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第一章 ◆第01話




 ◇◆◇


 西へ向かったカデュラスの使者が大陸最西端の国キリスヤーナに到着した夜、カリノス宮殿では盛大な祝宴が開かれていた。国王の妹ラシュリル・リュゼ・キリス王女が、十八歳の誕生日を迎えたのである。

 晩餐のあと、若者たちは舞踏の間へ移動してダンスに興じていた。豪奢なシャンデリアの下で、一組になった男女が、楽師の奏でるワルツの調べに合わせて優雅なステップを踏む。こうした社交場は、恋の芽生えに最適な場だ。特に今夜は、王女の相手を探すという国王の思惑もあって、未婚の若い貴族だけが舞踏の間への入室を許可されていた。

 ハウエル・ナダエ・キリスは、少し離れた所から妹の様子をうかがった。先程から社交界の貴公子たちがラシュリルにダンスを申し込むが、彼女はごめんなさいと断ってばかりで一向に応じる気配がない。見かねたハウエルは、ラシュリルに近づいて声をかけた。


「主役の王女様。皆の誘いを断って、こんな隅っこでなにを?」
「お兄様……。見ていらしたの?」
「ずっとね」
「嫌だわ。恥ずかしい」
「もしかして、お目当ての相手がいるのに声をかけられずにいるのかな? ここから見えるのは……。ああ、見目麗しい近衛隊の将校様か」

 兄の冷やかすような言葉に、ラシュリルが目を大きくしてうっすらと頬を染める。くっきりとした二重に縁取られた綺麗な目にふっくらとして柔らかそうな唇。それから、きらびやかなドレスが強調するしなやかな体つき。ラシュリルは充分に大人だ。

 実は、年頃の貴族たちが随分前から、かわいらしくて美しい王女にざわめき立っている。しかし、そんな男たちの視線に気づいていないのか、妹は色恋にまったく関心を示さない。それが、ハウエル目下の悩みだ。

「ち、違うわよ、お兄様」
「僕は、兄としてキリスヤーナ国王として、君がそういう青年を紹介してくれる日を待ちわびているんだよ」
「わたしは……。皆の話を聞くだけで胸がいっぱいなの」
「そうは言っても、君はもう十八だ。気になる人くらいいるだろう?」
「いないわ。本当よ、お兄様」
「まあ、そういうことにしておくよ。でもね、これは君のための舞踏会なんだよ。相手を見つけて、一曲踊ってきなさい」


 ハウエルがいたずらっぽく片目をつむるので、ラシュリルは恥ずかしさに耐えきれずにうつむくしかない。ハウエルが、ほらと背中を押す。嫌よ、と顔を真っ赤にして首を横にふるラシュリルの後頭部で、一つに結われた黒髪が馬のしっぽのように激しく揺れた。


「まったく、今日の主役なのに君ときたら。いつもの元気で活発な王女様はどこだい?」
「もうやめて。わたし、こういうのは本当に苦手なの」
「はぁ……、しかたがないなぁ。僕が、奥手な王女様の相手をするとしよう」
「もう、お兄様!」
「はいはい。お手をどうぞ、ラシュリル王女」


 ハウエルが、ぷくっと頬を膨らますラシュリルの手を引いてシャンデリアの下にいざなう。照明にきらめくハウエルのくるりとした柔らかな金髪とラシュリルのつややかな黒髪。髪だけではなく、瞳の色もまったく違う。しかし、今となっては兄妹の対照的な容姿を気に留める者はいない。

 ラシュリルは、兄の顔を見上げてほほえんだ。いくつになっても仲のいい兄妹に、貴族たちが羨望を含んだまなざしを向ける。そして、二人が最初のステップを踏み出そうと呼吸を合わせたその時だった。扉が勢いよく開いて、老齢のアイデルがひどく慌てた様子で駆け込んできた。


「ハウエル様、カデュラスより使者が到着いたしました!」
「カデュラスから?」
「はい。カデュラスの国王陛下が崩御なされたそうでございます。とにかく、お急ぎください!」


 突然の知らせに、ワルツの調べがぴたりと止んで舞踏の間がしんと静まり返る。ハウエルがアイデルと共に舞踏の間を出ていき、祝宴は中断を余儀なくされた。

 翌日、カリノス宮殿の大広間には、朝早くから大勢の貴族が集った。噂好きの彼らは、早速、カデュラス国王の話題で盛り上がっている。ラシュリルは、いつものように貴族たちと挨拶を交わして席に着いた。すると、すぐに四人の令嬢が寄ってきた。彼女たちは、ラシュリルの幼馴染だ。


「ねえ、知ってる?」


 席に着くや否や、侯爵令嬢が意味ありげに笑って皆の顔を見回す。ラシュリルたちは、一斉にテーブルに肘をついて身を乗り出した。これは、侯爵令嬢の「ねぇ、知ってる?」に対する条件反射であり、彼女の話を聞く時の基本姿勢である。四人の鮮やかなドレスの色彩で、丸テーブルが大輪の花と化す。


「カデュラスの新王様よ」
「その方がどうかしたの?」


 侯爵令嬢の投げた餌に食らいついたのは、十五歳の子爵令嬢だった。いい気になった侯爵令嬢が、得意げな表情で話し始める。


「ハウエル様と同じくらいのお年だとか」
「二十三、四歳ってこと? お若いのね」

「真っ黒な御髪おぐしに漆黒の瞳。背がすらりと高くて、面立ちは女性と見違えるほど美しいのですって!」
「ああ、想像するだけで胸が高鳴るわね。お会いしてみたい」

「無理よ。だって、ハウエル様でもそうそうお目にかかれない方なのよ。残念だけれど、わたくしたちが御姿を拝見する機会なんて一生ないわ」

「キリスヤーナへお越しくださらないかしら」

「知っているでしょう? カデュラスの国王陛下が国をお離れになることなんてないの。それに、新王様は病弱でダガラのお城を出たことがないらしいわ。そのせいか、まだご結婚もされてないそうよ」


 ここは、カデュラスから遠く遠く離れた地。それに、貴族たちの暇つぶしのような噂というのは、往々にして事実とは異なっていて、もれなく尾ひれはひれがついている。ラシュリルは、うわの空で相槌あいづちを打ちながら、新王ではなく、カデュラスの地に思いをはせる。

 書物の中でしか知らない国。空はなに色をしていて、どのような花が咲いているのだろう。そこに暮らす人々は、活気に満ちて意気揚々としているのだろうか。想像するだけで気持ちが高揚する。


「お兄様にお願いしてみようかしら」
「なにか言った、ラシュリル?」
「ううん、なんでもないの。用事を思い出したから、先に失礼するわね」


 新王様の即位式に、キリスヤーナ国王であるお兄様は必ず参列する。それに同行できれば……。
 ご婦人方は、それぞれの会話に夢中でこちらに関心がない。ラシュリルは席を立つと、天敵の目から逃れる草食動物のように身を低くして大広間を抜け出した。

 廊下によく見知った衛兵が立っていたので、ご苦労様とにこやかに声をかけてハウエルの部屋へ続く廊下を曲がる。そして、誰もいないことを確認すると、ドレスの裾をたくし上げて走った。とても年頃の令嬢とは思えないその身のこなしを、伯爵夫人が笑いをこらえて見ていたとも知らずに。





 カデュラスの使者は、二日後に帰国するそうだ。それまでに、追悼と新王即位の祝辞をしたためた書簡と即位式に参列する者の名簿をそろえなくてはならない。

 ハウエルは、ペンを置いて大きく伸びをした。
 カデュラスへの忠誠を示すことこそ、属国の君主に課せられた最大の使命だ。書簡に並べる言葉を選ぶ作業は、実に根気を要する。

 ふと暖炉の方に目を向けると、妻のマリージェが本を読んでいた。イスの背もたれに体を預けてぱらりとページをめくり、時々、本から離れた片手がテーブルの上で湯気をくゆらせるティーカップをつかむ。ああ、なんて綺麗なんだろう。愛妻の優雅な所作に、ハウエルの鼻の下がだらしなく伸びる。


「お兄様!」


 突然、ラシュリルに視界を遮られて、ハウエルは「うわぁ!」と情けない悲鳴を上げた。


「ねぇ、お兄様。お願い!」
「びっくりしたな、もう。いつの間に来たの……」

「あら、ちゃんとノックしたわ。ねぇ、お兄様。お願いがあるの。わたしをカデュラスに連れていってくださらない?」

「また突拍子のないことを言う。ほら、向こうでマリージェと紅茶でも飲んで落ち着くといいよ。僕は仕事中だ」

「仕事中ですって? お義姉ねえ様を見てうっとりしていたのに?」
「いや、それはだね……」

「一生のお願いよ、お兄様」
「どうしてカデュラスに行きたいの?」

「新王様のお姿を一目見てみたいから」
「本当に?」


 ハウエルの怪訝けげんな表情に、ラシュリルはどきりとする。


「わたし、変なことを言ったかしら?」
「昨夜の奥手な王女様とは別人だな、と思ってね」

「そっ、それとこれとは別よ」
「へぇ、そう」

「本当よ。皆が噂しているのを聞いて、新王様への興味が湧いたの」
「疑わしいな」

「ねぇ、お兄様! 信じて!」


 二人のすぐ傍で、アイデルが呆れた顔をして書簡が出来上がるのを待っている。彼は、先王の代から四十年近くキリスヤーナ国王の側近を務めている温和な紳士だ。マリージェが、肩をすくめてアイデルに目配せした。


「ハウエル様。どうぞ、書簡を書き上げてくださいませ。早くいたしませんと、名簿の処理が間に合いません」
「分かってるよ、アイデル。書く。書くから、このわがままな妹をどうにかしてくれないか?」

「アイデルに泣きついたって無駄です。お兄様がいいって言ってくださるまで、絶対に傍を離れませんからね!」

「あのね、ラシュリル。カデュラスはとても遠いんだよ。それに、王族の君を連れていくとなると、当然、即位式にも出てもらわなくてはいけない」

「ええ、新王様を拝見したいのだもの。お兄様と一緒に参列します」
「簡単に言うけれど、即位式は遊びじゃない。お転婆な君が粗相でもしてごらんよ。僕は……」


 ハウエルが神妙な顔をして、右手の親指をナイフに見立てて首を切る真似をする。その仕草に、さすがのラシュリルも恐ろしくなってごくりと生唾を飲んだ。しかし、こんな脅しにひるんでは、せっかくの機会を逃してしまう。


「じゃあ、おしとやかにする。それなら問題はないでしょう?」
「なんだって? 君がおしとやかにするだって?」


 ハウエルが、青い目を細めてあからさまな疑いを妹に向けた。兄妹の間を、拮抗きっこうの沈黙が支配する。ハウエルは過去に一度、カデュラスまでの旅を経験していた。それは、先代が譲位を決めて、襲位の許しを得るためにマハールに謁見えっけんした時だった。国を越えて、ひたすら山道を行く長旅。男の身でこそなんとか耐えられたが、宮殿での平穏な暮らししか知らない妹にあの旅は酷だろう。


「だめなものはだめだ。君はマリージェと留守番を頼むよ」
「お願い、お兄様。わたしをカデュラスに連れていって!」
「ラシュ……」


 腕をつかまれて、困り果てたハウエルがラシュリルの顔を見る。ラシュリルはにっこりと笑っていた。彼女の笑みは、朗らかで少しの翳りもない温もりに満ちた優しい光だ。ハウエルは、観念したように短い息を吐いて肩の力を抜く。


「お隣のサリタカル王国との国境近くからはずっと険しい山道だよ。何日か野宿もしなくちゃならない。カデュラスはずっとその先だ。最低でも二十五、六日はかかる。耐えられる?」

「……お兄様」

「それから、王女らしく振る舞えるようにならないとね。さっきも言ったけれど、粗相があれば僕の首だけではなく、この国もどうなるか分からない。できる?」

「わたし、努力するわ」

「出発まで一カ月ほどある。君に礼儀作法マナーの先生をつけるから、しっかりやるんだよ。名簿には名前を載せておくけど、一カ月後に僕が合格と言わなければ、君はマリージェと留守番だ」

「ありがとう、お兄様!」

 ラシュリルはハウエルに飛びかかるように抱きついて、それから嬉しそうに小走りで部屋を出ていった。ハウエルは、やれやれと頭をかく。道中のことは、不自由のないよう自ら手配すればいい。それで、妹の屈託くったくのない笑顔を失わずに済むのなら――。


「とうとう根負けなさいましたね、ハウエル様」


 マリージェが、おかしそうに含み笑いをしてティーカップに口をつける。


「うん。結局、僕はラシュリルに弱いんだ」


 そう軽やかに笑って、ハウエルは再びペンを握った。
 大陸が恒久の平和を手に入れたのは初代カデュラス国王の偉業であり、キリス家が存続できたのは初代王の温情である。だから、初代王の崇高な血と遺志を継ぐカデュラス国王に敬意をはらい、忠誠をつくさなければならない。キリス家の跡継ぎとして、幼いころからそう教えられてきた。しかし……。


「いつまで神とやらにへつらって、ご機嫌をうかがわなきゃならないんだ?」


 この国の王は僕だぞ。虫の羽ばたきの音にも劣る小さな独り言が、アイデルやマリージェの耳に届くことなく紅茶の香り漂う部屋の空気に溶ける。程なくして、新王に宛てた書簡がアイデルに手渡された。


「では、ハウエル様。参列者は、先立ってお話ししたとおりでよろしゅうございますね?」
「いいよ。あと、お転婆でかわいらしい王女様もね」
「かしこまりました。にぎやかな旅になりましょう」
「そうだね。頼んだよ、アイデル」
「はい、手配してまいります」


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