◆Epilogue

 年末年始はそれぞれの実家で過ごし、新年の慌ただしさが落ち着き始めた一月二十日、日曜日。

 その日、仁寿は休日にも関わらず仕事の時よりも早く起きて、入念に顔を洗い、髪を整え、ワイシャツにネクタイをしめた。そして、コンタクトはやめてメガネをかける。

 ――うん、こっちのほうが真面目っぽい。

 精神科研修中に体からあふれだす陽気をメガネでマスクしろと笑顔で注意されて、ちょっと固く真面目で落ち着いた雰囲気が必要な時はメガネをかけるようになった。

 ――第一印象って大事だもんね。

 今日は彩と一緒に、彩の実家を訪ねる予定なのである。
 そわそわと落ち着かない様子で約束の時間が近づくのを待つ。そして、午前九時半。 仁寿はスーツのジャケットを颯爽と羽織り、コートを腕に掛けて家を飛び出した。

 その足元は、緊張し過ぎているせいか靴下の柄が左右違っている。しかし、それに気がついても「オシャレは足元から!」なんて笑い飛ばしそうなのが、元気で明るい研修医藤崎仁寿だ。

 アパートに彩を迎えに行き、その足で彩の実家に向かう。彩の実家までは車で片道一時間とちょっと。午前十時ごろに出発して、二人が実家に到着した時はちょうど昼時だった。

 年末に彩からある程度の話はしていたが、娘が彼氏なる者を連れて来るのは初めてだし、連れて来たのが想像を超える好青年だったので、彩の両親はとても驚いた様子で仁寿を出迎えた。

 彩の両親は共に温厚な人だ。だから、話しかけにくいだとか、ピリピリした雰囲気が漂っているとかは一切ない。最初から好意的に仁寿と言葉を交わしていた。仁寿も人見知りをしたり物怖じしたりするタイプではないから、初めての顔合わせは終始穏やかなムードだった。

 しかし、あとから聞いた話では、「結婚を前提におつき合いさせていただいています」と口にする瞬間の緊張感たるや、これまでの人生で最高だったらしい。彩は隣にいたが、まったくそれに気がつかなかった。

 堅苦しい挨拶や話が済み、彩の母親が手作りしてくれた昼食をみんなでいただく。そのあと、彩の母親が食器を片づけた始めて、彩がそれを手伝おうとすると、仁寿が「僕がする」とワイシャツの袖をまくりあげた。

「いいですよ、そんな」

「僕とお母さんが片づけをしている間に、お父さんに仕事の相談をしてみたら? いいアドバイスを聞けるかもしれないよ」

 仁寿がウィンクをして、彩の母親を追いかけてキッチンへ行く。

「お父さん。わたし、悩んでることがあるんだけど……」

 彩は、机をはさんで父親の向かいに座ると、近いうちに今の職場を退職して建築の仕事に就こうと思っていると告げた。すると、父親も仁寿と同じようにまだ遅くはないと言った。そして、「頑張れ、彩」と笑顔で励ましてくれたのだった。

 嬉しくて、仁寿に言おうとキッチンへ行くと、母親とアイドルの話で盛りあがっていた。本人は隠しきっているつもりだが、彩は知っている。母親が、アイドルの推し活をしていることを。

「こんな年で恥ずかしいのだけど、これが楽しくて」

「いいと思いますよ。生き甲斐を持つのは大事ですよね」

 仁寿がにっこりと母親に笑いかける。ああ、好きだな。あの笑顔。彩はしばらく、二人の様子を眺めていた。

 二人が仁寿の実家に行ったのは、それから二カ月ほどしてからだった。
 仁寿の実家は、飛行機での移動が必要な距離にある。仁寿の研修の都合と彩のスケジュールを合わせて、二人は三月の週末を利用して仁寿の実家に向かった。

 仁寿が日曜日と祝日しか休みを取れない関係で、朝の飛行機で行って夕方の飛行機で帰るという、弾丸ツアーさながらだ。

 仁寿の実家は、城下町の景観がそのまま残されている街並みの一角に堂々と門を構えていた。さすが藩医の邸宅と唸ってしまうような立派な和風建築に、彩は肩をすくめながら門をくぐる。周りの住宅も、藩の時代は身分の高い武家のものだったのだろうと想像に容易いたたずまいをしていた。

「ただいまー!」

 仁寿が玄関を開けて、こちらの緊張感をまるで無視したようなフランクな挨拶をする。まぁ、本人からしたら実家だからかまわないけれど、彩はどう振る舞っていいのか変わらずたじたじだ。

「おかえりなさい」

 二人を出迎えてくれたのは、目元が仁寿に瓜二つの上品な女性だった。見た目の年齢だと、七歳年上というお姉さんだろうか。

「彩さん、僕の母」

 母? この若くてきれいで上品な方が、お姉さんじゃなくてお母さん?! 彩が衝撃をくらっている間に、仁寿が母親に彩を紹介する。

「あなたが彩さん?」

「は、初めまして。廣崎彩と申します。よろしくお願いします」

「五年前からずっと会いたいと思っていたの。遠いところ、よく来てくださったわね。さ、どうぞあがって」

「彩さん、かしこまらなくてもいいよ。前にも言ったけど、うちは平和な家族だから安心して」

 仁寿が靴を脱ぎながら小声で言う。お母さんの美しさがすでに平和じゃない! と心の中で叫んで彩は仁寿のあとをついていった。

 だだっ広い実家には、現在、仁寿の両親だけが住んでいた。父親は呼吸器の専門医として市内の病院に勤務していて、母親は小児科医でクリニックを開業しているそうだ。

 二人とも気さくで、仁寿が言ったとおり彩の実家がどうだとか仕事はなんだとかまったく気にしていない様子で快く彩を歓迎してくれた。仁寿が連れて来る人だから、ちゃんとした人に決まってる。

 仁寿の父親から言われたのは、その一言だけ。夕方の飛行機で帰るという二人を空港まで送り、仁寿と彩それぞれの職場への手土産まで持たせてくれた。

「優しいご両親ですね。今度は、もう少し長い休みを取ってご挨拶に伺いたいです」

「彩さん、ありがとう。彩さんに会えて、僕の両親も安心したと思う」

「いえ、わたしのほうこそ」

「次は、夏か秋に来よう。文化財とかもあるから、散策するのも楽しいところだよ」

「案内よろしくお願いしますね、仁寿さん」

「うん、任せておいて」

 お互いの両親への挨拶を済ませたあと、彩はアパートを引き払って仁寿のマンションに引っ越した。これを機に、仁寿と彩は結婚式を一年後の五月に挙げると決めて、それに向けて少しずつ準備をしていくことにした。

 仕事への影響を考えて、仁寿と交際している事実は公にせず、医局秘書の仕事に邁進する。彩は時期尚早かと思いながら、年度が替わるタイミングを見計らって上司の平良に退職を考えていると打ち明けた。

 医局秘書の仕事の引継ぎは、そう簡単にできるものではない。時間をかけて、計画的に次の担当者へ仕事を教えるほうがいいと考えたのだ。

 平良との面談で、一身上の都合では退職理由として納得してもらえなかったので、絶対に他言しないという約束で仁寿とのことを話す。そして、目玉が飛び出るくらい驚かれて、なぜかさめざめと泣かれた。

 ◆◇◆

 時は過ぎて、一年後の三月十五日。
 その日は、先日の雨が嘘のように春らしい穏やかな陽気だった。仁寿と彩が出会った日と同じように、ローカルニュースのキャスターが花見日和だと朝のニュースで言っていた。

 季節の巡りは不変でも、ニュースキャスターの顔ぶれが当時から一新したように、日常はとどまることなく日々変化していく。

 朝七時三十分。
 医局では、いつものように朝のカンファレンスが行われていた。初期臨床研修最後の当直を終えた仁寿が、大きなスクリーンに電子カルテの画面やCTの画像などを映して、当直帯で受け入れた救急患者の病状と検査結果、それから窒息や不穏などで対応した入院患者の状態などを報告する。要点をまとめた的確な説明や堂々とした口調は、すっかり医師そのものだ。

 仁寿だけではなく、ほかの研修医も最初の初々しさが嘘のように医師として立派に成長したと思う。それは、指導にあたった医師たちからの評価でもある。

 カンファレンスのあとそのまま朝礼にうつり、連絡事項の伝達などを済ませて、内輪だけのささやかな初期研修修了式が執り行われた。

 初期臨床研修の二年をやり終え、すべての必修科の研修に合格した三人が、みんなの前で院長から初期研修終了証を一人ずつ手渡される。当直明けの仁寿は、少しボサボサの髪にメガネという、いつもとは違う風貌で式に臨んだ。

 初期研修を終えた研修医は、終了証を手にして去っていく。それが毎年の恒例だったのに、今年は三人ともこの病院に残って専門医研修に進むと決めてくれたから、経営陣を筆頭に医師も医局秘書課も大喜びだ。

 医局長の篠田から、医局が揺れる大発表がなされたは、その最後。

「えっと。今日は一つ、衝撃的なお知らせがあります。突然ですが、医局秘書課の廣崎彩さんが退職されることになりました。退職日は今月末日付。有給消化があるから、明日の午前が最終勤務になります。あ……、これも言ってもいいんですかね」

 篠田が手に持った紙を指さし、彩の上司の平良と院長の顔色をうかがう。二人が「どうぞ」というように頷くと、篠田は二度咳払いをして眉間にしわを寄せた。

「俺も今朝、というかついさっき、朝礼前に聞いて未だに信じられないんだけど……。なんとびっくり、藤崎仁寿先生と彩さんがこのたびご結婚されるそうです」

 篠田が話し終わると、みんながぽかーんとした顔をして仁寿と離れた位置にいる彩を見る。医局が、一瞬、しぃ~んと静まり返った。そして……。

「「「「えええええええー?!」」」」

 突如、窓の強化ガラスがガタガタと空振するほどのざわめきが医局内に巻き起こる。

「なんだって?!」

「嘘だろー!」

「エープリルフールにはまだ早いぞ!」

 飛び交っているのは、明らかに祝福よりも驚きの阿鼻叫喚。誰にも言わずにいたから、この反応は正しいのかもしれない。普段の先生たちを知っているから、なんか笑いが出てしまう。

「彩さん」

 ざわめきにまぎれて、仁寿が小さく手招きして彩をそばに呼ぶ。
 彩は恐縮しながら仁寿の隣に立って、長年に渡ってお世話になった御礼と感謝を手短に述べた。彩の勤務年数と今まで携わって来た仕事の内容からすると、本当にあっさりとした手短すぎる挨拶。しかしそれは、午前の業務が始まるまであまり時間がないから、先生たちの迷惑にならないように……という彩の配慮だった。

 医局ではもちろん、院内を歩けばすれ違う職員に祝福と驚きの言葉をかけられ、その日はあまり仕事にならないまま慌ただしく過ぎていった。

 そして、五月十一日。
 仁寿と彩は盛大な結婚式を挙げ、新しい人生を歩みだした。たくさんの人と笑顔に囲まれた二人の門出を祝福するように、空は青く澄み渡り、きらきらとした太陽が輝く、とても爽やかな五月晴れの日だった。

 ―― 完 ――

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