◆第21話

 カリナフは、ラディエにエフタルとタナシアについて報告して牢へ向かった。地下牢にいるエフタルは、時々気が狂ったかのように大声で叫ぶようになった。かと思えば、牢の隅で縮こまってぶつぶつと壁に向かってなにか喋っている。身分も財も奪われて、ついに人としての尊厳すら失おうとしていた。

 武官が持っていた鍵と膳を受け取って独房へ急ぐ。独房の奥には、タナシアが糸の切れた人形のように呆然と座っていた。カリナフは武官をさげると、膳を持って独房に入った。そして、タナシアと向かい合うように、藁が敷かれただけの地べたに腰をおろす。

「夕食を持ってきた」

「……ありがとうございます」

 カリナフは、匙で粥をすくってタナシアの口元に運んだ。タナシアが、ひび割れた唇を少し開いて匙をすする。

「君の取り調べは終わった。あとは、陛下が処罰をお決めになる」

「……はい」

「この不味い食事を口にするのも、あと少しの辛抱だ」

「……はい、覚悟しております」

 タナシアの口の端から、粥がつつとこぼれ落ちる。カリナフは匙を置いて懐紙を取り出すと、丁寧にそれを拭き取ってやった。そして、また匙を持って、タナシアの口に食事を運ぶ。数日の断食がたたって、タナシアは壁に体を預けて座るのがやっとの状態だった。

 痛々しい姿に、カリナフは小さなため息を吐く。タナシアが身にまとっているのは、今まで袖を通したことなどないであろう粗末な麻織りの単衣一枚。罪人には、体を清めることも許されない。高家の令嬢であった名残りすら、今のタナシアにはなかった。華やかな輝きを失ってしまった虚ろな目が、カリナフではなくどこか遠くを向く。

「外に出たいのか?」

「……いいえ、雨の音がするものですから」

「今日はいい天気だが」

 カリナフは、タナシアの視線の先を見る。牢の格子の向こうには、落ちかけた夏の西日が差していた。




 早朝、アユルは隣で寝息を立てるラシュリルを起こさないようにそっと御帳台を出た。「う、ん……」と身じろぐ声が聞こえたが、構わず奥の部屋をあとにして書斎へ向かう。書斎では、コルダが身支度の道具をそろえて待っていた。

「アユル様、おはようございます」

「早いな」

 アユルが御座に上がると同時に、コルダが「どうぞ」と白湯の入った茶杯を机上に置く。アユルは文机の前に座ってそれを飲むと、まじまじとコルダを見つめた。

「いかがなさいました?」

「清殿にも女官を置こうと思う」

「あれほど嫌がっておられましたのに。わたくしに、なにか至らぬことがありましたでしょうか?」

「そうではない、お前はよくやっている。ラシュリルもいることだし、お前と宰相の娘だけでは手が足りないだろう。女官長に適任の者を選ぶよう申しつけておけ」

「は、はい」

「紙を」

 コルダが紙を広げて墨を磨る。アユルは、すらすらと筆を走らせて二つの詔書を書いた。墨が乾くのを待って王印を押す。

「朝食は貴妃様のお部屋にご用意いたしますね」

「いや、今日はここで食べる。ラシュリルにもそのように伝えてくれ」

「……はい」

「別に、ラシュリルと諍いをしたわけではない。今日は、妃に現を抜かして呆けていられないからな。この書簡を用意したら支度を頼む」

 ここ数日と違って、アユルの表情も声色もいつものようにすっかり冷静を取り戻している。コルダは、真顔で「かしこまりました」と返事をして詔書を紫檀の軸に巻く。そして、アユルの支度に取りかかった。

 アユルが皇極殿に着いたのは、定刻よりもたいぶ早い時間だった。官吏たちの姿もまばらだ。アユルは皇極殿の本殿ではなく、その隣にある書院にラディエを呼んだ。ラディエは、昨日とうって変わって別人のように清々しい顔をしたアユルを見て面食らった。

「陛下、もうお体の具合はよろしいのですか?」

「このとおり大事ない」

「ようございました。昨日などはお顔の色が真っ青で、気が気ではございませんでした」

「そうか。早速だが、今日の朝議でエフタルとタナシアの死罪を言い渡す。二人だけではなく、アフラム一族をこれに準ずることとする。ハウエルの処遇は昨日の詔書通りだ。それから……」

 アユルに合図されたコルダが、ラディエに書簡を手渡す。ラディエは、それを広げて表情を曇らせた。

「カリナフをタナンとの国境に赴任させるとは、どういうご了見ですか。カリナフはティムルの家督を継ぐ身ですぞ。辺境などへ行かせてはなりません」

「今後、エフタルのように権力を笠に着て我が物顔で好き勝手をする者が出ないよう、この機に不正に手を染める官吏を粛清する。彼の地は、まさにその巣窟であり膨大な富が動く交易の要地だからな。信頼できる者に治めさせる」

「陛下のおっしゃる道理はごもっともです。されど、カリナフは」

「余は、意見を聞きたくてそなたを呼んだのではない。そなたが手にしているのは勅旨だ」

「……は」

「宰相として、皆を余の命令に従わせろ。そなたが助言するのは、余が道を誤った時だけでよい」

 腹を決めたようなアユルの力強いまなざしに、ラディエは気圧されると同時に心を震わせる。歴代の王たちは多くの権を臣に与え過ぎて、自らそれを畏れなければならなかった。大樹の幹が中から腐るように、この国は官吏たちに蝕まれてきたのだ。

 しかし、陛下は違う。王家と臣の一線を画して四家にすら容赦なく制裁を加え、寵愛しておられる王女の兄をも公平に処罰なされた。そのうえ、道を誤ればそれを正せとは、なんと自信と信頼にあふれる言葉なのだろうか。この御方にお仕えできる歓びを今、心の底から実感する。

「不服か?」

「滅相もない。陛下の御代をお支えする一助となれることの幸福を噛み締めているのです」

 大袈裟な、とアユルが笑う。ラディエは、書簡を元のように巻いて懐に差した。そして、上座に向かって叩頭し拝命の意を示した。

「星読みの師に吉日を占ってもらえ。即位してか、ろくなことがない。邪気を払う儀式と快気の宴を清殿で催すとしよう。盛大にな」

「御意に。すぐに手配いたします」

 朝議の刻を告げる太鼓の音が響く。アユルは、ラディエを従えて本殿へ向かった。

 この日、エフタルとタナシアを筆頭にアフラム一門死罪の勅命が発せられた。加えて、アユルに矢を放ったファユやエフタルの手足となっていた武官、ハウエルの使節になりすました者たちも同様に処されることとなった。

 アユルは、王妃であったタナシアを王宮で直々に処するとの意向を示した。それに反対する声は一切なかった。それもそのはず。見せしめのようなアユルの厳しい制裁に、官吏たちは慄いて身をすくめているしかなかったのだ。不正に加担した覚えでもあるのだろうか、中には玉汗を浮かべる武官文官も見受けられる始末だった。それぞれの刑を執行する日が告げられて、朝議は日が沈んだころにようやく終わった。

「おかえりなさい、アユル様」

 帰ってきたアユルを、ラシュリルが出迎える。ラシュリルがにこにことしているので、アユルは不思議に思って何事かと尋ねた。

「今日のお昼過ぎに、女官長さんがこちらにお見えになりました。わたしと年が近い方をここの女官にしてくださるそうです」

「それで喜んでいるのか」

「はい。カリンもわたしと二人きりでは退屈でしょうし、皆さんと仲良くできたら楽しいのではないかと思って」

「よかったな」

 二人が会話をしている間に、コルダが手際よくアユルの服を着替えさせる。ラシュリルは、アユルの身の回りのことには手を出さないと心に決めている。コルダの役目を奪うようなことは、したくはないからだ。

「そうだ、ラシュリル。近々、清殿で宴を開くことになった。都から王家直轄の工房の者を呼ぶから、女官と一緒に衣装などを選べ」

「持っているものではいけませんか? 今わたしが着ている服だって、とても高価なのでしょう?」

「いつものそなたも好ましいが、妃としての威厳というものが必要な時もある。私たちにとって重要な宴だ。華やかに着飾ってくれないか?」

「……はい。でも、似合うでしょうか」

「さぁ、見てみないことには分からないな。楽しみにしている」

 数日のち、星読みの師が半月後に吉日が巡ってくると告げた。

 王宮では邪気を払う儀式と快気の宴の準備が始まって、女官たちが忙しなく右往左往している。王が主催するとなれば、王妃が取り仕切る歓春の宴などとは規模が違う。しかも、少ない日数で抜かりなく準備し終えなくてはならない。女官たちの気の入れようは凄かった。

 そんな中、二十人ほどの女官が清殿づきとして選定されて清殿にやってきた。アユルはとても迷惑そうにしていたが、ラシュリルは彼女たちを歓迎してすぐに打ち解けた。

 王宮のにぎやかさとは打って変わって、外廷では刑の執行が粛々と行われていた。十日ほどをかけて罪人たちは順に首を刎ねられて、いよいよエフタルやその一族が刑場にずらりと並んだ。

 アユルは刑場に赴いて、冷ややかな目でエフタルを見下ろした。地下牢に閉じ込められて、すっかり精神が衰弱したと聞いていたが、エフタルはしっかりと自我を保っていた。

「……若造めが」

 呻る獣のような声で言いながら、エフタルがアユルをにらむ。ラディエがエフタルをとがめようとするのを制して、アユルはエフタルに冷笑を返した。

「余は、お前があの世でも万死の苦しみに喘ぐことを切に願っている」

「おのれ……。四家の身分を、アフラムの家門を軽んじた報いを受けるがいい」

 エフタルの視線が、ゆっくりとアユルの斜め後ろに逸れる。アユルは、ラディエが手に持っている刀の柄をつかんで素早く鞘から引き抜いた。

「その侍従は」

 エフタルが口を開くと同時に、磨かれた刀身が閃光を描いて空を切り、胴から離れた首が高く飛んで地面に落ちて転がった。瞬きにも劣る刹那の出来事だった。

「宰相」

「……は、はい、陛下」

「この者を埋葬すること許さず。朽ち果てるまで荒地に晒せ」

「お、おおせのままに」

「どうした、声が震えているぞ」

 エフタルの血で汚れた刀を投げ捨てて、アユルは「続けろ」と命じて刑場をあとにした。その足でアユルは王宮の裏門に向かい、コルダは牢へ急ぐ。

 朝からどんよりとしていた空から、ぱらぱらと小雨が落ちてきた。コルダは、独房の武官にアユルの書簡を見せてタナシアの身柄を預かると、人気のない庭を通って裏門を目指した。

 裏門は、妃や女官の遺体を運び出すための門だ。不吉の門であり、本来は誰かが死なない限り開くことはない。一歩出ると、どこへ続いているのか分からない道と木々が鬱蒼と生い茂る雑木林があるだけだ。昼間も日が当たらず、いつもじめじめとした不気味な雰囲気が漂っている。

 アユルが、門の近くにある古い枝垂れ桜の下で待っていると、コルダがタナシアを連れて早足で向かってきた。コルダは、タナシアを筵に座らせてアユルに礼をとった。その背後で、タナシアがおぞましいものを見るように表情を凍りつかせる。アユルの顔や薄い水色の着物に、赤いものが飛び散っていたのだ。それが血であることは明らかで、タナシアは迫る死に体を震わせる。

 アユルは、腰に差していた短刀をコルダに手渡して静かに命を下した。

「この者の髪を切り落とせ」

「はい」

 タナシアは気の抜けた顔で座ったまま、なにが起きているのか理解できずにいた。死罪になると伝えられてから、死を覚悟していた。父上と共に、一族を道連れに罪を償うのだと。けれど、切られたのは首ではなく髪だ。

「……陛下、これは」

「タナシアという者は、今ここで余が処した。お前はこの門を出て、外で待つ者と辺境の地へ行け」

「……わ、わたくしをお許しくださるのですか?」

「まさか。余は、裏切る者を絶対に許さない」

「では……、では、どうして」

「細かなことは、外の者に聞くがよい」

 アユルが、コルダに切り落とした髪を宰相に届けるように言って歩き出す。雨足が強まって、アユルの顔についたエフタルの血が水に薄まる染料のように流れた。

「陛下!」

 叫ぶように声を張り上げて、タナシアが立ち上がる。

「わたくしは、陛下に背いたことを心から悔いております」

「悔いているからなんだ。余は、お前に少しの情も交わす言葉も持ち合わせていない。未練を捨て、二度と余の前に現れるな」

 アユルは、タナシアに目も暮れず冷たく言い放って清殿の方へ足を向けた。玉砂利の音を奏でながら遠ざかる背を、記憶に焼きつけるようにタナシアが見つめる。しかし、次第に視界が涙で歪んで、アユルの姿はゆらゆらと揺れて幻のように消えてしまった。

「お急ぎください。人目については騒ぎになります」

 コルダが、裏門の鍵を開けて黒塗りの門を開く。タナシアは、コルダに「ありがとう」と言って門を出た。そこには、地味な色目の服を着たカリナフが、傘をさして立っていた。

「おいで、タナシア」

 カリナフが、タナシアにほほえむ。タナシアが驚いてためらっていると、重たい灰色の雲が千切れて、雲間から薄い光が差し始めた。

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