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第二章 ◇第02話




「それでは、ラシュリル様。離宮の暖炉に火を入れてきます」
「ええ。頼んだわ、ナヤタ」

「じっとしていてくださいね」
「分かっているわよ」


 ナヤタが、そわそわと落ち着かないラシュリルを冷やかして、笑いながら部屋を出ていく。部扉が閉まると同時に、ラシュリルは深いため息をついた。

 壁に掛けられた大きな鏡の前に立って、体の向きを変えては髪や衣装を確認する。身にまとっているドレスは、マリージェにお願いして有名なデザイナーに仕立ててもらったものだ。

 キリスヤーナで採れる鉱物から作る顔料で染めあげた朱子織りサテンの生地。キリスヤーナの瑠璃るりでなくては、こんなに深い群青色には染まらない。夏の漁のあと、雪が降りはじめる前に採掘される瑠璃はとても貴重で、カデュラス国王への献上品にもなっている。

 ふんわりと大きく膨らんだスカートの上をさらりと流れる同色のレースが、穏やかに波立つ夏の海のような大人びた一着だ。普段は無造作におろしている前髪を、貴婦人たちのように後ろ髪と一緒に結ってみた。化粧だって、いつもより気合が入っている。

 挑戦した大人の領域。ナヤタは似合うと言ってくれたけれど、彼の人の目にはどう映るかしら。そう思うと、ますます心が落ち着かなくなって頬が熱くなる。まさに今、カデュラス国王が階下の大広間でハウエルや貴族たちの歓迎を受けているのだ。


「お義姉様は心が安らぐっておっしゃったのに、わたしはそうじゃないわ。アユル様にお会いすると思うだけで、胸がどきどきしておかしくなってしまいそう。これは、一体なんなのかしら」


 鏡の向こうの自分に問いかけて、うなじのおくれ毛をかき上げる。その時、部屋の扉をたたく音とアイデルの声がした。いよいよ、案内役の出番だ。


「陛下、こちらをどうぞ。体が温まります」


 ハウエルが、慣れた手つきでティーカップに角砂糖を一顆落として、ティースプーンでかき混ぜる。アユルはそれを見ながら、馬車の窓からながめたヘラートの街並みを思い出していた。街を蛇行する凍りついた運河と連なる煉瓦造りの古い建物。そして、除雪された基幹道路の脇に並んだ兵士たち。他に人の姿はなく、ヘラートは生気のない無人の廃墟群のようだった。


「禁令でも出したのか?」
「はい?」
「王都に人がいなかった」

「……ああ、はい。我が国にカデュラスの国王陛下がお越しになられるのは数百年ぶりです。禁令を出さなければ、陛下の御姿をひと目見ようと民衆が殺到します。人が集まれば、なにが起きるか分かりません」


 アユルの問いに、ハウエルが右手を胸に当てて得意気に答える。それからハウエルはラディエに会釈して、ジュストコールの襟を正した。ラディエが満足げにうなずいて、ハウエルがアユルに視線を戻す。

 ハウエルは、愛嬌たっぷりの笑顔で少し首を傾けた。これは、彼が他人と上手くやろうとする時のくせだ。アユルは、ハウエルを見据えて頬杖をついた。


「まるで、なにか起きそうな言い方だな」
「い、いいえ、滅相もない。深い意味はありません。曲解なさらないでください」
「冗談だ」


 ハウエルは、ごくりと生唾を飲んだ。一度見てしまうと、そらせなくなるカデュラス国王の目。同じ黒色なのに、天真爛漫な妹の瞳とはまるで違う。友好的ではない表情と相まって、無限の闇のように不気味で、なにを考えていてどんな感情でいるのか、まったくつかめない。ただ、冗談ではないことだけ一目瞭然だ。


「王女ラシュリル・リュゼ・キリスを陛下の御前へ」


 アユルと目を合わせたまま、ハウエルが真顔で言った。衛兵の一人がドアの取っ手を引く。皆の視線がそちらに集中する。

 この大広間は、カリノス宮殿で一番広くて美しい部屋だ。天井には幻想的な絵が描かれている。銀色の雲の合間から射す太陽の光と背から羽の生えた子供たち。そして、太陽を指さす長い黒髪の男。その足元には、金色の頭に王冠を載せた男がひざまずく。

 古い神話の一場面を描いたとされているが、黒髪の男は大陸を征服したカデュラス国初代王であり、ひざまずいているのは第十二代キリスヤーナ国王だ。

 ラシュリルは大広間に入って一礼すると、つまずかないようにドレスをつまみ上げた。そして、並んでいる丸テーブルの間を進んで上席を目指した。


「妹のラシュリルです。一度カデュラスでご紹介いたしましたが、覚えておられるでしょうか?」
「もちろん、よく覚えている」


 いつもの調子で淡々と答えて、アユルはティーカップを手に取る。そして、紅茶を口に含んだ時、ハウエルがラシュリルの隣に立って笑顔で首をかしげた。


「妹が陛下の案内役を務めさせていただきます。なんなりとお申しつけください」


 アユルは顔をしかめる。口に残る、ハウエルが入れた砂糖甘い味。口内の粘膜にべっとりと張りつくような感じが嫌いだ。ラシュリルの横で、ハウエルがごくりと喉を鳴らす。


「妹ではご不満でしょうか?」
「そなたの妹に不満などない」


 じゃあ、どうして嫌そうな顔をしているんだ。ハウエルは、心の中で舌打ちする。しかし、それを表面に出してしまえば一巻の終りだ。アユルが砂糖の味に反応しただけだとは露ほども思わず、ハウエルは笑顔を保ったままラシュリルに言った。


「陛下を離宮へ案内してさし上げて」
「はい、お兄様」


 ラシュリルは、アユルの前で深く一礼した。しっかりと交わる二人の視線。あの夜と同じ漆黒の瞳が心を揺さぶる。見つめられると、苦しいくらいに胸がどきどきとして冷静でいられなくなる。


 ――いけない、皆が見ているわ。


 ラシュリルは、視線をはずしてアユルに「こちらへ」と言った。その声に、貴族たちが一斉に起立する。アユルは席を立って、ラシュリルの後を追った。大広間を退出する間際に何気なくふり返ると、深々と頭をさげる貴族たちの向こうで、ハウエルが首をかしげてにこりと笑っていた。


「王女殿」


 宮殿の裏口を出て石段をおりようとした時、ラシュリルはラディエに呼び止められた。体格のよさに加えて、眉間にしわが刻まれたラディエの強面に恐々としてしまう。


「離宮は、ここから遠いのでしょうか?」
「少し距離があります」
「そうですか。寒いので、急いでいただけますか?」
「はい、宰相様」


 見かけとは違い、ラディエは穏やかな声をしていた。ラシュリルは、ほっとして石段をおりると、後ろを気遣いながら回廊を進んだ。離宮へ向かう回廊は、ラシュリルのお気に入りの場所だ。夏はここで涼風に吹かれながら本を読み、冬は積雪の庭にできたひだまりをながめる。

 回廊が二手に分かれる手前で、後ろの足音がぴたりと止んだ。ふり返ると、アユルが回廊の端に寄って空を見上げていた。近づいて、同じように空を見る。しかし、雪がはらりはらりと落ちてくるだけで、なんの変哲もない。


「どうかなさいましたか?」
「雪……」
「雪が珍しいのですか?」
「初めて見た。カデュラスに雪は降らないからな」
「そうなのですね。おとといは吹雪で前が見えないくらいで……」


 白い肌に薄く色づいた唇。ラシュリルの目が、無意識にアユルの口元をとらえる。弾力と温かさ。よみがえる記憶に、ラシュリルの頬がぽっと赤く染まった。


 ――だめだめ、だめよ。わたしったら!


 急に黙ってしまったラシュリルの顔を、アユルが怪訝な表情で覗き込む。その時、ラディエが二人の間に割って入った。


「王女殿。申し訳ないが、陛下から離れていただきたい」
「ご、ごめんなさいっ」


 ラディエが、ラシュリルをにらみつけて威圧する。すっかり萎縮してしまったラシュリルを見て、アユルはラディエの肩をがしっとつかんだ。


「宰相、怖い顔をするな」
「ですが、陛下」

「その者がなにかしたか?」
「恐れ多くも、陛下になれなれしく近づいて声をかけるなど、あってはならぬことですので」

「十歩ほど離れて歩け」
「は?」

「聞こえなかったか? 十歩離れろと言ったのだ」
「……陛下!」

「王命だ」
「……くっ」


 王命と言われたら、さすがの宰相も逆らえない。ラディエは、十歩後ろにさがって顔を伏せた。困惑するラシュリルに、寒い、早く離宮へとアユルが催促する。ラシュリルは、小さく返事をして二手に分かれる回廊を指さした。


「宰相様のお部屋は、あちらの建物にご用意しております。ここからは侍女のナヤタが宰相様をご案内いたします。皆さんが荷物を片づけている最中だと思うのですが……」


 ラディエが、陛下を離宮に送り届けると言う。アユルはラディエに向かって首を横に振った。


「心配しなくてもコルダが傍にいる」
「コルダ一人では心配です」
「皆、長旅で疲れているだろう。早く荷を片づけて休ませてやれ。余も少し休みたい」


 ラディエはコルダに注意を怠るなと念を押して、ナヤタと一緒に回廊を右に折れて行った。


「やっと、邪魔がいなくなった。王女殿、案内を頼む」
「はい、アユル様」


 ラシュリルとアユルは、除雪された森の一本道を歩いて離宮を目指した。コルダは、並んで歩く二人の後ろ姿をほほえましく見ていた。その間も、後ろを警戒して誰もいないことを確認する。どんな話をしているのか、この距離では聞き取れない。しかし、見合って笑っている二人はとても楽しそうだ。いつまでも続けばいいのに、とコルダは思った。しかし、あっという間に離宮に着いてしまった。

 ラシュリルが二人を案内した部屋は、一階の広い客室だった。白を基調とした広い室内には、鏡台や家具、天蓋のついた金細工のベッド置かれていて、東側の窓には青色が際立つ鮮やかなステンドグラスがはめこまれていた。

 アユルは外套をコルダに預けると、ばちばちと音を立てる暖炉の前に立ってかじかんだ手をかざした。コルダが、隣の部屋で片づけをすると告げて部屋を出ていく。ラシュリルは、アユルの背に目を向けた。

 あの大きな背中を触ってみたら、どきどきとする胸のざわめきが落ち着いて、お義姉様の言うように心が安らぐのかしら。手を伸ばして、遠慮がちに黒い衣をつかむ。そして、背中に寄り添うように体をくっつけた。


「冷たい手で触れたらかわいそうだと思って、こらえているのに」
「えっ?」
「まだ冷たいが、我慢しろ」


 ふり返ったアユルが、両手でラシュリルの頬を包む。ラシュリルは、アユルを見上げて目をぱちくりさせた。冷たい手が火照る頬に気持ちいい。ラシュリルは、アユルの手に自分の手を重ねた。


「会いたかった」


 低くい声が、聴覚から体に侵入して琴線に触れる。嬉しい。真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。わたしも、と言おうとした刹那、顔に影がかかって唇が重なった。軽くかすめるように触れて、薄い唇が下唇を食む。あの朝と同じ、慈しむような優しいくちづけ。言葉はなくても気持ちが伝わってくる。


「ラシュリル様」


 ドアの向こうから、ナヤタの声がした。ラシュリルが、体をびくりとさせてアユルから離れようとする。その様子に、アユルは驚いた。


「まさか、侍女に私とのことを言ってないのか?」
「はい……。言っていません」
「なぜだ。あの者には、隠し事をしたくないのだろう?」
「そうですけど……」


 離れた体を引き寄せられて、ラシュリルは戸惑いながらアユルの顔をあおぐ。こんなところを見られたら、とても言い訳できない。逃れようとすると、さらに強い力で抱きしめられた。


「そなたは正直で、じつがあるのだな」
「いいえ。アユル様を信じたいと思いながら、心のどこかで疑っていたのです。だから、ナヤタにも言えなくて……」
「それは是非ぜひもない。私が、そう思われてしかるべきことをしたのだから」


 ラシュリル様、とドアの向こうでナヤタが呼ぶ。
 骨ばった指が頬に触れ、ほつれた髪を耳に掛けた。優しいまなざしが、視線をとらえて離さない。ラシュリルが「アユル様」と小さく声を発した時、ナヤタが再びラシュリルを呼んだ。


「早く行ってやれ」
「はい」


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