第二章 ◇第01話





 ◇◆◇



「そんな大役……。わたし、不安だわ。大丈夫かしら」
「君の笑顔は、場をなごませてくれるからね。だからぜひ、君に陛下の案内役を務めてほしい」


 胸がどくんと大きくはねる。不安だという言葉は本心だった。ラシュリルは、いつものようにほほえんで必死に冷静を装う。

 カデュラス国王の書簡が届いてすぐ、ハウエルは首都ヘラートを統括するオリアレン公ミジュティーの屋敷に命令書を送った。ミジュティーはハウエルとラシュリルの叔父で、ハウエルが信頼を寄せる人物の一人だ。ミジュティーは命令書に従って、雪が降り積もる中、速やかにヘラートの整備に着手した。そちらは、叔父に任せておけば間違いはない。

 ハウエルを悩ませたのは、アユルが滞在している間の接待だった。カデュラス国王と信頼関係を築く絶好の機会だが、行動を共にしすぎるのもよくない。適度な距離を保つために、自分の代役を用意する必要がある。政治的に影響がなく、カデュラス国王が警戒しない人物。かつ、大陸最高位にある王の相手として不足のない身分と教養を持つ者。

 考えた末に、ハウエルは妹に白羽の矢を立てた。少々、快活すぎるところはあるが、ラシュリルはれっきとしたキリスヤーナの王女だ。


「それからもう一つ、君に頼みたいことがあるんだ。離宮の手入れを頼むよ。陛下には、離宮に宿泊いただこうと思ってね。ほら、宮殿だと貴族たちの目があって気が休まらないだろう?」

「確かにお兄様の言うとおりだわ。任せておいて」
「ありがとう、ラシュリル」


 マリージェや夫人たちとの昼食を終えると、ラシュリルは任務に取りかかった。離宮の掃除に必要な人や道具を集めて、背格好の似た侍女から服を借りる。そして、ナヤタが止めるのも聞かずに、動きにくいからと侍女の服に着替えて、黒髪を軽く結った頭にすすけた色の頭巾をかぶった。


「どう? これで動きやすくなったわ」
「よろしいのですか? ハウエル様に見つかったら、しかられてしまいますよ」


 侍女の一人が心配したが、ラシュリルは「大丈夫よ」と鏡の前でくるりと回ってみせた。仮に、ハウエルがこの姿を見たってとがめはしないだろう。彼は妹の性格をよく分かっている。身分にとらわれないラシュリルの気さくさこそ、彼女が多くの人に慕われ愛される所以ゆえんなのだ。

 宮殿の敷地の奥に、人工的に造られた針葉樹の森がある。離宮は、その森の中に建っている。離宮が使われるのは夏の間だけだ。日が一番高くなる時間に王妃主催の茶会が開かれたり、時に政務にうんざりした国王が逃げ込んだりする。夏の日差しを遮る森のお蔭で、離宮は避暑に絶好の場所だった。しかし今、キリスヤーナは冬真っ只中。なにもかもが凍りついてしまいそうなほど寒い。


「一段と冷えてきましたね」
「そうね。でも、わたしは好きだわ。この季節が」


 ラシュリルとナヤタ、そして八人の侍女は、陽気な歌を歌いながら離宮に向かった。侍女が、手に持った掃除道具を打ち鳴らして歌に調子を合わせる。森を行くと離宮が見えた。雪景色に一際映える、離宮の黒ずんだ赤煉瓦。夏の風景とは違うたたずまいに、侍女の一人が「綺麗」と感嘆した。

 彼女たちはまず、カデュラス国王が寝泊まりする広い客室の暖炉に火を起こした。大きな暖炉の中で炎が勢いよく踊り出すと、部屋が温まるまでにそう時間はかからなかった。客間や応接間、浴室などを順に手分けして掃除をし、家具や寝具などをそろえる。彼女たちは、ティータイムを一回はさんで黙々と作業に勤しんだ。


「ラシュリル様、浴室の方は終わりました」


 浴室を磨きあげて、ナヤタが廊下に出てきた。ラシュリルは、持ってきたかごの中から石鹸を取り出して浴室に置く。それは、ジャスミンの香料と花の蜜が練りこまれた特別な石鹸だ。気分を落ち着かせる香りの効果に加えて、使えば使うほど肌が潤うとかで、貴族の間で大流行している。

 ジャスミンの香りがするアユルを想像して、ラシュリルは思わずふふっと声を出して笑ってしまった。それに、彼は肌の潤いなんかには興味なさそう。そう思うと余計におかしくなって、ますます笑いをこらえきれなくなった。


「ラシュリル様、どうなさったのです?」
「いいえ。なんでもないのよ、ナヤタ。他も終わったかしら?」
「はい。少し足りないものがあるようですので、ハウエル様に報告しておきます」
「皆、大変だったわね。とても助かったわ、ありがとう。宮殿へ戻って、温かい紅茶とお義姉様の焼き菓子をいただきましょう」





 アユルは、清殿の西側にある釣殿に寝そべって、ハウエルの書簡をながめた。心が今にも体を離れて、遥かキリスヤーナの地へ飛んでいってしまいそうだ。


「寒くはございませんか?」


 コルダが様子を見にきた。アユルが首を横にふると、コルダは会釈をして書斎の方へ歩いていった。アユルは、のっそりと立ち上がって釣殿の端に立つ。池を望む釣殿から一望する清殿の内庭には、王宮の庭とは対照的に真っ白な砂利が敷きつめられている。砂利に含まれた雲母が、きらきらと日光を反射する。アユルは、まぶしさに思わず目を細めた。

 奥の築山は木々が紅葉の盛りを迎えて、地面まで落葉で紅く染まっている。築山に置かれた岩を覆う深い緑色の苔が、作庭からの長い時の流れを物語る。それは、カデュラ家が大陸を支配している年月に等しい。池に架けられた朱色の桟橋から、つがいの水鳥が池に飛び込んだ。歴代の王たちは、この庭で豪華な舟遊びに興じて四季を楽しんだという。

 アユルは、高欄から上半身を乗り出すように座って、ハウエルの書簡を池に垂らした。水鳥がくぁくぁと鳴きながら、釣殿の下まで水面を移動する。赤と黒のまだら模様の鯉たちも集まってきた。彼らは、餌が落ちてくるのを待っているのだ。


 ――民を思う、心優しい君主。本当にそうか?


 一度しか面識はないが、ハウエルの顔は鮮明に記憶されている。共に一献傾けた際の笑顔は、属国の君主として服従の意を示したものであったのか。初めての旅は、予想以上に大きな収穫をもたらしてくれそうな予感がする。

 手を離すと、ハウエルの書簡は重力に逆らう術もなく、ばしゃりと音を立てて着水した。驚いた雌の水鳥が、伸びをするように羽ばたきながら水掻きを広げた足で水を撹拌かくはんする。その近くで、鯉が激しく水面を揺らす。書簡は、もみくちゃになって池の底へ沈んでいった。

 皇極殿で、キリスヤーナ訪問の日程が協議さてれいる。間もなく、宰相が報告にくるだろう。


「アユル様」


 コルダの声にアユルが振り向く。コルダは、たすきを解いて頭をさげた。


「宰相が来たのか?」
「いえ、華栄殿より使いの者が来ました。王妃様がアユル様にお会いしたいとおっしゃっているそうです」


 アユルは表情を曇らせる。王妃と顔を合わせるのは、王として王妃を必要とする時だけで十分だ。もっともらしい理由をつけて断ろうか。いや、とアユルは考えを改めた。

 即位したばかりで多忙だと、婚儀から半月以上も華栄殿から遠ざかっているのだ。そのうえ、王妃が会いたいというのを無下にすれば、意図的に王妃を避けていると女官たちが盛大に噂するだろう。

 女官の噂話は伝染病と同じだ。防ぎようがなく、またたく間に広がって、必ず王宮の外にまで達する。王妃と不仲だと騒がれてはまずい。王統の存続を危ぶむ臣下たちに、キリスヤーナ行きを阻止する口実を与えてしまうからだ。それでは、三夜共寝した努力が水の泡だ。

 アユルは、表着に袖を通して大きく伸びをした。水鳥も鯉も、口をぱくぱくと開けたり閉じたりしている。


「この者らに餌をやれ」
「はい。華栄殿より戻りましたら、すぐに」
「お前はよい。私一人で行ってくる」


 清殿の外に出ると、あちらこちらから女官の目が向けられた。アユルは廊下を足早に渡って、一人の女官の前で足を止めた。名は知らないが、いつも王妃の傍にいる若い女官だ。一人で現れた王に驚いたのか、女官は華栄殿の扉に手をかけたまま、礼も忘れて立ちつくしている。


「なにをしている。さっさと取り次げ」
「は、はい。すぐに」

 女官が、慌てて王の来訪を王妃に伝えにいく。アユルは、女官の帰りを待たずに中に入って中央の間を目指した。幼いころ母親と共に暮らした華栄殿は、清殿より勝手が分かる。アユルが中廊下にさしかかると、奥の部屋からタナシアが姿を現した。


「陛下!」


 タナシアが、アユルに駆け寄って後ろに控えていた女官たちに退出するよう命じる。アユルは、満足な顔で上席についた。机の上に、王宮の規則が書かれた本が広げられている。アユルの目が自然と本の文字を追う。それに気づいて、タナシアが慌てて本を閉じた。


「息が詰まりそうなものを読んでいるのだな」
「申し訳ございません。王宮のことを詳しく知らないものですから」

「そうか。それで? 余に用があるのだろう?」
「用というほどのことではないのです。陛下が国を離れると、皆が話しているのを聞いて……」

「皆?」
「はい、女官たちです」


 高く結われた髪にさされたかんざしの垂れ飾りが、しゃらんりと澄んだ金属音を立てる。その音につられるように、アユルはタナシアの髪に目を向けた。ラシュリルなら、華々しく飾らなくても美しく品のある王妃になるだろうに。そんなことを思って、アユルが小さく笑うとタナシアが驚いた顔をした。


「なにか面白いことでも?」
「いや。ところで、女官たちはなんと言っていた?」
「陛下がキリスヤーナへ行かれると申しておりました。遠いのでございましょう?」
「往路ひと月ほどかかると聞いたが」
「そんなに……」


 タナシアが、物悲しそうに眉尻をさげてアユルの顔を覗き込む。まじまじと見つめてくるタナシアに、アユルは片眉を上げて「どうした」と尋ねた。


「まだ婚儀を済ませたばかりですのに。わたくし一人が残されるかと思うと、心もとなくございます」
「寂しいのか」
「はい。もっと陛下と、その」

「余と、なんだ」
「陛下と、夫婦の絆を深めたく存じます」

「夫婦の絆だと?」
「は、はい。例えば、お許しいただけるのでしたら、陛下の御名をお呼びしてもよろしいでしょうか」

「世間の夫婦がどのようなものかは知らないが、我らは王と王妃だ。なによりもまず、そなたが読んでいた王宮の規則が優先される。王妃がそれを破れば、他に示しがつかないのではないか?」

「……申し訳ございません」


 二人は沈黙する。アユルは、タナシアをじっと見た。愛してやれなくても、気落ちして悲しげな表情をされれば、人としての良心が痛むというもの。


「王妃様」


 沈黙を破ったのは先程の若い女官だった。女官は二人から離れた場所に腰をおろして、アユルとタナシアを交互に見て顔を伏せた。


「どうしたのです?」
「はい、王妃様。大臣様が、王妃様をお訪ねになりたいと皇極殿にお待ちだそうでございます」
「父上が?」
「お断りいたしましょうか」


 アユルは、にわかに眉を寄せた。女官の言うとおりにすれば、エフタルをいい気にさせる。王妃との不仲を怪しまれるのも面倒だが、すっかり王妃に夢中になっていると思われるのは面白くない。


「せっかく訪ねてきたのだから、遠慮する必要はない」
「よろしいのですか?」

「余は隣の部屋にいる。気兼ねなく過ごすといい」
「陛下もご一緒に」

「いや、親子の時間に水を差すのは心苦しいからな。余がここにいることは、大臣には言わずともよい」
「お心遣い、痛みいります」


 アユルが隣の部屋に姿を消すと、タナシアはエフタルを呼ぶよう女官に返事をした。それからすぐ、エフタルがやってきた。


「変わりないか、タナシア」
「はい、父上」


 親子でどのような会話をするのか、心ばかりの興味はある。アユルは少し襖を開けて、二人の会話に集中した。


「それで、あの若造はお前のもとへきて、きちんと努めているのだろうな」
「ち、父上。若造とは、陛下に失礼でございましょう」

「失礼? 臣あっての王であろう。務めも果たさぬうちにキリスヤーナへ行くなど、お前を、いや、アフラムの家門を軽んじている証拠だ」
「そのようなことはございません。父上、お願いでございます。もう、おやめくださいませ」


 タナシアは、すっかり青ざめていた。いつもはたわいのない世間話などをするのに、今日に限ってなぜこんな話をするのだろう。タナシアが話題を変えようと口を開くと、エフタルが低い声で言った。


「お前が王妃になる日を、どれだけ待ったと思っている」


 エフタルの右手がばちんと扇を閉じて、タナシアの身体がびくりと震える。身体にしみついた父への畏怖。タナシアは目の奥からこみ上げる涙をこらえて、エフタルの目を見返した。


「あれが戻ったら、一刻も早く世継ぎをもうけるのだ。お前で無理なら、一族の娘を妃として王宮に上げよ。必ずや、アフラムの血筋を次の王にせねばならぬ」

「父上、陛下は誠実なお方です。わたくしが進言しても、聞き入れてはくださらないでしょう」
「父に逆らうのか?」

「いいえ、そうではありません。どうか、お願いでございます。陛下をさげすむような物言いはおやめくださいませ」

「やれやれ。先の王妃のように、お前にも王妃としての自覚を持って欲しいのだが。かわいい娘に楯突かれては、父の立場がない」

「……父上」
「今日は帰るとしよう。あれが旅立ったら、またくる」


 タナシアが呼び止めるのを無視して、エフタルは荒い足音を立てて華栄殿から出ていった。アユルが戻ると、タナシアは魂が抜けたように茫然と座っていた。


「そなたの父上は、随分と機嫌が悪いようだな」
「陛下、申し訳ございません。お許しくださいませ」


 アユルは袖の中でぎゅっと拳を握って、怒りが顔に出ないように感情をおさえ込む。先の王妃のようにとエフタルは言った。母と同じように王宮を支配し、王さえも従わせよと――。


「陛下。どうか、お許しくださいませ。普段は、あのような話はしないのです」


 王妃が、目を潤ませながら許しを乞う。アユルは、指先でタナシアの顎をつかんでゆっくりと顔を近づけた。互いの息が触れ合うほど近くで、タナシアの瞳をじっと見据えて紅が塗られた柔らかな唇を親指で押す。

 頼りないが、王妃は若造・・をかばってみせた。父親への敬畏よりも夫への思慕が勝っているのだろうか。アユルが柔らかく笑み、潤んだタナシアの瞳が大きく揺れる。


「……っ、陛下」





 カデュラス国王が国を離れるのは、長い歴史の中でも数えるほどしか記録に残っていない。
 アユルは、外套を羽織って清殿を出た。吐く息は白く、足袋を通して床の冷たさが足の裏を刺す。清殿を施錠して、コルダが真新しい履物を床に置いた。いよいよ、キリスヤーナへ旅立つ日が来たのである。


「アユル様、今日は特に冷えますね。こちらをお履きください」
「お前は私を丁重に扱いすぎだ」

「なにをおっしゃいます。大切な御身でございましょう」
「お前こそ体を冷やすな。大切な御身を守る大切な御身だからな」


 二人は階をおりて、急ぎ足で奥庭を歩いた。すると、王宮と外廷を隔てる門の前に、タナシアが女官を一人従えて立っていた。


「陛下、お気をつけていってらっしゃいませ。お帰りをお待ちいたしております」
「王宮のことは任せたぞ。なにかあればすぐに文で知らせろ」
「はい」


 アユルはコルダに目で合図する。コルダが、タナシアに布に包んだ清殿の鍵を手渡した。


「これは?」
「清殿の鍵だ」
「わたくしがお預かりしてもよろしいのですか?」
「王妃を信頼して預ける。ただし、清殿は王にのみ許される場所だ。余の許しなく入るな」
「心得ました」
「では、いってくる」


 アユルは門をくぐり、中庭を通り抜けて広場へと急ぐ。皇極殿の下の広場で、荷を積んだ馬車や従者たちが、行列を作って出立の時を待っている。その周りには、高官たちが王を見送るために集まっていた。


「仰々しいな」
「宰相様からお聞きしましたが、数百年ぶりだそうですよ」
「なにがだ」
「王の行幸です」
「生き字引だな」
「誰がです?」
「その宰相様だ。重用せねば」


 アユルに気づいたラディエが、石段の下で二人を出迎える。礼をとろうとするラディエを近くに呼びつけて、アユルは小さな声で命じた。


「カリナフに伝えろ。エフタルから目を離すなと」
「なにか気掛かりが?」

「はなにもない。エフタルは王妃の父であり、一時的とはいえ宰相となるのだ。間違いが起きないように用心するだけのことだ」

「かしこまりました」
「内密にな」

 アユルは、馬にまたがってたてがみをなでた。白い愛馬が応えるように首を振って小さくいななく。ダガラ城の正門を出ると、大通りの両端で大勢の民たちがひれ伏していた。雲一つない冬空の下、アユルはキリスヤーナへ向けて旅立った。


   

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