通りに面した窓から月明かりがさしこんでいるだけで、店の中は真っ暗だ。それに、暖炉にも火が入っていないから凍えてしまいそうなほど寒い。
マルタンの口元で、息が円を描いて白くわだかまる。僕は体を起こそうと、ありったけの力でもがいた。
「だよなぁ、おとなしくするわけがないよなぁ。ははっ、しょうがねぇな」
ごそごそと腰のあたりからナイフを取り出して、マルタンが僕の首のすぐ横にそれを突き立てる。ドスッと重たい音に鼓膜をたたかれて、僕は思わずひっと息をのんだ。怖くて、必死に身をよじる。
「おっと、勝手に動くなよ。刃に毒をぬってあるから、ちょっと触るだけでも危険だぜ。気をつけな」
嘲笑うかのように鼻を鳴らして、マルタンが荒々しくお仕着せのスカートをめくりあげる。そして、
「……あっ!」
「お前、どこでどういう暮らしをしてるんだ? 庶民らしからぬ上等な女物の服を着て、下はちゃんとナニがついたままじゃねぇか。そういう趣味なのか? それともそういう趣味の
マルタンの衣服にしみついた煙草の臭いが、気持ち悪くてたまらない。
――黙れ、下賤なくそ野郎。
僕は、内心でマルタンに唾をはく。ディフィシル様は、パトロンなんかじゃない。貴族よりずっとずっと高貴で、お前なんか一生顔を拝むことすらできない御方だぞ。それに、ディフィシル様は僕の最愛の人だ。卑しい言葉で汚さないでほしい。そうだ――。
――ディフィシル様だって、本当は僕を愛しているのに……。
チェスに興じるディフィシル様と王妃の顔がちらついて、体の奥底で黒い塊が痛みを伴いながら転がる。ディフィシル様は毎夜、僕を残して隠し通路へ消えていく。今夜も、初夜の日と同じように王妃を抱いたのだろう。
奥歯をぎりっと噛みしめて、僕はマルタンをにらみつけた。
「いいぜ、別に答えなくても。夜闇にまぎれて毒を買いにくるくらいだもんな。人には言えない事情があるんだろう」
「うるさいな。僕は、頼んだ毒さえもらえればそれでいい。さっさと済ませろよ、おっさん」
「口の悪いガキだなぁ。見た目に合わないからやめとけって」
くくっと笑って、マルタンがテーブルに置かれたガラスの小瓶に手を伸ばす。そして、僕に見せつけるように小瓶に入った透明な液体を手のひらに垂らした。ほのかに甘い、ヴァニラの香りがする液体。マルタンは、それを指先にぬって僕の口に入れた。
「舐めろ」
頬の内側の粘膜を指先でこすられて、僕は反射的にマルタンの指を舐めて液体の混ざった唾液を嚥下してしまった。舌が、喉が、しびれるような感じがする。
次にマルタンは、液体にまみれた手を僕の下着の中に滑りこませて、柔らかな陰茎をまさぐりタマをなでた。ぬちゃりとした粘性の感触に、全身がぞわりと粟立つ。時折、指先が後ろの孔に触れて、その度に腰がぴくりとはねた。
「……く、あっ」
「いい顔しやがるぜ。この香油にはな、媚薬を混ぜてある。一緒に気持ちよくなろうじゃないか、サンク」
マルタンが指先を後孔に刺す。いつの間にか下着は膝のあたりまでおろされて、僕の下半身は完全にマルタンの目にさらされていた。ゆっくりと円を描くように洞を広げて、指を増やされる。
「あぁ……っ」
「たまんねぇなぁ。これだから、こっちの商売をやめられねぇんだ」
マルタンが、興奮して息をはずませながらトラウザーズをおろした。
◇◆◇
僕がマルタンの店を出たのは、二時間ほどたってからだった。夜中の人気のない道を、宮殿へ向かって足早に歩く。
マルタンは僕で満足したあと、
アネモネの毒は、一度では効果が出ないとマルタンは言った。また欲しくなったら訪ねて来い。ただで分けてやる。マルタンの言葉は、悪魔のささやきそのものだった。
宮殿の門で衛兵に侍女長の許可証を見せ、クロストリージオ国王の侍女クロディアとして門を通過して宮殿を目指す。ディフィシル様が僕のために改装してくださった小宮殿までは、少し距離がある。遅い時間だから、宮殿もしんと静まり返っていた。
小宮殿の前の庭にさしかかり、僕は屋根部屋の明かりがついているのに気づく。
こんな夜更けに、一体誰が。
今まで、留守の間に誰かが部屋に入るなんて一度もなかった。だって、小宮殿を出る時、僕は必ずエントランスのドアを施錠して、カギは肌身離さず身に着けている。ここには、人に知られてはならない秘密がたくさん詰まっているから――。
僕は、ローブの裾を持ちあげて庭を走り抜けると、音を立てないように小宮殿のエントランスを開けた。小宮殿は二階建てで、二階にある客室に屋根裏部屋へ上がるはしごが備えてある。
宮殿内は、点々と明かりがともされていた。それどころか、二階の客室の暖炉に火まで入れてある。
心臓がばくばくと嫌な旋律を奏でて、アネモネの毒が入った小瓶を持つ手がじっとりと汗ばむ。僕は、一度深呼吸をして二階の客室のはしごをのぼった。
屋根裏部屋といっても構造がそうなっているだけで、階下の部屋と天井の高さも広さも変わらない。一介の侍女が使うには少し贅沢なベッドとドレッサー、猫足の丸テーブルとイスが二脚置いてあって快適に過ごせる完全なプライベート空間だ。ただ、用を足す部屋と浴室は配管の関係で一階にあるから、それが少し面倒だった。
はしごをのぼり終えた僕は、猫足のテーブルの方を見て驚きのあまり小瓶を落としそうになった。猫足のイスにディフィシル様が座っていたからだ。
「遅かったな、フォン。どこへ行っていた?」
「……あ、いえ」
「侍女長から、クロディアは街へ所用に出かけたと聞いたが」
「は……、はい。確かに街へ行っていましたが、ディフィシル様にご報告申しあげるほどの用ではありません」
「そうか?」
きらめく青い瞳が、疑い、探るようにじっと僕を見る。
想定外のことが起きて、帰りが予定よりずいぶん遅くなってしまった。ディフィシル様は、一体いつからこの部屋にいたのだろうか。動揺と階下からあがってくる暖炉の熱で、小瓶を持つ手だけじゃなくて体中の毛穴から汗が噴き出す。
そうかとおっしゃったけれど、ディフィシル様はまったく納得していないという顔をなさっている。
根掘り葉掘り聞かれたら、どう言い逃れたらいい? 今までディフィシル様に隠し事なんてしたことがないから、辻褄の合う答えを返せる自信がない。
「座れ、フォン」
ふっと表情をゆるめて、ディフィシル様が言った。僕は、ぎこちない笑顔でローブを脱いで、ディフィシル様の足元にひざまずく。小瓶は、怪しまれないようにローブを脱ぐ動作にまぎれてポケットに隠した。
しかし、結った赤髪はぼさぼさで、お仕着せには煙草の臭いがしみついている。マルタンが体にまとわりついているようで、たまらなく不愉快だ。下着の下はもっとひどい。
ディフィシル様が、優雅に足を組みかえる。そして、僕に右手をさしだした。僕は、それをいつものように両手でつかんでくちづける。
僕は、はっとした。ディフィシル様の指先から、王妃の香水の匂いがしない。今夜は、王妃に触れなかったのだろうか。
「街で危ない目に遭わなかったか?」
「はい、なにもございませんでした」
「ならいい」
ディフィシル様は、それ以上なにもお尋ねにならなかった。僕の赤髪を優しくなで、「朝の給仕に遅れるなよ」とだけ言い残して屋根裏部屋を出ていった。
僕は何気なく、テーブルの上に置かれた手燭に目をくれた。金の装飾がほどこされたそれは、国王だけが使用を許される逸品だ。その横に、布が被せられた小皿が置いてある。
なんだろうと思って布を取ると、小皿にのっていたのは小麦色をしたおいしそうな焼き菓子だった。途端に、僕の目から涙があふれる。
修道院では焼き菓子なんて出てこなかった。宮殿に来て初めてそれを食べた僕が、あまりにもおいしいと言って感動したので、ディフィシル様が今でも時々こうして宮殿の料理人に命じて食べさせてくださるのだ。宮廷の料理人は腕がいいから、シンプルな焼き菓子でも頬が落ちてしまうほどおいしい。
「どうして……」
初夜の証人なんか、務めたくなかった。そばにはいたいけれど、王妃と仲良くするディフィシル様は見たくない。
僕は、焼き菓子を一つ口に頬張る。
「甘い」
口の中でまたたく間に溶けていくそれは、ほんのりヴァニラの香りがした。