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その日の夕刻、僕はいつものように浴室でディフィシル様の体を丁寧に磨いた。体を清めたあと、疲れをほぐしてさしあげるまでが入浴係ぼくの役目だ。
現在、国王の身の回りの世話をする侍女は多くない。僕をふくめ片方の手の指で数えられる人数で、もちろん僕のほかはみんな正真正銘の女性だ。
ディフィシル様が王子だったころからつかえている、少し年齢のいったお姉様ばかりで、最近は近くがよく見えなくて針仕事に難儀するらしい。みんな、もとが貴族の子女だから品がよくて、そのうえ親切で善良だ。
彼女たちは、ディフィシル様に拾われて宮殿にやってきた僕をお風呂に入れて、あたたかい食事で腹を満たしてくれた。僕は、彼女たちから作法や仕事、それから文字を教わった。
「フォン」
浴槽のそばにあるカウチにあおむけになって、ディフィシル様が少し疲れた声で僕を呼ぶ。
修道院での僕の名前は、
僕に、フォン・ウィルブランドという立派な名前を授けてくださったのは、ほかの誰でもないディフィシル様だ。僕は、九歳にして初めて人間になれた。だから、この真名は僕の命そのものであり、二人きりの時だけ呼ばれる特別な宝物でもある。
それにしても、長椅子に横たわるディフィシル様は無防備でかわいいなぁ。
濡れた手をエプロンでぬぐって、ディフィシル様の首の側面を優しく押し揉む。ディフィシル様は、気持ちよさそうに目をつむって僕に身をゆだねた。
僕を信頼し、僕にその命まであずけてくださっているような気がして、心の底から嬉しさがこみあげる。
「力の加減はいかがですか?」
「うん、いい」
プラチナブロンドの頭にダイヤモンドやブルーサファイアが輝く王冠を戴き、最高の絹織物で仕立てられた衣装とマントを羽織った婚礼の御姿も最高に素敵だった。
クロストリージオの太陽と称されるにふさわしい神々しさに満ちあふれて、床に引きずるマントの裾持ちをする手が感動に汗ばんで震えた。
だけどやっぱり、一糸まとわぬディフィシル様が一番美しいと僕は思う。
「お疲れのようですね」
「うん……、少し疲れた」
無理もない。教会で婚礼をあげ、宮殿に戻ると息つく間もなく貴族たちの謁見が待っていたのだから。少しではなく、大変お疲れなのだろう。
ふと、王妃の顔が脳裏をよぎる。
教会から宮殿へ向かう馬車の中で、王妃はディフィシル様の腕に自分のそれを絡ませて、一人で陽気に話し続けていた。
陛下の好きなお花はなんですの?
陛下はどんな本をお読みになるのです?
面白くもなんともない稚拙な質問に、向かいの席で顔を伏せていた僕はひどく不快な気分だった。ディフィシル様は物静かな御方だ。うるさい女の相手は、儀式や公務よりも体力を奪われただろう。
「疲れの原因は、おしゃべりな王妃様なのではありませんか?」
「そういうな、フォン。王妃は、無邪気でかわいい人だ」
僕の予想に反して、ディフィシル様が少年のような笑みをこぼす。途端に、どんな答えを予想していたのか分からなくなった。
なんだろう、不愉快を優に超えるこの気持ちは。
心の奥で、ごろりと転がる黒い塊。それが、僕がはっきりと認識した、王妃という女への最初の小さな嫉妬だった。
「そろそろ時間だな。支度をたのむ」
「……は、はい。ディフィシル様」
初夜には習わしがあって、通路を通る時刻や服装、王妃の寝室を照らすろうそくの数に寝室に仕える侍女の人数など、そのほかにも事細かに決められている。
初夜の寝室に待機する侍女は一人。衝立てを隔てて国王夫妻の交わりを見届け、コトが済んだら明かりを消す。ディフィシル様は、僕にその役目を命じた。
国王の寝室と王妃の寝室は、国王だけが使える隠し通路でつながっている。
共寝の刻となり、初夜の証人をおおせつかった僕は、ディフィシル様を先導して隠し通路から王妃の寝室へ向かった。王妃の寝室に入ると、僕は衝立の向こうに設えてある席に座ってその時を待つ。
「……陛下」
王妃の色づいた声がして、蜜ろうそくの柔らかな暖色の炎がベッドの上で重なる二人の影をゆらゆらと天井に投影する。僕は、ヴェールの下で唇を噛んで、太腿の上でぎゅっと拳を握った。
時間が経過していくごとに、寝室の静寂がベッドのきしむ音と二人の淫らな声に支配されていく。肌がぶつかって、なにかを吸って離れて――。
向こうから聞こえてくる和音は、大聖堂に響き渡っていたパイプオルガンの音色より醜悪だ。
「……は、ぁんっ、……あっ、あぁ……ああっ!」
王妃の嬌声は、僕が知る限りこの世のなにより醜悪だった。王妃が声をあげるたびに、心の奥で黒い塊がごろりごろりと転がりながら重量を増していく。
二人の間には愛なんてこれっぽちもないのに、ディフィシル様と王妃の行為は神に許され祝福までうけている。そう思うと、頭が狂ってどうにかなってしまいそうだ。
僕は、お仕着せのスカートをまくりあげると、右手の中指と薬指を根元まで咥えた。声が出ないようにまくったスカート部分を口につめて、唾液でぬれた指を後孔に添わせる。
――あぁ、ディフィシル様にここを荒らされたい。
王妃の声にまぎれたディフィシル様の声に聴覚を集中して、きゅっとすぼんだ孔をいじくりまわす。だけど、唾液では香油のようにスムーズにいかない。すぐに指が乾いて滑りが悪くなってしまう。しかたなく後孔でイクのをあきらめて、僕はいきり勃った淫茎をしごいた。
――ディフィシル様……っ!
衝立てを隔てて、二人と一緒に僕も達する。僕の白い吐液は、遠い東の国から伝わったという高価な衝立てと、カゴに入っていた手巾に飛び散った。
スカートを噛んだままはずむ息をおし殺して、カゴから手巾を取る。真っ赤なアネモネが一輪、すみに刺繍された絹生地の高級品だ。それで衝立てを雑にふいて、ついでに自分のモノまでぬぐう。それから身なりを整えると、僕は席を離れて何食わぬ顔で部屋の明かりを一つ一つ吹き消して回った。
ベッドサイドの明かりを消そうとした時、ディフィシル様が手をさしだしたので、僕はいつものように両手でそれをつかんでくちづける。ディフィシル様の指先から香る、上品な香水。可憐な花を連想させるように甘くて、鼻につく、王妃の匂いだ。
「もうさがっていいぞ、クロディア」
「はい。おやすみなさいませ、陛下」
王妃はすぅすぅ平和な寝息を立てていて、僕たちのやり取りには気づいていないらしい。僕は、もう一度ディフィシル様の手にくちづけて王妃の寝室を出た。
一夜明け、国王夫妻が習わしに従って、庭園を一望できる窓際の席で仲睦まじく目覚ましの紅茶をたしなむ。
「おいしい紅茶ね。ありがとう」
王妃がアネモネの手巾を口元にあてながら言ったので、紅茶を給仕した僕は笑顔で王妃に深く一礼した。
それからの日々は、絶望そのものだった。ディフィシル様が、公務を終えたあと自室には戻らず王妃の部屋へ直行するようになったからだ。
僕の前で、二人はチェスを楽しみ時に体を寄せ合い、火を見るよりも明らかに仲を深めていった。
クロストリージオの太陽が王妃にほほえめば、僕の心には暗雲が立ちこめて嫉妬が魂を焼く。王妃が善人であるから、余計に僕の心は締めつけられる。
ディフィシル様が王妃の寝室で眠る夜、僕は自分の部屋で自慰にふけった。僕の部屋は、宮殿の裏庭に建つ小宮殿の屋根裏部屋だ。今は使われていない廃屋を、ディフィシル様が僕のために改装してくださったのだ。
「は、っ……、ディフィシル様……ッ」
香油と指でほぐした後孔に、ディフィシル様を模した張形を深く挿して文字どおり自身を慰める。達した時の気持ちよさと、同時におしよせる虚しさ。
僕は、ディフィシル様のためだけに存在している。
ディフィシル様に必要とされなくなったら、僕はどうしたらいいのだろう。いや、僕は確かに愛されている。ああ、ディフィシル様に触れたい。どうして、平穏な日々は失われたのだろう。
仄暗い思考を巡らすうちに、善と悪の境界があいまいになる。ディフィシル様の婚礼から三カ月たつころには、僕は王妃を害する方法を真剣に考えるようになっていた。
ある冬の日。
しんしんと雪が降る中、僕は侍女長の許可をえて街に出かけた。赤髪は目立つから、ローブのフードでしっかり覆って酒場に入る。
平民が集う夜の酒場は男臭がすごくて嫌だけど、ここは胡散臭い情報を手に入れるにはうってつけの場所だ。
空いているカウンターの席に座って、ブランデーを注文する。すると、すぐに一人の男が声をかけてきた。
「フォンっていうのはお前か?」
背が高くてそこそこ整った顔をした三十後半のこの男は、名をマルタンといい、大通りで薬屋を営んでいる。マルタンの薬は、病によく効くと評判で商売繁盛しているそうだ。
しかし、それは表向きで、マルタンの専門は毒薬だという。足しげくこの男臭い酒場に通って、やっと手に入れた情報だった。
害するとしても王妃の代わりはいくらでもいるだろうから、殺すのは危険な割にそれほど意味がない。だから、ディフィシル様から王妃を遠ざける方法を考えた。そして、あの女が好きなアネモネの花をプレゼントしてやろうと思いついたのだった。
「あなたがマルタン?」
「そうだ。へぇ、フォンっていうからどんないかつい毛むくじゃらの男かと思えば、なんだお前、女みたいな顔してんだな」
「どうだっていいだろ、そんなこと。それよりも、早くアネモネの毒を売ってくれ」
「せっかちなヤツだな。分かったよ、ついて来い。ここじゃ、本業にさしつかえるもんでね」
僕は、注文したブランデーを飲みほしてマルタンと一緒に店へ向かった。夜の大通りは、人通りも少なくて少し不気味に感じた。僕が、にぎやかな宮殿で暮らしているからそう思うのかもしれない。
店に着くと、マルタンが「どうぞ」と僕を中へいざなった。
背後でドアが閉まって、がちゃりと施錠する音がする。不審に思ってふり返ると、マルタンが僕の腕をつかんで引き寄せた。はずみで、フードが脱げて赤髪があらわになる。
「……っ、いきなりなんだよ、離せ!」
「なぁ、サンク」
マルタンが、口の端をあげてにたりと笑う。僕は、あまりの衝撃に言葉を失ってしまった。修道院での名前で呼ばれて、僕の背筋を冷たいものが走った。
――なぜ、修道院での呼び名を知ってるんだ?
心臓が、狂ったように早鐘を打つ。
「驚いたか? 俺もあの修道院にいたんだぜ。サンクが脱走したあと、薬師の免状をもらって修道院を出たんだ。赤髪の女が俺を探してるっていうから、まさかと思ったが……」
「は、離せよっ!」
ありったけの力で抵抗するが、小柄な僕が敵うはずもない。僕の体は、いとも簡単にテーブルの上におし倒されてしまった。
「いいぜ、サンク。純度の高いアネモネの毒を特別にタダで譲ってやる。ただし、お楽しみのあとに、だ」