都に夜の帳がおりる。天に織姫と彦星を隔てる星川がさらさらと流れて、真っ黒な
御所を出た八条宮は、雨が降っているわけでもないのに唐傘をさして、都をまっすぐ貫く大路を歩いていた。
帝から賜った酒を飲み過ぎたせいで足元がおぼつかず、地が揺れて体がふわふわ浮遊しているような心地がする。後ろをついて歩く左近が、よろめく八条宮の体を支えた。
「宮様、危のうございます。御車にお乗りください」
「離せ。雨が降る前に、大路を歩きたい」
「雨など降りません。ご覧ください。今宵も、空には無数の星が輝いてございますよ」
「おかしいな。夏が死んだ日と同じ匂いがするのだが……」
「酔っておられるのです。婚礼を控えて、お怪我などされては大変です。ささ、どうか御車に」
うん、と今度は素直に頷いた八条宮の脇を支えるように抱えて、左近が宮家の牛車に近づく。左近は後ろの御簾をあげて八条宮を牛車に乗せると、牛引きの者に出立するよう言った。ごとりと車輪が動いて、牛車の屋形が大きく揺れる。
「左近」
「はい、宮様」
「今宵は二条へ行ってくれ。中将の……、名はなんといったか。とにかく中将の娘と、約束がある」
「しかし」
「いいから、つべこべ言わず二条に向かえ」
「宮様のおおせのままに」
八条宮を乗せた牛車が小路へ入ったころ、内裏では弘徽殿を出た女御が帝の居所である中殿へ向かって廊下を渡っていた。夜のお召しがあったのだ。
宮中は男子禁制ではない。
しかし、帝の妃を男の目にさらすは禁忌だ。
女御の両脇には、几帳のように
「
弘徽殿女御が、渡り廊下の中程で足を止めて、白魚のような手を一人の女官にさし出す。命婦と呼ばれた女官は、自分の手を受け皿のようにして女御の手を取った。
「いかがなさいました?」
「廊下の端に寄ってちょうだい。空を眺めたいの」
「はい。足元にお気をつけくださいませ、弘徽殿様」
屏障具を持つ女童がそそっと傍を離れると、女御は命婦の手引きで廊下の端に寄って顔をあげた。おびただしい星たちが水の流れのようにきらめいて、半分欠けた月がそれをじっと見守っている。ちょうど七夕の季節だ。弘徽殿女御は、七夕の伝説を思いながら小さなため息をついた。
年に一度きりしか会えないと物悲しくいうけれど、神々の怒りを買っておきながら逢瀬を許される彦星と織姫。わたくしは、二人がとてもうらやましい。
ことに誰の怒りも買っていないのに、なぜこのような仄暗い心持ちで星を羨望せねばならないのかしら。この世の出来事は、奇怪で煩わしいことこの上なし。なに一つわたくしの思いどおりにならない。
「女御様。帝が待ちかねておられますよ」
「分かっているわ。そうね……、お待たせしてはいけないわね」
「まいりましょう」
「ええ」
女童が、再び弘徽殿の女御に寄り添って屏障具を掲げる。
弘徽殿は中殿の目と鼻の先にある。帝が一番近い殿舎を妃に与えるのは、寵愛の深さを公然と示すに等しい。これで皇子に恵まれたなら、後宮での地位は安泰。なれど――。
女御の列は、中殿の廂の間をしずしずと進んで寝所の前で歩みを止めた。女御につき添っていた弘徽殿の女官たちが三歩下がって平伏し、御殿の妻戸が開く。
弘徽殿女御は、手に持っていた檜扇を命婦に渡して一人で御殿へと足を踏み入れた。煌々と明かりの灯された聖域には、落ち着いた色目の重ねを着た女官が三人と奥に帝が待っていた。
「
帝が、弘徽殿女御に慈愛のまなざしを向けながら近づく。
宮中で、貴人の真名を口にするのは異なことだ。しきたりに反して帝が弘徽殿女御を名で呼ぶのには理由がある。
右大臣の一姫であり、天界の仙女もかくやといわれるほど美しい女御を、ほかの妃が目に入らないほど深く愛しているからだ。東宮時代から五年添っているが、その情は少しも色褪せない。
三人の女官が、凛子の袿を丁寧に脱がせる。帝は待ちきれない様子で、ほっそりとした凛子の白い手を取って御帳台にいざなった。
真っ白な敷布に波打つ豊かな黒髪と、おりた帳に四方を囲まれたうす暗い御帳台で魅惑に艶めく赤い唇。覆いかぶさって、ついばむように唇を食みながら夜着を剥げば、絹よりも滑らかな白肌があらわになる。
「……ぁ、ん」
ぷるりと弾む胸で誇張する桜の蕾をきつく吸われて、凛子はわずかに開いた朱唇から控え目な甘い声を漏らした。凛子が侍る夜は、色事を好まない帝が唯一男になる夜でもある。
異母弟である八条宮のような華やかさはないけれど、堅実で真面目な人柄がにじみ出た面立ちに浮かぶ余裕のない苦悶の表情。それは、凛子だけが知る帝の顔だった。
「我が君」
凛子が呼ぶと、帝がむくりと体を起こして愛おしい妃の顔を覗き込む。帝に侍るは女人の誉れ。誰よりも愛されて、これ以上を望めばきっと天罰がくだってしまう。しかし、やはりどこかで失望している自分がいる。
どうして、この身を抱くのが琥珀の月ではないのか。
心の底に、よどみが蓄積していく。今このときも、美しい月は世の花々を照らして気まぐれにそれを手折るのだろう。憎い。なにをはばかるでもなく、月に触れる花々が憎い。それを黙って見ているしかない我が身が嘆かわしくて、女人の誉れなど無価値に感じてしまう。
つつ、と凛子の目じりから涙がこぼれる。
どうして、今さら妻を娶るのか。
今まで結婚の話は幾度もあったはず。にもかかわらず独り身を貫いていたのは、夏姫への情が消えないからではなかったの?
なにを考えているのか、さっぱり分からない。夏姫をしのぐほどの女人なのかしら、大納言家の姫は……。
「凛子、どうしたの?」
「悲しいのです」
「なにが悲しいの?」
腫れ物に触れるように、震えた帝の指先が涙をすくう。
優しい御方。帝は、わたくしが望めばなんでも叶えてくださる。だけど、わたくしの望みは一生叶えられることはない。口にしたら最後、一族を道連れに地獄へ落ちなければならないのだから。
「いいえ、なんでも」
凛子は、首を横に振って帝のうなじに腕を回す。そして、ぐっと力を込めて帝を引き寄せた。少し首をもたげてくちづけると、それに応えるように分厚い舌が口の中に滑り込んでくる。
――月宮。
目を閉じれば、帝に八条宮の姿が重なる。
わたくしが求めているのは、この世で最も美しき夜半の月。琥珀の瞳がわたくしを映す日を、帝に身を委ねるこの瞬間にも待ちわびている。わたくしにとって、八条宮は永遠に月宮のまま。空蝉の時だけが流れて、わたくしの心は遠い昔に囚われているのだから。
「愛しているよ、凛子」
帝の優しい声に、月宮の像がふっと煙のように消えた。
ついさっきまでよく晴れていたはずなのに、地鳴りのような雷鳴がとどろいて激しい雨音が聞こえる。
「わたくしもですわ、我が君」
弘徽殿女御は、帝に向かって穏やかな笑みを返した。
❖◇❖
突如降り始めた雨は、またたく間に本降りとなった。八条宮は、揺れる牛車の中で雷鳴と地を激しくたたく雨音に耳を澄ました。夏の雨が奏でる旋律は、宮中で聴く雅楽の音よりも美しい。
懐中をまさぐって、長く愛用している横笛を取り出す。今宵、八条宮は帝が主催した管楽の宴で、帝直々に所望されて横笛の優雅な調べを献上した。帝はとても満悦した様子で八条宮を傍に呼び、手ずから酒を酌んでくださったのだった。
「ありがとう、依言。そなたのお陰で、弘徽殿の笑顔を見られた」
帝の嬉しそうな笑顔を思い出して、八条宮は横笛を握る手に力を込める。断ることもできたのに、そそがれるがまま悪酔いするまで酒を呑んだのは初めてだった。
――弘徽殿女御ではなく、主上のために吹いたのに。
大路から二条へ向かう小路へ入った牛車が、酒の回った体をごとりごとりと左右に鈍く揺さぶる。胸の内側をすくように、気味の悪い塊がせりあがってきてひどく気分が悪い。このまま名も分からぬ中将の娘のもとへ行っても、たいしたことはできなさそうだ。
ふっと自嘲するように小さく笑って、八条宮は牛車の前御簾を手の甲で押しあげる。二条へ続く真っ暗な小路は、稲妻が天を走る度に青白く一枚絵のように光って、どこか別の世界へ繋がっているのではないかと思わせるほど不気味だった。
――八条院へ戻るか。
御簾をおろそうとして、ふと沙那の顔が頭をよぎる。晴れた夜も雨の夜も、底冷えのする雪の夜さえ、じっと門の脇で帰りを待っていた。冷たくあしらった日もあったのに、沙那の笑っている顔ばかりが印象として残っている。
八条宮は、
「左近」
「はい、宮様」
「二条の、中将ではなく大納言の邸に行き先を変更してくれないか」
「中将様のお邸にはなんとお伝えいたしましょう」
「適当に……。そうだな、
「かしこまりました。そのように手配いたします」
そのころ、大納言邸の西の対屋では、小梅が沙那の寝支度に勤しんでいた。
体を清拭して夜衣に着替えた沙那は、衣桁に掛けられた婚礼の衣装の前で小梅が御帳台に床を設えるのを待った。蘇芳という深い赤色に白い小葵の紋が入った御衣に触れて、うっとりと目を細める。
――宮様に会えないのは寂しいけれど、それもあと数日のことだわ。
髪を入れる黒い漆塗りの乱れ箱と枕をそろえたあと、御帳台の奥の柱に掛けられた二つの魔除けの鏡を磨きあげて、小梅が御帳台から出てきた。
「どうぞ、姫様。横になられてもよろしゅうございますよ」
「ありがとう」
沙那が御帳台に入って褥に横たわると、小梅が慣れた手つきで束ねた沙那の黒髪を乱れ箱に収める。それから小梅は、沙那に紗の衣をかけて褥の際に座った。
「それにしても、激しい雨でございますね。天の川が見えていましたのに、不思議ですわ」
「そうね」
「今夜は、明かりを灯したままにしておきましょうか?」
「ううん、いつものように消していいわ」
「心配なさらなくても、わたくしが時々見回りにまいりますよ」
「それだと小梅がぐっすり眠れないじゃない。大丈夫よ。人気がないときの火は怖いけれど、真っ暗なのは怖くないから」
「分かりました。それでは、ゆっくりおやすみくださいませ」
おやすみ、と沙那が目を閉じる。小梅は御帳台の外に出て帳をおろすと、部屋の明かりを全て吹き消して西の対屋を静かに出ていった。ざざぁざざぁと激しい雨音と地を這うような低い雷鳴が、一人きりの部屋にこだまする。
もうすぐ一つ屋根の下に暮らせると分かってはいるけれど、やっぱり宮様に会いたいな。一目でいいから、お会いしたい。八条院に行ってお帰りを待とうかしら。でも大人しくしているよう、宮様に言いつけられているからダメか……。
なかなか眠りにつけずに右を向き左を向き、何度も寝返りを打つ。そうして、しばらくたったころだった。
きぃ、と雨音にまぎれて奇妙な金属の音が聞こえた。妻戸が開いた音に間違いない。小梅が戻ったのだろうと思ったが、それにしてはなんだか変な感じがする。
沙那は、御帳台の中で息を殺して耳をそばだてる。すると、床板の軋む音が徐々に近づいて、しゅるりと御帳台の帳が揺れた。沙那は確信する。
――小梅じゃない。
小梅はびっくりさせないように、部屋に入るときは必ず声をかけてくれるもの。では、こんな夜に忍び込んで来るのは誰だろう。もしかして、夜の都を徘徊する強盗だったりして!
さっと上半身を起こして目を凝らす。すると、黒い塊のような人影がすぐそこまで迫っていた。
「誰なの?」
沙那が声を絞り出すように問いかけた次の瞬間、影が飛びかかってきた。そして、口を塞がれて、抵抗する間もなく片方の手首を褥に押さえつけられる。
――怖い。
驚きと恐怖が一気に押し寄せて、心臓がばくばくと嫌な旋律を刻む。真っ暗で状況がよくつかめないが、組み敷かれているのは確かだ。
――誰か助けてっ!
恐怖のあまり言葉に詰まって硬直していると、ふふっと笑い声がしてあっさり口と手を解放された。
「沙那」
聞き覚えのある声。よく見ると、間近にある相手の目がきらりと琥珀色に輝いている。
「宮様……、ですか?」
「そう、俺だよ」
正体が分かった途端に、気が抜けて強張っていた体が脱力する。
「強盗かと思いました。よかった、宮様で」
「強盗? 夜這いではなくて?」
「よっ、夜這いなんてされたことがないので、その……、思いつきもしないといいますか……」
「そうか。あなたは毎夜、邸を抜け出して八条院に行っていたわけだから、夜這いをしようにもできないな」
「そうですよ。ああ、怖かった。生きた心地がしませんでした」
「すまない。そこまで驚くとは思わなかったんだ」
「いえ、わたしの方こそすみません。宮様を強盗と間違うなんてとんだ失礼を……。それで、今日はどうなさったのですか? 先に知らせてくだされば、起きて待っていましたのに」
「御所からの帰りに、無性にあなたに会いたくなってね。朝まで隣に寝てもいいかな」
「え……、えっと」
沙那は返事に困った。
会いにきてくれたのはとても嬉しい。けれども、隣に寝るのはいかがなものだろうか。男女が一つの床で共寝するというのは、ただ横に並んで眠るだけではないということくらいは知っている。衣を脱いで、あれをしてこれをして……。
――相手は宮様なのだから、全然嫌じゃない。
しかし、まずい。女房の誰かが、殿方は豊満な肉体を好むと言っていた。それが本当なら、宮様に我が肉体の発育状況を知られるのは非常にまずい。特に胸などは、十歳のころとたいして変化していないのでは? という状態だ。
ぺったんこを理由に結婚が取りやめにでもなったら、この世の終わり。恥ずかしさと絶望に押しつぶされて、とてもじゃないけど生きていけない。それに、宮様のことは大好きだけれど、ちゃんと婚礼を挙げてからそういうイロイロはいたしたいところ。だって、女の子だもの。初めてって大事じゃない?
「沙那、どうしたの?」
「宮様は、ここでゆっくり大の字になってお休みください。わたしは別の部屋で寝ます」
「別の部屋に行ってしまうの? なぜ?」
「なぜって、まだ婚礼前ですから」
なるほど、と八条宮が沙那から離れて褥にごろんと横になる。沙那は、八条宮が恋の噂の絶えない人だということを思い出して、ちょっとだけ後悔した。面白味のないお堅い女だと、八条宮に煩わしい印象を与えてしまったかもしれないと思ったからだ。
「小梅を呼んで明かりをつけましょうか?」
「必要ない」
「でも、お直衣を脱がないと窮屈ではありませんか?」
「もう脱いでるよ」
「なんですって?」
沙那は目を丸くして体を起こす。びっくりし過ぎて、腹筋の力だけで起きあがってしまった。
――ちょっと待ってよ。
妻戸が開いて、宮様が御帳台に押し入ってくるまで、そんなに時間はたってなかったはず。こんな真っ暗な部屋で、いつ直衣を脱ぐ暇があったの?
――くっ……、素人のわたしでも夜這い
恋人たちの所でもこうなのだろうか。まぁ宮様なら、どこの家でも女房たちがどうぞどうぞと主人のもとへ手引きするだろうから、それなりに場数を踏んでいるはずよね。
うぅむ。妻になったら、宮様がよそで簡単に衣を脱げないように対策しなくちゃ。帯の数を増やすか、二重三重に
「あの、宮様」
「なに?」
「わたしはこれで失礼させていただきますが、夜が明ける前にはお帰りくださいね」
「待て」
「おやすみなさい、宮様」
手探りで八条宮に紗の衣を掛けて、沙那が立ちあがろうとする。
「待てと言っているだろう、無礼者」
八条宮が、沙那の腕をつかんで勢いよく引っ張った。
「うわぁあ!」
まるで色気のない悲鳴をと共に、沙那の小柄な体が雪崩れる。それを八条宮が受け止めると、沙那が八条宮を押し倒しているような体勢におさまった。
「ちょ……っ、み、宮様っ?!」
沙那は八条宮の顔の両脇に手をついて、覆いかぶさらないように細腕で必死に自分の体重を支える。真下から、八条宮がじっと見つめて沙那の視線をつかまえた。
「朝まで隣にいてよ」
「だめ……、だめです。婚礼までは!」
「俺は足元がおぼつかないくらい酔っているから、多分、あなたが考えているようなことはできない」
「お酒を呑んだのですか?」
「管楽の宴があってね。帝にすすめられて呑み過ぎてしまった」
「お水を持ってこさせましょうか?」
「優しいね、あなたは」
沙那の頬に手を添えて、八条宮がにこりと笑う。
――助けてください、神様仏様宮様!
どうしよう、腕がぷるぷる震えて限界間近です。暗い屋内でも神々しい宮様の
くちづけしたい、胸板に触りたい。だって、信念だの初めては大事だのなんだの言っても、好きなんだもの。煩悩にまみれて当然じゃないの。
「宮様」
「なに?」
「好きです。宮様にお会いできて、嬉しい」
「……沙那」
八条宮が沙那の肩と腰に腕をまわして、ぐいっと抱き寄せる。二人の顔が近づいて、そっと唇が重なる! と思ったら、かすりもせずにぎゅっと胸に抱きしめられた。
「あれれ?」
「うん。あなたは、抱き心地がいいね」
それだけ言い残して、八条宮はすうっと夢の世界へと旅立ってしまった。
――せっかくいい雰囲気だったのに、わたしってそんなに色気がない?
一人で信念を掲げて勝手に煩悩と戦って、なんて恥ずかしいの。でも、どうやら曲者とか物の怪から抱き枕に昇格したもよう。それに、無性に会いたくなるくらい、わたしを意識してくださっていることも分かったし、まぁいいか。
沙那は、寝息を立てる八条宮の胸に顔をすり寄せる。主人に甘える飼い猫のように。
――ああもう、宮様大好きっ!