◆第03話

 コルダは、清殿を出て廊下から夜空を見上げた。今宵の月は、鳥のかぎ爪のように鋭い形をしている。腕に掛けたアユルの長着に視線を移して、コルダは思わず笑みを浮かべた。少し目尻のさがった優しげな顔が、さらにくしゃりとほころぶ。

「従者に王女の好きな飲み物を聞いて、明朝、書斎に持って来い」

 そう言ったアユルの表情や声色を思い出すと、嬉しくなってしまうのだ。

 コルダ・ルオ・カデュラは、先王の第二王子としてこの王宮で産声を上げた。二十二年前のことだ。彼の母親は高位の文官の娘で、名をアイルタユナといった。清殿づきの女官だったアイルタユナは、マハールに見初められてコルダを産み、貴妃の位と清寧殿という御殿を与えられた。

 三つも半ばになったアユルは、弟の誕生をとても喜んで毎日のように清寧殿へ通った。

「王子様がお越しになると、コルダはよく笑います。王子様のことが大好きなのでしょう」

 アイルタユナは、かわいらしい客人を歓迎した。アユルの目の高さにかがんでほほえみ、優しく頭をなでる。アユルは、母の手よりアイルタユナの手の方が好きだった。柔らかくて温かくて、花のようにいい香りがするからだ。

 コルダが五つの誕生日を迎えた日、王妃が貴妃と第二王子を華栄殿に招いて祝宴を開いた。王妃は「ささやかな」と言ったが、宴には王が臨席したうえに数多の妃たちまで同席していた。上席で、マハールの横に第一王子のアユルが座っている。アユルはコルダの隣がいいと言ったのだが、王妃がそれを許さなかった。

「やはり、王妃様には敵わないわね」

 妃の群れで、誰かが言った。四家のティムル家から嫁いだ王妃と、一貴族の娘であるアイルタユナとでは血の尊さが違う。だから同じ王の子でありながら、アユルとコルダも暗黙のうちに差別される。しかし、大人の事情はどうあれ兄弟はとても仲がいい。宴が始まって一時もたたないうちに、アユルは席を離れて、貴妃の隣で姿勢よく正座をしている弟の横に陣取った。

「兄上様」

「コルダ、足が痛いのか?」

 アユルは、弟の足がもぞもぞと動いているのに気づいた。王と王妃の手前、行儀よくしていなければと我慢しているのだろう。

「私と同じようにしてみろ」

「でも」

「いいから」

 アユルがあぐらをかいて手本を見せる。コルダはアイルタユナの顔を見て、困惑しながら目でうかがいを立てた。

「いいのよ、コルダ。王子様がいいとおっしゃってくださっているのですから」

 母の優しいほほえみに、コルダは兄と同じように足を崩してあぐらをかく。そして、しびれた足を揉みながら「助かりました」とアユルに礼を言った。

「王位を継ぐ第一王子とご自分を、同等だと思っておられるのか」

 どこからか嫌味な女人の声が聞こえたが、アユルは「言わせておけばよい」とコルダの膳から果物を一つ指でつまんで頬張った。

「美味い。コルダも食べてみろ」

「はい、兄上様」

 息子たちを見て、よきことだとマハールが王妃に言う。兄弟がいなかったマハールの目に、アユルとコルダの様子はほほえましく映っていた。しかし、王妃は口元を扇で隠して「ええ」とだけ答えると、柳眉を寄せ、美しい顔をしかめてしまった。

 マハールは、二つ年上の王妃を特別に扱った。稀代の美姫と評判だった王妃は、婚儀から十余年を経た今でも色褪せることなく美しい。それどころか、年を重ねるにつれて色香を孕んで、ますますその輝きを増している。ティムル家の高貴な血と後ろ盾を持つ第一王子の母。王宮は、非の打ちどころのない王妃に支配されていた。

「コルダには、神の御印がいつになっても現れぬ。アユルには、生まれた時から現れていたというのに。やはり血の尊さが違うのだな」

 華栄殿を退出する間際、マハールが王子たちの前で足を止めて独り言のように言った。冷やかな目でコルダを見て、次に口元をゆるめてアユルに手招きする。コルダは、父の言葉を即座に理解できずにアユルに問いかけた。

「兄上様。かみのみしるしとは、なんでございますか?」

「神の力を操る時に現れるものだ。目が赤くなる」

「では、かみのちからとは、なんでございますか?」

「コルダは……、知らなくていい」

 アユル、こちらへいらっしゃい。マハールの一歩後ろから、王妃がアユルを呼ぶ。アユルは席を立って、両親と共に部屋を出ていった。あの時のアユルの曇った表情を、コルダは鮮明に覚えている。自分だけが、別の世界に取り残されたような気分だった。

 その日を境に、貴妃と第二王子の日々は少しずつ壊れていく。

 アイルタユナは、マハールがコルダに向けた視線を恐れた。情のない、冷たい視線だった。王妃のように有力な後ろ盾を持たないアイルタユナにとって、頼みの綱は王だけだ。息子を王宮で守り抜くには、王の御心をつなぎとめておかなくてはならない。

 ある日の夕時、アイルタユナは女官にコルダを預けて清殿に使いを出した。マハールは、すぐに清寧殿にやってきた。背筋をぞくりと悪寒が走る。それでも、耐えなければ。アイルタユナは、会いたくてたまらなかったと甘えるようにマハールにすり寄った。

 マハールは、アイルタユナの愛くるしい顔立ちと、未熟さを感じさせる小柄な体を気に入っていた。敷布を握り締めて、目を潤ませるアイルタユナの肉体と精神を追い詰めるように犯す。アイルタユナに対してだけではない。マハールは王妃以外の女人を抱く時、いつもそうだった。逆らえない弱者を加虐して征服することで、自分を満たすのだ。

 情事のあと、夜着をまといながらマハールが冗談めかして言った。

「貴妃よ、コルダはまことに余の血を引いておるのか?」

「陛下……?」

「母が違うとはいえ、兄弟でかくも違うものかと思ってな」

 幾年たとうとも、コルダに神の御印が現れることはなかった。王統から神の力が失われて久しい。アユルが特別なのであってコルダは普通なのだと、始めはマハールも本気で疑ってはいなかった。だが、アユルが神の直系たる風格を漂わせていくのに対して、コルダにはまるでそういったものがない。歴然とする二人の違いに、マハールは次第にコルダを遠ざけるようになった。そしてコルダが十二歳になった時、とうとうアイルタユナが告白する。

「陛下、わたしは不義をはたらきました」

「なんだと?」

「コルダは……、陛下の御子ではございません」

 妃として王に仕えながら、アイルタユナはマハール以外の男に肌を許し、あろうことか子まで成していた。王としての沽券を潰されたマハールは怒り狂う。アイルタユナを拘束して拷問にかけ、相手の素性を聞き出そうと躍起になった。しかし、アイルタユナが頑として口を閉ざすと、すぐにアイルタユナとその一族の処刑を命じたのである。

「父上様、どうかお願いでございます。母上の命をお助けください」

「父だと? 穢れた身で、余を父と呼ぶなど許さぬ。神への冒涜ぞ!」

 王の怒りは当然、コルダにも容赦なく向けられる。マハールは、皇極殿の床に額を擦りつけて懇願するコルダに、声を荒らげて扇を投げつけた。激高するマハールの隣で、アユルは静かにコルダを見ていた。

「こやつも殺せ」

 マハールは、獣がうなるような声で一言を残し、荒い足音を立てて皇極殿を出ていった。王の怒りは当然だ。罪を免れるはずがない。頭では分かっている。だが、コルダはなんとしても母を助けたかった。

「コルダ、貴妃様のことは諦めろ。お前があがけばあがくほど、父上の怒りは増すだけだ」

「兄上様。わたくしは、母上を助けたい一心なのです」

「分かっている。だが、貴妃様の罪はあまりにも重い」

「わたくしが不義の子ではないと証明できれば……。神の御印なるものを示せば、母は助かるのでしょうか。でしたら兄上様、わたくしにそれを授けてくださいませ。お持ちなのでございましょう? 神の御印を!」

「愚かなことを申すな。よいか、御印は単に国王の直系を証明するなどと軽々しいものではないのだぞ。お前は黙って待っていろ」

 アユルが去った皇極殿で、コルダは声を上げて泣いた。現実を受け止めきれない。涙が止めどなく頬をつたう。今にも心がひび割れて、粉々に砕けてしまいそうだった。

 数日後、貴妃の身分を剥奪されて罪人に身を落としたアイルタユナは投獄され、一族もすべてとらえられた。そして、コルダは清寧殿に幽閉されることになった。日に二度、女官が持ってくる食事にほとんど箸をつけない日々が続いて、コルダは心身共に衰弱していく。窓は閉めきられ、時間の経過も天候もなにも分からない。ただ、まだ自分は生きている。それだけが、コルダの知り得る情報だった。

「コルダに会う。開けろ」

 雨がしとしとと降る日の昼前。アユルは密かに清寧殿を訪れて、扉の前で見張りをしている若い女官に声をかけた。女官は王の許可なしには開けられないと言ったが、アユルが口を耳元に寄せて一言ささやくと、瞬時迷った末にすんなりと扉を開けた。

「あ、にうえ、さま……?」

 アユルに気づいたコルダは、やつれた目を見開いた。やせたコルダの体を支えて、アユルは自分の表着をかけてやる。

「ついて来い。貴妃様の所へ行く」

「マハール様がお許しになったのですか?」

「父上は知らない。とがめられたなら、私が父上に謝ればよい」

「それでは兄上様が」

「いいから、早くしろ。時間がない」

 雨の中、二人は庭の雑木林を駆けて牢へ向かった。

 牢はじめじめとしてかび臭かった。アユルが牢の格子越しに呼びかけると、アイルタユナが虚ろな目を二人へ向けた。優しげな面立ちは、死人のように生気を失ってしまっている。

「母上!」

 コルダが格子にしがみつく。アイルタユナは牢の奥から動かず、居住まいを正してアユルに叩頭した。

「王子様、すべてはわたしの罪なのでございます。コルダに罪はございません。どうか、どうかお願いでございます。この子をお助けくださいませ」

「コルダが助かる道は一つだ。どのような手段でも構わないか?」

「助けていただけるのでしたら」

「分かった、必ずコルダを助ける」

「心から感謝いたします、王子様」

「ところで、コルダの父親は誰だ。どのようにして会っていた? 妃が外に出るなど、普通は許されないはずだ。なにかの事情で、不義をはたらいたと偽りを申されたのではないのか?」

「王子様。このことは、わたしの胸に秘めておきたいのです」

 王宮に仕えて、王の寵愛を得る。女人なら誰もが夢見てうらやむというが、王宮で幸せそうな女人を見たことがない。アイルタユナも、王宮に閉じ込められた憐れな女人の一人なのだろう。

「その身にすべての罪を背負うのだな?」

「はい、申し訳ございません」

「貴妃様、こちらへ」

 アユルが格子の近くにかがむと、アイルタユナはゆっくりと立ち上がって二人に近づいた。アイルタユナの手を、アユルが格子越しに握る。アイルタユナの顔には黒ずんだ痣があり、骨が折れた手指には布が巻かれている。ひどい拷問を受けたのは一目瞭然だった。

「お、王子様。とても汚い手でございます。お放しくださいませ」

「貴妃様は、いつもこの手で私の頭をなでてくださった。いつのことだったか、時がたちすぎて思い出せないな」

 アイルタユナが、もうお忘れくださいませと柔らかな笑顔をみせる。アユルは、うつむいてコルダの手を引っ張った。そして、アイルタユナとコルダの手を重ねた。アイルタユナとコルダは、長い間お互いを見つめ合って涙していた。牢番がアユルに近づいて耳打ちする。アイルタユナは、事情を察してコルダの手を離した。

「ありがとうございます、王子様。この子の顔を見たら、心が軽くなりました」

「そうか。コルダのことは心配いらない」

「どれほど感謝申し上げても足りません。ご恩に報いること叶いませんけれど、お許しくださいませね」

「よい。私は、貴妃様の最期の道行きが穏やかであるよう心から祈っている」

 最期の時、アイルタユナと一族の者たちは、後ろ手に縛られて皇極殿下の広場に並んで座っていた。マハールが文官武官を従えて、見世物を愉しむように皇極殿の廊下から見おろしている。

 刑の執行を知らせる太鼓の音が響き、武官が鉈の刃に酒を吹く。そして、武官はアイルタユナの父親の後ろに立って、両手で鉈の柄を握った。振り上げられた鉈が、閃光を描く。最期の言葉を残すことは許されなかった。

 ごめんなさい、父上。アイルタユナは何度も小さな声で繰り返す。武官が次々に首をはねて、いよいよアイルタユナの番となった。

 ――あの子が、天寿をまっとうできますように。

 武官が力をこめて鉈をふりおろす。一瞬だった。その様子を、マハールは無表情で見ていた。すべてが終わると、マハールはアユルを近くに呼んだ。

「アユルよ。不義の子をどうすべきだと思う」

「父上、コルダを私にください」

「なんだと?」

「私はコルダと共に育ちました。あの者の他に、私が心を開ける相手はこの世におりません」

「王宮に仕えさせるというのか? あれが母親と同じ間違いを犯せば、そなたまで笑い者ぞ」

「間違いが起きないよう、宦官といたします」

 宦官と聞いたマハールは、大きな口を開けてわははと馬鹿笑いした。宦官になれば子を成すことは叶わず、忌々しい血はいずれ滅びる。

「余はそなたを信じておる。よかろう、許す」

「ありがとうございます、父上」

 アユルが、マハールに深く頭をさげる。アユルが誰かに頭をさげたのは、後にも先にもこの時だけだった。

 貴妃の密通事件が片づいて、コルダはカデュラ家の系譜から名を削られた。そして、一介の侍従となった。王妃だけが、不義の子を王宮にとどめるなど許さぬと騒いだが、アユルはそれを無視した。

 コルダは、アユルが目覚める前から就寝したあとまで懸命に勤めた。時には、マハールと鉢合わせることもあった。だが、マハールがコルダに目を向けることはない。まるで貴妃と第二王子など初めからこの世にいなかったように、王宮では王と女人たちの日常が繰り返される。ある日、夜の膳をさげようとしたコルダをアユルが呼び止めた。

「いかがされました、アユル様」

「つらくはないか?」

「いいえ。生き永らえたうえにアユル様の傍に置いていただいて、わたくしは果報者でございます」

「ならばよい。貴妃様の願いは、お前が生き抜くことだ。私は、なにがあってもお前を守る」

「なぜ、アユル様はわたくしに情けをおかけになるのです。なぜ、いつまでも大罪人の母を貴妃様とお呼びになるのです。なぜ、不義の子を助けて御名を呼ぶことをお許しになられたのです」

「待て、そう一度に聞くな」

「……もっ、……うっ、申し訳っ……」

 コルダは嗚咽して泣いた。涙を拭う手は、水仕事で荒れてところどころ裂けてしまっている。アユルが、傷薬を棚から出してコルダの手に塗りながら言った。

「ここは残酷な所だな、コルダ」  どこからか、秋虫の鳴き音が聞こえる。さて、とコルダは歩き出した。向かう先はもちろん清殿だ。いつも温情に救われて生きてきた。その恩に報いたい。胸にあるのは、揺るがぬ思慕と忠誠のみ。コルダは、アユルのためなら命を捧げる覚悟で仕えている。

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