第一章 ◆第07話




 アユルは呼吸が整うのを待って、近くに脱ぎ捨ててある袿をラシュリルの体にかけた。長着を雑に着て、一目散に廊下へ向かう。


「コルダ」
「はい、ここにおります」

「宴は、まだ続いているのか?」
「そのようでございます」

「酔いが回って気分が悪い。もう休むと宰相に伝えろ」
「大丈夫ですか?」

「大事ない。国賓の従者はどこに控えている?」
「外廷の庁舎だと思いますが」

「では、すぐにキリスヤーナの王女づきの者を探して、先に宿に戻るよう申しつけろ」
「どういうことですか?」

「詳しいことはあとで説明する」
「は……」

「王女は明日の朝、宿に送り届ける。それまで、王女がいるように装えと」
「か、かしこまりました」


 コルダは、アユルの装いを見てごくりと喉を上下させた。酒酔いで気分が悪くなって脱いだ、というには乱れすぎている長着。それを留めているのは女物の腰紐だ。急げ、とアユルが言う。コルダは、立ち上がって階をおりた。


「コルダ、待て。一つ頼みがある」
「なんでございましょう」
「従者に王女の好きな飲み物を聞いて、明朝、書斎に持って来い」
「……は?」
「早く行け」


 アユルが書斎に戻ると、床にラシュリルの玉佩が落ちていた。玉佩を持つ習慣があるのは、カデュラスだけだ。


 ――なぜ、キリスヤーナの王女が玉佩を?


 玉佩を文机の上に置いて、部屋の明かりをふっと吹き消す。それから、足音を忍ばせて寝所に入ると、規則正しい寝息が聞こえてきた。隣に横たわって、起こさないようにラシュリルを胸に抱く。


「……う、ん」


 腕の中で、ラシュリルが小さく身じろいだ。髪からふわりと漂って、鼻の奥をくすぐる桂花の香り。棘も嫌味もない、いい匂いだ。それに、あどけない寝顔もかわいい。


 ――桂花の姫が、ラシュリルだったらよかった……。


 おびえた顔、笑った顔、驚いた顔。このまま傍に置いて、もっと他の顔も見てみたい。アユルは、ラシュリルをぎゅっと抱きしめて眠りについた。





 目を閉じたまま寝返りを打って、いつものように頭まで布団に潜り込む。素肌を滑るなめらかな絹の感触があまりにも気持ちよくて、ラシュリルは母猫に身を寄せて眠る子猫のように体を丸めた。


 ――ちょ……、ちょっと待って。


 体の節々と下腹部の鈍い痛みに、意識がはっきりと覚醒する。そうよ、ここはカリノス宮殿でもカナヤの宿でもない。記憶が断片的によみがえって、心臓がどくどくと緊迫の律動を刻む。


 ――どうしよう……。


 こういうことは、夫としかしてはいけない。いくら色恋にうとくたって、それくらいの常識はある。ラシュリルは、のっそりと布団から抜け出した。薄暗い部屋は静か過ぎて、この世にたった一人取り残されてしまったかのような心細さを感じる。

 枕元にたたまれた衣を広げて、おぼつかない手つきで袖を通す。そして、身頃を体に巻きつけて腰紐を結ぼうと四苦八苦していると、背後ですっと扉が開いてアユルが部屋に入ってきた。


「起きていたのか」


 手を止めてふり返ったラシュリルの胸元に、アユルの手が伸びる。驚いたラシュリルは、アユルの顔を見上げた。


「よく眠れたか?」


 アユルが、慣れた手つきで衿を合わせながら尋ねる。ああ、服を着せてくださっているのだわ。ラシュリルがそう理解するまで、少し時間が必要だった。


「初めて会った時、異国の服を着ているのかと思った。だが、この国の者ではなかったのだな」
「カデュラスの人に見えましたか?」


 うん、とうなずいて、アユルがラシュリルの肩に袿をかける。ラシュリルは、それに袖を通して律儀に礼を言った。


「あちらで話しを」
「あ、あの……」
「なんだ」
「昨夜は気が回らなくて、その、お兄様になにも言わずに……」
「ナヤタという者に申しつけておいたから、心配はいらない。こちらへ」


 寝所を出て書斎の御座に上がると、机の上に玉佩と茶器が置かれていた。開けられた東側の丸窓から、淡い朝焼けの空が見える。ラシュリルは、先に座ったアユルの隣に腰をおろした。

 アユルが、鉄瓶を持って茶杯に湯をそそぐ。しばらくすると、湯気に乗ってふわりと果実の香りが漂ってきた。


「苺の匂い」
「よく分かるな」
「いつも飲んでいるお茶と同じ香りだから」
「苺の果実茶が好きというのは、本当のようだな」
「どうして知っているのですか?」
「その、ナヤタという者に聞いた」
「ナヤタに会ったのですか?」
「私ではなく、侍従がな。そろそろいいのではないか? 飲んでみろ」


 ラシュリルは、茶杯を手に取って香りを堪能したあと、ふうっと湯気に息を吹きかけて果実茶を口に含んだ。美味しい。自然と、目元や頬がゆるむ。キリスヤーナの苺とは、種類が違うのだろうか。ナヤタがいつも淹れてくれる果実茶よりも少し酸味のきいた、すっきりと目が覚めるような味だ。


「よい顔をするのだな。そなたを見ていると、私の方が嬉しくなる」


 そう言いながら、アユルがラシュリルの頬にかかる前髪を指ですくって耳にかけた。ラシュリルのかわいい耳朶が、赤く染まる。


「あの……」
「あの、ではなくアユルと。私の名くらいは知っているのだろう?」
「は、はい」
「言っておくが、私は悪ふざけをしているつもりもないし、こういうことに慣れているわけでもない。今も、どうやってそなたを喜ばせようかと必死だ」
「どうして、わたしを?」
「あ、愛らしいと……、思ったからだ」


 アユルが、少し照れたように言葉を詰まらせながら答える。ラシュリルは、茶杯を机に置いてアユルの目を見つめた。冗談や嘘を言っているようには見えない。

 どきどきと、左胸の奥で心音が大きく響く。友人たちの恋の話なら、胸がいっぱいになるまで聞いた。夜ふかしをして、流行の恋愛小説だって読んだ。だけど、どれもが他人事で実感のないものばかりだった。

 なぜなら、経験がまったくない。誰かを想って心をときめかせたことも、お兄様以外の男性に手を握られたこともくちづけも、もちろんその先だって――。


「ラシュリル」


 沈黙するラシュリルに、互いの鼻先がつきそうな距離までアユルが近づく。アユルの真剣なまなざしは、沖から静かに押し寄せる波のようだった。この波にさらわれたなら、二度と戻ってはこられない気がする。

 ラシュリルが目を閉じて、アユルがそっと柔らかな唇を食む。ほとばしるような荒さよりも慈しむような優しさが勝るくちづけは、苺の香りを絡めてラシュリルの心深くにアユルを印象づける。他の誰かが、そこへ入り込まないように。

 アユル様、と部屋の外から男の声がした。その声に反応してラシュリルが目を開けると、名残を惜しむように唇が離れた。アユルが、丸窓の方に目をくれてため息をつく。部屋に朝日が差し始めた。


「ラシュリル」
「はい」
「私とのことは、まだ秘密に。侍女にも言うな」


 一気に夢から覚めるような衝撃に胸を突かれる。アユルの言葉に、ラシュリルは驚きと悲しみに瞳を揺らしてしゅんと肩を落とした。


「ナヤタに隠し事をしたり嘘をついたり……。わたしには、そんなことできません」
「そなたの侍女は、心から信頼できて絶対にそなたを裏切らない者か?」

「もちろんです。ナヤタとは、小さなころからずっと一緒に暮らしてきました。姉妹みたいに過ごしてきたのです。だから、誰よりもお互いを信頼しています」

「分かった。では、その者には打ち明けてもよい」
「……ごめんなさい」

「無理をおしつけているのは私なのに、なぜそなたが謝る」
「わがままを、言ってしまったから……」

「私の言い方が悪かったな。このことが公になれば、そなたに害が及ぶかもしれない。だから、口止めをした。他意はない」


 アユルが玉佩を手に取って、うつむくラシュリルの顔を覗き込む。ラシュリルが不安げに顔を上げると、柔和な笑みが返ってきた。


「次に会う時まで、そなたの玉佩を預かってもよいか?」
「次って……。また会えるのですか? 即位式が終わったら、わたしはキリスヤーナに帰るのですよ?」
「必ず会って返すと約束する。だから、私を信じてほしい」


 アユル様、とまた男の声がする。その声に、アユルが「わかった」と返事をして席を立つ。そして、衣桁いこうから男物の黒い表着を取ってラシュリルを呼んだ。


「ここを出たら、姿を見られないように気をつけろ」


 アユルが、ラシュリルの頭に表着をかぶせる。それからアユルは、ラシュリルを抱擁すると手を引いて部屋を出た。廊下に、一人の男が座っていた。


「ラシュリル。この者は、私の侍従で名をコルダという。今からコルダがそなたを宿へ送り届ける」


 ラシュリルが会釈すると、コルダは二人に向かって深々と頭をさげて一礼した。


「あとは頼んだぞ、コルダ」
「かしこまりました。王女様、どうぞこちらへ」





 ◇◆◇





 霧が鋳型いがたに流しこまれたろうのように重く立ち込めて、カナヤの町並みが不思議な朝焼け色に染まった日。新王の即位式が厳かに執り行われた。

 即位式を終えたアユルは、宰相や大臣を従えて皇極殿の廊下に立った。今日は、神と民を隔てるダガラ城の朱門が解放されて、無位の者の入城が許されている。中庭から石段をおりた先にある広場には、おびただしい数の民衆が新王の姿を一目見ようとつめかけていた。


「陛下の立派なお姿に、先王様もさぞお喜びでございましょう」


 背後から、ラディエが満面の笑みで言った。大陸を統べる神として、アユルには最高のものだけが与えられる。傍にいる人間も、選ばれた高貴な者たちばかり。しかし、それらは王の威厳を象徴するだけの空虚なものだ。今の王位に権威は伴わず、本当に望むものは手に入らない。参列者の席に、ラシュリルの姿がなかった。アユルは、頭上に広がる青空を見上げた。

 即位式から三日が過ぎた。
 昨日から断続的に降り続く雨が、小川のように石畳の上を流れていた。新王の即位に湧いた熱気が少しずつ落ち着いて、街が日常へ戻ろうとしている。ラシュリルも明日、帰路につく予定だ。


「ラシュリル様、お客様でございます」


 ナヤタが、窓辺に座っているラシュリルに近づいて声をひそめる。


「誰かしら」


 首をかしげて、ラシュリルは部屋の入り口へと向かった。そこには、コルダが立っていた。


「突然お訪ねいたしまして、申し訳ございません」


 傘を持っていないのか、頭から足までひどく濡れている。ナヤタが乾いた布を渡すと、コルダは「どうも」と会釈して手と頭、次に胴を丁寧に拭った。

 ナヤタが、コルダをまじまじと見て「どこかで」とつぶやく。ラシュリルは、ナヤタに部屋の外で待つように言った。そして、ナヤタが部屋を出るとコルダの前に立った。


「なにかあったのですか?」
「はい。こちらを預かってまいりました」


 コルダが、懐から折りたたまれた紙を取り出す。少し湿気を含んだ紙を受け取って、ラシュリルは紙が破れないよう慎重にそれを広げた。


『心の一番深く美しい場所で、あなたを想っている』


 燃えるような赤い一葉の紅葉が漉きこまれた上質な紙に、美しい文字が流れるように書かてれている。宛名も差出人の名もない短い恋の手紙。ラシュリルはそれを抱きしめるように胸に押し当てて、コルダに深く頭をさげた。


「雨の中を大変だったでしょう。ありがとうございます」
「王女様、わたくしにそのようなお気遣いは無用でございます。それから、こちらをお渡しするようおおせつかりました」


 手渡されたのは、青い絹糸の飾り紐がついた真っ白な玉佩だった。つるつるとした白玉に、不思議な模様が彫られている。中央に炎のように立ちあがる膨らみ。その手前に、網目模様の花びらのようなものがある。植物だろうか。


「あやめの花でございます」
「あやめ?」

「はい、あやめはあの方の紋なのです。この玉佩は、あの方が身に着けるこの世に二つとない品でございます」

「そんなに大事なものをどうして?」
「約束だと言えば分かるとおっしゃっていました」

「そう……。では、信じてお待ちしていますとお伝えください」
「かしこまりました。それで、あの、王女様」


 コルダが、ラシュリルとの距離を一歩詰める。


「はい?」
「アユル様とお会いになりますか?」


 街に出たのは久しぶりだった。
 キリスヤーナ国王一行が滞在している宿から少し離れた路地にある店の軒下で、アユルはコルダの帰りを待っていた。雨のせいか、辺りに人影はほとんどない。

 身を隠すために頭からかぶっている黒い衣の裾から、ぽたぽたと水滴が絶えず落ちる。秋の色が濃くなった昨今、雨に濡れてじっとしていると身震いするほど肌寒い。まだかと待っていると、コルダが息を切らせて雨の中を走ってきた。


「どうだった」
「手紙と玉佩は受け取ってくださいましたが、お会いにはならないそうでございます」
「……そうか。ならば、王宮へ戻ろう」


 アユルは、軒下を出て馬にまたがる。
 即位式にも姿がなかった。今も会わないと言う。心が、いいようのない不安でざわつく。アユルは路地を曲がると、王宮ではなくラシュリルの宿を目指した。


「どこだ」
「こちらの通りに面した二階の、確か……。あちらのお部屋でございます」


 通りからコルダが指さす部屋を見るが、雨に視界を遮られてよく見えない。アユルは、握った手綱を強く引いた。


 ――騒がしいわね。


 甲高い馬のいななきが聞こえて、ラシュリルは窓から外をうかがう。人が行き交う通りに、コルダと黒い衣をかぶった男が馬上からこちらを見ていた。


「アユル様!」


 窓を開けて身を乗り出すと、かぶっていた衣を肩までおろしてアユルが顔を見せた。地を打ちつける雨が、初めて会った時を彷彿とさせる。アユルとラシュリルは、雨をかいくぐるように視線を交わした。通りの往来が、傘の下からアユルを見上げて立ち止まり始める。


「アユル様、衣をおかけください。このままでは騒ぎになります」


 コルダが、慌ててアユルに声をかける。アユルは衣をかぶると、ゆっくりとラシュリルから視線をはずして馬の腹を軽く蹴った。たっぷりと雨水を含んだ黒い衣の裾が重たくひるがえって、アユルの姿が通りの向こうへ消えていく。


「アユル様!」


 雨が、激しく石畳をたたきつけて跳ね上がる。ラシュリルは窓際に座りこんで、二人が消えていった通りをいつまでも呆然とながめていた。

 翌日、キリスヤーナ国王一行は、帰国の途についた。昨日までの雨が嘘のように、まぶしい太陽が輝く気持ちのいい朝だった。ラシュリルは、手紙とあやめの玉佩を荷物の中にしまって馬車に乗り込んだ。

 信じてほしいと言われたけれど、信じたい気持ちと疑う気持ちがせめぎ合っている。会うかと聞かれた時、本当はもう一度会いたかった。けれど、別れがつらくなりそうで会えなかった。

 カデュラス国王が国を離れることはない。それは、きっとわたしも同じ。帰国したら、もう二度とこの地を踏むことはないだろうから――。

 車輪が、ごとっときしんで石畳の上を回り始める。ラシュリルを乗せた馬車は通りを曲がると、ダガラ城の朱門から真っ直ぐに伸びている大通りを国境へ向かって進んだ。

 そのころ、アユルは女官長に華栄殿かえいでんの手入れを命じて書をしたためていた。
 華栄殿というのは、王宮の御殿の中で最も清殿に近い場所にある王妃の居所だ。間もなく華栄殿は主を迎える。アユルが望む者ではなく、王にふさわしい高貴な血筋の女を。

 妃に限ったことではない。崇高な神の血に異民族の血が混ざらないよう、王に仕えるのはカデュラスの正統な良家の女人と定められている。長い歴史の中で、一度たりとも異国の者が王宮に住んだことはない。


「王女様は、無事に発たれたでしょうか」


 コルダが、白湯をそそいだ茶杯を文机に置く。アユルは、手を止めてコルダに向いた。


「そうだな」
「随分と落ち着いていらっしゃいますね。もう会えないかもしれませんのに」


 コルダの語気が少し強いのは、主人を思い量ってのことだ。


「傍に置きたい」
「でしたら、そうなさればよろしいではございませんか」

「今はだめだ」
「なぜです。アユル様がお望みになれば!」

「今の私が望めば、いずれラシュリルをこの手で殺さなければならなくなる。この王統に異民族の血を混ぜてはならない。私はそれを心得ておきながら、ラシュリルを抱いたのだ」


 屋根から、雨の名残がしずくとなって玉砂利に落ちる。清らかな滴下の音に耳を傾けながら、アユルは涼しい顔で再び筆を取る。

 城下にあるエフタルの屋敷では、輿入れの準備が始まっていた。王妃に選ばれた桂花の姫の部屋には所狭しときらびやかな着物や装飾品が並び、使用人たちが品々を念入りに磨いている。


「滞りなく進んでおるか、タナシア」


 エフタルの声に、タナシアがふり返る。その手には、王宮から届いたばかりの書簡が握られていた。婚儀の日を心待ちにしていると、美しい手蹟で綴られたそれには、鮮やかな朱色の王印が押され、あやめの押し花が添えてあった。


   

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