◆第16話

 冬の凍てつくような寒さがやわらぎ始めるころ、カデュラスの王宮では歓春の宴を催すのが古くからの習わしだ。それは、命が芽吹く春の訪れを祝うもので、取り仕切るのは王妃と決まっている。

 マハールの御代では、王妃シャロアの権勢を誇示するかのように、それはそれは盛大に行われていたという。四家の面々が顔をそろえ、マハールではなくシャロアに拝謁したそうだ。王妃様のご威光は陛下をしのいでおられる。そんな噂が、貴人たちの間でまことしやかにささやかれたのだとか。シャロアが急死して三年。王妃不在となり宴は開かれなかった。しかし、タナシアが王妃となったことで、再び開催される運びとなった。

「初めてのことで、不安ばかりなのです」

 ラシュリルを清寧殿へ案内して王宮の作法などを簡単に説明したあと、ゆったりとお茶を飲みながら、タナシアが数日後に予定されている歓春の宴の話に触れて眉尻をさげた。

 清寧殿は、周りを竹林に囲まれた静かな御殿だ。使ってある木材などは一級品なのだろうが、外観は御殿というにはあまりに質素で慎ましい姿をしていた。清寧庵と呼ぶほうがしっくりくる。

「ごめんなさいね。ここに来たばかりのあなたに話しても、分かるはずもないのに」

「いいえ、王妃様。わたしにお手伝いできることがありましたら、なんでもおっしゃってください」

 優しい方ですのね、と向けられる笑顔に心がちくりと痛む。宰相様からは、王妃様はなにもご存知でないと聞いた。ただ、人質の処遇に困った陛下のためにあなたを引き取ってくださるのだと。ラシュリルはタナシアに笑顔を返しながら、笑うのってこんなに難しかったかしらと内心で戸惑ってしまった。

 アユル様と一緒にいたい。今まで自分の気持ちばかりを考えていたけれど、こんなにおおらかで人の良さそうな王妃様を騙すようなことをしてもいいのだろうか。身分や政治的な価値に重きをおく結婚だとしても、王妃様だって心を持った一人の人間なのに――。

「あなたを王宮でお預かりするためには身分が必要ですので、わたくしの女官としただけです。それは便宜上のこと。あなたは、なにもなさらなくてもよろしいのですよ。キリスヤーナにお戻りになられる日まで、仲良くいたしましょうね」

「……はい、王妃様」

「それでは、わたくしは歓春の宴の用意があるので失礼します。あとは、宰相殿の姫君にお任せしますけれど、困ったことがあったら華栄殿のカイエという女官に申しつけてください」

 ラシュリルの横で、カリンが礼儀正しくタナシアに一礼する。ラシュリルが頭をさげようとしたとき、タナシアが言った。

「そうだわ。わたくしは外のことに疎くて知らなかったのですが、キリスヤーナの方も玉佩をお持ちなのですね」

 しゃらん、と高く結われたタナシアの髪に挿されたかんざしが音を立てる。ラシュリルは自分の腰帯に目を向けた。

「キリスヤーナで玉佩を持っているのは、わたしだけです」

「あなただけ?」

「はい、これはわたしではなく母の物で……」

「そう、母君の玉佩なのですか。また改めてあなたのお話を聞かせてください。キリスヤーナのことも知りたいわ」

 一瞬、今まで優しくほほえんでいたタナシアの表情が冷たくなったのは気のせいか。ラシュリルは背筋に冷たいものが走るのを感じながら、タナシアを見送った。

「ラシュリルの様子はどうだ」

 アユルは、清殿の一室で夜の膳に箸を伸ばしながらコルダに尋ねた。無事に清寧殿に入られたようだと答えが返ってきて、内心でほっと胸をなでおろす。それに、歓春の宴の準備に追われて、少なくとも三日は王妃から夜のお誘いはかからない。

「嬉しそうでございますね、アユル様」

「まあな」

 コルダが熱い茶を淹れる。それを見て、アユルは「そうだ」と箸を置いた。

「いかがなされました?」

「お前が華栄殿に用意した酒だが、あれはなんだ。この世のものとは思えない不味さだったぞ」

「蛇酒でございます。サリタカルの山奥に棲む蝮を数年も漬け込んだ大変稀少なものでして、ぜひ陛下にと侍医長が」

「尻を出せ」

「は?」

「蝮だと? そのようなものを私に飲ませるとは。私自ら杖刑に処してくれる」

「いえ、アユル様。落ち着いてわたくしの話をお聞きください」

「黙れ」

 アユルはすっと立ち上がって、棚から乗馬用の短鞭を取る。それで手の平を軽く打ちながら迫ると、コルダは「ひい」と後ずさりして両手で尻をおさえた。そして、情けない声で「優しく打ってください」と懇願した。

「なにがやさしくだ、馬鹿者」

「申し訳ございません。尻の痛さを想像したら、つい」

「確かに、尻など叩いてお前が動けなくなっては私が困るな。今回は許すが、二度目はないぞ」

 まったく、と呆れた顔でアユルは座って食事を続ける。そして、コルダの方を向いてまた「そうだ」と言った。

「こ、今度はなにでございますか?」

「お前、キリスヤーナで私が頼んだことを覚えているか?」

「王女様の身をあらためて報告せよとの密命でございますね」

「いろいろとあって、すっかり忘れていた」

「王女様の母君様ともお会いになられたことですし、もう不要でございましょう」

「いや、今から報告しろ」

「長くなりますが、よろしいですか?」

「構わない」

 では、と、コルダは調べたことをすべてアユルに報告した。アユルは終始神経を尖らせて、ラシュリルから聞いた話と相違がないかを慎重に探りながら聞いたのだった。

 三日後、華栄殿で歓春の宴が行われた。ほんわりと暖かな陽差しが気持ちのいい日だった。女人たちの装いが春色の重ねに衣替えされたことも相まって、今日の華栄殿は一足先に春が訪れたかのような華やかさだ。

 王と王妃、そして宰相を筆頭に高位の者が臨席する大掛かりな祝宴に、ラシュリルは圧倒されて、末席にカリンと二人で借りてきた猫のように座っていた。女官の中には、異国の王女を見てこそこそと耳打ちし合う者もいたが、そんなことに気づく余裕もない。

 広大な庭に設けられた大きな舞台に、管絃の奏者と舞楽面をつけた舞い手が上がる。演じられる曲目は、遥か昔、大陸が乱世だったころに実在した美貌の名将の逸話にちなんだものだという。博識なカリンが先日、その逸話が書かれた書物を王宮の書庫から探して見せてくれた。

「ありがとう、カリン。あなたのお陰でとっても楽しいわ」

 カリンが嬉しそうにうなずいて、舞台を指さす。次の瞬間、甲高い囃子がこだました。異世界に誘うような美しい管絃のしらべと優雅な舞に、ラシュリルは我を忘れて魅了された。

 ラシュリルの様子をしばらくながめて、アユルは隣に座っているタナシアに空っぽの盃をさし出した。

「王女をそなたの女官としたのか?」

「はい。わたくしの女官であれば、不躾に扱われることはございませんもの。ですが、名目上のことですのでご安心くださいませ。それに、庭に近い女官たちの席からは、カリナフ殿の舞がよく見えましょう。カリナフ殿は当代随一の舞い手と名高い方。王女殿が喜んでくださるとよいのですけれど」

 アユルが「そうか」といつもの口調で言うと、タナシアは酒の入った漆器を手にとって盃を満たした。小さな盃の中で、透明な液体が小波を立てる。

「美しい女だな」

 ぼそりとつぶやいて、アユルはタナシアが注いだ酒を一気に飲み干した。タナシアが、アユルの独り言を言葉として理解するには時間が必要だった。やっと言葉を嚥下した時、さらに信じられない一言が静かに、しかし雷鳴の轟のような威力で落とされた。

「今宵、王女を余の寝所に」

 聞きたくない。本能が、美しい雅楽の音や皆の楽しそうな笑い声まで遮断する。自分の左胸の心音さえも感じなくなって、タナシアはアユルの顔を凝視して固まった。

 ――陛下は今、なんとおっしゃったの。

 王女のなにが、夫の目を惹きつけたのだろう。タナシアは、小首をかしげて目を見開く。舞ではなく、末席の一点を見つめる夫の横顔。美しく整った容貌は目元も口元も優しげで、瞳には慈愛の念すら宿っているように見える。

 あやめの扇を手渡してくださった時の優しい笑み。夜の淫らな御姿。そのどれもが、唯一の妃である自分一人だけのもの。未来永劫、陛下の御髪の一本さえ他に譲りたくない。ましてや、異民族の女人などには――。

「この国の衣をまとうと、天女さながらだな。キリスヤーナ人であることを忘れてしまう」

「お、お戯れを。王女がいずれキリスヤーナへ帰る身であること、陛下が一番分かっておられるはずです。それに、異民族の者を陛下の寝所に侍らせるなど、わたくしは王妃として」

「王妃」

 言葉を遮られて、タナシアはごくりと喉を鳴らす。

「は、はい、陛下」

「命じたはずだ。王命には、はいと一言で従えと。王妃がそのようでは秩序が乱れる」

 アユルの淡々とした声と冬の凍てつく寒気のような冷たい目に、タナシアは戦慄した。いつだったか、寵を得ていないと父上に言われたことがある。その時は、そんなはずはないと否定できたのに、今は実感できてしまう。怖い。陛下に愛されなくなるのが怖い。

 表情を凍りつかせて、わなわなと唇を震わせるタナシアの沈黙が、アユルの怜悧な狡猾さを加速させる。

「返事もしないとは。ああ、そうか。余を若造と呼んだ父親と同じく、そなたも余を軽んじているのだな?」

 思いもよらない言葉に、呼吸が一瞬止まる。早く謝罪してお怒りを鎮めなければ。そう思うけれど、射抜くような冷たい目が恐ろしくて声が出ない。さらに「興ざめだ」と鼻を鳴らされて、タナシアの思考は完全に停止してしまった。

 澄み切った青空の下で響き渡っていた管絃のしらべが止んで、舞い終えた貴公子が舞台の上で舞楽面をはずす。同時に、ため息と歓声が混じったざわめきが起きた。

 宴が終わり、ラシュリルはタナシアの近くに行って、宴に招いてくれたことの御礼と挨拶をした。アユルや賓客たちはすでに退出していて、華やかな宴の名残りだけが殿内に満ちている。

「楽しんでいただけて、なによりです。それで……、王女殿。あなたにお伝えしなくてはならないことがあります」

「はい、王妃様」

「陛下が今宵、あなたをご所望なされました。後程、華栄殿の女官を清寧殿に遣わします。閨での作法なども女官が指南いたしますので、粗相なきようお務めください」

 ラシュリルは、きょとんとして「はい」と間の抜けたような返事をした。

 カデュラスの暮らしに慣れてきたとはいっても、まだ馴染めないことがたくさんある。それに加えて、王宮には様々な規則やしきたりがあるようで、時々、こうして頭がついていかなくなるのだ。

「戸惑っているようですね」

 タナシアが、はらりと檜扇を広げる。その悲しそうな憂いの顔が、ラシュリルの心に刺さる。傍にいるというのは、こういうこと。こうして王妃様を傷つけてしまう。王妃様のことを耳にした時から覚悟していたはずなのに、目の当たりにすると心の揺らぎをおさえられない。

「あなたには申し訳なく思います。陛下のお手がついた方を王宮から出すことはできません。キリスヤーナへ帰る日を待ちわびておられたでしょうに……」

 タナシアは同情する言葉をかけながら、丹念にラシュリルを観察した。

 黒曜石のような瞳も色づいた唇も、申し分がないほど美しいとは思う。けれど、王宮は女の園。美しいだけなら他にもたくさんいる。分からない。一体なぜ、陛下は王女を見初めたのか。異国の、異民族というものに興味が湧いたのだろうか。遅くまで独り身を貫いた挙句に、女官を追い出してしまうような陛下が?

 タナシアの目線が、下におりていく。

 王女が持っている玉佩も気になる。清殿にあったものに見えて仕方がない。この手に取ればすぐに分かるけれど、そのようなことをして陛下の耳に入れば、清殿に忍び込んだことが露見してしまう。

 ――口惜しい。

 このようなことになるのなら、王女を引き取ったりしなければよかった。真っ黒で気持ちの悪いものが、胸につかえて息が苦しい。夫が今夜、王女を抱くのかと思うと気がおかしくなってしまいそう。

「王妃様、どこかお悪いのですか?」

 ひどく心配した様子で、王女が近づいてくる。

 気が弱く、王妃の器ではないと父上になじられたこともある。けれど、この身には高家の血が流れ、今はれっきとしたカデュラス国王の正妃。異民族の分際でわたくしに触らないで。

 ――穢らわしい。

 タナシアは檜扇を閉じて、にこりとほほえんだ。

「宴で少し疲れてしまっただけです。本当に優しい方ね。わたくしは大丈夫ですので、早く清寧殿に戻って支度をなさってください」

 エフタルは、家人たちが並んでひれ伏す廊下を、荒い足音を立てながら離れに向かった。王宮を出る間際、御簾の向こうから聞こえてきた女官らの会話を思い出して、ますます足音が荒くなる。

「陛下が今夜、件の女官を清殿へお召しになられるそうよ。ほら、王妃様の女官として入宮したキリスヤーナの……」

「ご冗談でしょう?」

 聞き違いかと思って足を止めた時、別の女官がはっきりと言った。王妃様がお認めあそばしたと。腸が煮えくり返るとはまさにこのことだ。帰国後、あれが足しげく華栄殿に通っていたのは知っている。それなのになぜ、心をつかめない!

 ――所詮、タナシアはその程度なのだ。シャロアの足元にも及ばぬ。

 呼ばれたことのない清殿に、あろうことか異民族の女が召されるのを、どんな思いで承諾したのだ。つくづく愚かな娘よ。シャロアなら絶対に許さなかっただろう。

 エフタルが離れの部屋に入ると、例の武官が下卑た笑みで迎えた。武官の顔を見て、落胆するようにため息をつく。まったく、どいつもこいつも使えぬ者ばかりだ。

「笑っている場合か。投獄されたお前の縁者が口を割る前に始末しておけ」

「ファユのことなら心配はご無用でございます、エフタル様。あの者は、自ら命を断ってでも秘密を守ります」

「どうもお前は信用できぬ。世継ぎがまだゆえ殺してはならぬと命じていたのに、致死の毒を使っただろう」

「い、いいえ、滅相もございません。某には覚えがないことなのです。ファユには、麻痺毒を塗るように申しつけました。宰相様からの知らせに驚いたのは某の方で……」

「まことか?」

 語尾を上げて、エフタルが甚だ信じられぬと武官を睨む。すると、武官は懐から小さな金の筒を取り出した。

「某は、エフタル様のお力添えがあったからこそ立身できたのです。これからもエフタル様に魂を捧げ、誠心誠意お仕えいたす所存でございます。その証に、エフタル様のご命令どおり、サリタカルでキリスヤーナ国王の使者を始末いたしました。こちらをお納めください」

「ほほう。これはキリスヤーナ国王の書簡か?」

「さようでございます。部下に探らせましたら、陛下に謁見して直々に渡すよう命を受けていたようです」

 エフタルは、ハウエルの書簡を流し読みして、キリスヤーナ国王も肝の座らぬ男だと鼻で笑った。銅の交易に融通を利かしてやったというのに、恩をあだで返すとはけしからん。

 ――なにが己の身の潔白を明らかにしたいだ。

 王がキリスヤーナ国王を調べれば、いずれ我が身に辿り着く。そうなれば、サリタカル国王に送った偽の書簡も白日の下にさらされる。忌々しい。キリスヤーナ国王が一人で罪を被ってくれればよいものを……。

 エフタルはしばらく考えを巡らせたあと、にたりと口の端を歪めた。金の筒に書簡をしまって、それを武官に戻す。そして、扇で口元を隠して声をひそめた。

「死んでしまった使者に代わる者を用意せよ」

「はい?」

「その者に、キリスヤーナ国王の見上げた忠誠心を託すがよい」

「……と、言いますと?」

「話の通じない奴め。まず、偽の使者を謁見させて、その書簡を手渡す」

「……はあ」

「陛下が使者に近づいたら、殺せ」

 驚いて目を丸くする武官を尻目に、エフタルは文台から紙と筆を取る。そして、さらさらと筆を走らせて、書き上げたものを武官に手渡した。

「キリスヤーナ国王を捕らえて処刑するよう書いてある。これを持って、この前のように陛下の書簡を作ってこい。偽の使者と陛下が謁見する機会をうかがい、サリタカル国王に送る」

 武官は、受け取った紙を懐にしまってエフタルの屋敷を出た。

 街角を何度か曲がって、人通りの少ない裏通りの茶店に向かう。辺りを警戒するように見回して店に入ると、先立って伝えておいた偽名をそこの女主人に告げる。すると、最上階の一番奥の座敷に案内された。そこでは、こんな安い茶店には似つかわしくない貴人が、両脇に女人を侍らせて優雅に酒を呑んでいた。部屋の隅には、勇壮な舞楽面が置かれている。

「カリナフ様」

 武官はそろりと座敷に上がって、エフタルから預かった紙をさし出した。カリナフが女人をさげてそれを読み、くつくつと冷笑する。

 ――エフタル様も懲りぬ性分であらせられる。

 猛々しいだけの獣は、追い詰められていることに気づかぬまま、自ら罠にはまっていく。つまり、浅はかで単純なのだ。

「某はいかがすれば……」

「エフタル様に言われたとおり、偽の書簡を用意するがよい」

「かしこまりました」

 それから、と武官はキリスヤーナ国王の使者についてカリナフに話した。

 武官が話したのは、使者がキリスヤーナ国王から陛下に宛てた書簡を持っていたこと。そして、エフタルに命じられて、サリタカルで使者を始末したことだった。

 カリナフは、偽の使者についてもエフタルの命令どおりにするよう申しつけた。

「しかし、それでは陛下の身が危ないのではありませぬか?」

「おいそれと陛下を傷つけさせるものか。使者を見繕ったら知らせろ。それから、書簡ができたら私に見せるように」

「はい」

「ひとつだけ肝に銘じておけ。私は、エフタル様のように手緩くはない。私の信用を少しでも失えば、牢にいるファユはもちろんのこと、即座にお前は一族もろともこの世から消え去ることになる」

 清寧殿に華栄殿の女官がぞろぞろとやってきたのは、空が夕焼けに染まるころだった。タナシアの女官として入宮しているラシュリルには、カリンが従者としてついているだけだ。名目上とはいえ、主人であるタナシアが身支度を請け負うのは当然のことである。

 女官たちは、ラシュリルに対して実に無愛想だった。いやいやしてやっていると言わんばかりの態度でラシュリルを湯殿で磨き、王妃が用意した衣装を着せる。次に、なされるがまま身を任せるラシュリルに化粧をほどこして、小一時間ほど閨の作法を叩き込んだ。

「よろしいですね?」

 三十六項目にもおよぶ作法を列挙し、片眉を上げてそう念を押したのは、カイエという若い女官だった。ラシュリルは、ごきゅっと生唾を飲みこんで肩をすくめる。カリノス宮殿の若いメイドたちは、みんな気さくで和気藹藹としていたのに、ここの女官たちは実に素っ気ない。敵意のようなものまで感じて恐々としてしまう。

「それから、明日の朝は華栄殿で王妃様にご挨拶なさいますよう」

「わかりました」

「では、お時間になりましたので参りましょう」

 ラシュリルは、カリンを清寧殿に残して華栄殿の女官と清殿へ向かった。結局、清殿につくまで、誰一人口を利かなかった。

 清殿の前で待っていたコルダが、カイエと言葉を交わしたあとラシュリルを殿内に案内した。

「アユル様が待ちかねておいでですよ」

 コルダの笑顔が身にしみる。ラシュリルは、コルダの後ろを歩きながら殿内を見回した。初めてここに来た時は、まさかカデュラスの王宮に住むことになるなんて思いもしなかった。

 迷路のような廊下を歩いた先で、コルダが部屋の引き戸を開ける。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央に敷かれた真っ白な寝具の上にアユルが座っていた。

「お待たせしました」

「遅かったな」

「ごめんなさい。わたしのお部屋からは遠くて」

「にしても、私を半刻も待たせるとは」

「そんなにですか?」

 時間だと言われて清寧殿を出たのに。戸口に立ったまま、ラシュリルが首をかしげる。その様子に、アユルは事情を察してラシュリルを呼んだ。近くに腰をおろしたラシュリルの腰帯から玉佩をはずして枕元の台に乗せ、袿を脱がす。色味の薄い地味な袿。ラシュリルから香油の香りもしない。そして、連絡もなく時間に遅れてきた。王妃の指示があったかどうかは分からないが、女官が嫌がらせをしたのは明らかだ。

「焦らされているのかと思った」

「そ、そんなことしません。恥ずかしいことを真顔で言わないでください」

「では、王妃が清寧殿に来たか?」

「いいえ。どうしてですか?」

「ひどいことを言われたりされたりしたのではないかと、心配になった」

「王妃様はいつも優しく接してくださいます。今日だって、王妃様の女官が支度をしてくださいました」

 ならばよい、とアユルはラシュリルの手首をつかむ。この時を待ちわびた。今日のために、華栄殿で夜を明かしてきた。この歓びをラシュリルも胸に秘めているに違いない。しかし、アユルの心中とは裏腹に、目の前にいるラシュリルはどこか浮かない顔をしている。

「私が王妃を疑うようなことを言ったのが、気に食わなかったか?」

「そうではありません。アユル様は、その……。例えば、王妃様がわたしのことを心苦しく思っておられても平気なのですか?」

「今宵のことで嫉妬して、そなたに危害を加えるようなら看過しない。心配するな」

「わたしのことを心配しているのではありません。王妃様のお気持ちを思うと心が痛んでしまって。アユル様の言葉の意味は、そういうことなのでしょう? 宰相様から、アユル様の妃には身分とか政治的な価値が必要だと教えていただきました。けれど、王妃様にも心があるのに……」

 そなたらしいな、とアユルは苦笑する。嫌がらせに気づいていないばかりか、王妃の心配までしている。ラシュリルのこういう所がよいのだが……。

「なら、やめておくか? このままここを出て清寧殿に戻れば、然るべき時にキリスヤーナへ帰れる」

「……それも、嫌です。アユル様とずっと一緒にいたい。できれば……、その、来世でも」

 ラシュリルが、ごにょごにょと口ごもってしゅんと肩を落とす。アユルは、思わず吹き出してしまった。

「王妃を気遣いながら来世まで望むとは、存外、欲が深いのだな」

「そ、それとこれとは別で……。わたしも気持ちを整理できないのです。王妃様には申し訳なくて、でもアユル様のことは好きだし、どうしたらいいのか」

「どうしたらいいのかは、もう何度も言っただろう。添い遂げるために、他の者が入り込めないくらい互いを愛しぬけばよい」

 アユルは、ラシュリルを胸に抱き寄せてごろんと布団に寝転んだ。腕に乗った重さが愛おしい。まだ乾ききらない髪から香る匂いにさえ安らいで、心が幸福で満たされる。ずっとこのままのラシュリルでいてほしい。だが、もっと貪欲であってほしいとも思う。私は勝手だな、とアユルは心内で自嘲した。

「ラシュリル」

 名を呼べば、腕の中からつぶらな瞳が見返してくる。アユルはラシュリルの髪を手で梳いて、頭のてっぺんにくちづけた。そして、すぐに視線を腕の中に戻した。

「そうだな。誰にも邪魔されず、そなたと二人きりで幸せに暮らせるような来世なら、私も望んでみたい」

 嬉しそうにラシュリルが笑う。

「だがな、ラシュリル。私には来世がない。死ねば、転生できないように魂を焼かれてしまうからな」

「魂を、焼く?」

「そう。私は王位を継いだ者として、名と土に還ることのできない枯骸を残して、死後も神を演じなければならない。だから、来世を夢見るのではなく現世で命の限りそなたを愛したい」

 強く抱き締められて、ラシュリルはアユルの胸に顔をうずめた。

 夜着を通して、心臓の強い律動が伝わってくる。幸せにしたいと思っているのに、どうして心が揺らいでしまうのだろう。こんなわたしでは、だめ。わたしが大切にしたいのは、アユル様なのに――。

 ラシュリルが、力強い腕をかいくぐるようにして顔を上げると、二人の視線が交わった。

「ごめんなさい、アユル様を責めるようなことを言って。本当は、アユル様にお会いできて嬉しい」

 大好きです、とラシュリルが照れながらくちづける。

 アユルはそれに優しく応えたあと、噛みつくようにラシュリルの唇を食んだ。少し手荒くしてしまっても、今夜だけは許してほしい。ずっと、この夜だけを願って王妃との日々に耐えたのだから。逃がさないように、ラシュリルの後頭をつかんで舌をねじ込む。

「……ふ、ん……っ」

 二人の熱い息が口の中で重なって、くちゅっと唾液が口の端からあふれる。アユルは空いた手で、ラシュリルの太腿を持ち上げて自分の脚に乗せた。ラシュリルの舌を強く吸いながら、夜着の裾を割って指先で陰唇をまさぐる。

「は……っ、ふ、んっ」

 解放した唇からもれる、ラシュリルの濡れた吐息。理性の縛りがはずれていく。愛しているとささやいて、アユルは再びラシュリルの甘い唇を貪った。

「もうお休みください、王妃様」

 カイエが、タナシアの肩に袿をかける。タナシアは、南殿の廊下に座って長いこと庭をながめていた。春めいてきた月明かりが、庭に夫の幻影を描く。

 ――今頃、陛下は王女殿を……。

 体が覚えている夫の手の動きが、耳に残っている夫の吐息が、嫌でも淫らな二人を想像させる。タナシアは、きゅっと唇を噛んでなんとか正気を保った。明日の朝、夫に抱かれた王女の挨拶を受ける自信がない。けれど、王宮の規則は絶対で、そうすることで王妃の方が上なのだと示せる。

「カイエ」

「はい、王妃様」

「明日、王女殿がここに来る前に父上とお会いしたいのです。今から実家に使いを出してください」

「かしこまりました。ですが、その前にお願いがございます」

「なにかしら?」

「春が近くなったとはいえ、まだ夜は寒うございます。早く床にお入りくださいませ」

 分かったわ、とタナシアは重たい腰を上げて寝所に向かう。そして、つい先日まで夫と一緒に眠った布団に横たわった。

 夜の清殿は本当に静かで、庭の築山にある滝の水音が寝所まで聞こえてくる。

「……あぁんっ!」

 四つん這いの姿勢で後ろからぱんっと腰を打ちつけられて、ラシュリルは絹の褥に突っ伏した。びくびくと震える背に、汗ばんだアユルの胸板が密着する。力なく投げ出した手に絡む指。耳をかすめる吐息。そのどれもが熱くてたまらない。

「アユル様……、もう、んっ」

 顔を横に向けて、はぁはぁと細切れの息をしながら許しを乞うと、息を奪う勢いで口をふさがれた。中を穿ったままの猛りに奥を突かれて、苦悶に喘ぐ。

「ぁ……ふっ、んんっ」

 うつ伏せの体勢で動かれると、いつもと違う所をえぐられて言葉にできない快感に襲われる。舌を深く絡めた濃厚なくちづけだって、体中がとろとろに溶けてしまいそうなほど気持ちいい。

「愛している」

 唇が離れると同時に、アユルが言った。今夜、何度目の「愛している」だろう。今日のアユル様は、なんだか変。ふとそんなことを思った瞬間、体を起こしたアユルが激しく動き始めた。徐々に上り詰めていく感覚に、ラシュリルはぎゅっと敷布を握り締める。

「あっ、あっ……、んんっ、だめ……っ!」

 抽挿しながら、アユルがラシュリルの上半身を抱きかかえた。弓なりにしなった体を、後ろから羽交い絞めにされる。その体勢で胸の尖りをこりこりとつままれながら、最奥を突き上げられた。ラシュリルは、あっという間に意識を手放してしまった。

「……アユル様」

 乱れた息の合間に夢見心地で名を呼べば、頬やうなじに優しいくちづけがおりてくる。体に巻きついた逞しい二本の腕。背中にぴたりとくっついた肌。汗の香りに胸がどきっとする。

 アユルが男根を引き抜くと、ラシュリルの蜜口から二人の体液が混ざり合った粘液がどろりと流れた。アユルは、くたっと枝垂れたラシュリルの体を仰向けに寝かせた。

 どれくらい時がたったのか。アユルは、ラシュリルが朝早くに華栄殿へ行かなければならないことを知っている。早く休ませてやりたいと思いながら、心ゆくまで愛したいとも思う。

 体重をかけないように覆いかぶさって、短い息を吸ったり吐いたりしている柔らかな唇に自分のそれを重ねる。それから首筋に顔をうずめると、ラシュリルの手が頭を優しくなでた。

「ああ、ラシュリルの匂いがする」

 ラシュリルは、アユルの頭をなでながら「よい香りですか?」と尋ねた。答えの代わりに、薄い唇が肌を辿って乳房を食む。

 じじじ、と燭台のろうそくから煙が一筋ゆるやかに立った。櫛形窓の真っ白な障子に、風にそよぐ木々の影が映っている。ラシュリルの視線がそちらに向いていることに気づいたアユルは、視界を遮るように顔を近づけた。

「なにを見ている」

「窓を。月明かりがとっても綺麗だから」

 アユルは、ラシュリルの頬に張りついたの髪を指でのけながら、ふっと軽やかに笑った。

「わたし、変なことを言いましたか?」

「そうではない。この世にこんなに美しい夜があるのかと、目を丸くしたそなたを思い出しただけだ」

 恥ずかしい、とラシュリルが上気する頬を両手で包む。アユルは、その手首をつかんで敷布に縫いとめた。続きを、と唇を重ねようとするアユルに、ラシュリルがきりっと鋭い目を向ける。

「アユル様、もうだめですよ。夜も遅いですし、これ以上は体が持ちません」

「私を満足させよと女官らに教えられなかったか?」

「まっ、満足って……!」

 ラシュリルは、顔を真っ赤にしてうろたえた。宝石を散りばめたような漆黒の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。ラシュリルは、アユルの左肩に残る痛々しい傷跡にそっと触れた。

「痛くありませんか?」

「なんともない」

 矢が刺さった所の皮膚が、盛り上がって固くなってしまっている。アユルはなんともないと言うが、とても痛そうだ。

「傷が残ってしまいましたね」

 ラシュリルが、悲しそうな顔をする。アユルは、続きを諦めてラシュリルの横に寝転んだ。腕にラシュリルの頭を乗せて抱き寄せる。ラシュリルが、腕の中で甘えるように体を丸めた。

 翌朝、ラシュリルは早くに清殿を出て、清寧殿で湯あみをして身なりを整えた。そして、女官に言われた時刻にカリンと華栄殿へ向かった。女官たちがラシュリルを見て、眉をひそめてひそひそと口元を袖で隠す。

 華栄殿近くの渡り廊下にさしかかった時、後ろからカリンに袿の袖を引っ張られた。ふり返ったラシュリルに、カリンが前方を指さして「伏せて」と言う。華栄殿の方から、一人の男がこちらに向かってきた。

「あの方は?」

 ラシュリルが問いかけると、カリンは「いいから」と廊下にひれ伏した。只事ではないカリンの様子に、ラシュリルも慌ててひれ伏す。しばらくして、荒い足音が二人の前で止まった。

「これはこれは、キリスヤーナの王女ではないか。ああ、昨夜は陛下のご寝所に召されたのであったな。これから王妃様の所へ挨拶にうかがうのか?」

 男の衣から、奇妙で独特な香りがする。ラシュリルは、座ったまま男の顔を見上げた。ラディエとはまるで違う、温かみのない男の表情に背筋がぞくりとする。

「おや。まさか、私の顔を忘れたのか? お前が人質としてこの国へ来た日に皇極殿で会ったであろう」

「ごめんなさい。あの時は、皆様の顔を拝見する余裕がなくて……」

「では、よく覚えておけ。私はエフタル・カノイ・アフラム。この国の大臣であり、王妃様の父だ。お前のような異民族が、そのように許しなく顔を上げて私を見るなど言語道断。恥もなく陛下の傍にいるというのなら、カデュラスの礼儀をわきまえられよ」

 エフタルは、ふんと鼻を鳴らしてカリンに目を向けた。

「おお、そなたはラディエ殿の末の姫君ではないか。話には聞いていたが、なんとも憐れなことよ。このような厄介者の世話をおおせつかるとは。王妃様に上申して、実家に帰れるよう手配してもらうがよい。私からも折をみて王妃様に言っておこう」

 ふるふると、カリンが首を横に振る。エフタルは面白くなさそうな顔をして、王女を華栄殿へ連れていくよう言った。そして、立ち上がるラシュリルを舐め回すように見て、さげすむように笑った。しかし、ラシュリルが横を通り過ぎようとすると、エフタルは物の怪でも見たかのように顔を凍りつかせた。

「待て」

「はい。えっと……、エフタル様」

「その玉佩は、なんだ。なぜキリスヤーナの者がそれを持っている」

 これは、と答えようとするラシュリルの袖を引っ張って、カリンが「早く。時間」と口を動かす。エフタルはちっと舌打ちをして「早く行け」と顎をしゃくった。その様子を、向かいの廊下の角から見ていたアユルは、コルダを手招きで呼んだ。

「見たか、コルダ」

「はい。エフタル様は王妃様とお会いになっておられたようですね」

「夕刻にラディエとカリナフを清殿に連れてこい。よいか、エフタルが城を出たあとにだぞ」

「かしこまりました」

「私は朝議に出てくる。ラシュリルが清寧殿に戻ったら、あれを届けておけ」

「御意に」

 タナシアは、華栄殿の一室でラシュリルを待っていた。婚儀の日に賜ったあやめの扇からは、少しも桂花の匂いはしなくなった。

「陛下」

 か細い声が、爽やかな風に消える。望んで王妃になったわけではない。けれど、心惹かれてしまった。ぱちんとあやめの扇を閉じて前を向く。御簾も蔀戸も上げられて、視界には白砂が敷かれた美しい庭が広がっている。昨日の宴の名残はとうに消え去り、澄んだ春鳥の囀りだけがにぎやかだ。もう春ね、と独り言ちた時、衣擦れの音と共に王女が部屋に入ってきた。

「王妃様に、ご挨拶申し上げます」

 ラシュリルは、教わったとおりに下座に座って深く頭をさげた。王女殿、と声がかかって顔を上げる。

 ぱらりと開くタナシアの檜扇。美しい月夜の花が描かれて、親骨からきれいな飾り糸が垂れている。

 王妃様って、おいくつなのかしら。見た目には、年はそれほど変わらないような気がする。それなのに、あふれるような気品がまぶしい。見ているだけでどきどきしてしまう上品な所作に、ラシュリルの目が釘づけになる。タナシアが、檜扇で口元を隠してほほえんだ。

「あなたが気を遣ってはと、女官はさげてあります。楽になさってください」

「ありがとうございます、王妃様」

「これから長い時を共に過ごすのですから、仲良くいたしましょうね。さあ、近くにいらして」

 ラシュリルは、おずおずと立ち上がってタナシアの前に腰をおろした。

「あら、王女殿。衿が乱れているわ。わたくしが直してさし上げましょう」

「すみません、失礼なことを……。自分でいたします」

「いいのですよ」

 タナシアが閉じた檜扇を置いて、ラシュリルの胸元に手を伸ばす。白くて柔らかな手が、衿を整えながら下におりていく。ゆっくり、ゆっくり、腰帯に結ばれた玉佩を目指して――。

「今日は気候もよいので、あなたと庭をそぞろ歩こうかと思ったのですけれど、宴の疲れで体調が優れなくて」

「昨日もお加減がよくなさそうでした。大丈夫ですか?」

「ええ。こうしてじっとしていれば、なんともないのです。次の機会に、庭をご案内しますわね。王宮の庭は四季折々、いつも綺麗な花が咲いて見飽きません。もう春の花が芽吹き始めたころ。あなたにもぜひご覧いただきたいわ」

「王妃様とお散歩できるなんて、とっても嬉しいです」

「そう言っていただいて、わたくしも嬉しいわ。よかった、あなたが心穏やかな優しい方で」

 たわいもない会話をしながら、タナシアはラシュリルの玉佩をつかんだ。しっとりと肌になじむ鉱石の感触。そして、彫られた模様に赤い飾り紐。間違いない。これは清殿の書斎にあったもの。確信するとますます分からなくなってしまう。あの時、清殿にあったということは、キリスヤーナに行く前から陛下が持っていたということ。それが今、王女の腰にある。一体、どうなっているの?

「王妃様?」

 ラシュリルの声に、タナシアはびくりとした。それを気取られないように、自然な動作で玉佩から手を離す。嫌な予感がする。たった一夜のことで、世界が崩れてしまったような恐怖に飲み込まれてしまいそう。ああ、息が苦しい。陛下は、あなたが触れてもいいような御方ではないの。陛下にふさわしいのは、選ばれた高貴な者。王妃であるわたくしだけ。どうしてわたくしをこんな気持ちにさせるの?

「王妃様、具合が悪いのではありませんか?」

 ラシュリルは、タナシアの顔を覗きこんだ。タナシアは、目にじわりと涙をためて胸をおさえている。カリンに人を呼ぶように頼むと、すぐに華栄殿の女官が駆けつけた。

「せっかくお越しいただいたのに、見苦しいところをお見せしてしまってごめんなさいね。あなたもお疲れでしょうから、清寧殿へ戻ってお休みになるといいわ。わたくしも失礼して横になりますね」

 清寧殿に戻ったラシュリルは、カリンと縁側に座って一息ついた。何気なく腰帯に結んである玉佩を手に取る。お母様が高貴な人から譲り受けたという品。常に肌身離さず身につけるように言われてそうしているけれど、エフタル様も王妃様もこの玉佩が気になる様子だった。

 ――何か特別なものなのかしら。

 とんとん、とカリンがラシュリルの肩を軽く叩く。カリンは、眉尻をさげてひどく悲しそうな顔をしていた。

「どうしたの?」

『大丈夫?』

「わたしを心配してくれているのね。エフタル様の言葉は、気にしていないから大丈夫よ。ありがとう、カリン」

 その日の昼、華栄殿をカデュラス国王の侍従が訪れた。キリスヤーナ国ラシュリル王女を妃にするという宣旨と、今宵も王女を寝所に召すという言伝を携えて――。

 タナシアは、文机に広げた宣旨を魂の抜けた顔でながめる。

 今朝、エフタルと会った時、タナシアは一つ打診を受けていた。近々、また王印を押してもらいたいと。その書簡があれば、陛下の手がついた王女を王宮から追い出せるそうだ。一度目は、罪の意識に苦しんだ。けれど、今は?

 ――陛下をわたくしだけのものにできるのなら……。

 いえ、やはりいけないわ。陛下に背くことは二度としないと誓った。でも、このままでは陛下の御心を王女にさらわれてしまう。それは、なによりも耐え難いこと。罪は、胸に秘めたまま死ぬまで背負っていけばいい。

 タナシアは、宣旨をたたんでカイエを呼んだ。開け放たれた丸窓から入ってきた柔らかな風に、豪華なかんざしの垂れ飾りが、しゃらんと綺麗な金属音を立てた。

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