第六話 冬の離宮


「……ん、ふっ」

 ヴェールを隔てて、分厚い舌がもどかしくうねる。ディフィシル様の指が、後頭部で結ばれているヴェールの紐をほどいた。一瞬だけ唇が離れて、薄絹がとり除かれる。そして、再び唇が重なろうとした時、ディフィシル様の熱がすっと遠のいた。

 僕は、途端に恐ろしくなった。サファイアのように美しくきらめく瞳が、わずかに揺れて視線を僕の下唇にさだめたからだ。

「これは、どうした?」

「あ……」

 ディフィシル様の御身をまもるために、体にいつもと違う不調があれば、必ず女官長に知らせるのが宮殿のきまりだ。僕はそれを破った。息が詰まって、喉が無意識にごくりと音を立てて大きく上下する。

「申し訳ございません。隠すつもりはありませんでした。ひどくなる前に治そうと思って、その薬屋に」

「痛むのか?」

「いいえ、痛くは……。なんともありません」

 なにか言いたげに、ディフィシル様の親指の腹が僕の唇をなでる。その時、コンコンとドアをノックする音がした。僕は、慌ててディフィシル様からおりてお仕着せの乱れをととのえる。まるで僕たちに時間を与えるように一呼吸おいて、部屋に入ってきたのはフィーネだった。

 フィーネは眉をひそめ、足乗せに座っているディフィシル様に冷ややかな目を向けて、僕に退出しなさいと言った。いつになく厳めしいフィーネの様子に気圧されて部屋を出る。間際、背後から聞こえたフィーネの言葉に僕は耳を疑った。

「御子を授かった途端に、なんてはしたない。クロストリージオの太陽たる陛下が禁忌を犯すから、神がお怒りになり、罪なき民が代償として悪魔の餌食になるのですよ。王太后様が、王都で流行している死病のことで大変お心を痛めておられます。すぐに王太后様の……」

 ぞっとするほど冷たいフィーアの声。静かに閉じたドアの前で、僕の左胸がつんと冷えるような嫌なリズムを刻む。

 ――なに、今の。

 国王に向かってあんな不遜な態度……。
 フィーネが、フィーネじゃないみたいだった。ドアの向こうで、二人がどんな会話をしているのか。聞き耳を立てようとする僕を、廊下の先からほかの侍女が呼ぶ。僕はヴェールをつけると、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた。

 ◇◆◇

 冬は、雌鹿ビッシュ狩りがおこなわれる季節でもある。鹿は古くから高貴の象徴であり、それを狩るのは国王の権威を示すにふさわしい最高の娯楽とされてきた。

 毎年、国王は宮殿から北西の方角へ数日かけて移動した先にあるバティヌス離宮で、貴族たちと狩りに興じて一カ月ほどを過ごす。

 しとめたフザンを宮廷の料理人が数日かけて熟成するフザンタージュや赤ワインのソースでいただく野兎リエーヴルなんかは絶品だ。ディフィシル様は山鶉ペルドローを好んで召しあがる。

 しかし、今年は新婚の国王夫妻に配慮するという理由で、早々に伝統ある娯楽の中止が決まっていた。王太后様や有力な貴族たちから、後継の誕生をのぞむ声が多くきかれたからだ。

『王妃が身ごもったそうだ』

 ディフィシル様が僕に告げた数日後、司祭と宮廷医が王太后様の宮に出向いて正式に王妃の懐妊が公表された。宮殿をたつ前日だった。

 その日の夜、クロディアとしての仕事を終えた僕は、小宮殿に戻ってあわただしく荷造りにとりかかった。まっさきにトランクに放り入れたのは、他人に見られるとまずいもの。具体的には、香油や張り型、それからマルタンの毒薬だ。

 それを隠すように上からお仕着せや下着、肌の手入れに使う道具なんかをぎゅうぎゅうに詰めこむ。僕の荷物なんてこの程度。トランク一つあれば、僕の秘密や痕跡は簡単に消せてしまう。

 翌日、僕は国王の随行者の一人としてバティヌス離宮に向けて旅立った。
 いつもなら王太后様と大勢の貴族とりまき、国王の日常に従事する者たちがそろって随行するのだけれど、今回は上位の貴族が数名と身の回りの世話をする最低限の人数だけの寂しい旅路だ。

 王妃は相変わらず体調がすぐれないとかで、ディフィシル様の見送りにも顔を出さなかった。

 ――婚礼以降、あんなにディフィシル様から大事にしてもらっておいて……。

 ディフィシル様の相手として、天下みんなに認められて神の祝福をも受けたいまいましい女。ごとごとと轍に揺れる馬車の中で、僕は苦虫を嚙みつぶす。すると、向かいの席からクスクスと笑い声が聞こえた。

「眉間にしわが寄っているぞ、フォン」

「あ……」

 目を丸くして、僕は右手の中指で眉間をさする。国王の馬車には御者台に二人の御者が座り、両脇に衛兵隊士をのせた白馬が護衛としてぴたりと寄り添っている。

 車内は、顔の下半分をヴェールで隠した世話係の侍女クロディアとディフィシル様の二人きりだった。僕だけに向けられる笑顔が嬉しくて、なさけなくも涙が出そうになる。

「あなたとこうして馬車に乗るのは婚礼以来だな」

「そうですね」

「あの時……。王妃から好きな本や花を聞かれた時、昔のあなたを思い出した」

 あの時って、いつの話?

 僕は急いで記憶をあさる。そして、婚礼のあと大聖堂から宮殿へ帰る道での話をしているのだと理解した。

「僕を、ですか?」

「うん。ほら、宮殿で暮らし始めたばかりのころ、あなたはいつも影のように私のあとをついてきて、それが好きな花ですか? いつもその本を読んでいるのですか? って目を輝かせていただろう? 無邪気でとてもかわいかったよ」

 ディフィシル様の表情がとても柔らかくて、まるで結婚なさる前に時が戻ったかのような錯覚におちいる。

 当時の僕は、ディフィシル様のそばを片時も離れなかった。着なれないスカートに戸惑いながら、ディフィシル様の背中を夢中で追いかけた。永久凍土の闇に閉ざされたような人生にさした一筋の光を見失いたくなくて、必死だったんだ。

「覚えていてくださったのですね」

「当たり前だろう。あなたと出会ってからの日々は、私にとってなにものにも代えがたい宝物だから」

「ディフィシル様、僕は」

 許せよ、フォン。
 穏やかな声で、ディフィシル様が僕の言葉をさえぎる。

「宮殿では、男を私の側仕えにはできない。だから、あなたにクロディアでいることを強いてきた。それに対してあなたはなにも言わないが……。男でありたかっただろうと思うと、それだけが私の後悔だ」

「僕は、クロディアとしてお仕えできることに幸福は感じても不満なんかありません。なにかあったのですか?」

「なにも……。ところで、フォン。その口のできものは、その後どうだ?」

「は、はい。治ってきているようです」

「そうか。だが、用心したほうがいい。離宮についたら、村の医者を呼んでみてもらおう」

「ありがとうございます、ディフィシル様」

 数日後、僕たちは予定どおりバティヌス離宮に到着した。
 離宮のエントランス前で馬車をおりると、ディフィシル様は誰もいない控えの間に僕を連れていき、服を着替えるよう命じた。

 言われるがまま、女物のお仕着せとヴェールを脱いでディフィシル様から手渡された白いシャツと薄紫色のトラウザーズに着替える。

 宮殿で暮らすようになって、男性の服を身にまとうのはこれが初めてだ。生地も高級品で、ちゃんと僕の身丈に合わせてある。嬉しいような気恥しいような、僕は気分の高揚を感じながら姿見にうつる自分の全身をまじまじと見た。

 ――あれ、なんだか変だな。

 つい数年前、ご令嬢たちの間で男装が大流行した時期があった。僕も彼女たちと顔つきや体の大きさに大差がないから、男装した女性にしか見えない。もっとも、胸やお尻は彼女たちと違って平べったいけどさ。

「似合うよ」

「本当に似合っていますか? 自分ではそう思えませんけど」

「見慣れないからだろう」

 レカミエのカウチソファに座ったディフィシル様が、僕の反応を楽しむかのように笑う。二つ積んだロールクッションにもたれかかるように肘をつくディフィシル様の図は、まるで宮殿に飾られている豪華な絵画みたいだ。どうしたら、ディフィシル様のような男になれるんだろう。

「こちらに来い」

 ディフィシル様が手招きする。僕が御前に立って膝をつこうとすると、それより先にディフィシル様が僕の腰を抱き寄せてみぞおちに顔をうずめた。

「ディフィシル様」

「すぐに医者が来る。それまで、こうしていたい」

 衛兵が離宮に老齢の御仁を連れてくるまで、そう時間はかからなかった。衛兵に男装の僕を見られないように、ディフィシル様が部屋のドアをあけて直々に御仁を出迎える。

 その御仁は、バティヌスの村でひっそりと商っている医者だという。ディフィシル様と言葉をかわしたあと、医者は僕をカウチソファに仰向けにして口の中や体をくまなく診察した。そして、ディフィシル様に向かって険しい顔をした。

「口の中と体にも同じようなできものがある。大変申しあげにくいが、これは梅毒(シフィリス)だと思われます」

「シフィリス?」

「王都で流行している死病です。はるか昔、神を冒涜した罪でこれと同じ死病にかかった若者の記録が文献に残っております。その若者の名から、我々はこの病魔をシフィリスと呼んでおります」


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