出張から二週間がたとうという金曜日の夜。
午後七時半過ぎに医局を出た彩は、車を停めている職員用駐車場に向かって歩きながら母親に電話をかけた。いつもメッセージだけのやり取りばかりだから、声を聞くのは久しぶりだ。
「もしもし、お母さん?」
『めずらしいわね、彩が電話してくるなんて。もう仕事から帰ったの?』
「ううん、今帰り」
『相変わらず遅いのね。体を壊さないようにしなさいよ』
「ありがとう。お母さんも元気にしてる? お父さんは?」
『うん、こっちは二人とも元気よ』
「そっか。年末年始ね、今年はお正月の出勤がないから帰れそうなんだけど……」
『あら。それじゃあ、帰って来なさいよ。お父さんが喜ぶわ。ずっと彩に会いたがってるもの』
「二十九日の仕事が終わったら、その足で帰るね。そっちに着くの、多分、夜の九時過ぎると思う」
『二十九日ね。ご飯を用意して待ってるから、気をつけて帰って来て』
母親との会話が終わると、ちょうど駐車場に着いた。車に乗って、今度は仁寿に電話をかける。今日は当直明けだったらしく、お昼過ぎに仁寿から「帰りに電話して」とメッセージが届いていた。午後は会議や保健所に出かける用事だったりでスマートフォンを触る時間がなくて、そのメッセージに気づいたのは夕方五時半くらいだった。
『あ、彩さん。お疲れ様』
「お疲れ様です。すみません、連絡が遅くなってしまいました。メッセージだけでも返そうと思ったけど、なかなか時間がなくて」
『いいよ、仕事だもん。僕もそのつもりでメッセージ送ってるから、気にしないでね』
「はい……。それで、なにか用事でしたか?」
『夜ご飯を作ったから、一緒に食べない? なにか予定があるなら、無理しなくていいよ』
「なにを作ったんですか?」
『ローストビーフとコンソメスープ』
「すぐ行きます」
『泊まる?』
「持ち帰った仕事があるので、今日は」
『僕も記録をまとめたり資料を作ったりするから、ここで一緒にしたらいいよ』
「じゃあ、そうします。一度アパートに着替えを取りに帰って……だから、三十分くらいかかるかもしれません」
「了解、慌てなくていいから気をつけてね。駐車場は、来客用のところを使って」
「分かりました」
『インターホンは鳴らさなくていいよ。彩さんの鍵を使ってくれたら』
電話を切って車のエンジンをかける。
出張後、仁寿と彩はまた会えない日々に戻った。その代わり、以前よりもメッセージの回数も増えたし、夜に電話で話すようになった。お互いに忙しいから、そんなに長い時間は話さないが、仕事の話や明日の暮らしにはなんの役にも立たない世間話。それも真面目な内容だったり冗談だったり様々だ。
仁寿の性格のお陰か、電話越しに声を聞くだけで、その日のストレスがリセットされるような気がするから不思議だ。あの誕生日の夜のような時間もいい。そして、顔を合わせない間にゆっくりと関係が親密になっていく感じも、心地よくて安心できる。
アパートに帰って、明日の出勤に必要な生活用品をバッグに詰め込む。それから、キッチンの食器を戸棚に片づけた。
――ご飯を用意して待ってくれているから、早く行かないと。
急かされているわけでもないのに、気が焦る。バッグの中の荷物を指さしでチェックすると、彩は急いで仁寿のマンションへ向かった。
「おかえり、彩さん」
初めて合鍵を使って仁寿のマンションの玄関に入ると、メガネをかけた部屋着姿の仁寿がにこやかに彩を出迎えた。メガネをかけた顔もだいぶ見慣れてきた。真面目な感じがするこっちの顔も素敵だと思う。
「た、ただいま……です」
彩はへんちくりんな挨拶を返して、バスルームの洗面台を拝借して手を洗う。それから、リビングに用意された席についた。
「わぁ、おいしそう」
急に空腹を感じる。
ダイニングテーブルの上には、ローストビーフと火を通した野菜のサラダ、そしてコンソメスープなど、仁寿が手作りした料理が並べられていた。
「ハイボール飲む?」
キッチンから仁寿が尋ねる。彩は、遠慮なく言葉に甘えることにして、笑顔で「いただきます」と答えた。
「彩さん、炭水化物いる? 白ご飯もあるし、パンもあるよ」
「いえ、お酒でいただくので結構です」
「僕もそうしよう」
仁寿が、ハイボールの入ったグラスを二つテーブルに置く。彩の前に置かれたのは、仁寿がスウェーデンで買ったという、あの青いマーブル模様がかわいいグラスだった。
「お疲れ様」
軽くグラスを合わせて、まずはハイボールで喉を潤す。
仁寿の料理は、本当に美味だ。午後一時頃に昼食を食べたきりの彩は、ちょうどいい厚さにスライスされたローストビーフを口に入れて夢中で咀嚼する。それを飲み込むと、仕事で疲れ切った五臓六腑に栄養と活力が一気にしみ渡った。
「すごくおいしいです」
とろけた笑顔で彩が言う。それを見た仁寿も満足そうだ。二人は、しばらく食事に集中した。空腹が落ち着いたところで、仁寿がメガネを触って真顔になった。
「なかなか会えなくて、ごめんね」
出張のあと、仁寿は総合病院での救急科研修に戻ったから、二人はまた顔を見ない日々を過ごしている。仁寿は研修医だから、基本的には日曜日と休日は休みだ。週末は当直に入らないし、休日の出勤もない。
しかし、仁寿は休み返上で病院へ行き、自分が救急外来で診て入院になった患者の状態をみている。そんなわけで、彩とスケジュールが合わず、今日はあの出張以来初めて顔を見た。
「そういうお仕事だと分かっていますから、わたしは気にしてないですよ」
「本当?」
本当です、と彩が真面目に頷くと、仁寿が話を切り出した。
「ねぇ、彩さん。年が明けたら、彩さんの実家に伺ってもいい? まずは、彩さんのご両親に挨拶をして、少しずつ話を進めていこうかと思っているんだけど、どうかな」
「……は、はい。なんだかとても緊張します。年末は、久しぶりに実家に帰ろうと思っているので、両親に仁寿さんのことを話しておきますね」
「うん、よろしく」
「くれぐれも無理はしないでくださいね。三カ月、ハードな救急科の研修が続くから……」
「僕は平気。彩さんのご両親に反対されないか、目下の不安はそれだけだよ」
「仁寿さんみたいな素敵な人を見て、反対するわけないですよ。ただ、わたしと一緒で仁寿さんのご実家のこととか聞いたら恐縮するかも。それについても、年末にちゃんと話して来ます」
「そんなに、身構えなくても大丈夫だよ。藤崎家は、いたって平和な一家だからさ」
「平和……。確かに、仁寿さんを見ているとそんな感じはします」
「でしょ? 家柄がどうだとか、少なくとも僕の実家は誰も気にしてない。この前、出張から帰ってすぐ実家に電話したんだ。春には彩さんを連れて一度そっちに帰るからって。そしたら、特に母がすごく楽しみにしてる感じだったよ」
「大丈夫でしょうか、わたしで……」
「彩さん、もうそれは言わない。ね?」
仁寿がにっこりと目を細める。彩は、内心で自分の言葉を反省した。もう、そういう考えを巡らすのは本当に辞めなければ。全部を分かったうえで、彼はずっと一緒にいたいと言ってくれたのだから――。
お腹を満たして、二人で食器を片づける。今日は勤務中に終わらなかった、会議の報告書を作らなくてはならない。明日の朝一番に上司へ提出する大事な報告書だ。
彩はお風呂を済ませると、ノートパソコンを出してダイニングテーブルに置いた。向かいの席で、仁寿がタブレットの電源を入れる。
「なにか、飲む? ハイボールがよければ作るよ」
「集中したいので、お水をいただきます。というか、自分でします」
「そう? 冷蔵庫にあるから好きに飲んでいいよ」
「仁寿さんは、なにか飲みますか?」
「んー。お茶にしようかな」
「はい」
二人分の飲み物をダイニングテーブルに置いて、彩はパソコンの画面に集中した。途中でバッグから仕事用のスケジュール帳を出して、メモを確認する。
五年もたつとすっかり事務仕事が板について、自分が建築学科卒業だということを忘れてしまう。キーボードで文字を打ちながら、病院に就職したばかりの日々を思い出す。
まったく知らない医療の世界で、仕事を覚えるのに必死だったあのころ。でも、家に帰って就寝までのわずかな時間に必死に勉強して資格を取った。
もちろん、大学に進学したのは建築士になりたかったからだ。資格試験を受けたのも、医局秘書を長く続ける気はなくて、転職するつもりだったから。
キーボードを打つ手を止めて、向かいの席を見る。仁寿が、一心不乱にタブレットの画面にタッチペンの先を走らせている。
――いいなぁ。
自分が本当にしたい仕事。それに夢中になっている仁寿が、少しうらやましい。
――まだ、わたしも間に合うのかな。
彩の視線に気づいた仁寿が、顔をあげる。
「どうかした?」
「いえ……。この前、仁寿さんに建築士の仕事をしたくないのかと聞かれたのを思い出して。仁寿さんを見ていたら、やっぱりいいなと……」
「うらやましい?」
「……はい」
「建築士の試験は、卒業後にあるんだっけ?」
「そうです。七月に」
「じゃあ、医局秘書の仕事を覚えながら勉強してたの?」
「はい。当時は、医局秘書を長く続けるつもりがなかったから、一生懸命でした」
「それならなおさら、もったいないね。生活のことはなにも心配しなくていいから、もう一度勉強し直してチャレンジしてみたらいいのに。彩さんが頑張るなら、僕は全力で応援するよ」
口で言うほど簡単にできるとは思えない。やはり、五年のブランクは大きいはずだ。でも、目先ではなく、長い将来を考えたら努力する価値があるような気がする。
「……そうですね。どうするか、よく考えてみます。でも、仁寿さんたち初期研修医三人が研修終了証を受け取る姿を見るまでは、責任を持ってこの仕事をやり遂げたいです」
「そっか、嬉しいな。まだ一年以上あるから、ゆっくり考えるといいよ」
仁寿が再びタブレットに視線を戻して、作業を再開する。彩もスケジュール帳をめくって、ノートパソコンのキーボードを打ち始めた。お互い無言で、それぞれの作業に没頭する。先に終わったのは仁寿だった。それからに十分ほどして、彩も報告書を作り終えた。
時刻は二十二時十八分。
彩がダイニングテーブルを片づけると、仁寿が「寝ようか」と言った。二人で歯磨きをして、一緒にベッドに入る。
一緒に寝るのはあの夜ぶりだから、心臓がとくとくと高鳴って落ち着かない。それに気づかれたくなくて仁寿に背を向ける。すると、背中に仁寿がくっついて来た。
「彩さん」
耳たぶを甘い声でなでられて、そのまま食まれる。
「会いたかった。また今日みたいに、ただいまってここに帰って来てよ」
「……は、はい。次はわたしがご飯を作って、仁寿さんの帰りを待ってますね」
「本当?」
「でも、あまり期待しないでください。仁寿さんが作るご飯の方がおいしいから……」
仁寿が、シャツの裾から手を滑りこませて、彩の柔らかな腹部をなでる。
「仁寿さん」
彩が振り返ると、キスが待っていた。唇が重なると同時に、舌を差し込まれる。
「ん……っ」
会えなくて寂しいとか不満はまったくない。仁寿にも答えたように、そういう仕事だと理解しているから。でも、会いたかったと言われると、自分も同じ気持ちだったと気づかされる。
「わたしも、会いたかったですよ」
キスの合間に彩が言うと、仁寿が一瞬だけ驚いた顔をしてすぐに喜びが爆発したような笑顔になった。