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第一章 ◆第02話




 かくして、ラシュリルはカデュラスに行く機会を得た。けれどもそれは、過酷なひと月の幕開けでもあった。翌日、ハウエルが礼儀作法の先生として連れてきたのは、宮廷のしきたりや礼儀を重んじ、厳しいと有名な伯爵夫人だったのだ。

 年相応の落ち着いた色とデザインのドレスの裾を少し持ち上げて、夫人が「ごきげんよう、王女様」と白髪を結った頭を優雅にさげた時、ラシュリルは思わず顔をひきつらせて二、三歩あとずさった。

 ハウエルはお転婆と言うが、ラシュリルは王女としての教育をちゃんと受けている。だから、品がないというわけではなく、少しばかり威勢がよすぎるのである。


「高貴なご令嬢が、ドレスをたくし上げて廊下を走るなんて断じてなりませんよ」


 それが、夫人から受けた最初の指導だった。朝から晩まで夫人と行動を共にして、歩き方から目や手の動きまで注意される日々。ラシュリルにとってなによりもつらかったのは、使用人たちと部屋の掃除をしたり庭の草刈りをしたり、そういった日課を禁じられたことだった。悪いことではないのだから……、と夫人に言ってみたけれど、身分にそぐわないと一蹴されてしまった。

 夫人は正しい。幼馴染の令嬢たちからも王女らしくないと笑われる。でも、恥ずかしいとかやめようとか思ったことは一度もない。掃除をしながら、たわいもない話をしたり悩みを相談し合ったり。年の近い彼女たちは、宮殿で一緒に暮らす家族同然で、身分よりも大切な存在だから。

 ある日、昼食のパンを頬張りながら意気消沈したようなため息をつくラシュリルに、夫人が言った。


「わたくしは、誰に対しても分け隔てなく接する王女様の人柄を、とても好いているのですよ」


 夫人から注意されてばかりのラシュリルは、一瞬、面食らってしまった。しかし、夫人のにこやかな表情を見て、ほめられたのだと気づく。


「……夫人」
「王女様としての振る舞いが完璧にできるようになったら、いくらでもお好きになさいませ。ただし、人目につかないようにね」


 茶目っ気たっぷりに片目をつむって声をひそめる夫人に、ラシュリルは笑顔で「はい!」と返事をしたのだった。夫人は、すぐにいつもの厳しい先生に戻ってしまったけれど、夫人の言葉がとても嬉しかった。

 礼儀作法の他にも、即位式に着用する衣装をあつらえたり髪飾りをそろえたり、一カ月は慌ただしくあっという間に過ぎていった。

 朝日がさし込む王女の私室で、伯爵夫人がラシュリルのドレスを整えて一歩後ろにさがる。そして、鏡越しに目を合わせてにっこりと笑った。夫人がラシュリルのために選んでくれたのは、レースをふんだんに使った薄い橙色だいだいいろのドレスだった。


「王女様は、淡い暖色がとってもよくお似合いになるわ」
「本当?」
「ええ。華やかで柔らかくて、王女様の笑顔にぴったり」


 ラシュリルは、ほほを赤く染めて夫人の笑顔にほほえみ返す。


「お兄様は、わたしをカデュラスへ連れていってくださるかしら」
「まだそんなご不安が?」
「……ええ」
「堂々となさって。大丈夫、このわたくしがみっちりと指導いたしましたもの」
「ありがとう、夫人」
「王女様にたくさんの祝福がありますように」


 夫人が、礼をとって部屋を出ていく。もうすぐハウエルがやってくる時間だ。ラシュリルは、侍女にハウエルを出迎えるように言った。

 行儀作法を徹底的に叩き込む修行のような毎日に、王女様は泣き言一つ言わずに耐えていらっしゃいます。王女様の変わりように、きっと驚かれることでしょう。

 指導を任せた伯爵夫人はそう言っていた。しかし、たった一カ月でそんなに変わるものだろうか。にわかには信じがたい。ハウエルは、ラシュリルの部屋の前に立って「よし!」気合いを入れた。もしも妹に変化がない時は、はっきりと留守番を申しつける。あの笑顔に負けてなるものかと、意を決してドアをノックする。


「ラシュリル、僕だよ」


 声に応えるように、大きな扉がゆっくりと開く。ハウエルは、いつものように両手を広げた。ラシュリルは、必ずこの胸に飛び込んでくる。かわいらしい笑顔で、仔犬のように。さぁ、おいで!


「ハウエル様?」
「……えっ?」


 侍女の声に、ハウエルはうろたえた。侍女が、肩を揺らして笑っている。不遜ふそんにもキリスヤーナ国王を笑うこの侍女は、子供のころからラシュリルに仕えているナヤタだ。


「あれ、ラシュリルはどうしたの? いないの?」
「いいえ、いらっしゃいますよ。奥の部屋でハウエル様をお待ちです」
「あ、ああ……、そうなんだ。あ、ほら、いつも飛びかかってくるから」


 肩透かしを食らったハウエルは、姿勢を整えて奥の部屋に向かった。そして、部屋の入り口で立ち止まって目を丸くした。

 なんと、あのラシュリルが、優雅にドレスをつまみ上げて、貴婦人のようにほほえんでいるではないか。化粧や華やかなドレスのせいではない。落ち着いた雰囲気が漂っていて、立ち姿だけでも印象がまるで別人だ。


「お待ちしていました、お兄様」
「見違えたよ。伯爵夫人の言ったとおりだ」
「……それで、カデュラスに連れていってくださる?」
「うん、合格だよ。よく頑張ったね」


 ハウエルは、ラシュリルの手を取ってその甲にくちづけた。白くほっそりとした指先から、甘い花の香りがする。その香りに、キリスヤーナ人とはまるで違う風貌の女の子が宮殿に来た日を思い出す。

 母に手を引かれた黒髪の女の子は、ぽかんと口を開けて宮殿を見回していた。あのかわいらしい姿が、今でもしっかりと記憶に刻まれている。あなたの妹よ。そう母に言われた時の気持ちは、よく思い出せない。けれど、あの日からラシュリルは、なによりも大切な宝物になった。


お嬢様マイ・レディー、僕と庭園を散歩してくださいませんか?」
「お兄様ったら。もちろん、喜んでご一緒させていただきます」


 ラシュリルは、嬉しそうに笑ってハウエルと部屋を出た。その後ろを、ナヤタがついていく。二人が並んで絨毯敷きの廊下を歩いていると、向こうで一人の使用人が両手にあふれそうな布を抱えてあたふたしているのが見えた。「大変!」と言って、ラシュリルが使用人に駆け寄る。


「大丈夫? わたしも持つわ」
「ラ、ラシュリル様、おやめください。ハウエル様にしかられてしまいますわ」
「大丈夫よ。どこへ運ぶの?」
「……三階の客室です」
「分かったわ。一緒に運びましょう」


 ラシュリルが、ハウエルとナヤタを置き去りにして階段を上がっていく。ナヤタの背後で、ハウエルがくすっと笑った。


「申し訳ございません、ハウエル様」
「心配しなくてもいいよ。これくらいのことでカデュラス行きの許可を取り消すほど、僕は意地悪じゃないから。それに、僕はラシュリルのああいうところが好きで、うらやましいと思っているんだ。庭で待っているから、ラシュリルにそう伝えて」
「かしこまりました」


 三階の客室から戻ったラシュリルは、ナヤタから言伝を聞いてハウエルが待つ庭園へ急いだ。濃い灰色の雲が空を覆って、今にも雨が落ちてきそうだ。


「ごめんなさい、お兄様。お待たせしてしまって」
「気にしないで」


 ハウエルが、ラシュリルの手を取ってエスコートする。少し歩いた先に、手毬てまりのような赤い花が咲いていた。毎年、必ず誕生日のころに咲くこの花には、『あなたがいて幸せ』という花言葉があるそうだ。


「なんて綺麗なの!」
「二、三日前から咲き始めてね。早く君に見せたかったんだ。最近は、ゆっくり庭を歩く暇もなかっただろうから」
「ありがとう、お兄様」

 花に触れるラシュリルの顔に、自然と笑みが浮かぶ。
 ぽつりぽつりと雨が降り始めた。キリスヤーナの夏は短い。季節の境目に降る雨が本降りになると、途端に気温がさがる。ハウエルが宮殿に戻ろうと言う。しかし、ラシュリルは花をながめ続けた。

 よみがえる幼い日の記憶。当時、国王だったお父様は、庭師のように麦わら帽子をかぶって、汗をかきながら花の手入れをしていた。そして、これはお前が生まれた日に植えたのだと頭を優しくなでてくれた。

 キリスヤーナは、一夫一妻を法で定めている国だ。しかし、先代のキリスヤーナ国王は禁忌を犯した。妃を持つ身で、カデュラス人の娘と恋に落ちたのだ。二人はすぐに引き離されたが、既にカデュラス人の娘には新しい命が宿っていた。宮廷を揺るがす大事件だった。

 事態を収めるには、母娘を処断して追放するしかない。しかし、王妃であったハウエルの母親は、子供に罪はないとラシュリルを引き取って我が子のように育てた。


 ――わたしは、皆に愛されている。


 新王様の姿を見たいと、本心ではないことを言って大好きなお兄様を困らせた。嘘は嫌い。だけど、お母様が生まれ育った国をこの目で見て知りたいと言えば、悲しい思いをする人がいるから……。

 勢いを増した雨が、ラシュリルの頬を伝う。しずくの温かさは、雨のものか涙のものか分からない。体が冷えてしまうよと、ハウエルがジュストコールを脱いでラシュリルの肩にそっと掛けた。

 ラシュリルが、ハウエルと共にカデュラスへ向けて旅立ったのは、それから数日後のこと。宮殿には大勢の貴族が、王都の沿道にはおびただしい数の民衆が押し寄せて、とてもにぎやかな旅立ちだったという。


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