのだと思ったわ。ナヤタ、悪いけれど手を貸してちょうだい。腰が抜けちゃって……」


 ナヤタが、慌てて手をさしのべる。イスに座ると、すぐにナヤタが苺の果実茶を淹れてくれた。アユル様が無事でよかった。果実茶を口にすると、緊張の糸が切れてほっと心が落ち着いた。途端に、空腹感に襲われる。


「ナヤタ。なにか、食べるものはないかしら」
「ございますよ。ラシュリル様が朝食を召し上がらないとマリージェ様に言ったら、ご覧ください。ラシュリル様の大好きな菓子を焼いてくださいました」

「それで遅かったのね?」
「はい」


 ラシュリルが、目を輝かせて焼き菓子に手を伸ばす。いつもと変わらない様子に、ナヤタが嬉しそうな顔をして、ラシュリル様は笑顔が似合いますと言った。


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