第二章 ◇第04話





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 その日、エフタルはいつものように屋敷を出てダガラ城を目指した。途中、輿の御簾を扇の柄にひっかけて街並みを覗くと、朝焼けがカナヤの街並みを鮮明な曙色に染めていた。憂いのため息を一つ吐き出して、扇を胸元にしまう。

 目を閉じれば、嫌でもまぶたの裏にあの日の光景がありありと映る。着の身着のまま、裸足で屋敷から駆け出した。ダガラ城へ向かう輿入れの行列は朝焼けの色より華やかで、氷のように冷たい石畳の感触が足の裏を突き刺した。

 エフタルは、朱門の前で輿をおりて門番に近寄った。昨日の日暮れから夜通し門を守った五人の武官が、エフタルの腰にさげられたくちなしの玉佩を見て、うやうやしく敬礼する。


「王妃様に謁見する。門を開けよ」


 エフタルが命じると、朱塗りの大きな門が重たい金属音を響かせてゆっくりと開いた。門をくぐれば、神の領域である。王家に次ぐ高貴な身分であろうとも、ここから先は万人と同じように自らの足で歩かなければならない。エフタルは、遥か先の皇極殿を望んで、ぎりぎりと奥歯を噛む。

 四家では駄目なのだ。この世では、神の系譜こそが絶対だ。エフタルは、王宮へ続く石畳を進んだ。ダガラ城の地を踏みしめる度に、その一歩一歩に誓いをこめる。王統を手に入れるためなら、人の道を踏みはずしても構わない。


 ――先王もそうしたではないか。


 マハールと共に研鑽けんさんを積み、互いを無二の親友と認め合った若き日を思い出すと心がすさむ。くだらないと人は笑うだろう。だが、捨てきれない積年の怨恨。三十年近く前の冬、心から大切にすると誓った女をマハールに奪われ、エフタルの純真な精神と王への忠誠心は粉々に砕け散った。


 ――下位の女官から生まれた下賤な奴め。死んでもなお、憎い。


 マハールは、エフタルとシャロアが将来を誓い合った仲だと知っていながら、シャロアを正妃にした。己の出自をティムル家の後ろ盾で補完し、王としての誇りを守るために親友を裏切ったのだ。


「王妃様。朝でございます」


 女官に起こされて、タナシアは急いで着替えを済ませた。
 神陽殿に足を運び、歴代の王の御霊に夫の無事を祈願するのが毎朝の日課になっていた。それは、日の出前でなくては意味がない。しかし、窓に目をやると障子が朝日に赤々と染まっている。アユルが旅立ってから一日も欠かさなかった。タナシアが祈りの時刻を逃したのは、今日が初めてだった。


「毎日お祈りなされたのです。王妃様の御心は天に通じておりましょう」
「そう言ってもらえると心が救われるわ。ありがとう、カイエ」


 親しげに名前を呼んで、タナシアは若い女官に笑みを向ける。いつも優しく真心をつくしてくれるカイエという女官は、年の近い妹のようでもあり心を許せる友のようでもある。


「すぐに朝餉をお持ちいたします。お待ちくださいませ、王妃様」


 タナシアは、庭の見える場所に座って朝食を待った。鳥のさやかなさえずりが耳に心地いい。今朝も冷えること。そう独りごちて、白いため息をつく。キリスヤーナに旅立って一カ月、夫からはなんの音沙汰もない。先日、無事に着いたようだと父親から知らされただけだ。


「早くお戻りになられるといいのに」


 緋袴の腰紐に、婚儀で賜った扇がさしてある。タナシアは、桂花の香りが薄れてしまったそれを後生大事に身に着けている。時折、懐かしむようにそれを広げては、夫を思い出すのだ。


「王妃様」


 朝餉を用意すると言って出ていったはずのカイエが、息を弾ませて戻ってきた。


「そのように慌てて、どうしたのです?」
「エフタル様がお越しです」
「そう。お出迎えの準備をしてちょうだい」
「それが、もう……」


 カイエが部屋の入口を見やる。すると、正装に身を包んだエフタルが荒い足音を立てながら部屋に入ってきた。いかに娘であろうとも、タナシアはカデュラス国王の王妃となった身。タナシアの身分の序列は、エフタルよりも上だ。そのことを、由緒あるアフラムの当代が知らないはずはない。しかし、エフタルは、堂々と上席に腰をおろして脇息に肘をついた。


「父上、早くからどうされたのですか?」
「お前に聞きたいことがあってな」
「は、はい」
「王印を見たことがあるか?」


 もしかして、婚儀の前にいただいた書簡に押されていた印章のことかしら。タナシアは、王印とつぶやいて小首をかしげる。


「あれが持っているであろう。御璽ぎょくじのことだ」
「……いいえ。見たことはございません」
「清殿に置いてあるはずだが、本当に見たことはないのか?」
「はい。わたくしは、清殿に入ったことがございませんので」
「清殿に入ったことがない、だと?」
「は、はい。それがなにか……」


 エフタルは、奥歯で苦虫をつぶす。
 マハールに嫁いで、王宮を意のままにしたシャロア・ルブーラ・ティムルのような王妃にはなれなくとも、足元に及ぶくらいの気概は持って欲しいものだ。誰よりも美しくて賢くて、隣に立つ王の威光すら奪ってしまうような王妃。現王を産んだのは、そういう女だった。困惑の表情を浮かべるタナシアに、エフタルは顔をしかめてちっちっちっと舌を鳴らした。


「つくづく、情けない娘よ。清殿に呼ばれないとは、どういう意味なのか。お前には分からぬのか?」「清殿は王にのみ許される場所だと陛下が」
「それを鵜呑みにしたのか、愚か者。お前は寵を得ておらぬようだな」


 思いもよらない言葉だった。鋭利な刃物で胸を突かれたような激しい痛みと衝撃が体中を走る。タナシアは、膝の上でぎゅっと両手を握った。


「まあ、よい。城の外へ持ち出すことはなかろう。王印を探せ」
「わたくしにはできません。陛下より清殿には入るなと、きつく申しつけられております」

「探せ。お前は王宮の主であろう。なにを恐れることがある。誰かに見られたとて、口を封じればよいだけのこと」

「口を封じるとは?」
「ひと匙、毒を盛ればよい」
「なんと恐ろしいことを……!」
「先の王妃もそうして王宮を治めた」
「……そんな」
「権力とは、そういうものだ」


 にたりとエフタルが笑う。顔は笑っていても、目はぎらぎらと得体のしれない不気味な光を放っている。父上は、こんなに醜悪な顔をしていただろうか。逆らうことを少しも許さないといった威圧が、タナシアを震撼させる。

 娘の性質を熟知し、篭絡ろうらくの術を知りつくした者のわざ。粘性の糸で身動きを封じられ、蜘蛛に捕食される蝶のように、タナシアはエフタルの視線から逃れることができなくなった。

 エフタルが去った後も、タナシアは魂の抜けた人形のように座っていた。立ち上がろうとしても体が動かない。


 ――陛下、早くお戻りくださいませ。


 タナシアは、この世のありとあらゆる神仏に懇願した。キリスヤーナから戻った夫が、温かく抱きしめてくれることを。

 アユルは、ううっと低い声でうなりながら背伸びをして、ごろりと身体を回転させた。夢見心地でふかふかの枕に顔をうずめて、ラシュリルが残していった香りに酔いしれる。しかし、寒さにぶるりと体が震えて仕方なく起き上がった。


「……コルダ」


 返事がない。どうやら、コルダは部屋の中にはいないらしい。アユルは夜着の乱れを整えると、ごそごそとベッドをおりて暖炉の前に立った。

 薪は真っ黒な炭になり、炎の勢いはすっかり衰えていた。どうりで寒いはずだと、アユルは暖炉に向かって指先から小さな青い火を放つ。そして、火が炭の上で赤い色になるのを待って薪を放り投げた。


「おはようございます、アユル様」


 コルダが、荷物を抱えて部屋に入ってきた。アユルが暖炉の前にしゃがんで、鳥の鉤爪かぎづめのような火かき棒の先で火をつついている。その横から暖炉を覗いて、コルダは「代わります」とアユルから火かき棒を受け取った。


「火は……、消えていないようですね」
「お前を待とうかと思ったが少し寒くてな。先に、私が火を入れておいた」
「申し訳ございません、もっと早く来るべきでした。……ところでアユル様。火をお持ちで?」


 アユルは、コルダの問いかけを無視して食事はまだかと言った。


「もうすぐ朝食が届きます。ナヤタ殿がお持ちくださるそうです」
「ナヤタ……。ああ、ラシュリルの侍女か」
「そうです。ところで、王妃様は変わりなくお過ごしでしょうか」
「さあな。なんの連絡もないところをみると、変わりないのだろう」


 アユルの素っ気ない返事に、コルダは気を取り直して身支度に取りかかった。
 顔の手入れから始め、手足の爪を削る。アユルの体に傷をつけないよう、肌に当てる剃刀の刃先にまで神経を集中する。

 コルダが用心するのには理由がある。侍従になったばかりのころ、一度、アユルの肌を切ったことがあるからだ。たいした傷ではなかったが、女官たちが大騒ぎして華栄殿に呼ばれる事態になったのだ。


「だから申したであろう」


 マハールの王妃シャロアは、そう言ってむちを手にアユルをにらみつけた。不義の子を傍に置くなど正気の沙汰ではない。この者は母親を殺された恨みを抱えておる。次はそなたの首をかき切る気ぞ。シャロアは美しい顔をしかめて、語気を強める。アユルが、傷はなんともない、コルダを打たないで欲しいと懇願したが、シャロアはコルダの背中に鞭をふりおろした。


「どうした?」


 アユルの声に、コルダははっとした。過去を、映像として鮮明に思い出すのは初めてだった。まるで昨日の出来事のように、シャロアの冷たい表情や口調までが再現されていた。


「表情が険しいな。ラディエのようだぞ」


 コルダは、剃刀を湯桶につけてそんなことはないと笑って誤魔化す。確かあの時、アユル様が身を挺して仲裁に入ってくれたおかげで打たれずに済んだ。それからどうなったのか記憶が定かではない。アユル様に詰め寄られたシャロア様と傍にいた女官の悲鳴が聞こえたような気がする。コルダはこめかみをおさえた。


「具合が悪いのか?」
「い、いいえ。申し訳ございません」


 その時、アイデルとナヤタが朝食を運んできた。ナヤタがテーブルに食事を並べる間に、アイデルがアユルに挨拶する。今日は、銅の交易について協議する予定だ。アイデルは、アユルに時間を告げてナヤタと共に部屋を出ていった。


「いかがですか? キリスヤーナの食べ物は」


 コルダが、湯桶を片づけながら尋ねる。頬張ったパンが、口の中の水分を残らず吸収する。喉に詰まりそうな塊を紅茶で流し込んで、アユルは口に合わないと答えた。

 離宮から戻ったアイデルは、両手にいくつもの書簡を抱えてハウエルが待つ政務室に急いだ。近頃、階段を駆けあがるのも容易ではなくなってきた。もう十分に老体だ。そろそろ後進に役目を譲るべきだと、アイデルは実感する。だが、とアイデルは机に向かうハウエルを見て息を整えた。キリスヤーナの国運を任せるには、彼はまだまだ未熟だ。


「ああそうだ、アイデル。カデュラスから書簡が届いてなかった?」
「ございましたよ。こちらです、ハウエル様」


 ハウエルが、アイデルから受け取った書簡に目を通す。書簡には、カデュラス国王の許可さえ出れば、望む量の銅が手に入るよう手配すると書かれていた。キリスヤーナは小さな国だ。カデュラスと一戦交えるほどの力は持っていない。しかし、今なら新王が統治する世を混乱させることはできそうだ。神の威厳も今や見せかけなのか? ハウエルは、書簡の結びに書かれた差出人の名前にほくそ笑む。


「エフタル・カノイ・アフラムか。カデュラスも、内部ではいろいろとあるようだね」


 ハウエルが、エフタルの書簡を暖炉に投げ入れる。炎がばちばちと音を立てて、美味そうに書簡を飲み込んだ。


「しかしハウエル様、その方を信用しても大丈夫なのですか?」

「どうだろうね。でもさ、気が遠くなるくらい長いことカデュラスに従ってきたんだ。そろそろ王権を取り戻したいじゃないか」

「ハウエル様。どうか、間違いを犯さないでくださいませ」
「間違いだって? 千年以上も前の忠誠なんて、もうとっくに死んでいるだろう?」


 アイデルに言われた時刻が迫って、アユルはコルダと離宮を出て宮殿へ向かった。回廊の途中で、ラディエが二人を待っていた。


「おはようございます、陛下。ゆっくりお休みになられましたか?」
「ああ。寝たが、体が重い」


 私もでございます、とラディエが頭をかきながらアユルの後ろを歩く。


「宰相はどう思う」
「キリスヤーナ国王のことですか?」
「そうだ」
「好青年と見受けましたが……」
「そうか?」
「しかし、警戒はすべきかと」


 大広間には、キリスヤーナの要人たちが集まっていた。アユルは席に着くなり、銅を必要とする理由を説明するよう命じた。ハウエルが、神妙な面持ちで立ち上がって話し始める。


「我がキリスヤーナの国民は、大半が夏の海での漁で生活しております。船はすべてが木造でして、船腹に銅を用いれば海水による腐食を防げますので、船の持ちがよくなります」


 なるほど、と相槌を打ちながら、アユルはハウエルの話に耳を傾けるふりをした。必要な銅の量、製錬についての説明が延々と続く。身振り手振りを交えて話すハウエルの表情は、晩餐の時とは打って変わって真剣そのものだった。そして、話し終えたハウエルが喉を潤そうとテーブルの上のティーカップに手を伸ばした時、アユルはにこやかに許可するとだけ言った。


「陛下!」


 ラディエが、血相を変えて立ち上がる。同席していたキリスヤーナの貴族たちも、すんなりと許可が出たことに驚いている様子だ。警戒するべきだと話したばかりだというのに、どういうおつもりか。そう言わんばかりの鋭い眼光をアユルに向けて、ラディエは身を乗り出した。


「今の説明で十分ではないか。余が、ハウエルを信頼するということだ」


 アユルは、淡々とした口調でラディエに座れと命じる。警戒して疑うからこそ許可する。コルダに筆と紙を用意させて、アユルはその場で詔書をしたためた。


「これをもって、サリタカルから銅を仕入れるがよい。ただし、その量はそなたが求める量の半分とし、船腹にのみ使用を認める」

「なんと感謝申し上げたらよいのか……!」


 ハウエルは頬を上気させて、勝負に勝ったような満面の笑みで謝辞を述べた。アユルが、詔書の最後に名を入れる。アユルは、わざとタニティーアの文字をカデュラスの古語で綴った。詔書は、ラディエが確認したあとに文官が記録してハウエルの手に渡った。


「宰相、直ちにカデュラスへ知らせを出せ。それから、サリタカル国王にも同じように知らせておけ。帰路でまた寄ると添えてな」

「かしこまりました」


 ラディエは、ひどく納得のいかない顔で返事をした。


「では、陛下」


 すっかり上機嫌になったハウエルが、海をご覧になりませんかとアユルを誘う。窓の外は、とても良い天気だった。アユルが快く誘いを受けると、すぐにマリージェとラシュリルが呼ばれた。

 先日と同じように、ラシュリルがアユルとラディエに挨拶する。顔を上げたラシュリルと目を合わせて、アユルは一瞬だけ表情をゆるめた。


   

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