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第一章 ◆第03話




 カデュラスの王宮では、女官たちが新しい主を迎える準備に追われていた。もうすぐ、ホマの儀式が終わる。それまでに、王宮の御殿という御殿を隅々まで掃除して、調度品や衣、紙一枚にいたるまで、すべてを新調しなくてはならない。

 そんな中、女官長が王子の侍従を訪ねて神陽殿にやってきた。身の回りの世話もさることながら、アユルと女官を取り次ぐのも侍従の大事な役目である。

 コルダは、控えの間で女官長に深々と頭をさげて服従の意を表す。彼は、若草色の衣が似合う二十歳そこそこの若者だ。顔つきからして柔和で、男性特有の勇ましさというものがなくどこか中世的な感じがする。

 カデュラスでは、王の住まいである王宮に男を雇う習慣はない。神の血筋を厳格に守るために、男子の出入りをきつく制限しているからだ。本来であれば、二、三十人の女官が王子にはべって日常の世話をするのだが、当代の王子は違っていた。女官を毛嫌いして寄せつけよともせず、コルダ一人にすべてを任せている。


「儀式が終わる前に、必ずお目通しいただくよう王子様にお伝えください」


 女官長が、声を落として巻物を一巻コルダに手渡す。


「こちらはなんです?」
「王子様の御ために、清殿にお仕えする女官を選定しました。その名簿です」
「……なるほど。かしこまりました」
「王子様は、変わりなくお過ごしか?」
「少しお疲れのようです」
「なんと……。大切な御身であらせられます。しかとお世話つかまつりなさい、コルダ殿」
「重々に承知いたしております」


 王宮には、下働きまで入れると二千人を超える女人が勤めている。清殿に仕えるとなると、女官の中でも特に高家出身の者に限られる。一体、誰が選ばれたのだろうか。

 女官長を丁重に見送って、コルダは巻物をそろそろと広げた。女官の名前とその父親の官位が、三十余名分、ひょろひょろとした字で書かれている。やはり皆、高官の娘ばかりだ。誰の差し金かは見当もつかないが、あけすけな意図が見て取れる。


 ――これは、アユル様の機嫌を損ねてしまいそうだな。


 コルダは、慣れた手つきで巻物を紫檀したんの軸に巻いて紐をくくった。
 それから幾日か過ぎた。腐敗処理を施されたマハールの遺体が黄金の棺に納められて、ひと月半にも及んだホマの儀式は終わった。

 アユルは、神陽殿を出て大きく伸びをした。空に向かって、黒い長着に濃紫の袴をまとった長身の体が気持ちよさそうにしなる。少し遅れて、侍医たちに挨拶を済ませたコルダが、荷を抱えて神陽殿から出てきた。


「お待たせいたしました、アユル様」
「日差しが弱まったな」
「もう秋でございますね」
「そうだな。さて、行くとするか」


 二人は、これからアユルの居所となる清殿を目指す。
 神陽殿の一帯と王宮との間には小川が流れていて、朱塗りの反橋が一本架けられている。アユルは、橋の手前で歩みを止めた。

 橋の向こうにあるのは、五重の楼閣が一つに延々といらかを連ねる入母屋造りの御殿たち。重たい色をした御殿の琉璃瓦が、陽光を反射して大海原の白波のように美しく波打っている。そこは、ダガラ城の奥。カデュラス国王と妃たちが暮らす後宮だ。


「父上の妃どもは、まだ王宮にいるのか?」
「いいえ。ホマの儀式が始まって早々に、王都の屋敷へお移りになったそうです」
「そうか、ならばよい」


 アユルには、正妃や妃はおろか手つきの女官などもいない。マハールの妃たちが暮らした御殿は、主を失って空っぽのまま新しい御代を迎えることになった。橋の下から、清々しい小川のせせらぎが聞こえてくる。アユルは、三途の川を渡る死人のような気分で橋を渡った。


「女官長が神陽殿に来たらしいな」
「はい。アユル様にお仕えする女官の名簿を持ってこられました。わたくしがお預かりしておりますので、後程ご覧ください」
「なんだ、そのような用事でわざわざ神陽殿まで来たのか。女官の名簿など、私が見る必要があるか?」
「必ずお目通しいただくようにと言われました」
「私が手をつけてもさわりない身分の者が選ばれたのだろうな」
「……まぁ、そのようでございますね」
「据え膳のつもりか。わずらわしい」


 コルダの予感は的中した。案の定、アユルは顔をしかめて不機嫌になってしまったのだ。
 清殿は広大な王宮の中央に建っていて、神陽殿からは相当な距離がある。反橋を渡り終えて、いくつもの御殿を通り過ぎる。それから池泉庭園の池を周回して、剪定された木々の合間を行く。玉砂利の庭を歩いてやっと清殿の前に着いた時、アユルの涼しげな顔にはうっすらと汗がにじんでいた。

 五段のきざはしを上がって、コルダがアユルの装いを整える。そして、二人は高欄こうらんに沿って白木の廊下を歩いた。最初の角を曲がると、着飾った女官たちが整列して座っていた。王の居所に仕える女官たちには、それ相応の位と禄が与えられる。なにより、彼女たちにとって王に近侍することは大変名誉なことだった。


「お待ち申し上げておりました、王子様」


 女官が一斉にひれ伏す。
 アユルは女官たちを一瞥して、コルダが開けた妻戸から清殿に入った。後ろを、ぞろぞろと女官がついてくる。殿内には、お香と化粧の匂いが立ち込めていた。背後から影のようにつきまとう衣擦れの音。これからこの者たちに囲まれて生活しなければならないのかと思うと、心底うんざりする。

 その日、アユルは早々に寝支度を済ませて、月がのぼる前に床についた。ホマの儀式が行われていた間、まとまった睡眠をとれない日々が続いたせいで体が疲れきっていたのだ。死んだように深く眠って、喉の乾きをおぼえて目を覚ます。今は夜か朝か。近くに人の気配がある。アユルは夢見心地で、いつもコルダにそうするように声を発した。


「……み、ず」
「お目覚めでございますか、王子様」


 細い声に、一気に目が覚める。アユルは、体を起こして声の主を凝視した。女官が一人、しとねの傍に座っていた。燭台しょくだいの明かりが、黒髪と白い顔を照らす。女官は真っ赤な紅をさした唇でほほえんで、枕元に置かれた盆に手を伸ばした。


「コルダはどうした?」
「お休みになられたのでしょう。もう夜半過ぎでございますから」


 女官が、茶杯に白湯を注いで手渡す。アユルは、それを飲み干して茶杯を女官に戻した。五衣いつつぎぬの袖から少しだけのぞく白い手が、わざとアユルの手に触れるように茶杯を受け取る。


「ここでなにを?」
「なにをとは。わたくしは、王子様にお仕えする者です。真心をつくしてお世話するのが、本分でございますわ」
「それは感心なことだな」
「王子様……」


 茶杯を盆に置いて、女官が身を乗り出すように夜着の上からアユルの胸板に両手をついた。美しい顔に浮かぶ妖艶な笑み。上目に見つめてくる目は、ただならぬ欲をはらんでいる。


「私の妃になりたいのか?」
「いいえ、そのような高い望みはございませんの。ずっと……、ずっと王子様をお慕い申し上げておりました」


 王宮に棲む魔物は、呼吸をするようにしたたかで白々しい嘘をつく。アユルは、女官の腰に手を回して抱き寄せた。息が触れ合い、唇が重なりそうな距離。とぼしい明かりの中でも、女官の顔が上気しているのが分かる。


「そうか。明日の夜、皆が寝静まったあとにここへ来い。ホマの儀式が終わったばかりだ。今宵は疲れていて、お前を満足させてやれそうにないからな」
「わたくしめの思いを、本当に受け取ってくださいますの?」


 女官の目が、驚いたように大きく開く。大胆に仕掛けてきたくせに、とがめられるとでも思ったのか。それとも、期待にうつつを抜かしているのか。考えるのも面倒だ。アユルは、言葉の代わりに表情をゆるめて軽い笑みを女官に返した。

 恍惚とする女官をさげて、褥にごろんと仰向けに体を投げ出す。女官の残り香が、体にまとわりついて不快極まりない。結局、満足に眠れないまま夜明けを迎えてしまった。

 アユルは、朝の支度にやってきたコルダに、女官長と清殿に仕える女官を広間に集めるように申しつけた。そして、食事と身支度が済むと広間に赴いて、女官たちを尻目に女官長に向かって淡々とした口調で言った。


「私に女官は必要ない。免職しろ」


 一度王宮に入った者は、死ぬまで王宮から出られない。それが古来よりのおきてである。女官長がそれはできないと反論すると、アユルは女官から下働きまですべての女人を王宮から追い出すよう命令を下した。さらに、猶予は三日とし、四日目に残っている者の首をはねるとまでつけ加えた。

 前代未聞の事態に、女官たちは右往左往の末、蜘蛛の子を散らすように王宮を出ていくしかなかった。残されたのは、つつましい古参だけだった。

 王宮は、不気味なほど静かになった。特に、アユルとコルダしかいない清殿は、夜ともなれば水の底に沈んでいるかのように物音一つしなかった。

 こうして、時の流れをじっくりと感じる夜は生まれて初めてかもしれない。アユルは、書斎の御座おざに座って脇息にもたれかかった。御座の畳や文机、脇息や調度品など、ありとあらゆる品が新調されている。マハールの名残はどこにもない。しかし、しんしんと身にしみる静けさが、マハールの死を呼び起こす。

 父上が息を引き取った夜はもっと静かで、まるで時が止まっているかのようだった。いまわの際、病にむしばまれて骨と皮だけになった父上の手は、空をつかんで、顎で喘ぐような呼吸が止まると同時に敷布に落ちた。あの瞬間、胸にはなんの感情もなかった。母上が身罷られた時と同じように、もう死ぬのだなと、ただ生命の終焉をながめていただけだった。

 あの手を握り返せば、悲しみがこみ上げたのだろうか。父を思慕する情がわいて、先の王たちに恥じない立派な王になろうと思えただろうか。

 いや、とアユルは眉をひそめる。
 神の系譜に、人の情は無縁だ。それに、カデュラス国王は死んでも人として土に還れない。名と朽ちることのない体だけを残して、死後も神を演じなければならないのだ。


 ――ばかばかしい。


 文机の端に、手つかずの書簡が山積みになっている。アユルは、一番上に置かれた宰相からの書簡を手に取って、すぐに元の場所へ戻した。読まなくても、なにが書かれているかなど容易に想像がつく。

 十五の春、成人の儀と同時に正妃を迎えるはずだった。あれから十年。かたくなに拒み続けてきたが、さすがにこれ以上は無理だろう。臣下からおしつけられる女人をめとって、王統を存続させなければならない。それは、王の義務。神の系譜を継ぐ者につきまとう、決して逃れられない呪い。これ以外の人生など、思い描くことすら許されないのだ。

 脇息から体を離して、文机の上に地図を広げる。アユルの短い黒髪は部屋の暗がりと同化して、顔の白い輪郭がゆらゆらと燭台の炎に揺れた。

 大陸のほとんどが、カデュラス領だ。地図には、カデュラスの他にタナン公国、キリスヤーナ王国、サリカタル王国、ハンリー公国、デュライス王国だけが描かれている。それらの国は、内政や国王の即位、王族の婚姻など、国の統治に係るほとんどをカデュラス国王の許可のもとに執り行わなくてはならない。つまり、カデュラスの属国として生かされている。

 燭台からじじっと濁った音がして、煙が一筋立ち昇る。随分、時間がたっていたようだ。アユルは地図をたたんで、燭台にふっと息を吹きかけた。今夜からは、誰にも邪魔されずに朝まで快適に眠れるだろう。

 明日、マハールの棺が王都のはずれにある陵墓に納められて国中が喪に服す。アユルが王位に就くのは、喪が明けて秋が深まるころだ。


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