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第二章 ◇第06話




 ラシュリルがナヤタを連れて離宮へ向かったのは、日が沈みかけた時分だった。離宮の前には、帯刀したラディエが立っていた。浅黒い肌と彫りの深い顔立ちのせいか、忿怒ふんぬの相をした仁王のようだ。


「なんの用ですか?」


 ラディエが、鋭い眼光をラシュリルに向ける。


「お薬と包帯をお持ちしました」
「必要ない。お引き取りください」

「あの……」
「なにか?」

「陛下は……。陛下は、どのようなご様子ですか?」
「なぜ、あなたに教えなくてはならないのです? あなた方が、陛下のお命を狙っている真犯人かもしれないというのに」

「王女様に向かって、なんと無礼な!」


 ナヤタが、一歩前に出てラディエに声を荒らげる。ラシュリルはナヤタをなだめて、ラディエにかごをさし出した。


「侍女が失礼いたしました。どうぞ、こちらをお使いください」


 ラシュリルの表情にラディエは戸惑う。目は今にも泣き出してしまいそうなほど潤んで、かごを持つ手はかたかたと小刻みに震えている。陛下が倒れる瞬間を目の当たりにしたから、恐怖で動揺しているのか。それとも、兄王に科せられる罰を恐れているのか。

 ラディエは王女の心情を推し量ってみたが、彼女の表情はそのどちらにも当てはまらない。疑問が浮かぶ。なぜ、王女はこんなにも陛下を心配しているのだろうか。ラディエは、しぶしぶラシュリルの手からかごを受け取った。


「陛下の侍従にお渡しましょう。宮殿へお戻りください」
「……はい」


 肩を落としてしょんぼりとした王女と唇を噛んでにらんでくる侍女を一瞥して、ラディエは離宮へ入った。アユルの傍で、コルダが懸命に看病し続けている。


「陛下はお変わりないか」
「はい。まだ朦朧もうろうとしていらっしゃるようで」
「そうか」


 ラディエは重いため息をつきながら、蒼白な顔で横たわるアユルを見た。そして、ラシュリルから預かったかごをコルダに渡した。


「こちらは?」
「王女が持ってきた」
「今でございますか?」
「ああ」
「宰相様、王女様はどちらに?」
「追い返した。キリスヤーナ国王から、陛下の息の根を止めろと命じられているかもしれないからな」


 例えそうだとしても、王女様がアユル様を害するなどあり得ない。コルダは、眉間にしわを寄せる。


「今から、陛下を射た矢を調べてくる。用心しておけ。ここへは誰も入れるな」
「承知いたしました」
「陛下に変わりあれば、すぐに知らせろ」


 コルダは、ラディエを見送るために離宮の玄関へ向かった。すると、庭にラシュリルとナヤタの姿があった。


「まだいたのですか?」


 ラディエが、冷ややかな視線を投げて素っ気なく二人に言う。コルダは、ちらりとラシュリルに目配せしてラディエに礼をとった。


「宰相様。王女様にお礼を申し上げたく存じます」
「好きにしろ。さっさと済ませて、陛下の傍に戻れ」
「心得ております」


 ラディエが、ラシュリルを横目でにらみながら去っていく。コルダは、ラディエの姿が遠のいて見えなくなるのを待った。ラディエが、何度かふり返って回廊へ消えていく。


「王女様、申し訳ございません。アユル様がこのようなことになって、宰相様は気が立っておられるのです」
「当然だわ。あなたにはいつも気を遣わせてしまって、許してくださいね」
「わたくしなどに、頭をさげないでくださいませ。ところで王女様、ナヤタ殿は……」
「ナヤタは、アユル様とわたしのことを知っています」
「そうでございましたか。では」


 コルダは、念のため周囲を注意して離宮のドアを開けた。離宮に入ろうとするラシュリルの服を、ナヤタが引っ張る。


「お願い、少しだけ。お顔を見たらすぐに戻るから」
「分かりました。ここで待っております。誰かきたら、すぐに声をかけますね」
「ありがとう、ナヤタ」


 部屋に入ると、ラシュリルは一目散にベッドへ向かった。ドアに鍵をかけて、あれからずっとこうして熱に苦しんでいるのだとコルダが言う。血の気のない顔色は、熱があるという感じでなく、むしろ死の冷たさを感じさせる。


「アユル様」


 ラシュリルの声に反応するように、アユルの眉根がぴくりと小さく動く。けれど、目が開くことはなく声も返ってこない。青白い顔に影がかかって、ぽたぽたと生温いしずくがアユルの頬に落ちて弾けた。

 一瞬の出来事だった。恐怖に足がすくんで、ただ見ていることしかできなかった。傍にいたい。目を開けた時、よかったとほほえんであげたい。それをできないのが、とても悲しくて心苦しい。


「コルダさん、一つお聞きしてもいいかしら」
「はい、王女様」

「アユル様は、わたしとのことが皆に知られたら、わたしに害が及ぶとおっしゃっていました。今回のことと、関係があるのでしょうか」

「それはないかと思います。お二人のことを知る者は限られていますので」
「では、わたしの身代わりになったわけではないのですね。でも、どうしてこんなことに……」


 ラシュリルは、手巾を取り出してアユルの額ににじむ汗と頬に落ちた自分の涙をそっと拭いた。


「アユル様に疑念がおありですか?」


 サイドテーブルに湯を張った桶と布を置いて、コルダが尋ねる。


「いいえ、コルダさん。アユル様は、わたしに嘘をつく御方ではないわ。アユル様を疑って聞いたのではなくて、わたしのせいでアユル様がこんなことになってしまったのではないって思ったの」


 アユルの顔が、苦痛にゆがむ。
 雨の中を会いにきてくれた時も、今日も、アユル様の気持ちに応えられなかった。いつだって、真剣にわたしと向き合ってくださるのに。

 ラシュリルは手の甲で涙を拭うと、コルダに礼を言って離宮を出た。すっかり日の暮れた庭で、ナヤタが待っていた。ポケットから手袋を取り出してナヤタに手渡す。


「寒かったでしょう? 待たせてしまって、ごめんなさいね」
「ありがとうございます、ラシュリル様」
「お礼を言うのはわたしの方よ。今日は一段と冷えるわね。凍えてしまいそうだわ。早く宮殿に戻りましょう」





 ◇◆◇





 東の空に欠けた月がのぼる。昼勤めと宿直とのいの女官が交代する時刻は、王宮が手薄になる絶好の機会だ。タナシアは、カイエと二人で華栄殿を出た。目立たない暗色の袿を着て、手燭の明かりを頼りに清殿へ繋がる廊下を渡る。


「誰も近づけないでくださいね」
「はい、王妃様」


 清殿の鍵をカイエに預けて、タナシアは妻戸から殿内に入った。扉の閉まる音に、びくりと肩がすくむ。手燭を持つ手は汗ばんで、衣擦れと床の軋む音がやけに大きく耳に響く。

 清殿は、華栄殿とは構造も広さも違っていた。まるで、目隠しをして迷路を歩いているようだった。道標を残すように、殿内にある燭台に手燭の火を移しながら真っ暗な殿内を歩く。

 どれくらいの時間を要しただろうか。なんとか書斎を探し当てて、タナシアは室内にある七つの燭台に火をともした。余計な物が一つもない、整理された部屋。文机の上も、数冊の本が積まれているだけだ。それも、少しのずれもなく神経質なほど角がそろえてある。


「これは、陛下が」


 一番上の書物に、タナシアの双眸そうぼうが見開く。それは初夜の翌日、アユルが華栄殿で黙々と読んでいたものだった。タナシアはそれに触れて、アユルの横顔を思い出した。

 わたくしは、陛下をお慕いしている。それなのに、父上に逆らえず陛下に背いている。罪の意識が、タナシアの心臓を鷲掴みにするようにぎゅっと胸を締めつける。


 ――息が、苦しい。


 けれど、その一方で喜ぶ自分がいる。一度も入ったことのない夫の居所。ここで寝起きして、食事をして。自分が今座っているこの場所で、本を読んだり書をしたためたりなさるのかと思うと、これまでに感じたことのない幸福感が胸を満たす。


 ――いつか、わたくしをここへ呼んでくださるかしら。


 タナシアは、わずかにずれてしまった書物の角を両手で丁寧にそろえた。


「なにかしら」


 書物の間から、紐のようなものが出ている。書物を持ち上げて紐を引き抜いてみると、それは玉佩だった。陛下は、玉佩を忘れてキリスヤーナへ行ってしまったのだろうか。

 タナシアは、不思議に思って手燭の明かりにそれをかざした。揺れる炎に照らされる、花が彫られた深い緑色の鉱石と赤い飾り紐。陛下の玉佩にしては鉱石の質が悪いし、殿方は赤い飾り紐なんてつけない。


「陛下のものではないわ」


 鳥肌が立つように、心がぞわりとざわめく。
 かん、かん、かんと、女官の交代を知らせる拍子木の高く澄んだ音が鳴った。タナシアは玉佩を書物の間に戻すと、急いで王印を探した。手当たりしだいに文机の引き出しを開けて、それらしいものを漁る。二段目の引き出しに、桐箱が入っていた。


「王妃様、まだでございますか?」


 待ちかねたカイエが、書斎に入って来た。道標を残しておいたおかげで、カイエは迷うことなく書斎まで辿り着けたようだ。


「少し待って」
「お急ぎくださいませ、王妃様」


 桐箱を文机に置いて、中を確認する。手のひらが妙な汗で湿る。桐箱の中に、金の玉璽らしきものが収められていた。

 二度目の拍子木が聞こえる。昼勤めの女官が宿舎に帰る合図だ。タナシアは、桐箱を引き出しにしまって立ち上がった。カイエが、部屋の明かりを素早く消す。そして、二人は殿内を小走りに廊下に向かった。


 ――女物の玉佩……。一体、どなたの物なのかしら。


 書物の間に、隠すように置かれていた。誰かに贈るつもりなのだろうか。それとも、もらったのだろうか。それが気になって足が動かない。


「王妃様、いかがなされました。早く華栄殿へ戻りましょう」


 たたずむタナシアをカイエが急かす。そうしている間に、宿直の女官が数人、タナシアに挨拶をして通り過ぎていった。


「ねえ、カイエ。陛下がどなたかをお望みになられたら、わたくしはどうしたらよいのでしょう」
「ご冗談を。陛下には、王妃様しかおられないではありませんか」
「そうですね。おかしなことを言いました。気にしないで」


 庭の暗がりから、木々の擦れる音が聞こえる。肌で感じることのできないほどの微弱な風が吹いているようだ。手燭の炎が揺れて、廊下に伸びるタナシアの影がぐらりと形を変えた。


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