◆Story 13

 訪れるのも見るのも初めてだが、彩はラウレラをよく知っている。世界的に有名なアメリカの建築家が設計したホテルで、大学在学中に建築構造デザインの授業で取りあげられたからだ。

 湾を一望できるシーサイドに建つ、全客室オーシャンビュー。オープンした八年前に、国の機関に設置されたなんとか委員会から、景観が美しい建築の大賞を授与されたのも当時は話題になった。

「とりあえず、状況説明をしていただいてよろしいでしょうか」

 和のテイストと西洋の文化が融合したような豪奢な意匠のエントランスに向かいながら、彩は周囲に聞こえないように神妙な面持ちで声をひそめる。

 空港から直通の地下鉄に直結していて、演劇ホールやショッピング施設などもあるシーサイドは、季節や日にちを問わず、いつもたくさんの観光客でにぎわっている。特に今夜は週末で、演劇ホールでのオペラや埠頭での花火などのイベントが予定されているから、ラウレラもその周辺施設も大変な人だかりだった。

 行きかう人を見れば、きちんとした服装に身を包んだ男女のペアばかり。はたから見れば仁寿と彩もほかの観光客と同じで、チェスターコートと青のワンポイントでセミフォーマルにリンクコーデされたカップルにしか見えない。

「状況説明するほどの特別な出来事は起きてないから、安心してよ。おいしくて体に優しい夜ご飯を食べて、きれいな花火を見る。ただそれだけ」

「ただそれだけっていう服装でも場所でもないですよ?」

「それはほら、大人のデートだからさ」

 仁寿が、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせる。
 先日、彩は仁寿が研修で一カ月お世話になった精神科専門病院の指導医と電話で話す機会があった。研修の評価の話だったのだが、仁寿の前向きで明るい性格について、彼は精神科の診察室にはちょっとまぶし過ぎるかもれしないと笑いながら冗談を言われたのを思い出して、彩は思わず小さく吹きだしてしまった。

「どうしたの?」

「いえ、ちょっと思い出し笑いをしてしまって。それにしても、冬に花火なんてめずらしいですね」

「この辺りは観光業で栄えてる街で、とにかく観光客向けの派手なイベントが多いんだよ。花火も夏と冬にあって、冬は十二月の第二土曜日の夜八時過ぎ、埠頭沖から打ちあげるんだ。確か一万五千発だったかな。今年は諸般の事情でクリスマスにもするんだって。冬は空気が乾燥して澄んでいるから、花火の閃光が目にも鮮やかですごく美しいよ。僕は、夏より冬の花火のほうが好きだな」

 彩は、大学生時代に友人と月島から見た東京湾の花火を思い出しながら、仁寿の話に耳を傾ける。六年を過ごしただけあって、仁寿はこの土地について相当詳しいらしい。大学生のころの楽しいエピソードを交え、どうしてラウレラを選んだのかを教えてくれた。この周辺では、ラウレラからのロケーションを超える場所はほかにないそうだ。

「地上から眺めてもいいけど、今は感染症の流行時期で彩さんも僕も仕事柄人混みは避けた方がいいし、お酒でも飲みながら周りを気にせずゆっくりしたいと思ってさ。部屋が空いてないかもって心配したけど、まだ本格的なクリスマスシーズンじゃないからかな、希望の部屋を予約できてよかった」

 今回、仁寿の研修医会出席が決まってから、一週間ほどしか時間はなかった。その短期間に、プレゼン用のポートフォリオを用意して、花火の予定を調べ、洋装店に連絡をして、ラウレラの予約までしたのだろうか。

 精神科研修が終わって救急の研修が始まったばかりの、慌ただしいスケジュールの最中に? なんでも器用にこなしそうな先生が、時間が足りないって言うほど大変だったんじゃなかったの?

 彩は、仁寿の隣を歩きながらぐるぐると考えを巡らせる。
 出張に関係する連絡とその合間に仕事とは関係のないプライベートなやり取りもしていたのに、全然そんな素振りを見せなかった。もちろん、服や足のサイズは一度も聞かれていない。

 それなのに、ドレスも靴もぴったりで、靴はちゃんとローヒールだ。ヒールの高い靴は仕事をするのに動きにくくて不向きだし、もともと苦手だから、公私問わずいつもローヒールのパンプスを履いている。

 ――自惚れかもしれないけれど……。

 内心で前置きをして、自分の足元に視線を落とす。もしかして、それを知っていて靴までそろえてくれたのかな。

「彩さん」

 エントランスが近くなって、仁寿が腕を差し出した。彩はハンドバッグを右腕に掛けると、もう片方の腕を仁寿の腕に絡ませる。ビジネスホテルを出発した時のような戸惑いはない。彩は、屈託のない仁寿の笑顔に大人のデートを楽しもうと決心した。

 埠頭沖から打ちあげられた最初の花火が夜空に虹色の閃光を放ったのは、二人がラウレラの高層階にあるレストランでフランス料理のフルコースに舌鼓をうっている時だった。満席の店内に一瞬、感嘆のどよめきが起きる。ナイフで小さく切り分けたヴィアンドの牛肉を堪能しながら、彩は花火に向かって表情で「きれい」と言った。

「ここから見る花火は格別だろうと思っていたけど、想像以上にきれいだなぁ。普段、空をゆっくり眺める機会がないから、たまにはいいよね」

 笑顔で頷いて、彩が赤ワインを口に含む。デセールの甘いベリーケーキとディジェスティフのポルトワインまで飲み終わると、二人は仁寿が予約した階下のスウィートルームに向かった。仁寿いわく、高層階より中層階のほうが花火を眺めるにはいいらしい。

「あの……。前にどなたかと来たことがあるんですか?」

 スウィートルームに着く間際、ふと気になって尋ねる。なにも考えずに投げかけた質問だったのに、言ったあとで変に緊張するのはなぜだろう。

「いや、このホテルの中に入ったのは初めてだけど。どうして?」

「あ……、いえ。花火の見え方とかいろいろ詳しくご存じみたいだから」

「花火の位置を考えたら、高層階よりも少し低い所から空を見あげる感じのほうがいいかなって想像しただけだよ。花火って、普通は地上から見るものでしょ?」

「……なるほど」

「なに、彩さん。まさか、僕がほかの女性と来たことがあるとでも思ったの?」

 スウィートルームのドアを開けながら、仁寿が彩の反応を愉しむように口角をあげる。彩はとてつもなく恥ずかしくなって、必死にそれを否定した。

「違いますよ。純粋に、ただ、本当にただ気になっただけです」

「そう。なら、いいけど」

 どうぞ、と仁寿が部屋の中にいざなう。部屋は、パノラマのように海を眺望できる大きな窓があるリビングルームと、同じようにオーシャンビューを満喫できるベッドルームに分かれていた。仁寿が、煌々としているリビングルームの明かりを消して、淡い間接照明だけをつける。すると、パノラマのような窓が、映画のスクリーンのように次々に打ちあがる花火を映した。

「わぁ! 素晴らしい眺めですね」

 彩は、花火の閃光に誘われるようにアンティーク調のソファーに腰かけて、窓の外に目を向ける。少し上を向いて花火を眺め、その下では花火の光を浴びて揺れる水面がキラキラと輝いていた。ため息がでるほど美しくて優雅だ。

「彩さん、コート」

「あ、すみません。お願いします」

 先にコートを脱いだ仁寿が、彩のコートを預かってクローゼットのハンガーにかける。部屋は適度に暖房が効いていて、ノースリーブのカクテルドレスでちょうどいい室温だ。

「隣、いい?」

 仁寿が左側に来たので、彩は右に寄って座るスペースを空けた。

「なにか飲む?」

「いえ、今はお腹も胸もいっぱいで」

「そっか」

 一度ソファーを離れて、仁寿が備えつけのワインセラーからシャンパンを選び、シャンパングラスを二つテーブルに置く。それまで花火に夢中だった彩の目が、一瞬でシャンパンに釘づけになった。

 間接照明の淡い明かりに照らされて、透明な瓶の中ではちみつ色に輝くそれは、アンリ・ジローのブラン・ド・ブラン。シャルドネのヴィンテージだ。彩の左隣に座った仁寿が、花火のとどろきよりも豪快な音を立てて栓を飛ばす。

「飲みたくなった?」

「はい!」

「ウイスキーもあるけど、まずは誕生日のお祝いらしくシャンパンで乾杯しよう」

「そうですね」

 花火そっちのけでシャンパンに目を輝かせる彩は、大好きなおやつをもらって大喜びする猫のよう。シャンパンをそそいだグラスを彩に手渡して、仁寿が「乾杯」とグラスを合わせた。グラスを軽く回して果実の香りをたっぷり味わい、少し口に含む。それだけで、口の中に独特の甘さが広がって涙が出るほどおいしい。

「先生の誕生日なのに、なんだかすみません。プレゼントも用意せずに、かえってわたしのほうがいい思いをしているようで……」

「そんなことないよ。僕は今、人生で一番幸せな誕生日を過ごしてるから」

 彩は、左の頬に視線を感じながら、恥ずかしげにシャンパンを飲んだ。映画を鑑賞するように花火を眺め、二人の間にしばらくの沈黙が流れる。日常を、ここが出張先だということすら忘れてしまうような、ゆったりとした時間が過ぎていく。気まずさのない、まるでぬるま湯に浸かったように穏やかな静けさがとても心地いい。

「彩さん」

 仁寿が、空になったシャンパングラスをテーブルに置いて沈黙を破る。ネクタイの結び目をゆるめる仕草が妙に色っぽくて、彩は目のやり場に困ってしまった。

「唐突な質問をするけど、僕がどうして彩さんを好きなのか知りたい?」

 危うく高級なシャンパンを喉に引っ掛けそうになる。本当に唐突な質問だ。唐突過ぎる。彩は、とんでもなく恥ずかしい独り言を思い出して赤面した。顔の熱さから、耳まで真っ赤になっているのが想像できる。部屋の明かりが、間接照明の薄い光だけでよかったと心から思う。

「しっかり聞いてたんですね。わたしの独り言」

 彩が声のトーンと肩を落とすと、隣で仁寿が朗らかに笑った。

「それで、どうしてわたしを好きなんですか?」

「最初はね、完全な一目惚れ」

「一目惚れ?」

「うん、きれいなお姉さんだなって。でも本当に好感を持ったのは、僕が彩さんの名前を読み間違えた時。人を傷つけないように間違いを指摘できる、思慮深くて思いやりのある人だと思ったんだ。そして、マカロンを渡した時の嬉しそうな顔で完全におちた」

 今まで言われたことのない言葉をずらりと並べられて、彩はなんて返していいのか分からず困惑する。首から上が異常に熱くて、頭のてっぺんから湯気が出ているような気がしてきた。左胸も騒がしくて、これ以上なにか言われたら心臓がパーンと弾けて死んでしまうかもしれない。

「先生、もう結構です」

「え、どうして? まだ馴れ初めに触れただけで、彩さんの魅力について話してないよ? これからが本番なんだけどな」

「先生のお気持ちはよく分かりましたから。わたし、こういうのに慣れてないんです。心臓が爆発しそう」

 彩は、乾いた喉をシャンパンで潤して、鼓動が落ち着くのを待った。しかし、一度暴れ出したリズムは乱れる一方で、少しも落ち着く気配がない。

「ねぇ、彩さん」

 仁寿が、彩の手から飲みかけのシャンパンが入ったグラスを取ってテーブルに置く。彩は、仁寿を見て息をのんだ。その表情があまりにも真剣だったからだ。彩はただならぬ雰囲気を感じて、背筋をぴんと伸ばした。

「誕生日にほしいもの、実は彩さんがメッセージをくれた瞬間に決まってたんだ」

「そうだったんですか?」

「言ってもいい?」

「もちろんです。教えてください、先生がほしいもの」

「なんでもいいって彩さん言ってたけど、二言はない?」

「ないですよ。誕生日ですから、お好きなものをプレゼントいたします」

「うん」

 仁寿が、ほっとしたように少し表情をゆるめて彩の左手を握る。そして、その手をゆっくり口元に近づけて、薬指にキスをした。

「あ、あの……。先生?」

「僕がほしいのは、彩さん」

「わたしですか?」

「そう、彩さん。これから先ずっと、彩さんと一緒にいたい」

 恋愛の経験はゼロに近くても、仁寿がなにを言っているのか理解できないほど彩は無知ではない。しかし、自分にプレゼントになるような、ずっと一緒にいたいと思えるような価値があるのだろうか。どうしても自信が持てなくて言葉に詰まってしまう。

「分かりづらい言い方をしてごめん。彩さん、僕と結婚を前提につき合ってくれませんか?」

 黙ってしまった彩に、仁寿が今度はストレートな言葉で告白する。自分の身になにが起きているのか、とても信じられない気持ちだった。それでも、どこか冷静になっている自分もいる。これから先生は、たくさんの出会いを繰り返していく。いつか、先生にふさわしい素敵な人に出会うかもしれない。その時、今日のことを後悔しないだろうか。

 怖いよ。先生の優しさに慣れたあとに、またあんなふうに傷ついたら――。

「わたしで……、いいんですか?」

 震える声で尋ねる彩を、仁寿がじっと見つめる。

「僕は、彩さんがいい。彩さんは? 僕じゃ、ダメ?」

 先生は先輩とはまったく違う。でも……、と消極的になってすぐにそれを打ち消す。いつまでも過去に縛られていたら、なにも変わらない。先生がいいと言うのだから、それを信じてみよう。彩は脳裏にちらつく忌まわしい記憶を振り払い、仁寿を見つめ返して小さく首を横に振った。

「ダメじゃないです」

「本当?」

 彩がこくりと頷くと、仁寿がほっぺたをつまんでと言ったので、遠慮なく右手でぎゅっとつまむ。

「痛い。夢じゃないんだね?」

「もう、先生。大袈裟ですよ。そんなに喜ぶことですか?」

 彩は、つまんだ仁寿の頬を指先でいたわるようになでながらはにかんだ。

「一生、大事にする」

 仁寿が、もう一度彩の薬指にキスをする。唇が触れたところから、沸騰したように熱い血液が全身に広がっていく。

「ここで不屈の精神力を見せたら最高にかっこいいんだろうけど、僕には無理だ。もう限界」

 彩を見る仁寿の瞳がきらりと光って、彩の耳からすべての音が消えた。花火のとどろきも、どういうわけか自分の心音さえも聞こえない。

「彩さん、キスしていい?」

 余裕のない声が鼓膜をくすぐる。彩がこくりと頷くと、顔が近づき、あたたかい手が頬に触れて優しく唇を奪われた。

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