翌朝。
一度目を開け、視線だけを動かして窓の外を見る。冬の夜明けは遅い。窓の外はまだ深い夜闇だった。目を閉じて、ベッドの中で寝起きの頭が動き出すのを待つ。五分ほどそのままじっとして、何度か身じろぎをして起きあがる。バスローブを羽織りながら隣を見ると、仁寿がうつぶせでぐっすり眠っていた。
あまりにも静かなので、ちゃんと息をしているのか不安になる。耳を仁寿の頭部に近づけると、すぅすぅと規則正しい呼吸の音が聞こえたので、安心してサイドテーブルの時計で時間を確認する。
彩の体内時計は正確だ。多少の誤差はあるが、どんな時間に寝ても必ず午前六時前には一度目が覚める。
仁寿に声をかけようとして、ふと、彩はどうしたものかと考え込んだ。一緒にいる時は、なるべく名前で呼ぶ努力をしようと思っている。しかし、公私の切り替えをうまくできるだろうか。
早速、今日は仁寿と一緒に別の病院の医師や医局秘書の面々との仕事が待っている。うっかり仁寿さんなんて言ってしまったら大変だ。迷った末に、彩は「先生」を選んだ。
「先生、朝ですよ」
掛布団をちょっとだけはいで、つんつんと人さし指で背中をつつく。これくらいではびくともしないのは既知の事実だから、背中に指でパッションとカタカナを書いてくすぐってみる。
「……ぅん」
クッションに埋もれた仁寿の頭部が少し動く。しかし、それ以上の反応はなかった。想定どおりだ。
急いで起こさなくても、まだ時間は十分にある。
彩は、仁寿に掛布団をかけてベッドルームをあとにした。シャワーを浴びて、パウダールームでアメニティを物色する。
メイクの道具はビジネスホテルに置いて来た。ハンドバックにいつも入れているポーチには、リップと化粧直し用のパウダーしか入っていない。とりあえず、アメニティの化粧水と乳液を拝借して肌を整える。デパートの化粧品売り場で見かける、タイのスキンケアブランドだ。手の平サイズのボトルを傾けて化粧水を手に垂らすと、柑橘系の香りが鼻腔を爽やかにくすぐった。
――うーん、いい香り。
化粧水と乳液を順に顔に染み込ませて、ドライヤーで髪を乾かす。高校生の時から長かった髪をショートボブにしたのはいつだったか。確か、一昨年の秋くらいだったと思う。気分転換というより、日頃の手入れにかかる時間をなくしたいというのが理由だった。
ドライヤーの性能がいいと、乾いた髪の手触りがいい。髪を乾かし終わると、次は下着をつけてストッキングをはく。オープンクローゼットに掛けておいたカクテルドレスを着れば、一応の身支度は終わりだ。
普段の彩は、身だしなみ程度の控え目なメイクしかしない。大学生のころは年相応におしゃれに興味があって、見た目に気を遣っていた時期もある。しかし、就職を機にそういった自分を飾る作業に時間を費やすのがもったいなくなってやめた。それだけ彩が、医局秘書の仕事に打ち込んでいたということだ。
とはいうものの、すっぴんではやはり肌のトーンや眉の濃さが気になる。化粧直し用のパウダーをはたこうかとも思ったが、そうするとメイクをする前にもう一度洗顔からやり直さなければならないからやめておく。眉は、流している前髪をおろせば隠せるが、それだと幼く見えてしまうから気乗りしない。
――ビジネスホテルに戻ったら、急いでメイクしなくちゃ。
研修医会は、午前十時からF大近くにある病院の会議室で行われる予定だ。
使ったタオルやバスローブをきれいにたたんで、備えつけのランドリーボックスに入れる。彩は、パウダールームとバスルームに使用済みのタオルなんかが放置されていないかを確認してリビングルームに向かった。
リビングルームのガラステーブルには、昨夜仁寿と堪能したアンリ・ジローのブラン・ド・ブラン、シャルドネのヴィンテージが置かれたままになっていた。非常に残念だが、一度栓をはずして常温に長く置いたシャンパンは飲めない。
お酒好きの彩は、後ろ髪を引かれる思いでリビングルームの隅にあるミニキッチンのシンクにシャンパンを流す。スウィートルームにある洗面鉢もそうだが、ラウレラのスウィートルームの水回りに使われているボウルは、すべて日本の有名な陶芸家が手掛けた逸品だ。彩がブラン・ド・ブランをこぼしたシンクは、有田焼のそれだった。今でも建築に興味があるから、内装のデザインや細かな意匠につい目がいってしまう。
小さいころの彩は、幼稚園から帰ると父親の仕事場に入り浸った。時には、父親に連れられて住宅やビルの建築現場へ行く機会もあった。今でも時々、父親が建築士を続けていたら……、と思う時がある。
――お父さんと一緒に仕事をしてみたかったなぁ。
彩の父親は、誰よりも彼女が建築士になるのを楽しみにしていた。彩が思うように、父親も愛娘と一緒に仕事をしたかったに違いない。
テーブルに空になったシャンパンの瓶を置いて壁に掛かっている時計を見ると、起きて一時間ほどが経過していた。地平線から顔を出したオレンジ色の朝日が、煌々と部屋を照らし始める。
そろそろ仁寿を起こそうとベッドルームへ行く。すると、バスローブを着た藤崎仁寿二十五歳になりたてが、窓辺に立って気持ちよさそうに背伸びをしていた。
「あ、起きてたんですね。おはようございます」
「おはよ」
朝日が似合う爽やかな笑顔を向けられて、彩はちょっとだけ気恥ずかしくなる。
「それから、先生。お誕生日おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
先生と呼んだことについてなにか言われるかも……と心配したが、言及はされなかった。それどころか、仁寿はにこにこと嬉しそうに笑っている。
「そうだ……。一応は調べてあるんですけど、F大までタクシーで二十分かからないくらいですよね?」
「うん。今日は日曜日で道も混んでないだろうから、もう少し早く着くかも」
「じゃあ、九時過ぎにビジネスホテルを出発すれば大丈夫か……」
「大丈夫だと思うよ。まだ間に合いそうだから、シャワー浴びて来てもいい?」
「はい、いいですよ」
仁寿が、ベッドをおりて彩の前に立つ。そして、顔を見あげる彩を満面の笑みでハグしてベッドルームを出ていった。その足取りの軽さときたら。結局、仁寿はあまり熟睡できないまま朝を向けてしまった。
――あんなことされたら、どきどきして眠れないよ。
しかし、心も体も満たされているから、睡眠不足の苦痛はまったく感じない。それどころか、元気がみなぎっている。
シャワーを浴びながら、パウダールームで歯磨きをしながら、仁寿が左手を見ては体をくねらせて喜びを爆発させていたのを彩は知らない。
仁寿の身支度が終わると、二人はラウレラの贅沢な朝食をお腹いっぱい食べてビジネスホテルへ戻った。ビジネスホテルに到着したのは、八時半。フロントで洋装店の人が届けてくれた服を受け取って、彩はスマートフォンで道路の混雑状況を確認した。仁寿のいったとおり、休日だから混雑はしていないようだ。
「それでは、九時十分にここで」
待ち合わせの時間を決めて、それぞれの部屋に行く。彩は仕事用のメイクをしてスーツに着替えると、急いで荷物を整理した。二泊三日の荷物が入るサイズのキャリーケースに、たたんだカクテルドレスと襟にブリリアントストーンが輝くチェスターコートを入れる瞬間、昨夜のことを思い出して手を止める。
――幸せだったなぁ。
本当に夢のような時間だった。大事にしよう、と彩は思う。ドレスと靴、コート。それから……。
「仁寿さん」
魔法の言葉みたいな彼の名前を口にすれば、今日も元気に頑張れそうな気がする。
彩は、よしと気合いを入れてキャリーケースを閉めると、時間を見て仁寿と待ち合わせているロビーへ向かった。
彩が待っていると、時間ぴったりに仁寿があらわれた。仕事用の黒いスーツにネクタイ、それにステンカラーのコート。昨夜とは雰囲気が違う、シックな装いだ。
「あれ、今日はメガネなんですね」
「うん。コンタクトを入れたら目が痛くてさ」
「大丈夫ですか?」
「ただの寝不足だから平気」
彩は、仁寿から部屋のカードキーを受け取ってカウンターへ行き、チェックアウトの手続きをする。手荷物は夕方まで預かってくれるというので、ロッカーは利用せず、仁寿のキャリーケースと一緒にフロントにお願いした。
「先生。USB、ちゃんと持って来ましたか?」
「バッグに入れてるよ」
「プレゼン、大丈夫ですか?」
「うん。篠田先生に指摘された箇所は資料を差し替えたし、内容もちゃんと頭に入ってるから大丈夫」
「では、行きましょうか」
彩が言うと、仁寿がふふっと笑った。
「どうしました?」
「彩さんが、すっかり仕事モードだから」
「もちろんです。今日は、大事な研修医が有意義な振り返りをできるように、裏方としてしっかりサポートさせていただきます」
「よろしくお願いします、秘書さん」
予約していたタクシーに乗り込んで、F大の近くにある病院を目指す。
「あ、そうだ。帰りにマカロンが有名なあのお菓子屋さんに寄ってもいいですか? 由香にお土産を買いたくて」
「いいよ。僕も久しぶりだから買って帰ろうかな」
研修医会には、五つの病院から総勢十二人の研修医と数名の指導医が参加する。研修医が一人ずつ症例をプレゼンして、それについて指導医からの指摘やアドバイス、他の研修医との意見交換があるから、昼食をはさんで午後三時過ぎまで会議室に缶詰だ。
彩は、研修医会の記録を取りながら、他の病院の臨床研修担当の事務員と研修プログラムについて確認したり、研修医の動向を聞き取ったりと余念がない。今日の事務メンバーは顔見知りばかりだから、ほかでは聞けない踏み込んだ質問も可能だ。さらに、休憩時間は他院の指導医に積極的に話しかけて、研修における注意や問題点などを聞いて回る。
仁寿はというと、参加しているほかの研修医と親しげに研修の様子などを話していた。聞いたところ、参加している研修医のほどんどが大学の同級生だという。道理で、やけに仲がいいわけだ。
研修医会のあとは懇親会があるのだが、仁寿と彩は帰路三時間半の遠地から来ているので、それには参加せず挨拶を済ませて会場をあとにする。
ビジネスホテルでキャリーケースを受け取って、タクシーで新幹線の駅に向かう。夕方五時前だが、外はしんしんと冷えて薄暗くなっていた。
お弁当を買って新幹線に乗る。新幹線が発車すると、彩はバッグから折りたたまれたA3サイズの紙を取り出した。表計算ソフトで作られた、医師の勤務表だ。
「なに、それ?」
仁寿が隣から覗き込む。
「先生たちの勤務表です。来月の当直と日直を組もうと思って」
「それは医局長がするものじゃないの?」
「篠田先生は忙しいから、わたしが。これが意外と骨が折れるんですよね。翌日の外来とかいろいろ考えないといけなくて、難しいんです。組めそうで組めないパズルみたいで」
「ちょっと貸して」
仁寿が彩の手から勤務表を取って、マス目になった表に書かれた記号を指さす。
「これが休みの希望? これが午前の外来だから当直明けにできない日で……、こっちは? あ、胃カメラに入るってこと? じゃあ、ここも当直明けにしたらだめだね。おお、これは難しい」
「当直は先生によって月に入る回数が決まっているので、それも考慮しないといけません。ここに書いてある数字がその回数です。さらに、当直と当直の間隔は最低でも三日あけます」
「ほかには?」
「あとは、日直に入ったら当直を一回減らします」
「面白そうだから、時間つぶしに僕がやってみるよ。頭の体操」
「お願いします。わたし、こういうの苦手ですごく時間かかっちゃうんです。えっと、外科の先生は当直明けの外来、胃カメラOKです」
彩は、ハンドバッグからシャープペンを出して仁寿に渡した。仁寿がそれを受け取って、メガネをくいっとあげる。
「ねぇ、彩さん」
「はい、どこか分からないところがありますか?」
「ううん、そうじゃなくて。ずっと医局秘書の仕事続けるの?」
勤務表を眺めたまま、仁寿が尋ねる。
「……どうして、ですか?」
「秘書さんの仕事をどうこういってるんじゃないよ。ただ、彩さんは建築の仕事、したくないのかなあって思っただけ。資格も持ってるのに」
「……あ、そうですね。でも、大学を卒業して五年もたったし、もう今さら……。技術職に就くには遅いかなと」
「そうかな。様々な理由で休んだり、スタートラインに立つのが遅くなったり。いろんな人がいるんだから、まだ遅いってことはないんじゃない? 彩さんが、したいかしたくないか。それだけだと思うけどな」
仁寿が、勤務表にさらさらと「当直」の文字を書いていく。
「花火がよく見えるからラウレラを選んだって説明したけど……。本当はね、彩さんが興味を惹かれるんじゃないかと思ってあのホテルにしたんだ。確かラウレラは、建築の賞をとった施設だったよね?」
僕、まったく建築には詳しくないけど。と、つけ加えて仁寿が彩を見る。
「……よくご存じですね」
「突然、こんな話をされても困るよね。ごめん」
「いいえ……」
「医局秘書の仕事が天職ならそれでいいんだ。僕のお節介だから聞き流して」
あれ、これだとここで当直できないからだめだな。仁寿が消しゴムで文字を消しながら呟く。彩は、仁寿の手元を見ながら返す言葉を探した。
今の仕事が嫌いかと尋ねられたら、ノーと答える。でも、本当にやりたかった仕事かと聞かれると答えに窮してしまう。
上司の前線離脱とか同僚の退職だとか、職場の事情で辞めるタイミングを逃したのは事実だが、多分、転職しようと思えばいつでもできたと思う。それをしなかったのはどうしてなのか。
仕事への責任感……?
それもあったが、そうじゃない。諦めたからだ。医局秘書の仕事に慣れてきて、居心地がよくなったから。それを責任感と遣り甲斐に転換していただけ――。
「お節介なんかじゃないですよ。いろいろと気にかけていただいて、ありがとうございます」
彩が言うと、メガネのレンズ越しに真剣なまなざしを向けられた。
「僕は、彩さんの幸せを一番に考えてる。だから、彩さんには、本当にしたいことをして充実した日々を送ってほしい。結婚はいいタイミングになると思うから、考えてみたら?」
「……そうですね。考えてみます」
「もう一度いうけど、医局秘書の仕事がだめだっていってるわけじゃないからね」
「分かってますよ。それにしても、仁寿さんっていろんなことに気が回るんですね」
「彩さんの笑顔をたくさん見たくて、一生懸命、知恵を絞ってるんだよ。どうしたら、彩さんが喜ぶかなって。なにより、日々が充実すれば不眠に影響しそうなストレスも減るだろうから」