◆Story 09

「お先に失礼します。お疲れ様でした」

 十二月五日。
 彩は、昼休憩中の上司と医師たちに挨拶をして医局をあとにした。その手には、青いハンドバッグと重要書類の入ったA4サイズの茶封筒が握られている。

 医局秘書課に所属する彩は、医事課やほかの事務職員たちとは違って制服がないから、更衣室に寄って着替える必要もない。今日は院外に出なければならない業務はなく、コートの下は七分袖の白いコットンリネンのブラウスとそれに合う膝下丈の黒いフレアスカートというシンプルな装いだった。

 廊下ですれ違った院内薬局の薬剤師と軽い雑談をして、タイムカードに打刻する。職員通用口から外に出ると、冬陽にしては熱のある強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。

 時刻は十二時二十三分。駅までは徒歩で十五分ほどだから、ゆっくり行っても待ち合わせの時間より少し早く着くだろう。

「あれぇ、彩さん。今日は半休なんだ?」

 背後から声をかけてきたのは、数カ月前に医局長に任命された外科の篠田医師三十五歳。クセ毛のようなパーマがかもしだすイマドキの外見に、濃紺のスクラブの上に羽織ったドクターコートの袖を腕の中ほどまでまくるのは、彼の通年定番スタイルだ。

 彩は篠田の歩いて来た方向から、タバコを吸いに行っていたのだと察する。病院は、屋内はもちろん敷地も含めて禁煙なのだが、彼は敷地内に絶好の穴場を見つけて、そこでこっそり喫煙しているのだとか。時折、彩の上司がそれとなく注意するが、どこ吹く風。まったく聞く耳を持たない。

「はい。所用があって、お休みをいただきました」

「ふぅん。彩さんの机の上に、先生たちの勤務希望の紙を置いといたんだけど、気づいたかな」

「来週中には当直と日直を組んで先生にお渡ししますね」

「いつもごめん」

 悪いとはこれっぽっちも思っていない、ただの社交辞令だと明白な篠田の軽い口調。それでも彩は、顔色一つ変えずに応える。実をいうと、彩は篠田が苦手だ。彼の軽薄さや聞きたくなくても耳に入って来る噂、年配の先生に対する敬意のないものの言い方。言葉遣いや口調の荒さが高圧的に感じるし、納得できないと相手をとことん問い詰めて論破してくるところも面倒で扱いづらい。

 しかし、彼は育った境遇と経験から、確固たる信念をもって医師の仕事と向き合っている。仕事にストイックで、一切の妥協を許さない。それを間近で見ているから、彩は私情と仕事を切り離して、篠田のいいところに目を向けるよう心がけている。それは篠田に限らず、ほかの医師に対しても同じだ。

「先生が忙しいのは承知しているので、気になさらないでください。でも、わたしが当直と日直を組んでいることは、絶対に内緒ですよ。事務が勤務を決めていると知ったら、先生たちの不平不満が爆発して収拾つかなくなっちゃいますから」

「分かってるよ。彩さんには世話になってばかりだな。そうだ、御礼に飯でもおごろうか」

「お気持ちだけいただきます」

「俺と二人で飯食うの、嫌なわけ?」

 篠田が、片方の口角をあげて笑う。

「先生と二人はちょっと」

「はぁ? どういう意味だ、こら」

 おかしそうに笑う彩をどう思ったのか、篠田が「じゃあね。お疲れ様」と言い残して、ひらひらと手を振りながら職員通用口に入っていく。その背中を見送って、彩は日傘を広げた。生成りのリネン生地にマリーゴールドがワンポイントで刺繍されたそれは、百貨店で一目惚れして買ったお気に入りだ。

 じりじりと地面をこがすような日差しの中、駅前にあるコーヒー専門店を目指す。ヒールの高い靴を好まない彩の足音は、猫の忍び足のように静かだった。

 ――暑いなぁ。

 もう十二月だというのに、晴れた日の昼間は夏と変わらない。途中でたまらずコートを脱ぐ。車通りの多い片側一車線の県道を渡って、駅へ続く小道を歩くこと十五分。彩は待ち合わせ場所のコーヒー専門店に入ると、スマートフォンの画面をタップしてお店のアプリを立ち上げた。炎天下を歩いて乾いた喉を、冷たいコーヒーで潤そうと思ったのだ。

 注文カウンターに並ぶ前に一度、店内を見回す。待ち合わせ相手の姿はまだない。新商品のかわいいフラペチーノにマキアート、それからラテも魅力的だったが、結局、シンプルなドリップアイスコーヒーを注文して奥の窓際に座る。

 店内は、コーヒー特有の芳香と女性たちの陽気な笑い声に満ちていた。壁に掛けられた有名なイラストレーターの絵が描かれたカレンダーを見ると、今日の日付に赤字でポイント五倍と書かれている。どおりで、平日の昼過ぎにもかかわらず繁盛しているわけだ。

 コーヒーのグラスにさしたストローを唇ではさんで、外に目を向ける。大きなガラス張りの窓の向こうには、スーツ姿のサラリーマンや小さな子供を連れた女性たちが闊歩する日常的な光景が一枚絵のように広がっていた。それを眺めながら、冷たいアイスコーヒーを喉に流し込む。

 ――あぁ、生き返る。

 普段は会議や打ち合わせに事務作業、時には医師とほかの病院へ行ったり、タイトなスケジュールで埋まっている午後が休みだと気分が一気に開放的になる。二カ月に一度あるかないかの午後半休は、彩にとって貴重なリフレッシュの時間だ。

 テーブルに置いていたスマートフォンが、振動してメッセージの受信を知らせる。メッセージアプリをタップすると、待ち合わせの相手からだった。

『今、駅の駐車場に着いた』

 彩は、アイスコーヒーのグラスを置いて、末尾に汗をかきながら走る人の絵文字がついたメッセージにスタンプで返事をする。選んだスタンプは、由香や親しい女友達にしか使わない、パステルカラーのモコモコしたかわいいクマ。胸に抱えた大きなハートマークに大きく「OK」と書かれている。送信すると、すぐに既読がついた。

 彩が勤務する病院は、いわゆる市中の中小規模の病院だ。標榜している診療科は、外科と内科、それから小児科と麻酔科。病床数は一二〇床ほどで、常勤医師は三十人に満たない。一定の基準をクリアして臨床研修施設の認定を受けているのだが、研修医は研修プログラムに沿って、よその病院で必修の診療科をローテートする必要がある。

 彩の病院に在籍する一年目の初期臨床研修医三名は、十一月一日からそれぞれ別の病院での研修がスタートしている。仁寿は、一カ月の精神科専門病院での精神科研修を終えて、市内の総合病院のER( 救急)で研修を始めたばかり。そういう事情で、彩と仁寿が職場で顔を合わせる機会はなくなってしまった。プライベートでも、合鍵は使わずじまいだったから一度も会っていない。

 彩は仁寿との、いわゆる同棲に踏み切れずにいる。
 過去を引きずっていてもなにも変わらないと頭では分かっていても、気持ちがまだ過去と決別できなくて、すんなり前を向けない。それに、軽蔑する理由がないと言ってくれたけれど、一点の曇りなく生きてきたであろう彼に対して引け目を感じてしまう。
 隣の席の若い男女が、空っぽになったコーヒーカップと笑い声を残して席を立った。

 ――彩さんが、僕とつき合うにあたって障害だと思っているもの。

 仁寿の言葉も胸に引っかかっている。仁寿の実家は、もと士席の藩医という由緒ある家柄だ。細かな話までは定かではないが、廃藩置県以降も代々医師を務めている家系で、両親とも医師だと聞いた覚えがある。過去や気持ち云々の前に、田舎の平凡な一般家庭で育った自分とは、なにもかもが違い過ぎる。軽率に同棲なんかしたら、彼の実家にも迷惑だろう。

 ――考え方が古いって、笑われるかな。

 でも、つき合うのと同棲するのとでは意味が違う、と彩は思っている。年齢を考えても、きっと周りはそういう目で見るはずだし……。

 ――うじうじしてばかりで、なんか嫌だな。

 彩は、腕時計を見てハンドバッグからコンパクトを取り出すと、がらにもなく髪を整えて小鼻や口元をチェックする。それから、コンパクトをバッグにしまって、窓の外を眺めながら残りのアイスコーヒーを飲んだ。

「おまたせ」

 聞き覚えのある懐かしい声に、彩の目が声の主に向く。すぐそばに、黒いステンカラーコートを着た仁寿が立っていた。仁寿の顔を見た彩の目が、驚いたように大きくなる。甘いルックスにすらりとした長身。コートの着こなしが様になっていて、はっきりいってかっこいい。しかし、彩が意表をつかれたのは、黒いナイロールのメガネだった。先生、メガネなんてかけてたっけ?

「久しぶりだね」

 脱いだコートをイスの背もたれに掛けて、仁寿が向かいの席に座る。

「彩さん、元気だった?」

 仁寿がなにごともないように尋ねるので、彩はメガネを気にしつつもそれには触れずに答える。

「はい、元気にしていましたよ。先生も変わりないですか?」

「うん。見てのとおり、すこぶる元気」

「なによりです。えっと、先生から頼まれていた医師免許証のコピーと、これ……、保健所に提出する書類を持ってきました。医師免許証はA4に縮小してますけど、問題はないのでこのままあちらの秘書さんに渡してください。ほかの書類も確認していただいていいですか?」

「ああ……、うん」

 彩が、封筒から書類を出してテーブルに置く。仁寿がそれを手に取って、書類には目もくれずに彩の顔を覗き込んだ。メガネのレンズ越しに、つぶらな目がじっとこちらを見ている。

「どうかしました?」

「やっと会えたのに、彩さんが完全に仕事モードだ」

「そんなことないですよ」

「温度差を感じる」

 ぼそりとつぶやいた仁寿が、うなじをかいてがっくりとうなだれる。

「わたし、先生に会えるのを楽しみにしていました」

 嘘じゃない。先日メッセージアプリで会う約束をした時も、今日医局を出る時も、気分が高揚して晴れやかな気持ちだった。

「本当?」

 ぱあっと光が差すように、仁寿の表情が明るさを取り戻す。

「彩さん、今日は午後から休みだって言ってたよね。予定があるの?」

「出張の準備をしようと思って、半休にしてもらったんです。予定らしい予定はなにも」

「じゃあ、とりあえずその書類を持って僕の家に帰ろう。あとで彩さんの家まで送るよ」

「え……、でも」

「実は僕、当直明けなんだ。仮眠をとる暇がなかったから、ちょっと限界かも。書類の確認は、少し寝てからでもいい?」

「あ、先生は当直明けでしたね。ごめんなさい、気が利かなくて」

「ううん、気にしないで」

 行こう、と仁寿がコートを羽織って席を立つ。彩は、書類を封筒にしまってコートに袖をとおすと、ハンドバッグと日傘をつかんで仁寿のあとを追った。

 店を出たところで、仁寿が彩の持っている封筒とハンドバッグを取って、空っぽになった彩の手を握る。動作があまりにも自然すぎて、手をひっこめる暇もない。彩が仁寿の顔を見あげると、ぎゅっと強い力で握られた。

 狭い道幅の路地を通って、駅の真裏にある立体駐車場へ向かう。外は、相変わらずじりじりとした日差しに照らされていた。でも、手を介して伝わる仁寿の温度は快適で、嫌味も痛みもなくそっと体にしみ込んで来る。

「救急は、やっぱり大変ですか? ほら、前に性格が救急向きじゃないって言ってたでしょう?」

「それがね、意外とやれるのかもしれない。面白いよ、すごくハードだけどね。先生たちみんな親切だし、看護師さんも専門性が高くていろいろアドバイスしてくれる。思い込みを捨てると、可能性が広がるよね」

「いい研修ができてるみたいですね」

「うん。総合病院の救急を選んでよかった」

 立体駐車場前の歩行者用信号が赤に変わって、二人は大きな街路樹の下に立ち止まった。冬なのに落葉せずに生い茂った葉が、二人にそそぐ陽光を遮る。仁寿の前向きな考え方が、うらやましくもあり、自分もそうなりたいと思う。仁寿の横顔には、彩を勇気づけるに十分な強い意志が宿っていた。

「出張、楽しみだなぁ。彩さんと二人で出張に行けるなんて、酔っぱらって足を骨折した竹内に感謝しないとね」

「感謝だなんて。竹内先生が心配じゃないんですか? あんなに仲いいのに」

「仲がいいからこそ、男に心配されても竹内は喜ばないと思う」

「……まぁ、そうかもしれませんね」

「でしょ? それに、レントゲン見せてもらったけど、転位もないし本人もケロッとしてたから大丈夫」

「それならいいですけど」

「ねぇ、彩さん。出張って、夜は自由だよね?」

「ええ、そうです」

「そっか」

「公私混同はだめですよ。仕事ですからね」

「はい、分かってます」

 絶対分かってない。彩が疑うように目を細める。仁寿がそれを笑ってかわすと、タイミングを見計らったように信号が青に変わった。駐車場から仁寿のマンションまで、裏道を通れば十分もかからない。

「じゃあ、僕はシャワーを浴びてくるから、彩さんはリビングで待ってて」

 玄関で靴を脱ぐと、仁寿はそれだけ言い残してさっさとバスルームに行ってしまった。車の中で、体がベタベタして気持ちが悪いと言っていたから、彩は特に気にとめずリビングに行く。

 そして、リビングに入って瞠目した。ダイニングテーブルの上には何冊もの本が散乱して、ソファーの前にあるテーブルにも雑誌が広げられたままになっていたからだ。

「わぁ……、これはすごい」

 内科と違って救急はとにかくハードだと、ほかの研修医からも聞いている。仁寿が仮眠をとる暇がなかったと言っていたのを思い出しながら、彩はテーブルに広げられている薄っぺらな雑誌に手を伸ばす。それはどこの医局にも必ずある、年間定期購読料二十万円超えの有名なイギリスの医学雑誌だ。幅数ミリの天と前小口に、朱色で病院名が押印されている。どうやら、総合病院の図書室から借りてきたらしい。

 開いてあるページを閉じないようにテーブルの隅に雑誌を寄せて、次はダイニングテーブルに散乱した本をそろえて積み重ねた。キッチンはきれいに片づいていたから、ソファーに腰かけて仁寿を待つ。しばらくすると、すっきりとした表情の仁寿が、左手に掛布団を右手にコミック数冊を持って颯爽とリビングにあらわれた。

「本を片づけてくれたんだね。ありがとう、彩さん」

 リビングを見回した仁寿が、彩に笑顔を向ける。メガネのせいで、笑顔の好感度がいつもより増している気がする。

「毎日、忙しそうですね」

「忙しいのかな……。なんか時間が足りない。僕の要領が悪いのかもしれないね」

 はい、と仁寿に渡されたコミックを自然な流れで受けとって、彩がソファーの端に寄る。すると、仁寿がメガネをテーブルに置いてソファーの上に寝転んだ。ソファーの幅は仁寿の背丈に足りないから、必然的に彩の太腿が枕になる。

「な、なにしてるんですか?」

「お昼寝」

 太腿に乗った仁寿の頭部を驚いた顔で凝視する彩にかまわず、仁寿がクッションを器用に使って首が痛くならないように体勢を整える。それから、長身の体を丸めて肩まで掛布団をかぶった。

 なにもわたしを枕にしなくても。寝心地だってよくないのでは。そんな言葉が浮かんで、でも、と彩は口をつぐむ。朝から普通に仕事をしてそのまま当直に入るのだから、疲れているだろうし、今はいろいろ言わないほうがいいか……。

「彩さんの顔を見たら、ほっとした」

 太腿に頬をすりすりして仁寿が目を閉じる。はふ、と大きなあくびをして仁寿はそのまま寝入ってしまった。ほのかに香るラベンダーは、先生の匂い。アロマみたいで癒される。

 寝顔をまじまじと見てみると、かわいいと思っていた顔は鼻筋とかあごとかの骨格がしっかりしていて、しっかり大人の色気みたいなものがある。

 ぴんと伸ばした背筋をソファーの背もたれに預けて、仁寿の頭が動かないようにもぞもぞと小さな動きでお尻の位置を調整する。それから仁寿が持ってきたコミックに手を伸ばした。それは十数年前、女子中高校生の間で大流行してアニメにもなった少女マンガだった。当時に買ったのだろうか。年季の入った黄ばんだ紙が年月を物語っている。

 ――なつかしい!

 ぱらりと一巻の表紙をめくって、内心で歓喜の叫び声をあげる。中学生のころ、このマンガが大好きだった。友達と回し読みして、みんなで主人公とその彼氏の恋愛に一喜一憂したり憧れたり。とても楽しかった。

 そうそう、ここで彼氏がかっこいいこと言ってきゅんとするのよ! ここ感動的なんだよね!
 当時にタイムスリップしたかのように心の中で大はしゃぎして、泣きそうな顔をしたりニヤニヤしたりを繰り返す。読み進めてはページを戻り、彩は時間を贅沢に使ってマンガの世界を堪能する。
 すっかり夢中になって、はっと腕時計を見ると一時間近くたっていた。仁寿が起きる気配はない。

「藤崎君」

 彼が医学生だったころ、彩は仁寿をそう呼んだ。

「どうして、わたしなんかを好きなのよ」

 虫の羽音のようにかすかな声で言って、彩の指先が仁寿の首筋に触れる。すると、もぞもぞと掛布団が動いて手首をつかまれた。

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