02.百夜通い(二)


 そして今宵は、八条宮と約束を交わした夜から数えること八十六日目の夜。

 雨降りやまぬ季節が過ぎて、日に日に夏の気配が色濃くなってきた。あともう少しで念願の百夜を迎える。そう思うと、夜の不気味さも恐怖もなんてことない。

「早くお帰りにならないかしら」

 しんと静まり返った八条院の門の傍らに立って、空に浮かぶ月を眺めながらぽつりとつぶやく。

 宮様はどちらにいらっしゃるのだろう。異母兄であられる帝ととても仲がいいと聞くから、参内してそのまま御所にとどまっているのかもしれない。

 ――けれど……。
 恋の噂がつきまとう宮様のことだもの。もしかしたら恋人の所へ行っているのかも……。

 ちくりとした切なさが、沙那の心に小波さざなみを立てる。

 わたしは宮様の恋人でもなんでもないから、よそに行かないでなんて我儘は口が裂けても言えない。宮様のお相手って、噂どおり美人で大人っぽい人ばかりなのかなぁ。

「はぁ……」

 無意識に出てしまう重たいため息。父上も小梅もかわいいと言ってくれるけど、それは身内だからで、美人とは程遠いことくらい分かっている。背も低いし、胸だってぺったんこだし……。

 裳着を済ませた立派な大人なのに、色気のいの字もないから、いつも年齢より年下に見られてしまう。

 ――美しくて大人の雰囲気たっぷりの宮様には似合わないわよね、わたし。

 分かっているわよ、と足元の小石をつま先で蹴って、沙那は二度目のため息をつく。そのとき、風もないのにざざっと竹垣がざわめいて揺れた。

 驚いて咄嗟に音のした方へ目を向けてみるが、ちょうど月が翳ってしまったせいでなにも見えない。

「みゃぁ」

 奇妙な声がして、ふさふさとしたものが切り袴の裾からふくらはぎをくすぐった。

 ――な、なに? なにかいる……っ!

 おそるおそる足元を見ると、宙に浮いた丸い金色のまなこが二つ、横に並んでこちらを向いているではないか。夜の都を徘徊するのは、強盗か物の怪の類と相場は決まっている。

「みゃあぉ」

「きっ、きぃい~やぁあああーッ!」

 ❖◇❖

 右大臣の昨今もっぱらの自慢は、邸にある大きな池と西の対屋に住む妙齢の四姫しのひめだという。ぎっとりと脂ぎった顔に鼻持ちならぬ喜悦の表情を浮かべて、意気揚々と話す右大臣の声を御簾越しに聞いた。今日の昼、帝と高官らがたわいもない世間話をしていたときのことだ。

 八条宮は、単衣姿のまま暗い廊下へ出た。そして、一段低い廂の間からさらにもう一段下がった簀子縁すのこえんに腰を下ろして高欄にしどけなく体をあずける。

「なるほど」

 見てくれはウシガエルのようだが、右大臣の審美眼に狂いはないらしい。大きな池は天を映す鏡のように雄大で、魚が水面を揺らすたびに崩れる月は趣があってとても美しい。それから、四姫も話に違わぬ佳人だった。

 烏帽子を載せた八条宮の頭髪が、軒からさしこむ月光を浴びて白繭糸のように清らかな銀色に輝く。池に向く琥珀色の瞳は透き通る硝子玉のようで、整った彫りの深い面立ちからは硬質で男らしい盛年の色香が漂っている。

 そして、浮ついたところのない凪のような雰囲気がまた、彼が月神の化身だとまことしやかに信じられている所以なのだろう。

 きぃ、と錆びた金属音を立てて妻戸が開く。八条宮は、それを無視して揺れる池の水面に視線を送り続けた。

「八条宮様」

 耳に絡みつくような細い声が八条宮を呼ぶ。八条宮のあとを追って局から姿を現したのは、右大臣自慢の四姫だ。

 四姫はそろそろと簀子縁に向かうと、はだけた夜着の合わせからぷるっと弾む白桃のような胸を覗かせて、主人に甘える猫のように八条宮にすり寄った。

「もうお発ちになるのですか?」

「そうだね。もうじき、空が白み始めるから」

「もう少しだけ……。もう少しだけ一緒にいてくださいませ」

「そうしたいのは山々だが、日がのぼってから俺を帰しては、あなたの名に傷がついてしまうよ」

「意地悪をおっしゃらないで」

 黒い言葉をぐっと飲みこんだ八条宮のかんばせが、ゆるりとほころぶ。それを見た四姫が、魂を抜かれたように恍惚としてなまめかしい息をはいた。

「姫」

 八条宮が呼ぶ。
 すると四姫は八条宮の股間に顔をうずめ、取り憑かれたように単衣をまさぐってためらいもなく陽物を口に咥えた。

「……っはぁ、宮様ぁ……、もう一度、抱いて」

 ちゅぱちゅぱと、それをすする四姫の甘い声と熱い息。  八条宮の貌から、くゆる煙のように笑みがすっと消え去る。雛飾りのように美しいのは座っているときだけで、口を開けばこのとおりだ。

 股にうずくまって無我夢中で淫猥な音を立てる四姫の後頭部に、氷柱つららのごとく鋭い八条宮の視線が刺さる。満月のような琥珀色の瞳はどこまでも寒々として、凍りついた水面のように無情だった。

「いいよ。あなたの望むままに」

 ついふらりと結ぶ一夜限りの浅いえにしに、心がおどり情がわき立つことはない。儀式のように体を交えて、お決まりの科白を並べる。それが風流な泡沫うたかたの恋というもので、朝日に焼かれて夢と消え失せるはかない運命にある。

 戯れの関係はいい。ややこしく考えなくても、時がちゃんと終止符を打ってくれるのだから。

「あぁ、上手だ」

 火のつけ方まではいいとして、欲情をあおるには未熟な技巧がまどろっこしい。しかし、わざと息を吐いて喘いでやる。頬をへこませて、生温かい舌で舐めまわして、唾液を絡めて、細く白い手で必死にしごいて、男を快楽の果てに導こうとする努力を踏みにじるのは憐れというもの。

「手足をついて、俺にあなたの孔を見せて」

 八条宮が言うと、四姫は顔をあげて妖艶に笑んだ。そして、言われたとおりに四つん這いになって尻を突きだす。八条宮は、四姫の単衣の裾を乱雑にまくりあげると、前戯をはぶいて唾液にまみれた怒張を孔に突っ込んだ。

「あぁんっ!」

 口淫をしている間に女陰ほとを滾らせたようで、少しの抵抗もなくするりと奥まで導かれる。

「四姫、ここは庭先だ。大きな声を出すと、人に気づかれてしまうからね」

「本当に意地悪な方……っ!」

「意地悪? 俺ではなく、あなたが求めたのだろう?」

「……ひぁ、っんん! あ、ああっ、宮さ……まぁ、あっ、あぁああんっ!」

 四姫の腰紐を手綱のように握って、好き勝手に穿つ。この体位が一番いい。陰陽の反りが合って気持ちがいいし、なにより互いの顔を見なくて済む。

 そういえば、四姫は帝の尚侍ないしのかみとして出仕すると噂で聞いた。身分と美貌、おそらく教養も主上に近侍するに申し分ない。右大臣としては、確実に己が血脈を帝位に据えたいのだろう。

 しかし、四姫が幾人もの男を通わせていることは、若い公達の間では有名な話だ。そのことが、主上の耳に届かぬはずがない。

 主上は高潔であられるうえに、弘徽殿こきでんの女御にょうごを格別にご贔屓なされている。残念ながら、いくら美しくとも四姫が主上の閨に侍るは叶わぬ夢だろう。

「あぁ、あなたのナカはすごく気持ちがいい」

 小走りしたあとのような浅い息で言うと、それらしく聞こえるから面白い。八条宮は、程よく肉をつけた左右の柔尻に指先を食い込ませて、自分がいいように中を突いた。速度を上げる抽送に、陰陽の摩擦が熱を高める。

「……はぁっ、ぁんっ! 宮様……っ、だめっ、いっ、いくぅうう……ッ!」

 その時分、沙那は痛む足首をおさえてしゃがみこんでいた。
 驚いて絶叫した拍子に、足をひねってしまったのだ。沙那の悲鳴を聞いて駆けつけた小梅が、傍らで心配そうにおろおろとうろたえる。

 竹垣から出てきたのは、物の怪なんかじゃなくてただの黒猫だった。子供じゃあるまいし、猫におびえて怪我をするなんて情けない。足よりも、恥ずかしさで心の方が痛む。

「姫様、お邸に戻って手当てをしましょう。足が痛むのでしょう?」

「大丈夫よ。もう少し待てば宮様にお会いできるはずだから、我慢する」

「でも」

「ありがとう、小梅。本当に大丈夫だから」

「……はい」

 ここに来て、どれくらいの時間がたったのだろうか。今日はいつもより遅い気がする。沙那は、空を見上げて月の位置を確認した。

 さっき、遠くから子の正刻を知らせる時報の太鼓の音が聞こえた。そして、弓張月が西の空に沈もうとしている。もう夜半を過ぎたということだ。

 やがて、月が沈んで辺りが真っ暗になる。もしかしたら、今日はお帰りにならないかもしれない。夜の終わりが近づくにつれ、沙那の心には不安ばかりが募っていく。

 百夜欠かさず通っても、八条宮と会えなければその証明ができない。つまり、沙那の努力だけでは果たせない約束なのだ。

 結局、八条宮を乗せた牛車が門の前に停まったのは、東の空がうっすらと白んできたころだった。今まで、こんなに帰りが遅い日はなかったのではないかと思う。

 牛車をおりた八条宮が、門の脇に座り込んだ沙那と小梅に冷ややかな目を向ける。沙那は八条宮が帰ってきたことに安堵して、少し疲れた顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いたのか。懲りない人だね」

「百夜通うとお約束しましたので」

「明日こそ、俺は帰らないかも知れないよ」

「いいえ、宮様はちゃんとお戻りになります。嘘は嫌いだとおっしゃいましたし、わたしが今まで通った八十六日、宮様が帰ってこなかった日なんて一日もありませんでしたから」

「さすが、その辺のにわかファンと一線を画しているだけのことはある」

 ふん、と鼻を鳴らしていつものように邸の門をくぐろうとした八条宮が、沙那の横を通り過ぎて歩みを止める。そして、二、三歩後ずさって沙那を見下ろした。

 小梅は立って上位の者への礼をとっているのに、沙那は地面に尻をつけて膝を抱えるようにして座ったまま。どうも様子がおかしい。

「いつもと違うな。もしかして、俺の帰りが遅かったから腹を立てているのか?」

「違いますよ。少し、待ちくたびれただけです」

 ぷくっと頬を膨らませて、沙那はわざと八条宮を上目に睨む。

「立て」

「……へっ?」

「正一品の親王たる俺を、そのように座り込んだまま見上げるは無礼であろう。立て」

 琥珀色の瞳が、しんしんと身に刺さるような視線を向けてくる。おっしゃることはごもっともで、礼儀がなっていないのは百も承知。しかし、ひねった足が痛くてとても立ちあがれない。

 早く立てと八条宮が催促する。

 沙那は泣きたい気持ちになりながらも、八条宮の「いつもと」という言葉に喜びを噛みしめる。何気なく言ったのであろうその一言は、八条宮が沙那を気にかけている証拠だ。

「恐れながら八条宮様」

 小梅が、戦々恐々としながら八条宮に向かって深々と頭をさげる。

「実は、姫様は足をひねってしまったようでして、礼をとりたくても立てないのです」

「……どうりで。なにをしてそうなったの?」

「それが、のそりと現れし黒猫に驚いて飛びあがったとかで」

「黒猫だと?」

 八条宮が眉をひそめる。

 ああ、消えてしまいたいくらい恥ずかしい。沙那は、八条宮の視線を避けるようにふいっと顔をそむける。

 すると次の瞬間、顔に八条宮の影がさして手首をぐいっと強く引っ張られた。驚く間もなく、ひねった足が一瞬だけ地面についてふわっと体が宙に浮く。さらに次の瞬間には、一体なにが起きたのかと驚いて見開いた目に、八条宮のうなじが飛び込んできた。

 ――うっ、まぶしいっ!

「お前も一緒に中へ」

 八条宮が小梅に目配せして、米俵でも担ぐように軽々と沙那を抱えて八条院の門をくぐる。

 嘘……。

 宮様がわたしに触ってる!

 わたし、八条院に入ってる!

 夢のような出来事に、頭が混乱して思考が停止する。左胸がばくばくと狂った心音を奏でる。ついに沙那は、歓喜に耐えきれずゆるんだ笑みを浮かべたまま失神してしまった。


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