◆第12話

 ダガラ城の皇極殿では、官吏たちが集まって大変な騒ぎとなっていた。陛下が矢で射たれたと、宰相から書簡が届いたのである。さらに数日後、また宰相からの知らせが入った。第一報には「それは何たることだ」と驚いたふりをしてみせたエフタルだったが、二通目の書簡に目を通して本気で驚愕しなくてはならなかった。

「どういうことだ!」

 皇極殿に、エフタルの声が響く。陛下を射た矢には、死に至らしめる毒が塗られていた。書簡にはっきりとそう書かれている。死に至らしめるとはどういうことだ。ただ少しばかり苦しめるだけではなかったのか。エフタルは、怒りに燃える目を末席の武官に向けた。それに気づいた武官が、青ざめた顔で身に覚えがないと必死に首を振る。

「それで、陛下はご無事なのであろうな」

「しばらく臥せられたそうでございますが、ご無事だと書かれております」

「それは幸い」

「しかし、神たるカデュラス国王が傷つけられるなど前代未聞」

「首謀者を突き止めて厳罰に処するべきでございましょう」

 官吏たちは、口々に言い合った。

 ざわめきの中、エフタルは考えを巡らせる。武官を問い詰めるにしても、とにかく今は、疑いの矛先がこちらに向かないように手を打っておかなくては……。

「もしや、キリスヤーナ国王が謀ったのではないか?」

 エフタルの投げた一言に、ざわめきが一層大きくなった。陛下に害をなすとは言語道断。もし、それが事実なら、守られてきた主従関係を覆す由々しきことだ。到底、許されることではない。そんな官吏たちの発言を聞きながら、エフタルはふぅと深く息を吐く。

「エフタル様」

 落ち着いた声に、皇極殿が一気に静まった。そして、声の主に視線が集中する。皆の視線の先、エフタルの向かい側で、若い男が優雅な身のこなしで扇を閉じた。殿上人は皆、頭頂で髪を結っているのに、その男は黒髪を背に流して女人のように組紐で束ねている。他の者とは明らかに異質だ。

「なんだ、カリナフ」

 じろりとエフタルにらまれて、カリナフが軽く一礼して敵意がないことを示す。

「なぜキリスヤーナ国王の仕業だと思われるのですか?」

「それは、調べてみなければ分からぬ。すぐに使者をキリスヤーナに遣わして……」

「いえ、エフタル様。なぜそう思われたのか、理由をおうかがいしたのです。陛下がキリスヤーナ国王の要求を退けたのなら道理もございましょう。しかし、陛下は銅の交易をお認めになられました。キリスヤーナ国王に、陛下を害する理由があるでしょうか」

 二人の掛け合いに、皆が固唾を呑んで耳を傾ける。

「キリスヤーナ国王が、陛下をこころよく思っておらぬのではないか?」

「それはまた……。もしや、エフタル様はキリスヤーナ国王と親交がおありなのですか?」

「なにが言いたいのだ、カリナフ」

 エフタルは、袖の中で拳を握った手を震わせた。相手は四家の一つティムル家の跡取りで、カデュラス国王の従兄弟でもある。他の者であれば生意気だと一蹴するところだが、それはできない。たじろぐエフタルをよそに、カリナフがはらりと扇を広げて口元を隠す。そして、どことなくアユルに似た眉目清秀な顔をくしゃりとほころばせた。

「怖い顔をなさらないでください。エフタル様の機転に感心いたしたのですよ。私の頭には、キリスヤーナ国王が二心を抱いているなどと突拍子もないこと、露ほどにも浮かびませんでした。ですから、本人の口から聞いたのかと思っただけのことです」

「なにを言う。他国の君主と個人的に親交を持つなどあり得ぬ。たっ、ただの勘だ」

「勘でございますか。では、ひとつ諫言いたします」

「諫言だと?」

「はい。エフタル様は、すぐに使者をキリスヤーナに遣わして、とおっしゃいました。ですが、根拠のない己の勘だけで、陛下の御下命なしに動くことは明らかな越権。キリスヤーナ国王の前に、エフタル様自身が二心を疑われてしまいますよ」

 サリタカル国王の居城に、カデュラス国王一行が到着した。昼を少し過ぎた時刻で、サリタカル国王が会食の席を準備させていた。ラディエはもちろん、随行している官吏たちも同席しての宴席だ。

 ラシュリルは、コルダに案内されて城の一角にある部屋に入った。あくまでも人質の身。ラディエの計らいで、人目に晒されないように別室で昼食をとることになったのだ。

「ねぇ、コルダさん。キリスヤーナを出る時からずっとわたしと一緒だけれど、アユル様の傍にいなくてもいいのですか?」

「アユル様には宰相様がついておられますので、心配は無用ですよ」

「ありがとう、いつも気を遣ってくれるのね」

「わたくしに礼は不要です、王女様。昼食を用意いたしますので、ここでお待ちになっていてください」

 ラシュリルは、コルダが並べてくれた食事を食べて果実茶を味わいながら一息ついた。キリスヤーナを発ってから、ラシュリルは一度もアユルと言葉を交わしていない。常に行動は別で、遠目から姿をながめるだけだった。仕方がないと思いながらも、やはり寂しい。ナヤタもいないし……。無意識に、ため息が出てしまう。

 コルダが食器をさげてしばらくしたころ、ラディエが部屋を訪ねてきた。ラディエは、コルダに部屋を出るように言ってラシュリルの向かいに正座した。二人の間に、重たく気まずい沈黙が流れる。

「陛下は、サリタカル国王と会談をなさっておられます」

「……そうですか」

「そう縮こまらないでください。あなたにお渡ししたいものがあって来ただけだ」

 ラディエが、懐からアユルの玉佩を取り出す。ラシュリルは、思わず「あっ!」と小さな叫び声を上げてしまった。

「キリスヤーナで、あなたの荷をあらためた時に出てきました」

「ごめんなさい。お返ししようと思っていたのですけれど……」

「陛下があなたに会うためにキリスヤーナに赴いたという話は嘘ではないようだ。思えば、御即位なさる前から、陛下はこれを身に着けておられなかった。つまり、以前にあなたと会って、これをお渡しになったのでしょう」

 ラディエが両手を添えて、あやめの玉佩をさし出す。ラシュリルはそれを受け取って、抱きしめるように胸に押しつけた。

「陛下の御ために、あなたには身を引いていただきたい。キリスヤーナ国王の潔白が明らかになったら、すみやかに国へ帰ってほしい。宰相として、私はそう思っています」

「わたしが異民族だからですか?」

「そうです。それに、あなたは後ろ盾となるものをお持ちではなく、陛下の弱みにしかならないからです。陛下の妃というのは、恋情よりも身分や政治的な価値が必要とされるのです。お分かりか?」

 鋭く射抜くようなラディエの目。手元の玉佩を見つめて、ラシュリルはどきっととした。

「もしかして、これを陛下にお返しして身を引けとおっしゃるのですか?」

「いかにも。今宵、陛下にお目通りできるよう手配いたします。それまでよくお考えください」

 では、とラディエが立ち上がる。ラシュリルは慌ててラディエを呼び止めた。だが、ラディエは冷たい視線を残して部屋を出て行ってしまった。

 体から力が抜けていく。身分や政治的な価値。必要なのは分かるけれど、とラシュリルは玉佩を握ったまま膝を抱える。ラシュリルにとって、それはとても悲しい響きだった。異民族だと拒絶されることよりも、アユルが憐れで言葉にならない。王宮で見た美しい夜を思い出して、余計に胸が締めつけられた。

 ラディエが部屋を出ると、すぐそこにコルダが立っていた。コルダはいつになく真剣な顔をして、ラディエに迫った。

「宰相様。陛下の了承を得てのことですか?」

「盗み聞きとは、無礼な侍従め」

「聞き耳を立てていただけです。陛下より王女様のことを任されておりますので。それで、陛下はこのことをご存知なのですか?」

「そんなわけがあるか。ここに来るまで、陛下に考えを改めるようしつこく進言したが、気持ちは揺らがないと一蹴されてしまった。王女殿もそうでなくては不幸になるだけだ。私の言葉で諦めがつくような気持ちなら、その程度だということだ」

「あの、宰相様。怖いお顔立ちのせいか、いまいち宰相様の優しさが伝わらないのが非常に残念でなりません」

「貴様、陛下の侍従だからと調子に乗るなよ」

 コルダの脇腹を小突いて、ラディエが表情をやわらげる。ラディエが去ったあと、コルダは少しだけ戸を開けて中の様子をうかがった。ラシュリルは、座ったまま玉佩とにらめっこをしていた。しばらく一人にしておこうと、コルダはそっと戸を閉めて部屋を離れた。

 その夜、ラシュリルは用意されたカデュラスの衣装を着てアユルの部屋に向かった。レースがひらひらとした服は見苦しいと、ラディエが苦言を呈したのだとか。なによりラシュリルを驚かせたのは、薄桃色や赤を重ねた袿を選んだのがラディエだということだった。衣装を吟味するラディエを想像して、お父様みたいだと思わず笑いがこみ上げてしまう。

「心は決まりましたか?」

 前を歩くラディエに聞かれて、ラシュリルは「はい」と答えた。城内の豪華な扉を開けて、ラディエが中に入るよう言う。ラシュリルは、ごくっと喉を鳴らして部屋の奥を目指した。

 アユルは、手元に届いたばかりの書簡に目を通していた。陛下ではなくアユル様と書き出された書簡には、夫の帰りを待ちわびる妻の言葉が綴られている。突きつけられる現実。カデュラスに戻れば、否応なしに王妃との生活が待っている。心が熱を失って、一気に冷えていくようだ。アユルは、タナシアの書簡を床に放り投げた。それから一呼吸おくくらいの差で、ラシュリルが部屋に入ってきた。

「久しぶりだな」

 アユルが、驚いた様子で言う。ラシュリルは何も言わずにアユルの向かいに腰をおろした。やっと声を聞けたのに、それを喜ぶような心境になれない。心は決めたけれど、いざ口にしようと思うと勇気がいるし、やっぱり迷いが生じてしまう。わたしが決めたことは、本当に正しいのかしら。

 ラシュリルは、アユルの手を取って手の平に玉佩を乗せた。

「ずっとお預かりしていたアユル様の玉佩を、今お返ししますね」

 アユルが、一瞬、片方の眉をぴくりとさせる。

 驚いたのかしら。ラシュリルはアユルの表情をうかがいながら、左胸をおさえて大きな深呼吸を数回繰り返した。訝しんで、探るようなアユルの視線が玉佩を離れてこちらに向く。

 他の者が入り込めないほど互いを愛し抜いてこそ、添い遂げられるとアユル様は言った。だから、わたしが身を引くときはアユル様から別れを告げられた時だけ――。

「傷は大丈夫ですか?」

「大事ない。王女殿が話したいことがあると宰相から聞いたのだが、もしや宰相に入れ知恵でもされたか?」

「お母さまと玉佩のお話をなさっていたでしょう? だから、大切なものなのだと思ったのです。それに、宰相様も武官の方も文官の方も、ちゃんと身に着けていらっしゃるから」

「そういうことなら受け取る。それに、もう約束は果たしていることだしな」

「わたしの玉佩はまだお持ちですか?」

「もちろん。カデュラスに着いたら返す」

 アユルが玉佩の飾り紐を袴の腰紐に通して、はずれないようにしっかりと結びつける。ラシュリルはアユルの背中越しに机を見て驚いた。机の上に山積みになった分厚い本。そのうち数冊が広げられたままになっている。わくわくしながら、眠るのも忘れて読み耽ってしまう楽しい恋愛小説などではなさそうだ。

「お仕事の邪魔をしてしまいましたね」

「いや、ちょうど休息を取ろうと思っていたところだ」

「……よかった」

「侍女がいなくて不便だろう」

「いいえ、コルダさんがとっても親切なので不便なことはありません。アユル様こそ、コルダさんがいないと困るのではないですか?」

「静かでよい」

「嘘ばっかり」

「コルダには言うなよ」

 はい、とラシュリルが笑顔になると、アユルがごろんと横になった。そして、仰向けになって、目をぱちくりとさせるラシュリルを真下から見上げた。

「疲れた。しばらく膝を借りる」

 アユルが目を閉じる。太腿の上に乗った頭の重みに、思わず背筋が伸びてしまう。これは、どうしたらいいのかしら。ラシュリルは頬が熱くなるのを感じながら、そっと短い黒髪に触れた。疲れたというのは本当らしい。心なしか顔色が冴えないように見える。

「首が痛くないですか?」

 少し、とアユルが言う。ラシュリルは正座を崩して座りなおす。それから、袿を脱いでアユルに掛けた。いつも凛としているのに、今は無防備でとても可愛らしい感じがする。子どもというよりは小動物みたいだ。

「わたしは、アユル様を幸せにしたいと思っています」

「それは頼もしいな」

「本当ですよ。けれど、アユル様のためになにができるのかと言われたら、なにもなくて……」

「やはり、ラディエからなにか吹き込まれたのだな?」

「いいえ。宰相様は、アユル様のことを心から心配しているのだと思います。って、ごめんなさい。疲れているのに」

 目を瞑ったまま、アユルがラシュリルの手をつかむ。

「ラディエになにを言われたか知らないが、私がこうして気兼ねなく身を委ねるのはそなただからだ。なにができるできないではなく、そなたの楚々な心こそが私には何よりも尊い。それが分からない者の言葉など聞き流せ」

「はい、アユル様」

「他の者に惑わされず、私だけを信じていろ。私がこの手を離すことはない」

 待てど暮せど、一向に王女が出てくる気配はない。しびれを切らせたラディエは、部屋に入って目をひんむいた。陛下が王女の膝を枕にして、すやすやと寝息を立てているではないか。

 あまりにも安らかな寝顔に、ラディエはふと昔を思い出した。王子は、よく笑う快活な童だった。花もかくやの可愛らしい笑みをこぼし、春を運んでくる清か風のように王宮を駆け回っていた。仕官したばかりのころ、いつかこの方の御代にお仕えできるのだと思うだけで務めに身が入ったものだ。それがいつの間にか、別人のように変わってしまわれた。

「陛下、起きてください。夜も更けてまいりました。王女殿を部屋へお送りいたします」

 翌朝、アユルは早くに起きて机に向かった。

 昨夜は、せっかく気持ちよく眠っていたところをラディエに邪魔されてしまった。お二人が一夜共にするにはまだ時期尚早と言うあたりが、愚直で真面目なラディエらしい。今更だが、大事な宰相を労ってそういうことにしておこう。

「さて」

 机に広げた上質な紙に、さらさらと筆を走らせる。床に放り投げられたままの書簡。王宮には、夫の帰りを待ちわびる妻がいる。蒔いた種は、芽吹いて、天に向かって葉を広げ、やがて甘い果汁が滴る実をつけるもの。

『王妃が寂しい思いをしていないか、そればかりが気になっている。じきに帰国する』

 それだけ書いて、紙を丁寧に折りたたむ。ふと、ラシュリルに手紙を書こうとして言葉が浮かばなかったことを思い出して苦笑する。本当に愛おしい者には書けないのに、計略的な偽りならいくらでも書けてしまう。アユルは、ラディエを呼んでタナシアへ手紙を送るよう命じた。そして、サリタカル国王を連れてくるようにとつけ加えた。

 サリタカル国王が来るまで、まだ時間がある。アユルは、外の空気に触れようと庭におりた。目的もなく、ふらふらと庭を歩く。すると、若い従者が荷を解いているのが見えた。

「大義だな」

 声をかけると、突然現れた王に驚いたのか、従者が大袈裟に白砂の上にひれ伏した。アユルは従者に近づいて、地面に着いた従者の手を見おろした。ただ、何気なく気になったのだ。右手の人差し指の傷が。

「名はなんと言う」

「は、はははい。ファ、ファユともも申します」

「一人か? 他の者はどうした?」

「は、はい。むむ、向こうで荷物を、か片づけております」

 正絹のお召し物から、清々しい香りがする。よいと言われるまで顔を上げることもできない。ファユは、逃げ出したくなる衝動を必死にこらえた。身分の低いただの従者に、気まぐれで声をかけただけ。すぐに立ち去ってくださる。そのファユの予想は大きくはずれた。信じられないことに、王がすぐ前にしゃがんで手を取ったのだ。

「よ、よ、よよ汚れております。どどっ、どうかお放しください、陛下」

 思わず顔を上げると、同じ人間とは思えないほど精緻に整った顔がこちらに向いていた。闇のように深い真黒の瞳が、じっと見ている。草木の葉がかすかに揺れるほどの弱風に、王の短い黒髪がそよぐ。

「余は、この傷を知っている」

「は、はい?」

「幼いころ、冬の寒い日に弓矢の稽古をさせられた折、弓弦で弾いてこのような傷ができた」

 ファユは、ごくりと生唾を飲む。王の手が熱い。人の体温とは思えないほど熱く、皮膚が焼かれるようだ。それに、先程まで黒かったはずの瞳が、赤い宝石のように輝いている。

「どうだ。お前も同じ理由でこの傷を作ったのであろう?」

「なな何の、こっ、こ事で、ございましょう」

 冬だというのに、ファユの顎から汗がぽたりと落ちる。あまりの恐ろしさにファユの気が遠くなった時、ラディエがサリタカル国王を連れてやってきた。

「ここにおられたのですか。探しました」

 行け、とアユルに命じられて、ファユが荷を置き去りにしてその場を離れる。アユルは、ファユの容姿を記憶してサリタカル国王の方を向いた。

「キリスヤーナとの銅の交易のことだが」

「はい、承知しております。陛下から正式な書簡をいただいておりますので」

「書簡の内容を書き換えたい。キリスヤーナ国王の要求よりたいぶ少ない量を定めたのだが、少し増やしてやろう」

「はて。もう書き換えられたのではございませんか?」

 サリタカル国王の問いに、アユルは首をかしげた。書簡を書き換えた覚えはない。そう答えると、サリタカル国王はアユルとラディエを執務室へ案内して二通の書簡を机に広げた。キリスヤーナでアユルが書いた署名のある書簡と、王印が押された書簡が並んでいる。

「王印は国に置いてきた」

「しかし、これは確かに陛下の筆跡です」

「そうだな。筆跡が余のものだ」

 押印のある書簡には、ハウエルは要求したとおりの銅の量が記載され、それを許可すると記されていた。アユルの横で、ラディエが青ざめている。

「陛下、早急に帰国なさいませ。大変なことが起こっているようです」

「そのようだな」

 二、三日サリタカルでゆっくりしようと思っていたが、そんなことをしている場合ではないようだ。アユルは、明日の昼過ぎに発つとサリタカル国王に伝えて部屋に戻った。サリタカルを出るまで数日かかる。その移動の間に、アユルはサリタカルの国王にキリスヤーナで起きたことや銅の交易のことを話した。

「銅の交易は、素知らぬふりをして王印のある書簡のとおりに行え」

「かしこまりました。交易の記録は随時、陛下にご報告いたします」

 カデュラスとの国境でサリタカル国王と別れ、それから六日後、カデュラス国王の一行がカナヤに到着した。

 ダガラ城の朱塗りの門が、重たい音を響かせて王の帰還を知らせる。官吏たちが総出で出迎える中、アユルは皇極殿前の広場で馬をおりて石造りの階段をあがった。ふり返ると、遥か向こうを従者たちが荷車を押しながら歩いている。ダガラ城内は神の領域。アユルの他は、自らの足で歩いて皇極殿へ辿り着かなくてはならない。臣の最高位にあるラディエも、そしてラシュリルも、この掟に例外はない。

 空から雨が落ちてきた。お帰りなさいませ、とカリナフが広げた傘をアユルにさし出す。

「余が留守の間、何事もなかったか?」

「はい、陛下。万事つつがなく、平和でございました」

 すぐ傍で、エフタルが頭をさげている。カリナフの意味ありげな笑みに、アユルは黙ってうなずいた。そして、声をひそめる。

「ファユという従者をとらえて牢に入れておけ。決して殺すな」

「御意に。陛下、この傘をお持ちください」

「よい。そなたが持っていけ」

 雨が、勢いを増して白い線を描いて地を叩きつける。キリスヤーナに比べれば暖かいが、冬の雨はやはり冷たい。アユルは足早に王宮を目指した。

 タナシアは、皇極殿の廊下にからアユルの姿を見ていた。キリスヤーナで傷を負ったと聞いた。それも気掛かりだが、なによりも夫から手紙をもらえたことが嬉しかった。離れていても気遣ってくれていたのだと、胸が喜びでいっぱいになった。父親におびえて夫を裏切るつらい日々がやっと終わる。

「陛下!」

 タナシアの声に気づいたアユルが、足を止める。夫の静かな目が、雨粒の合間からこちらを見ている。タナシアは、再会に感情を湧き立たせる訳でもなく、ただ静かにたたずんで雨に打たれるアユルの美しさに見入った。

 アユルは、再び王宮に向かって歩き始めた。

 間もなく、ラシュリルが広場に着く。このまま王宮に入れたいが、それはできない。しばらくは、ラディエが人質の身柄を預かることになっている。これから皇極殿でラディエが高官たちに事情を説明し、正式な手続きをふんでラシュリルは城下にあるラディエの屋敷に移る。

 次にラシュリルが城に来る時までに、王妃との距離を縮めておこう。甘い果実を収穫するために。

 玉砂利の音が、王宮へ戻ってきたのだと強く実感させる。光のない海で、波に飲まれてもがくだけの世界。だが、今はそれすら苦ではない。王宮の門をくぐったアユルは、出迎えた女官長に告げた。

「今宵は華栄殿へ行く」

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