第一章 ◆第09話





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 もしや、王子は女人に興味を持たない性質たちなのではないか。
 十年ほど前から、そんな噂がまことしやかにささやかれていた。しかし、噂は噂でしかなかった。今日、朝議に集った高官らの顔には、安堵の表情が浮かんでいる。


「いよいよ、八日後でございますね。陛下」


 ラディエは、高座に顔を向けた。涼やかな表情で座する青年が、皇極殿に並んだ武官文官をながめてほうっとため息をつく。無理もない。即位したばかりで婚儀を控えているのだ。平静を装っていても、その心中は穏やかではなかろう。ラディエは、自身が妻を娶った時のことを懐かしんでにこやかに目尻をさげる。

 しかし、アユルの耳にラディエの声は届いておらず、頭の中はまったく別のことでいっぱいだった。無事、キリスヤーナに着いただろうか。今頃なにをしているだろうか。そんなことを考えては、ため息が出てしまうのだった。


「陛下」


 いつまでも言葉を返してもらえず、しびれを切らしたラディエがアユルを呼ぶ。三度目に陛下と呼ばれた時、アユルは平然とした顔で「なんだ」と返事をした。


「間もなく、陛下の婚儀でございます」


 ラディエが深く頭をさげる。続いて文官武官が一斉にひれ伏すのを見届けると、アユルは扇を広げて大きなあくびをした。

 王宮では、王妃を迎える準備が着々と進められている。せっかく減らした女官の数が元に戻されて、静かな日々は呆気なく終わってしまった。ただ、清殿に女官を置かないという王のわがままだけは許された。

 星を読む天文学の師が選んだ吉日。
 皇極殿には慶事に使われる色とりどりの布がかけられ、いつもの堅苦しさが嘘のように華やかな装飾がされていた。中でも一際目を引いたのは、殿内に飾られた丸い薬玉だった。王宮の庭に咲く紅白の生花を使って、随一の名工が仕立てたもので、細やかな細工と色彩の華やかさが皇極殿の金色によく映えている。

 祝宴の最中、タナシアは何度か隣を見てアユルの顔をうかがった。
 先立って届けられた書簡には、婚儀の日を心待ちにしていると書かれていた。けれど、横顔からはとてもそのような様子は見てとれない。婚儀が始まってから、王はこちらを一度も見ないまま、にこりともせず澄ました顔で座っているのだ。

 祝いの膳に並ぶ豪華な料理に目を向けて、思わず小さなため息をつく。すると、隣から男物の扇をさし出された。


「陛下、こちらは?」
「広げてあおいでみろ」


 言われたとおりにすると、あやめが描かれた扇からほのかに花の香りがする。


「なんの香りか分かるか?」
「はい。桂花でございます」
「そのとおり。余は、この香りが好きだ」
「なぜ……」
「なぜ? 王妃の花だからだ」
「わたくしの御印を覚えていてくださったのですか?」
「もちろんだ」


 アユルがふっと軽く笑ってみせると、タナシアの頬がうっすらと紅く染まった。


「嬉しい」


 独り言のようなつぶやきのあと、こわばっていたタナシアの表情がほほえみに変わる。タナシアは、扇に描かれたあやめに指先を伸ばした。書簡にも押し花が添えられていた。

 あやめは、先王が王子の高貴な相に見合う紋として定めた花だ。あやめを摘もうものなら、不敬を問われて投獄される。この花を押し花にできるのは、この世でただ一人しかいない。


「お気遣いありがとうございます、陛下」
「それは、王妃にやる」
「よろしいのですか?」
「よい」


 二人のやりとりを見ていたラディエが、隣のエフタルを肘で小突く。長いこと心配してきたが、時がくれば何事も収まるところに収まるものだ。


「見ろ、エフタル。我らの苦労が報われた」
「まことに。あとはお世継ぎに恵まれれば、万事安泰ですな」
「あの様子では、そう遠くはないだろう」


 酒がすすんだころ、初老の女官がそっとタナシアに近づいて、夜の準備があると中座を促した。


「陛下。わたくしは、先に失礼いたします」
「ああ。後程、華栄殿へまいる」
「は、はい。お待ち申し上げております」


 祝宴は、王の初夜に配慮して早々におひらきとなった。しかし、呑みすぎてしまった。アユルは、清殿の階に腰かけた。秋が深まったころの夜風は、酔いがまわって火照る体に心地いい。そこへ、コルダが通りかかった。手に持った桐箱には、王妃との初夜のために新調された真っ白な夜着と表着が入っている。


「アユル様、このような所でなにをなさっておられるのです? 冷えてまいりましたので、中へお入りください。風邪などおめしになっては大変です」

「少し気分が悪くてな。酔いをさましている」

「めずらしいですね、アユル様が酔われるなんて。白湯をお持ちいたしましょうか?」
「いい」


 コルダは、桐箱から表着を取ってアユルの肩にかけた。王女様を想いながら、どのように今夜をやり過ごすのだろう。悪酔いするほど呑んだ心中を察して、アユルの背中をさする。


「……コルダ」
「なんでございましょう」

「華栄殿に桂花の香木を届けて、寝所に焚くよう申しつけろ。それから、菊花茶を用意しておけ」
「お香と菊花茶でございますね。かしこまりました。すぐに行ってまいります」


 王妃には、数千の女人がひしめく王宮を治めてもらう必要がある。だが、アフラム家という強力な後ろ盾を持つ王妃に、我がもの顔で好き勝手をされても困る。あくまで王のもとに、治めてもらわなくては。

 コルダが華栄殿から戻ってくるまで、そう時間はかからなかった。身支度を済ませたアユルは、脇息にもたれかかってラシュリルの玉佩に彫られた桂花の花弁を指でなぞった。

 清殿と華栄殿を繋ぐ廊下の両端には、女官たちが並んで王が王妃のもとへ渡る時を待っている。王妃がどのような女でも、心が揺らぐことはない。


「アユル様、酔いはさめましたか?」
「問題ない。華栄殿に先触れを」
「はい」


 アユルは、なだらかな弧を描いて華栄殿へ伸びる廊下に立った。見慣れた庭が、果てしなく深い闇の色を波立たせている。生まれてから一度も海というものを見たことがない。しかし、これこそ読んだ書物の中にあった海ではないかと想像する。波に飲まれたら、あとはもう必死にもがくしかない。


 ――この体は、ただの道具だ。


 先触れから戻ったコルダが、手燭で足元を照らす。アユルはいさりび火に誘われる魚にでもなったかのように、明かりのあとをついていった。


「陛下がお越しにございます」


 女官の声に、タナシアは額が床につくほど頭をさげた。
 先触れがあってから、心臓がばくばくと壊れそうなくらい早鐘を打っている。王が静かに入ってきた。お声がかかるまで、顔を上げてはなりません。女官に教わったとおりに、ひれ伏したまま声を待つ。けれど、王はなにも言わずに前を通り過ぎて、女官が設えた円卓の席に着いてしまった。

 王妃と呼ばれたのは、しばらくたってからだった。
 円卓をはさんで、王の向かいに着座する。タナシアは、アユルの人柄をつかめずにいた。初めて拝した時は、王妃に選んで素っ気なく皇極殿を出ていった。婚儀の日を心待ちにしていると書簡に書いておきながら、婚儀では一度もこちらを見ようともなさらなかった。でも、扇を手渡してくださった時は、とてもお優しかった。


「どうした、そのようにじっと見て。余の顔になにかついているか?」
「い、いいえ。ご無礼を」


 アユルは、青磁の茶杯に湯をそそぐ。黄色の小菊が、茶杯の中でぷかりぷかりと浮かんで揺れる。さじで数回、湯をかき混ぜて、警戒させないように柔らかな表情でタナシアに飲めとすすめた。


「恐れ入ります」


 タナシアは、素直に菊花茶を飲んだ。顔に笑顔を貼りつけたまま、アユルはタナシアの白い喉がごくっと上下に動くのを観察する。王宮で煎じられる菊花茶は、市中のものとは違う。母親はよく、これを妃たちに飲ませていた。

 アナシアが菊花茶を飲み干すと、アユルは席を立って寝所に向かった。寝所に入ると、褥の上に腰をおろしてタナシアを待った。枕元の小さな台に置かれた鉄の香炉から、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。ラシュリルから香る匂いよりも強い香り。あの夜の記憶を細部まで再生するためには、これが必要だった。

 タナシアが、おどおどとした様子で傍に座る。アユルは、タナシアの細い腕をつかんで引き寄せた。これから行われるのは、想い合う男女の睦事ではなく、国事であり願いを叶えるための布石に過ぎない。桂花の香りで自分をだまし、少しも情の湧かない女を抱く。王妃とは、手懐けてこそ価値のある女なのだ。

 しゅるっと腰紐がほどけて、タナシアがきつく目を閉じる。アユルは、タナシアの紅潮した顔を乱れた黒髪で覆った。黒髪の隙間に見える曲線的な顎の輪郭に柔らかそうな唇。記憶になぞらえて、アユルはタナシアに恋しい面影を重ねる。寝所には、濃い桂花の香が充満していた。


「……あ、っ」


 なにかに操られるようにタナシアの夜着を剥ぎ取って、荒い手つきで乳房を揉みしだく。そして、閉じた両足の間に手を伸ばした。


「へい、かっ」


 口を手でふさいで声を殺すタナシアの秘苑を二本の指でかき回し、アユルは性急に屹立した自身をねじ込む。初めて男を受け入れたそこは、擦過するたびにぎりぎりとまとわりついた。中がほぐれてうねるようにうごめき始めると、アユルはタナシアの体をうつ伏せにして後ろから激しく揺さぶった。

 タナシアが、短い悲鳴のような嬌声を上げながら男根を締めつける。アユルは素早く自身を引き抜いて、タナシアの背に精を放った。

 高貴な家で大切に守られてきた珠玉の肌に、玉の汗が浮かんでいる。王妃は、このために育てられたのだ。エフタルの思惑通りに王の寵を得て、次の王を血で支配するために。


 ――王統は、エフタルのものにはならない。


 アユルは、脱ぎ捨ててある夜着でタナシアの背中を拭った。そして、うつ伏せのまま荒い息を繰り返すタナシアに覆いかぶさり、耳元で「明日もまた」とささやく。王の婚儀は、三夜共寝しなくてはならない。

 翌日、アユルは華栄殿でタナシアと過ごした。昼下がり、アユルはコルダを連れて庭の散策に出かけた。庭の木々が、色褪せて落葉し始めている。二人が清殿の前にさしかかった時、さわさわと秋雨が降りだした。


「アユル様、戻りましょう。雨に濡れては、体が冷えてしまいます」
「そうだな」


 ふと足元に目をやると、玉砂利が雨に濡れてところどころ深い黒に変色している。同じ黒なのに、濃淡の差で印象や趣がまったく違う。王妃を初めて見た時、どことなくラシュリルと似ていると思った。だが、完全に非なるものなのだ。

 雨は次第に強まった。造形的に剪定された木葉の螺旋を、雨粒が滑走する。その場を動こうとしないアユルに、コルダが近づいた。


「いかがなさいました?」
「今宵も、桂花の香木と菊花茶を用意しろ」
「かしこまりました」


 庭を引き返していると、華栄殿の方から傘をさしたタナシアが向かってきた。傘を持たずに出て行ったアユルを心配して、わざわざ迎えにきたのだ。


「私は王妃と華栄殿へ戻る。お前は、清殿の書斎から書物を取って来い」
「はい、アユル様」


 アユルは、掟に従ってタナシアと三夜を共にした。王と王妃の仲睦まじい様子が皇極殿に伝えられると、臣下たちは王子誕生もそう遠くはないと大喜びした。


「エフタル様。よき王妃様をお迎えして、陛下も至福でございましょう」


 一人の文官がエフタルに近づき、袖で口元を隠してにたりと笑う。王の祖父になる日が、現実味を帯びる。黙っていても、ゆくゆくは宰相の地位を得られるだろう。エフタルは、びる文官に見下した視線を投げかけた。我が身はお前たちとは違うのだ、というように。

 婚儀から四日目の夜が明けた。
 華栄殿では、アユルの身支度が始まっていた。コルダが侍従になってから、一度も女官を近づけなかった。そのアユルが、初夜の翌日から華栄殿の女官にかいがいしく世話をされている。女官が夜着を取り除くと、傷一つない均整のとれた逞しい体が露わになった。女官たちは、玉体を直視しないように顔を伏せてアユルに衣を着せていく。


「王妃」


 感情のない冷ややかな声に、びくりと女官たちの手が止まる。場の空気が一気に張りつめて、座っていたタナシアの顔がこわばった。


「は、はい、陛下」
「余に女官を近づけるな」
「なにかお気に障りましたか?」
「これは王命だ。はいと一言で従え」
「申し訳ございません、陛下。では、わたくしがいたします」
「よい。コルダを呼べ」


 アユルは女官に出ていくように命じて、悲しそうに眉尻をさげるタナシアの前に片膝をついた。


「今後、余に触れる女官がいたならば、迷わず手をつける。意味が分かるか?」


 アユルが挑発的に笑う。コルダが駆けつけると、王妃が真っ赤な顔をしてアユルを見上げていた。


   

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