大陸を西から東へ移動すると、季節を逆走するような奇妙な感覚にとらわれる。
同じ秋といっても、キリスヤーナとカデュラスでは風も日差しもまるで違う。カデュラスの風は少しひんやりする程度で、日差しは鋭く夏の名残をとどめている。
キリスヤーナ国王一行がカデュラスの王都カナヤに到着したのは、よく晴れた日のちょうど昼時だった。旅に慣れるまでは馬車の揺れに酔い、気分が悪くて食事もろくにとれず散々だった。それに、ハウエルの言ったとおり、特にキリスヤーナとサリタカルの国境付近の山道は険しくて、雨の日の野宿はとても悲惨だった。しかし、一生に一度のこと。ふり返れば、三十日近くに及んだ旅程に見聞きしたことすべてがいい思い出だ。
キリスヤーナ国王が宿泊する宿は、大通りから数本裏の通りを入った場所にあった。ラシュリルは、馬車をおりてぐるりと景色を見回す。故郷のものとはまるで違う建物に人々の声や荷馬車の蹄の音。目や耳に、街の喧騒が飛び込んでくる。さすが、大陸を統べるカデュラス国王のお膝元だ。旅路で見てきた都市とは、比べものにならないほど栄えている。
「口が開いているよ、王女様」
ハウエルにからかわれて、ラシュリルは慌ててきゅっと口元を引きしめた。本当にカデュラスへ来た。ここがお母様の故郷。そして、お父様とお母様が恋に落ちた国――。
カナヤには、カデュラス国王の居城で政の要でもあるダガラ城がそびえている。城は広大な敷地を持ち、神と民とを隔てるかのように高い塀で囲まれていた。ダガラ城の朱門から、真っ直ぐに王都を貫く大通り。それを中心に、カナヤの街並みは整然と区画されている。城のすぐ外は、身分の高い貴人たちの意匠をこらした屋敷が軒を連ねる城下町。そして、城下町を下ると市場や繁華街、花街などが順に続く。
ラシュリルは、ハウエルたちと大通りの店で昼食を済ませたあと、ナヤタと散歩へ出かけることにした。通りには、たくさんの人がひしめいている。カナヤは大陸一の商業都市でもあるから、大陸中から人やものが集まってくる。行き交う人々は、老若男女、服装も風貌も様々だ。特にこの数日は、新王の即位式間近とあって、普段よりもにぎわっていた。
淡い黄色の小袖を着たさげ髪の少女が、小走りでラシュリルの横を通り過ぎる。ラシュリルの目が、無意識にその少女を追う。黒い髪と瞳。生粋のカデュラス人だ。わたしも、あの服を着たらカデュラスの人に見えるかしら。ラシュリルは、小袖姿の自分を想像してみるがぴんとこない。
「ラシュリル様、外套を」
「ありがとう、ナヤタ」
「どこかお目当ての場所があるのですか?」
「カナヤの森へ行ってみようかしら」
「カナヤの森ですか?」
「ほら、さっきお店の人が話していたでしょう?」
樹齢百年とも二百年ともいわれる木々が生い茂る森。その奥には、浄土の蓮池のように美しい湖があるそうだ。浄土の蓮池は知らないけれど、美しいという言葉に好奇心をくすぐられる。
「でも、ラシュリル様。その湖には、恐ろしい魔物が棲んでいるって言っていましたよね。だから、誰も近づかないって」
「魔物だなんて、迷信か作り話に決まっているわよ。それよりも見て、ナヤタ。空がとても綺麗だわ」
「本当ですね」
「ねぇ、新王様はどんな御姿をなさっているのかしら」
「とても美しいお方だと、風の便りに聞きました」
「女性と見違えるようなお顔立ちで、病弱でいらっしゃるのだったわね。清廉でりりしい方だと嬉しいわ」
「そのような方がお好みなのですか?」
「違うわよ。大陸を統治なさる方がひ弱では、心もとないじゃない」
二人は、はぐれないように手を繋いで往来の激しい大通りを歩いた。話しに夢中になっているうちに、にぎわいに満ちた繁華街を抜ける。道が分からなくなると、通りの店に立ち寄って道を尋ねた。カナヤの民は、異民族にも親切だ。きっと、慣れているのだろう。細い小路を曲がって人通りのまばらな道を行くと、目の前に大きな森が現れた。
「今日の禊を終えましたら、五日後は即位式でございますね」
「そうだな」
「昨日、宰相様からうかがった話では、キリスヤーナ国王が到着なされたらすべての国賓がそろうそうです。宴には間に合うとのことでしたので、もうお着きになったかもしれませんね」
「キリスヤーナは遠いからな。明日の宴で、国王の労をねぎらってやらねば」
「カナヤは、アユル様の即位に沸き立っているそうですよ」
「万事滞りなく、泰平でよきことだ」
「あとは、アユル様がお妃様をお迎えになられたら、宰相様も心から安心なさるでしょうね」
「コルダ、その話はやめろ。胸糞が悪くなる」
「なりません、アユル様。胸糞とは、言葉が悪うございますよ」
アユルの衿を整えながら、コルダが肩を揺らして笑う。アユルは、眉間にしわを寄せてコルダをにらみつけた。
「お前が、女であればよかったのだ」
アユルの何気ない一言に、コルダの手がぴくりとはねて止まる。そして、男が二人、微動だにせず真顔で見つめ合う。交わる視線にこめられた互いへの深い慈愛と信頼。腹を探らずとも、二人は魂で繋がっている。もちろん、それは恋情ではなく信頼という形での話だ。
「……あの。アユル様のご要望にお応えするのが、わたくしの務めと存じております。されど、わたくしがアユル様の御寝所に侍るには少しばかり、その……」
「なにを言っている。お前と同衾などできるか、馬鹿者」
アユルの指が、コルダの額を弾く。
「ったぁ! アユル様、なにをなさいます!」
「もう昼を過ぎた。早くカナヤの森に行かなくては。ばば様がしびれを切らしているぞ」
アユルとコルダは王宮の裏門を出て、カナヤの森まで続く山道を一直線に馬で駆けた。視界を流れる景色のあちらこちらに、紅色に染まった葉が混じっている。景色が林から森へ変わったあたりで、二人は馬を止めた。コルダが、馬をおりて周囲を探る。生い茂る草に隠れて見えないが、一足違えれば沢へ真っ逆さまに滑落しそうな斜面だ。つま先で慎重に地面を確かめながら進む。
「アユル様、あちらにお屋代が見えます」
コルダが指さす方向に、苔むした石造りの鳥居と古い木造の建物が見えた。アユルも馬をおりて手綱を引く。
「足元にお気をつけください」
「やれやれ、即位するにも一苦労だな」
二人が鳥居をくぐると、建物の中から背の小さな白髪の老婆が姿を現した。ここには、カデュラ家の祖である初代王が葬られている。王家にとって神聖な場所で、王位を継ぐ者は即位前にここで禊をする習わしだ。コルダが、アユルから手綱を預かって二頭を馬立てに繋ぐ。階をおりてきた老婆が、曲がった腰を伸ばしてアユルの顔を見上げる。
「ようこそ」
「遅くなってすまなかったな、ばば様。息災であったか?」
「はい、このとおり」
「それはなによりだ」
ばば様は亡き先々王の妹で、アユルが生まれる以前からこの屋代の守り主を務めている。見た目はここ二十年ほど変わっていないが、とうに寿命を迎えていてもおかしくない年齢だ。
「中に装束をご用意してあります。どうぞ、お着替えをなさってくださいませ」
屋代に用意されていたのはマハールの葬儀に着用した白装束で、ホマの儀式が行われている間にばば様が死の穢れを祓ったものだ。着替えを済ませて外へ出ると、ばば様が廊下に座っていた。
「すべきことはお分かりでしょうか?」
「湖の水で王都を清めればよいのであろう」
「そうでございます。できますか?」
「造作もない。私は父上とは……、歴代の王たちとは違うからな」
二人のやりとりを聞きながら、コルダが階をおりて履物をはく。そして、いつものようにアユルの履物をそろえた。
「コルダは、ばば様とここで待っていろ。湖へは私一人で行く」
「いえ、アユル様の身に何事かあれば一大事ですので」
「このような俗世からかけ離れた山中で、なにが起きるというのだ。たとえ起きたとしても、助けなど必要ない」
「必要ないなど……。丸腰ではございませんか!」
「これ、コルダ殿」
ばば様が、優しくコルダをなだめる。心配の度が過ぎて、思わず語気が強くなってしまった。コルダは、叩頭してアユルに無礼をわびた。
「心配するな、コルダ。雨が止めば戻る」
「雨でございますか? よい天気ですのに?」
「そう、雨だ。では、行ってくる」
そのころ、ラシュリルとナヤタは、小道を辿って森に入り込んでいた。木々の合間から、日光が光線の柱を描いてそそぎ、うっそうとした森の奥とは思えないほど明るい。
「なんて清々しいのかしら。気持ちがいいわ」
ラシュリルは、森の息吹を胸いっぱい吸い込んだ。少し離れた所で、ナヤタが小鳥を追いかけている。猫がするように、足音を忍ばせて飛びはねて。その動きがおかしくて、ラシュリルは声を出して笑った。その時、視界の隅にきらりと反射する光が入った。
「なにかしら」
誘われるように、その光の方へ向かう。肩の高さまである草をかき分けて、奥へ、さらに奥へ。小鳥を見失ったナヤタが元の場所に戻ると、ラシュリルは忽然と姿を消していた。
屋代から森の奥へ向かってけもの道を行くと、森にぽっかりとあいた穴のような湖につきあたる。湖は対岸が見えないほど大きく、水底から薄青色の透明な水が絶えずこんこんと湧いて、鏡のように空や周囲の木々を水面に映している。アユルは、湖畔からその明媚な風景をながめた。
禊とは滝行の類ではない。湖の清らかな水で雨を作り、その雨で王都を禊ぐのだ。大陸を平定した初代王は、人外の力を持っていたと言い伝えられている。神の力と史書に記されているそれは、触れるだけで命を奪い、天候まで意のままに操れたのだという。時がたつうちに初代王の血は薄まって、十八代目の王を最後に神の力はこの世から消滅した。実に数百年ぶりだった。カデュラ家に神の力を宿した赤子が生まれたのは。それを心から喜んだマハールは、初代王と同じアユルという名を王子に授けた。
――さて、さっさと済ませるか。
アユルは足首まで湖に入ると、目を閉じて神経を研ぎ澄ました。森は今、静寂の中にあった。そよ風にたゆたう木葉の音に、空を飛ぶ鳥の羽音までもが聴覚に触れる。
瞑想するアユルの足元で、湖面が小さく波立った。ちゃぷんと音を立てて、次から次に湖面に波紋が広がっていく。波は徐々に大きくなって、ぶつかる波と波がしぶきを散らしながら水面を揺らした。さらに勢いを増した波が、荒れる海のように激しく暴れ始める。アユルが二歩進むと、しぶきが霧雨となって宙に飛散した。頭上では、灰色の雲が青空を覆って、遠雷の音がごろごろと低くうなる。そして、雲が太陽を完全に覆い隠すと、一筋のいかずちが空を縦断して、雷を伴った篠突く冷雨が地に降りそそいだ。ダガラ城の高い塀も、建物も、街路も、人も、すべてが激しい雨に打たれる。カナヤの大通りでは、往来にひしめく人々が悲鳴を上げながら店先に逃げ込んだ。
縦横無尽に空を切り裂いて閃光を放つ雷と、矢のように猛々しく湖面に突き刺さる攻撃的で冷たい雨。できることなら、優しく温かな雨を降らせたい。アユルは、自分の本性を表したかのような雨に打たれながら苦笑した。
「なんてひどい雨なの。あんなにいいお天気だったのに」
ラシュリルは、顔を手で拭って必死に辺りを見回す。すっかり道に迷ってしまった。雨が外套にしみて、ワンピースまでぐっしょりと濡れている。太陽もかげってしまったから、余計に肌寒く感じる。途方に暮れて顔を上げると、視線の先に湖が見えた。
「あれ……。もしかして、あれが例の湖?」
小走りに湖へ向かう。湖に近づくと人の姿があった。背の高さや風貌から、男性だと分かる。見ず知らずの人に声をかけるのは気が引けるけれど、他に人はいなさそう……。ためらっている場合ではない。ナヤタが心配して探しているはずだから、早く戻らないと。大丈夫、道を尋ねるだけだもの。ラシュリルは、意を決しておそるおそる、しかし雨音に負けないように湖畔から大きな声を出す。
「あの、すみません!」
ここは森の奥で、滅多に人が近づかない場所だ。ラシュリルの声に驚いたアユルは、ゆっくりと体の向きを変えた。アユルの目が、湖畔に立つラシュリルをとらえる。ラシュリルは、鮮血のように赤く光るアユルの目を見て、ひゅっと息を喉の奥に詰めた。店で聞いた話を思い出して、背筋がぞっと凍りつく。この森には、本当に魔物が棲んでいるというの?
――こ、怖い。
ラシュリルは、腰が抜けてしまいそうな恐怖に必死に耐えた。アユルが、湖を出て警戒しながらゆっくりとラシュリルに近づく。腕を伸ばせば届く距離までアユルが迫っても、ラシュリルは目を見開いたままぴくりとも動かない。驚きと恐怖が一気に押し寄せて、すっかり混乱状態に陥ってしまったのだ。アユルが、不審な者をあらためるような目つきでラシュリルを観察する。
「何者だ」
「わ、わたしは、あの、わた……」
「いつからそこにいた」
矢継ぎ早に問う低い声には、明らかな威圧がこめられていた。冷たい雨と恐怖のせいで、唇が震えて声が出ない。ラシュリルは、なんとか声をしぼり出そうと喉元を手でおさえる。
「あ、あ、あの……」
「もうよい。ここで私に会ったことを、絶対に他言しないと約束しろ」
出ない声の代わりに必死に首を縦にふって、ラシュリルは一目散に森へ逃げ込んだ。男が追いかけてくる様子はない。しかし、脇目もふらずに走った。小枝に頬を引っかかれて血がにじみ、雨でぬかるんだ地面に足を取られる。どこをどう走っているのかよく分からない。頭の中がぐちゃぐちゃで、とにかく無我夢中だった。そして、ナヤタを見つけたラシュリルは、助けを求めるようにナヤタにしがみついた。
「ナヤタ!」
「ああ、ラシュリル様っ! 心配したのですよ。どこへ行っておられたのです。……こんなに震えて!」
「ごめんなさい、ナヤタ。なんでもないの。雨が……、雨に濡れて体が冷えてしまっただけよ」
目から涙があふれる。とても怖かった。あの人の射抜くような赤い目が、威圧的な低い声が、とても恐ろしかった。
「このままでは風邪を引いてしまいます。急いで戻りましょう」
「ええ、そうしましょう」
雨が、徐々に勢いを失っていく。次第に雨雲が割れて、太陽が顔を出した。
ふと地面を見ると、さっきまで女人が立っていた場所になにか落ちている。アユルは、かがんで小石が散らばった地面に手を伸ばした。それは、深い緑色の鉱石に数輪の小さな花が刻まれた玉佩だった。手に取って顔に近づければ、赤い飾り紐からほのかに甘い香りがする。ああ、これは秋にどこからともなく香ってくる桂花の匂いか。そう思いながら、玉佩に彫られた花を指先でなぞる。
ダガラ城への入城を許されるカデュラスの貴人たちは、身分の証しとして玉佩を身に着けている。つまり、今の女人は城へ出入りできる身分を持っているということだ。
アユルは、コルダとばば様が待つ屋代に戻って身なりを整えると、すぐに王宮へ戻った。その道すがら、アユルは湖で会った女人のことばかり考えていた。黒い髪と瞳。容姿はカデュラス人そのものだったが、ひらひらとした見慣れない奇妙な服を着ていた。
「コルダ。お前は城下の事情に詳しいか?」
「詳しくはありませんが、一応の見聞はありますよ」
「では聞くが、良家の子女の間では、異国の服をまとうのが流行っているのか?」
「さぁ、そのような話は聞いたことがございません」
「……そうか」
ラシュリルとナヤタは、道に迷いながらもなんとか宿に帰り着いた。ハウエルに戻ったことを知らせようとしたが、ハウエルは側近を連れて外出しているらしい。二人は、ラシュリルの部屋に急いだ。ナヤタが、ラシュリルの外套を受け取って慌ただしく部屋を出ていく。濡れたワンピースに体温を奪われて、ラシュリルは寒さに震えながら腰のベルトに手をかけた。
「……あれ?」
指先で帯革を探って目視する。ない。帯革に結んでいたはずの玉佩が、ない。
「どこで……。どこで落としたのかしら」
玉佩は、ラシュリルがカリノス宮殿に引き取られた時に、傍にいてあげられない私の代わりだと母親から渡された大切な品だ。あなたのお父様と出会う前にね、さる高貴な方からいただいたものなのよ。そう話す母親の顔を思い出して、ラシュリルは胸元をぎゅっと握り締める。
――どうしよう。お母様の宝物なのに……。
昼食の時には確かにあった。それから散歩に出かけて、森に……。記憶をさかのぼるうちに、心臓が早鐘をうち始める。よみがえる白い服を着た男の姿。赤い瞳が、記憶の中から迫ってくる。
「ラシュリル様。お湯の準備ができましたよ」
ナヤタが、着替えを持って戻ってきた。ラシュリルはナヤタに礼を言うと、急いで浴室へ向かった。
王宮に戻ったアユルは、息をつく間もなく皇極殿の高座座っていた。王宮に戻るや否や、臣の最高位である宰相に呼び出されたのである。
「急ぎの用とは、なんだ」
「……はい」
ラディエ・ノウス・カダラルが、神妙な面持ちでアユルの顔色をうかがう。頭頂で結って丸めた髪に象牙のかんざしをさして、雄々しい顔に美髯をたくわえた彼は、四十路半ばの豪傑だ。性格は愚直で真面目。先王の信頼を得て、五年ほど前に宰相となった。
ラディエが、「失礼」と言ってアユルの前に漆塗りの四角い盆をそっと置く。それには、花が描かれた四枚の竹札が並んでいた。
「これは?」
「四家の姫君たちの御印でございます。今ここで、王妃となられる方をお選びください」
「なんだと?」
初代王が大陸を征服した時、彼には四人の忠臣がいた。初代王は彼らの功績をたたえて、四人にそれぞれイエサム、ティムル、アフラム、カダラルの姓と王家に次ぐ身分を与えた。彼らの家系は四家と呼ばれ、王家と同じように直系の男子に襲位されて現在にいたっている。カデュラスでは、一にも二にも身分が重んじられる。先王マハールの王妃だったアユルの母は、ティムル家の姫だった。
「王統こそが国の根幹でございます。カデュラ家の尊き血筋が途絶えれば、国が揺らぎます。その年になるまで独り身を貫いた挙句、王宮の女官を追い出すなど正気の沙汰ではございません。皆が王統の存続を危ぶんでおります。一刻も早く正妃をお迎えください」
アユルは眉間にしわを寄せて、目の前に並んだ竹札をまじまじと見た。四家に姫が生まれると、花の御印を与える習慣がある。竹札にはそれぞれ、藤、しだれ桜、蓮、桂花が描かれていた。目が順に札を追って、桂花の札で止まる。
「そう……、だな」
アユルが、ぼそりとつぶやく。ラディエは、面食らってしまった。十年も結婚をしぶってきた王子が、すんなりと受け入れるとは思っていなかったのだ。しかし、確かに今、王子は「そうだな」と言った。
「早速、明日にでも姫君たちとお引き合わせいたしましょう」
「宰相、待て。その……、今のは違う」
「よろしいのです。ここで決めていただく所存でございましたが、姫たちに会ってお決めください。王子がその気になられただけで、私の憂いは晴れましてございます」
深く一礼して、ラディエが袴の裾をはためかせながら、弾むような足取りで皇極殿を出ていく。
皇極殿は、長い歴史の間に何度か建て替えられた記録がある。最後の建て替えが行われたのは、タリユス王の御代だ。真っ白な大理石を台座にして、頭に高級な煉瓦を何千枚も載せた重厚なたたずまい。そして、中に入れば目を細めたくなるようなまばゆさに圧倒される。格天井やはめこまれた天井画。障壁画と襖、欄干彫刻。すべてに金や漆が贅沢に使われている。建築から百五十年を経た今も、カデュラスの権威を示す輝きには一点の曇りもない。
懐から、例の玉佩を取り出す。彫られた模様と飾り紐にしみ込んだ匂いは、竹札にもあった桂花だ。おびえた顔を思い出して、アユルは重たいため息をついた。神の力を操る時、瞳が血の色に染まる。先王は嬉々として誇りに思えとたたえたが、忌々しいことこの上ない。
コルダにさえあの化け物のような姿を見られたくなくて、一人で湖へ行ったというのに……。あのような森の奥に、人が、ましてや四家の姫がいるなど誰が思うだろうか。ともあれ、玉佩はカデュラスの貴人にとって大事なものだ。
――今頃、必死に探しているかもしれないな。
翌朝、アユルは書斎で書物を読みながら時を待った。
気はそぞろで、書物の文字はまったく頭に入ってこない。なぜなら、先程から目は書物ではなく、机上の玉佩に向いているからだ。上の空で書物をぱらぱらと何度かめくった時、コルダが迎えにきた。書物を閉じて、投げるように机に置く。
「アユル様。宰相様と姫様方が、皇極殿にお待ちでございます」
王宮から皇極殿へ繋がる廊下から見える庭には、濃紫や薄桃色の花が空を向いて咲き誇っている。木々の手入れをしていた女官が、アユルに気づいて白髪の頭を深くさげた。
「コルダ。やはり、下働きは残しておくべきであったか?」
「庭の手入れなどは、若者の仕事でございます。アユル様が若者を追い出してしまわれて……。あのようなことまでなさっておられるお姉様方のご苦労を察すると、心が痛みます」
「そう言うな。私が妃を迎えれば女官が戻る」
皇極殿に入ると、綺麗な身なりの姫が四人、横一列に座してひれ伏していた。この中に湖の女人がいるかと思うと、自然と口元がゆるんでしまう。
「面を上げろ」
高座に腰をおろして、平静を装った声で命じる。姫たちが、一斉に顔を上げた。四人は、それぞれが美しい面立ちをしていて、所作からも育ちの良さをうかがわせる気品が漂っている。さすがは四家の姫だ。妃がねとして育てられただけある。しかし、あの女人の姿がない。そのことが、一気にアユルの興を削いでしまった。きゅっと唇が引き締まって、いつもの冷たく固い表情がアユルの顔を覆う。
「王子、これから私が姫君をご紹介いたします」
ラディエが、こちらがと一人の姫を手でさす。アユルは、それを「よい」と制した。誰がどの家の者でも関係ない。結局は、高貴な血を繋ぐための道具に過ぎないのだ。相手も、我が身も。
「桂花の姫」
アユルが呼ぶと、左端の姫が「はい」と小さく返事をした。他の姫より控えめな雰囲気で、どことなく湖の女人に似ているような気がする。
「そなたに」
それだけ言い放って、アユルは皇極殿を出た。清殿に戻って、書斎で仰向けになり天井をにらむ。桂花の竹札を見て、なぜあの女人を思ったのか。なぜ、姿がなかったことにがっかりしたのか。自分の心が、まるで他人のもののように理解できない。なんとか気を鎮めようとするが、落胆や苛立ちが混ざり合って胸糞が悪い。体を横に向けると、湖の女人の玉佩が着物の合わせから転がり落ちた。
昼を過ぎたあたりから、外宮が慌ただしくなった。今夜、新王の即位に先立って祝いの夜宴が開かれるのだ。日暮れの刻になると、国賓やカデュラスの貴人たちが続々と皇極殿に集まり始めた。
ラシュリルは、大理石の階段のたもとから皇極殿を見上げた。ダガラ城の朱門をくぐって、半刻近く歩いた。てっきり馬車で乗り入れるのだと思っていたのに、城の中で馬や乗り物に乗っていいのは、カデュラス国王とその家族だけだという。
今日の服はドレスではなく、この日のために誂えてもらったカデュラスの衣装だ。白い小袖に赤の切袴。その上に、赤を基調とした袿という衣を五枚重ねている。絹の光沢が美しい二陪織物の袿は、特にラシュリルのおしゃれ心をくすぐった。しかし、華のあるカデュラスの衣装は、慣れていないせいもあるけれど、ドレスに比べて動きにくくて重たい。それを着て半刻歩いたラシュリルの息は、不規則に弾んでいた。
「大丈夫かい? 今日はナヤタがいないから、僕が支えてあげるよ」
ハウエルが、ラシュリルに手を貸す。皇極殿に入れるのは、新王から招待を受けた者に限られる。ナヤタは、城内にある別の建物で待機しているのだ。
「ありがとう、お兄様。ダガラのお城って、とっても広いのね」
「そうだね。歩き慣れていない女性には酷かもしれないね」
「わたし、体力には自信があったのに」
「その服、そんなに重たいの?」
「ええ。せっかくだと思って仕立ててもらったけれど、ドレスにすればよかったわ」
「なるほど、お転婆な王女様向けの衣装ってわけだ。それなら、裾をたくし上げて走り回ったりできないね」
「もう、お兄様。意地悪を言わないで」
「冗談だよ。とてもよく似合ってる」
行こうか、とハウエルがラシュリルの手を引く。皇極殿に一歩足を踏み入れて、ラシュリルはまぶしい黄金の輝きに感嘆のため息をついた。
「ラシュリル、口が開いてるよ」
「だって、あまりにも美しくて……。違う世界にいるみたいだから」
女官に先導されて廊下を進む。ラシュリルは、女官の服を見てぎょっとした。自分が着ているものより、彼女の着物は重ねの枚数も装飾も段違いに多い。一体、どれくらいの重さがあるのだろう。想像するだけで肩や腰が痛くなりそうだ。でも、色彩がとっても綺麗で品がある。
こちらです、と女官が二人を大きな部屋へ案内した。この部屋で朝議が行われているんだよと、ハウエルが得意げに耳打ちする。部屋には、カデュラス国王が座る高座を上座に祝賀の席が設えられていて、カデュラスの貴人や他国の王族がそれぞれの席に座っていた。さっきとは違う女官に案内されて席に着く。ラシュリルは、高足の膳に並んだ芸術品のような料理にきらきらと目を輝かせた。しばらくして、低い太鼓の音が三度響き渡った。
「アユル・タニティーア・カデュラ様の御成りにございます」
新王のお出ましを告げる声に、皆が姿勢を正して一斉に深く頭をさげる。
先王は、王子を王宮の外に出さなかった。カデュラスの高官を除いて、初めて新王の姿を目にする者がほとんどだ。襖が閉まる音と衣擦れの音がして、面を上げよと落ち着いた低い声が命じる。顔を上げて、誰もが息を呑んだ。清々しい月白色の衣に身を包んだ新王の居姿は気高い白鷺のようで、端麗な容貌もさることながら、その落ち着いて凛とした雰囲気に圧倒される。新王には、たっぷりと肉をつけた先王の面影は微塵もなかった。
ラシュリルは、じっと目をこらした。国賓の席は高座から離れていて、目鼻立ちまではっきりと見えない。けれど、似ている気がする。湖で会ったあの恐ろしい人に。声も姿も、ここまで似ている人がこの世に二人と存在するかしら……。胸がどくんどくんと早い鼓動を刻む。
祝宴の始まりに、五つの国の君主が新王に拝謁することになっている。
僕たちは二番目だよ、とハウエルが小声で言う。心を落ち着かせる間もなく、すぐに順番が回ってきた。ラシュリルは、ハウエルと高座の前でアユルに一礼して顔を上げた。その時、うっかり新王と目が合ってしまった。やっぱりあの人だわ! そう確信して、新王の視線から逃げるように顔を下に向ける。
「初めてお目にかかります。僕は、キリスヤーナ国王ハウエル・ナダエ・キリスです。こちらは僕の妹で、ラシュリル・リュゼ・キリスと申します」
「西端の国から、遠路はるばる大義であったな」
アユルが、ねぎらいの言葉をかけてハウエルに盃を手渡す。そして、酒を注いで共に一献傾けた。ラシュリルは、とても新王の顔を見る勇気がなくて、ハウエルの隣でうつむいたまま、借りてきた猫のように大人しく座っていた。すると、節くれだった白い手が、視界に入るように盃をさし出した。ラシュリル、とハウエルに肘で小突かれて、それを震える手で受け取る。盃に満たされる無色透明な液体。ワインなどは少々たしなんでいるが、カデュラスの酒は初めてだ。
「あ、ありがとうございます」
小声で礼を言って、新王より賜った酒を一気に口に流し込む。味なんて、まったく分からない。酒の通ったあとが、焼かれたように熱くてひりひりする。他言するなと言われたから、お兄様にも言っていない。けれど、もしあの時のことを問い詰められたらどうしよう。ラシュリルは気が気ではなかった。しかし、アユルはハウエルと談笑しただけで、結局、ラシュリルには見向きもしなかった。
ラシュリルは、席に戻ってほっと胸をなでおろした。よかった、新王様は気づいていないのだわ、と。
――ラシュリル・リュゼ・キリスか。
アユルは、ラシュリルが口をつけた盃を見てにんまりとした。目が合った一瞬、あの時と同じようにおびえた顔をした。同じ顔、同じ声。まさか、このような場で再会するとは。
すべての君主と盃を交わし終わって、アユルはキリスヤーナ国王の席に目を向ける。ラシュリルは、キリスヤーナ国王や他国の王族たちと歓談していた。身ぶり手ぶりを交えながら、笑顔を輝かせてとても楽しそうだ。その弾けるような笑顔は、見ているこちらの顔までゆるんでしまいそうな不思議な魅力にあふれている。
高座の前に、高家の姫たちが集まってきた。きらびやかな衣に、仮面のような化粧を施した顔。皆、同じような顔をしていて区別がつかない。姫たちが、競い合うように手酌する。アユルは、彼女たちに迎合するように笑みをたたえて、すすめられるままに酒を呑んだ。その様子を、大臣エフタルと桂花の姫が見ていた。
「なにをしておる。早くお前も王子の御前に行かぬか」
「申し訳ございません、父上。気後れしてしまって」
「ふん、情けない。王妃となる者がそのように気弱でどうする。よいか、お前の役目は世継ぎを産むことぞ。他にそれをさせてはならぬ」
「はい。心得ております、父上」
サリタカル王国が、新王に喜劇を献上する。サリタカルで有名な劇団の演劇が始まると、祝宴の場は笑いの渦に巻きこまれた。
「お兄様、少し雰囲気に酔ってしまったみたい。外で涼んできてもいいかしら」
「いいけど、あまりうろうろしてはいけないよ」
はい、と返事をしてラシュリルが部屋を出る。それを見ていたアユルは、姫たちをさげて隅に控えているコルダを手招きで呼んだ。扇で口元を隠して、コルダの耳元で声をひそめる。
「席をはずす。清殿に人が近づかないように見張っていろ」
「かしこまりました」
コルダがうなずくと、アユルは席を立って足早に部屋を出た。それに気づく者もいたが、アユルのすることをとがめる不届きな輩はいない。皆、喜劇に夢中になっていた。宴は滞りなく続けられた。
ラシュリルは、出口まで案内してくれた女官に礼を言って階をおりた。そして、草履をはくと、地面につかないように袿の裾を持ち上げた。月明かりを頼りに庭をそぞろ歩く。ひんやりとした外気が、上気した顔に触れてとても気持ちがいい。どこからか、ジャスミンに似た香りが漂ってくる。周囲を探ると、葉の間から手のひらに乗るくらいの白い花がたくさん顔を出していた。
「なんて綺麗な花なのかしら。それに、とってもいい匂いだわ」
花びらに顔を近づけて、香りを堪能する。すると突然、暗がりから白い手が伸びてきた。避ける間もなく、その手に手首をつかまれる。驚きのあまり、息が喉に詰まって悲鳴も出なかった。
「まさか、キリスヤーナ国王の妹だったとはな」
ラシュリルは、背高い声の主を見上げた。月を背にしていて顔はよく見えないが、聞き違えるはずがない。この声は、紛れもなく高座にいた新王のものだ。
「見せたいものがある。私と一緒に来い」
「まっ、待ってください!」
どうにかして手をふりほどこうとするが、力が強くてほどけない。アユルが、ラシュリルの手を引いて皇極殿から遠ざかっていく。人気のない暗い回廊から林のような不気味な所を通って、腰をかがめないと通れない高さの門をくぐった。すると、踏みしめる地面の感触が変わって、ざくざくと足音がするようになった
どこまで行くのかしらと、ラシュリルが不安をおぼえた時、急に手を解放された。目の前にそびえる大きな建物。アユルが、履物を脱いで五段の階を上がっていく。ラシュリルは少しためらって、仕方なくあとに続いた。こんな所に置き去りにされては困ると思ったのだ。
白木の廊下を歩きながら、ラシュリルは何気なく庭に目を向けて足を止めた。月光を浴びた玉砂利が、暗がりの中でつやつやと黒く輝いている。まるで、夜の海原をながめているような景色だった。
「どうした?」
訝しんだアユルが、ラシュリルに近づく。その時、柔らかな風が吹いて、そよいだ木々の影が玉砂利の上で影絵のようにさわさわと揺れた。
「この世には、こんなに美しい夜があるのですね」
「面白いことを言うのだな」
「新王様にとっては、見慣れた光景なのでしょうね。うらやましいです」
ラシュリルはにこりとほほえんで、なにかを思い出したように「あっ」と小さく叫んだ。粗相があれば……、と首をかき切られる真似をするハウエルの顔が頭をよぎったのだ。
「今度は、なんだ」
「わたしったら、うらやましいだなんて失礼なことを。先日の無礼もお許しください。新王様と会ったことは誰にも言っていません。だから……」
「よい。今も先日も、謝るようなことはしていないだろう」
「でも」
「私の方こそ、怖がらせてしまったな」
アユルが背を向けながら、「許せ」とつけ加えて歩き出す。話し方はつんとして素っ気ないけれど、怖い人ではないのかもしれない。ラシュリルは、アユルの背を追った。本当に静かな所だ。人の気配がまったくない。
「ここには、誰もいないのですか?」
前を歩く背中に問いかけてみたけれど、答えは返ってこない。廊下の角を曲がったところで、アユルが両開きの扉を開けた。
「ここはどこなのですか?」
「私の居所だ」
入れと言われて、ラシュリルは中に一歩足を踏み入れる。背後で、きぃと金属音を立てて戸が閉まった。燭台の火に照らされた屋内は、黄金に輝く皇極殿とはまるで違う木質の寂しい色をしていた。
アユルが、部屋を一つ通り抜けてラシュリルを書斎へいざなう。書斎の奥に皇極殿の高座のように一段高い御座があって、その手前に四方の縁を絹織物で囲った茵が敷いてある。それに座るように言い、アユルが文机から玉佩を取ってラシュリルの向かいに腰をおろす。
ラシュリルは、背筋をぴんと伸ばした。座る所作一つさえ洗練されていて、気圧されてしまう。これが、伯爵夫人の言っていた気品というものではないかしら。そんなことを思いながら、じっとアユルの顔を見つめる。太陽の光を浴びたことがないような白い肌。奥二重の目やすっと通った鼻筋、それから薄い唇は、まるで精巧な彫刻のように端正だ。誰かが、新王様は女性と見違えるくらい美しいと言っていたけれど、女性のような可憐な美しさとはまったく違う。硬質で、とても男らしい。
「湖でなにをしていた」
アユルが、正面からラシュリルと目を合わせて問う。あの時のような威圧は感じない。けれど、やはり淡々とした口調が少しだけ怖い。ラシュリルは、緊張して早鐘を打つ左胸をおさえて、粗相をしないようにと自分に言い聞かせながら口を開いた。
「散歩をしていました」
「散歩だと? あのような森の奥でか?」
「綺麗な湖があると聞いて行ってみたのですが、知らない場所だったうえに雨が降り始めて……。道が分からなくなってしまったのです」
「なるほど」
王女の表情や話し方に、嘘や偽りはなさそうだ。アユルは、玉佩を手のひらに乗せてラシュリルに見せた。ラシュリルのつぶらな目が大きく見開いて、わずかな時間差で柔らかそうな唇がはっと息を吸い込む。まるで、朝焼けの中で花の蕾が開く瞬間を見ているかのようだった。
「それは!」
「そなたのものか?」
「はい。わたしの……、とても大切なものです」
「そうか」
「拾ってくださったのですね。ありがとうございます」
きらきらと輝く黒瑪瑙のような瞳と嬉しそうにゆるんだ口元。素直に喜ぶラシュリルの表情に、アユルの目が釘づけになる。無邪気で、華やかで、愛らしいの一言がぴたりと当てはまるような顔だ。
「よかった、見つかって。本当にありがとうございます」
ラシュリルは、玉佩に手を伸ばした。そして、アユルの手の平から玉佩を取ろうとした瞬間、手を握られて体勢が崩れた。そのまま体が反転したかと思ったら、次の瞬間にはすっぽりと胸に抱きすくめられていた。なにが起きたのか、どうしてこうなっているのか、ラシュリルにはさっぱり状況が分からない。ただ、これは挨拶の抱擁とはまったく違うということだけはしっかりと理解できた。
「……あのっ」
戸惑いながら、ラシュリルがアユルの顔を見上げる。
「ラシュリル」
「ど、どうしてわたしの名前をご存じなのですか?」
「先程、キリスヤーナ国王が私にそう紹介したではないか」
「あ、そう……。そうでした」
ラシュリルが困った様子で目をそらすと、アユルが腕の力を強めた。
「新王様、悪ふざけはおやめください」
どうにか逃げようとあがきながら、ラシュリルがアユルを上目ににらみつける。といっても、本人がにらんだつもりになっているだけで、顔立ちが優しいからまったく凄みはない。ラシュリルが腕の中でもぞもぞと体を動かす度に、ほのかに甘い桂花の香りがアユルの鼻の奥をやんわりとくすぐった。
「ふざけているつもりはないのだが」
「では、こういうことに慣れておられるのですね?」
「こういうこととは、どういうことだ」
アユルの淡々とした切り返しに、ラシュリルは顔を真っ赤にした。
「新王様。そろそろ戻らないと、お兄様が心配します」
ラシュリルが今にも泣き出しそうな顔をしたので、アユルは「そうだな」とラシュリルを解放して立ち上がった。そして、ほっとするラシュリルに手をさし伸べる。ラシュリルは、なんの疑いもなくその手を取った。
「素直だな」
「えっ……?」
さっきと同じように手を引き寄せられた直後、体がふわりと浮いて足が床から離れた。ラシュリルは目を点にする。今度は、横抱きに抱えられていたのである。じたばたと手足を動かして抵抗を試みる。しかし、そのまま隣の部屋に連れていかれて、真っ白な敷物の上におろされた。背中をふんわりと包む柔らかな感触に、寝具の上に寝かされたのだと気づく。慌てて起き上がろうとするが、その時には既に両手を押さえつけられた状態で組み敷かれていた。明かりのない暗い部屋で、二人の体と視線が重なる。
ラシュリルは、アユルの目を見つめた。夜闇のような漆黒に、きらきらと小さな光が輝いて、宝石のように美しい瞳だ。
――わたし、同じ夜空を知っているわ。
幼いころ、眠れない夜にお父様が連れていってくれたキリスヤーナの海。夏になると数え切れないほどの星がきらめいて、月明かりに海原の波が揺れる。沖から寄せる波の音は、小さなラシュリルを飲みこんでどこか遠くへ連れていってしまうのではないかと思わせる怖さと、眠れずに騒ぐ心を鎮めてくれる不思議な力を持っていた。
「あの時は、赤く光ってい……っ!」
端正な顔が近づいたと思った刹那、言葉を遮るように荒々しく唇をふさがれた。口紅が唾液ににじんで、口の中いっぱいに香料の独特な味が広がっていく。逃れようとして首を動かすと、顎をつかまれて舌をねじ込まれた。
「あ、ふっ……!」
アユルが、ラシュリルの息を奪いながら袿の中をまさぐり、袴の腰紐を手に巻きつけて一気に引く。拘束を解かれた単衣がはだけて、ラシュリルはアユルの腕にしがみつきながら必死にもがいた。ふさがれた口の中を舌で蹂躙されて、上手く息ができない。水に溺れているみたいに苦しくて、もがけばもがくほど深くに引きずり込まれていくような感覚に襲われる。ごつごつとした手が、体の形を確かめるように衣の上から腰の曲線をなでた。粗野な動きではないけれど、今まで経験したことのない感触に体中の肌がぞわりと泡立つ。
「ふ……ぁ、んっ」
角度を変えて舌を絡めながら、アユルが小袖の衿から手を忍ばせて胸の膨らみに触れる。包み込むようにやわやわともどかしい動きで乳房を揉み潰されて、ラシュリルは舌を吸われながらくぐもった悲鳴を上げた。酸欠で頭に靄がかかって、くらくらする。肩をなでられて、衣がするりと滑り落ちた。
「っ、はぁ……っ」
混ざり合った唾液が糸を引きながら唇が離れると、ラシュリルの呼吸は異常なほど乱れていた。はぁはぁと必死に息を吸って吐く。それに照応して大きく上下する胸に吸いつかれて、硬い髪にさわさわと肌をくすぐられる。いろんなことが一度に起きて、理解がまったく追いつかない。一体、どうしてこんなことに……?
「もう、やめて……っ」
ラシュリルの抵抗を無視して、アユルが乳房に舌を這わせて桜色の尖端を口に含む。甘噛みされて、もう片方のそれを指できゅっとつままれて。熱い口の中で痛いくらいに立ち上がったそこは、とても敏感だった。舌で転がされる度に、強く吸われる度に、体の奥深くが疼いて熱くなる。満たされては物足りなくなる不思議な熱。逃げたいのに逃げたくない。やめてほしいのにやめてほしくない。わたし、どうなっているの?
――ああもう、おかしくなってしまいそう。
柔らかな乳房をひとしきり味わって、アユルは鎖骨から順に首を舐め、ラシュリルの頬に軽くくちづけた。浅い息を繰り返すラシュリルの目は潤んで、美しい顔にあでやかな表情が浮かんでいる。手から少しあふれる乳房に指先を食い込ませて、すっかり硬くなった頂を弾く。すると、柳眉が寄って果実のように瑞々しい唇からかわいらしい悲鳴がもれた。じらすように敏感な場所を避けて、胸から腹、脇を舌で愛撫しながら、ラシュリルの下着を剥ぐ。
「いや……っ、だ、めっ……」
骨ばった手に内腿をなでられて、ラシュリルは両脚にぎゅっと力を入れた。アユルの指が、薄い下生えの中を探るように花唇を広げて硬い蕾に優しく触れる。自分でもよく知らない場所を触られて、体がびっくと震えた。なんとか悲鳴は飲み込んだけれど、羞恥が限界を越えて涙ぐんでしまう。指は、しばらくそこを押しこねて、とろけ始めた秘苑を擦った。
怖い、とラシュリルが身をよじる。すると、そっと唇が重なった。先程のように息を奪うような荒々しいものではなくて、優しいくちづけだった。小さな音を立てながら、何度か唇をついばんだあと、舌先を歯列の間にさし込んでラシュリルの舌を優しく絡め取る。くちづけに意識が翻弄されてラシュリルの体から力が抜けると、唇が離れて蜜口に指を突き立てられた。
「あ……っ、んんっ!」
膣壁を擦り上げられて、血が一点に集まる。中がほぐれてくると、指の数を増やされた。指に擦られる度に、くちゅくちゅといやらしい音を響かせながら花孔が蜜をこぼす。耳朶を甘噛みされて、甘い吐息が肌をかすめた。洞をかき回すように指を動かされて、体が浮遊するような感覚が押し寄せる。そして、体がびくびくと震えて視界が真っ白になった。
アユルは、体を起こして衣を脱いだ。張り詰めた屹立で蜜口をなぞりながらラシュリルをながめる。ラシュリルの白い肢体は、淡い色をした花のように細部まで美しい。先端で少しつつくだけであふれてくる蜜をたっぷりと絡ませて、アユルはゆっくりとラシュリルの中にそれを沈めた。
「ああ……っ!」
熱い塊が、狭い隘路を押し広げる。鈍く痛むような気もするけれど、もう正しい感覚が分からない。脱力したラシュリルの中で、アユルがゆっくりと動き始める。動きはだんだんと激しくなり、淫らな声に応えるように深部を激しく突き上げられた。
「ふあっ……、あっ、んんっ……」
必死に喘ぐような呼吸をしながら見上げると、アユルが眉根を寄せて息を乱していた。苦しそうに歪んだ顔と逞しい体。それに触れたくて宙をさまようラシュリルの手を、アユルがさらうように握ってくちづける。
「ラシュリル」
つややかな低い声が呼んだが、深部を突かれて弓なりに体をそらしたラシュリルの意識は、また真っ白な世界に飲みこまれてしまった。
アユルは呼吸が整うのを待って、近くに脱ぎ捨ててある袿をラシュリルの体にかけた。長着を雑に着て、一目散に廊下へ向かう。
「コルダ」
「はい、ここにおります」
「宴は、まだ続いているのか?」
「そのようでございます」
「酔いが回って気分が悪い。もう休むと宰相に伝えろ」
「大丈夫ですか?」
「大事ない。国賓の従者はどこに控えている?」
「外廷の庁舎だと思いますが」
「では、すぐにキリスヤーナの王女づきの者を探して、先に宿に戻るよう申しつけろ」
「どういうことですか?」
「詳しいことはあとで説明する」
「は……」
「王女は明日の朝、宿に送り届ける。それまで、王女がいるように装えと」
「か、かしこまりました」
コルダは、アユルの装いを見てごくりと喉を上下させた。酒酔いで気分が悪くなって脱いだ、というには乱れすぎている長着。それを留めているのは女物の腰紐だ。急げ、とアユルが言う。コルダは、立ち上がって階をおりた。
「コルダ、待て。一つ頼みがある」
「なんでございましょう」
「従者に王女の好きな飲み物を聞いて、明朝、書斎に持って来い」
「……は?」
「早く行け」
アユルが書斎に戻ると、床にラシュリルの玉佩が落ちていた。玉佩を持つ習慣があるのは、カデュラスだけだ。
――なぜ、キリスヤーナの王女が玉佩を?
玉佩を文机の上に置いて、部屋の明かりをふっと吹き消す。それから、足音を忍ばせて寝所に入ると、規則正しい寝息が聞こえてきた。隣に横たわって、起こさないようにラシュリルを胸に抱く。
「……う、ん」
腕の中で、ラシュリルが小さく身じろいだ。髪からふわりと漂って、鼻の奥をくすぐる桂花の香り。棘も嫌味もない、いい匂いだ。それに、あどけない寝顔もかわいい。
――桂花の姫が、ラシュリルだったらよかった……。
おびえた顔、笑った顔、驚いた顔。このまま傍に置いて、もっと他の顔も見てみたい。アユルは、ラシュリルをぎゅっと抱きしめて眠りについた。
目を閉じたまま寝返りを打って、いつものように頭まで布団に潜り込む。素肌を滑るなめらかな絹の感触があまりにも気持ちよくて、ラシュリルは母猫に身を寄せて眠る子猫のように体を丸めた。
――ちょ……、ちょっと待って。
体の節々と下腹部の鈍い痛みに、意識がはっきりと覚醒する。そうよ、ここはカリノス宮殿でもカナヤの宿でもない。記憶が断片的によみがえって、心臓がどくどくと緊迫の律動を刻む。
――どうしよう……。
こういうことは、夫としかしてはいけない。いくら色恋にうとくたって、それくらいの常識はある。ラシュリルは、のっそりと布団から抜け出した。薄暗い部屋は静か過ぎて、この世にたった一人取り残されてしまったかのような心細さを感じる。
枕元にたたまれた衣を広げて、おぼつかない手つきで袖を通す。そして、身頃を体に巻きつけて腰紐を結ぼうと四苦八苦していると、背後ですっと扉が開いてアユルが部屋に入ってきた。
「起きていたのか」
手を止めてふり返ったラシュリルの胸元に、アユルの手が伸びる。驚いたラシュリルは、アユルの顔を見上げた。
「よく眠れたか?」
アユルが、慣れた手つきで衿を合わせながら尋ねる。ああ、服を着せてくださっているのだわ。ラシュリルがそう理解するまで、少し時間が必要だった。
「初めて会った時、異国の服を着ているのかと思った。だが、この国の者ではなかったのだな」
「カデュラスの人に見えましたか?」
うん、とうなずいて、アユルがラシュリルの肩に袿をかける。ラシュリルは、それに袖を通して律儀に礼を言った。
「あちらで話しを」
「あ、あの……」
「なんだ」
「昨夜は気が回らなくて、その、お兄様になにも言わずに……」
「ナヤタという者に申しつけておいたから、心配はいらない。こちらへ」
寝所を出て書斎の御座に上がると、机の上に玉佩と茶器が置かれていた。開けられた東側の丸窓から、淡い朝焼けの空が見える。ラシュリルは、先に座ったアユルの隣に腰をおろした。
アユルが、鉄瓶を持って茶杯に湯をそそぐ。しばらくすると、湯気に乗ってふわりと果実の香りが漂ってきた。
「苺の匂い」
「よく分かるな」
「いつも飲んでいるお茶と同じ香りだから」
「苺の果実茶が好きというのは、本当のようだな」
「どうして知っているのですか?」
「その、ナヤタという者に聞いた」
「ナヤタに会ったのですか?」
「私ではなく、侍従がな。そろそろいいのではないか? 飲んでみろ」
ラシュリルは、茶杯を手に取って香りを堪能したあと、ふうっと湯気に息を吹きかけて果実茶を口に含んだ。美味しい。自然と、目元や頬がゆるむ。キリスヤーナの苺とは、種類が違うのだろうか。ナヤタがいつも淹れてくれる果実茶よりも少し酸味のきいた、すっきりと目が覚めるような味だ。
「よい顔をするのだな。そなたを見ていると、私の方が嬉しくなる」
そう言いながら、アユルがラシュリルの頬にかかる前髪を指ですくって耳にかけた。ラシュリルのかわいい耳朶が、赤く染まる。
「あの……」
「あの、ではなくアユルと。私の名くらいは知っているのだろう?」
「は、はい」
「言っておくが、私は悪ふざけをしているつもりもないし、こういうことに慣れているわけでもない。今も、どうやってそなたを喜ばせようかと必死だ」
「どうして、わたしを?」
「あ、愛らしいと……、思ったからだ」
アユルが、少し照れたように言葉を詰まらせながら答える。ラシュリルは、茶杯を机に置いてアユルの目を見つめた。冗談や嘘を言っているようには見えない。
どきどきと、左胸の奥で心音が大きく響く。友人たちの恋の話なら、胸がいっぱいになるまで聞いた。夜ふかしをして、流行の恋愛小説だって読んだ。だけど、どれもが他人事で実感のないものばかりだった。なぜなら、経験がまったくない。誰かを想って心をときめかせたことも、お兄様以外の男性に手を握られたこともくちづけも、もちろんその先だって――。
「ラシュリル」
沈黙するラシュリルに、互いの鼻先がつきそうな距離までアユルが近づく。アユルの真剣なまなざしは、沖から静かに押し寄せる波のようだった。この波にさらわれたなら、二度と戻ってはこられない気がする。
ラシュリルが目を閉じて、アユルがそっと柔らかな唇を食む。ほとばしるような荒さよりも慈しむような優しさが勝るくちづけは、苺の香りを絡めてラシュリルの心深くにアユルを印象づける。他の誰かが、そこへ入り込まないように。
アユル様、と部屋の外から男の声がした。その声に反応してラシュリルが目を開けると、名残を惜しむように唇が離れた。アユルが、丸窓の方に目をくれてため息をつく。部屋に朝日が差し始めた。
「ラシュリル」
「はい」
「私とのことは、まだ秘密に。侍女にも言うな」
一気に夢から覚めるような衝撃に胸を突かれる。アユルの言葉に、ラシュリルは驚きと悲しみに瞳を揺らしてしゅんと肩を落とした。
「ナヤタに隠し事をしたり嘘をついたり……。わたしには、そんなことできません」
「そなたの侍女は、心から信頼できて絶対にそなたを裏切らない者か?」
「もちろんです。ナヤタとは、小さなころからずっと一緒に暮らしてきました。姉妹みたいに過ごしてきたのです。だから、誰よりもお互いを信頼しています」
「分かった。では、その者には打ち明けてもよい」
「……ごめんなさい」
「無理をおしつけているのは私なのに、なぜそなたが謝る」
「わがままを、言ってしまったから……」
「私の言い方が悪かったな。このことが公になれば、そなたに害が及ぶかもしれない。だから、口止めをした。他意はない」
アユルが玉佩を手に取って、うつむくラシュリルの顔を覗き込む。ラシュリルが不安げに顔を上げると、柔和な笑みが返ってきた。
「次に会う時まで、そなたの玉佩を預かってもよいか?」
「次って……。また会えるのですか? 即位式が終わったら、わたしはキリスヤーナに帰るのですよ?」
「必ず会って返すと約束する。だから、私を信じてほしい」
アユル様、とまた男の声がする。その声に、アユルが「わかった」と返事をして席を立つ。そして、衣桁から男物の黒い表着を取ってラシュリルを呼んだ。
「ここを出たら、姿を見られないように気をつけろ」
アユルが、ラシュリルの頭に表着をかぶせる。それからアユルは、ラシュリルを抱擁すると手を引いて部屋を出た。廊下に、一人の男が座っていた。
「ラシュリル。この者は、私の侍従で名をコルダという。今からコルダがそなたを宿へ送り届ける」
ラシュリルが会釈すると、コルダは二人に向かって深々と頭をさげて一礼した。
「あとは頼んだぞ、コルダ」
「かしこまりました。王女様、どうぞこちらへ」
霧が鋳型に流しこまれた蝋のように重く立ち込めて、カナヤの町並みが不思議な朝焼け色に染まった日。新王の即位式が厳かに執り行われた。
即位式を終えたアユルは、宰相や大臣を従えて皇極殿の廊下に立った。今日は、神と民を隔てるダガラ城の朱門が解放されて、無位の者の入城が許されている。中庭から石段をおりた先にある広場には、おびただしい数の民衆が新王の姿を一目見ようとつめかけていた。
「陛下の立派なお姿に、先王様もさぞお喜びでございましょう」
背後から、ラディエが満面の笑みで言った。大陸を統べる神として、アユルには最高のものだけが与えられる。傍にいる人間も、選ばれた高貴な者たちばかり。しかし、それらは王の威厳を象徴するだけの空虚なものだ。今の王位に権威は伴わず、本当に望むものは手に入らない。参列者の席に、ラシュリルの姿がなかった。アユルは、頭上に広がる青空を見上げた。
即位式から三日が過ぎた。
昨日から断続的に降り続く雨が、小川のように石畳の上を流れていた。新王の即位に湧いた熱気が少しずつ落ち着いて、街が日常へ戻ろうとしている。ラシュリルも明日、帰路につく予定だ。
「ラシュリル様、お客様でございます」
ナヤタが、窓辺に座っているラシュリルに近づいて声をひそめる。
「誰かしら」
首をかしげて、ラシュリルは部屋の入り口へと向かった。そこには、コルダが立っていた。
「突然お訪ねいたしまして、申し訳ございません」
傘を持っていないのか、頭から足までひどく濡れている。ナヤタが乾いた布を渡すと、コルダは「どうも」と会釈して手と頭、次に胴を丁寧に拭った。ナヤタが、コルダをまじまじと見て「どこかで」とつぶやく。ラシュリルは、ナヤタに部屋の外で待つように言った。そして、ナヤタが部屋を出るとコルダの前に立った。
「なにかあったのですか?」
「はい。こちらを預かってまいりました」
コルダが、懐から折りたたまれた紙を取り出す。少し湿気を含んだ紙を受け取って、ラシュリルは紙が破れないよう慎重にそれを広げた。
『心の一番深く美しい場所で、あなたを想っている』
燃えるような赤い一葉の紅葉が漉きこまれた上質な紙に、美しい文字が流れるように書かてれている。宛名も差出人の名もない短い恋の手紙。ラシュリルはそれを抱きしめるように胸に押し当てて、コルダに深く頭をさげた。
「雨の中を大変だったでしょう。ありがとうございます」
「王女様、わたくしにそのようなお気遣いは無用でございます。それから、こちらをお渡しするようおおせつかりました」
手渡されたのは、青い絹糸の飾り紐がついた真っ白な玉佩だった。つるつるとした白玉に、不思議な模様が彫られている。中央に炎のように立ちあがる膨らみ。その手前に、網目模様の花びらのようなものがある。植物だろうか。
「あやめの花でございます」
「あやめ?」
「はい、あやめはあの方の紋なのです。この玉佩は、あの方が身に着けるこの世に二つとない品でございます」
「そんなに大事なものをどうして?」
「約束だと言えば分かるとおっしゃっていました」
「そう……。では、信じてお待ちしていますとお伝えください」
「かしこまりました。それで、あの、王女様」
コルダが、ラシュリルとの距離を一歩詰める。
「はい?」
「アユル様とお会いになりますか?」
街に出たのは久しぶりだった。
キリスヤーナ国王一行が滞在している宿から少し離れた路地にある店の軒下で、アユルはコルダの帰りを待っていた。雨のせいか、辺りに人影はほとんどない。身を隠すために頭からかぶっている黒い衣の裾から、ぽたぽたと水滴が絶えず落ちる。秋の色が濃くなった昨今、雨に濡れてじっとしていると身震いするほど肌寒い。まだかと待っていると、コルダが息を切らせて雨の中を走ってきた。
「どうだった」
「手紙と玉佩は受け取ってくださいましたが、お会いにはならないそうでございます」
「……そうか。ならば、王宮へ戻ろう」
アユルは、軒下を出て馬にまたがる。
即位式にも姿がなかった。今も会わないと言う。心が、いいようのない不安でざわつく。アユルは路地を曲がると、王宮ではなくラシュリルの宿を目指した。
「どこだ」
「こちらの通りに面した二階の、確か……。あちらのお部屋でございます」
通りからコルダが指さす部屋を見るが、雨に視界を遮られてよく見えない。アユルは、握った手綱を強く引いた。
――騒がしいわね。
甲高い馬のいななきが聞こえて、ラシュリルは窓から外をうかがう。人が行き交う通りに、コルダと黒い衣をかぶった男が馬上からこちらを見ていた。
「アユル様!」
窓を開けて身を乗り出すと、かぶっていた衣を肩までおろしてアユルが顔を見せた。地を打ちつける雨が、初めて会った時を彷彿とさせる。アユルとラシュリルは、雨をかいくぐるように視線を交わした。通りの往来が、傘の下からアユルを見上げて立ち止まり始める。
「アユル様、衣をおかけください。このままでは騒ぎになります」
コルダが、慌ててアユルに声をかける。アユルは衣をかぶると、ゆっくりとラシュリルから視線をはずして馬の腹を軽く蹴った。たっぷりと雨水を含んだ黒い衣の裾が重たくひるがえって、アユルの姿が通りの向こうへ消えていく。
「アユル様!」
雨が、激しく石畳をたたきつけて跳ね上がる。ラシュリルは窓際に座りこんで、二人が消えていった通りをいつまでも呆然とながめていた。
翌日、キリスヤーナ国王一行は、帰国の途についた。昨日までの雨が嘘のように、まぶしい太陽が輝く気持ちのいい朝だった。ラシュリルは、手紙とあやめの玉佩を荷物の中にしまって馬車に乗り込んだ。
信じてほしいと言われたけれど、信じたい気持ちと疑う気持ちがせめぎ合っている。会うかと聞かれた時、本当はもう一度会いたかった。けれど、別れがつらくなりそうで会えなかった。カデュラス国王が国を離れることはない。それは、きっとわたしも同じ。帰国したら、もう二度とこの地を踏むことはないだろうから――。
車輪が、ごとっと軋んで石畳の上を回り始める。ラシュリルを乗せた馬車は通りを曲がると、ダガラ城の朱門から真っ直ぐに伸びている大通りを国境へ向かって進んだ。
そのころ、アユルは女官長に華栄殿の手入れを命じて書をしたためていた。
華栄殿というのは、王宮の御殿の中で最も清殿に近い場所にある王妃の居所だ。間もなく華栄殿は主を迎える。アユルが望む者ではなく、王にふさわしい高貴な血筋の女を。妃に限ったことではない。崇高な神の血に異民族の血が混ざらないよう、王に仕えるのはカデュラスの正統な良家の女人と定められている。長い歴史の中で、一度たりとも異国の者が王宮に住んだことはない。
「王女様は、無事に発たれたでしょうか」
コルダが、白湯をそそいだ茶杯を文机に置く。アユルは、手を止めてコルダに向いた。
「そうだな」
「随分と落ち着いていらっしゃいますね。もう会えないかもしれませんのに」
コルダの語気が少し強いのは、主人を思い量ってのことだ。
「傍に置きたい」
「でしたら、そうなさればよろしいではございませんか」
「今はだめだ」
「なぜです。アユル様がお望みになれば!」
「今の私が望めば、いずれラシュリルをこの手で殺さなければならなくなる。この王統に異民族の血を混ぜてはならない。私はそれを心得ておきながら、ラシュリルを抱いたのだ」
屋根から、雨の名残がしずくとなって玉砂利に落ちる。清らかな滴下の音に耳を傾けながら、アユルは涼しい顔で再び筆を取る。
城下にあるエフタルの屋敷では、輿入れの準備が始まっていた。王妃に選ばれた桂花の姫の部屋には所狭しときらびやかな着物や装飾品が並び、使用人たちが品々を念入りに磨いている。
「滞りなく進んでおるか、タナシア」 エフタルの声に、タナシアがふり返る。その手には、王宮から届いたばかりの書簡が握られていた。婚儀の日を心待ちにしていると、美しい手蹟で綴られたそれには、鮮やかな朱色の王印が押され、あやめの押し花が添えてあった。