◆Story 08

 ピピッピピッピピッ……。
 新しい一日の始まりを告げる電子音が、高らかに鳴り響く。彩は、手探りで枕元の目覚まし時計をつかんで、アラームを止めようと時計の頭を叩いた。

 顔にかかった髪を払いのけ、背伸びをしながらごろんと寝返りを打つ。投げるように伸ばした腕になにかが当たってうっすらと目を開けると、視線の先に仁寿の平和な寝顔があった。

「……あ」

 意識が、雷に撃たれたかのように一気に目覚める。腕に当たったのは仁寿の頭部。彩は伸ばした腕を引っ込めて、飛び起きざまに布団をはぐった。服を着ている仁寿と裸の自分を交互に見た途端に、寝起きの頭がフル稼働し始める。

 ――わたしの服と下着たちはどこ?!

 ベッドの上にそれらしきものは見当たらない。

 ――もしかして、床に落ちてるのかな。

 床に散乱した服や下着の滑稽で憐れな姿を想像すると、恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。とにかく、朝からあられもない姿を披露する勇気はない。

 彩はベッドを揺らさないように四つん這いで仁寿の体をまたぐと、意を決して床におりた。その姿は、アメリカのSFアクション映画のプロローグで青白い電光と共に突然現れる、あの有名な筋肉隆々全裸男さながらだ。服を求めて辺りを見回す。しかし、やはり見当たらない。

「……う」

 背後でベッドがきしんで、仁寿が身じろぐ。フットベンチに服を見つけた彩は、仁寿の様子をうかがいながら忍び足で移動すると、目にもとまらぬ早業で下着を身につけ服に袖を通した。そして、ささっと手で雑に髪を整えてベッドサイドに立つ。

 昨日、夕方のカンファレスで仁寿の指導医が入院患者の採血について話していた。病棟では朝食の前に採血をするから、遅くても七時過ぎには病院に行かなくてはならないはずだ。

「先生、起きてください。朝ですよ」

「……う、ん」

「先生」

「……ん」

「起きないと、採血に間に合いませんよ」

「……」

 だめだ、まったく目覚める気配がない。

 ――夜はあんなに元気だったのに……。

 彩は、またあとで起こしに来ようと気を取り直して寝室のドアを開けた。寝室を出ると、まずバスルームに行って洗濯物が入っているバスケットを覗く。整髪料なんかが並んだ棚にあるデジタル表示の時計を見るとまだ六時前だった。洗濯をして、一度アパートに戻ってから出勤しても十分に間に合う時間だ。

 ――先生の服もあるし、ついでにわたしのも洗濯だけさせてもらおうかな。

 バスケットに入った仁寿と自分の服、それから洗濯機の横に置いてある液体洗剤と柔軟剤を順に投入する。おしゃれな女子が使っていそうな香りのする柔軟剤に、なぜか仁寿らしさを感じた彩の表情がなごむ。

 その時、仁寿がバスルームに入って来た。どことなくぼうっとして、いつもの元気みなぎる朗らかなオーラがない。彩は近づいてくる仁寿を凝視しながら、先生も人だったんだと妙な安心感を覚えた。

「おはようございます」

「おはよう、彩さん」

 寝起きのかすれた声で彩に応えて、仁寿が顔を洗い始める。
 あちこちピンとはねた寝ぐせだらけの黒い髪。本当なら左胸にあるであろうティーシャツの小さなワンポイントの刺繍が、右の肩甲骨付近でその存在をアピールしている。

 先日は彩の方が遅く起きたから、知る由もなかった。初めて見る、完全オフの藤崎仁寿。貴重なショットに、彩は思わず笑みをこぼす。

「洗濯機をお借りします」

「うん」

 短い返事をして、タオルで顔を拭いた仁寿がバスルームを出ていった。
 洗濯機のスタートボタンを押して、彩も顔を洗って寝ぐせを直す。リビングに行くと、仁寿がキッチンで朝食の準備に取りかかっていた。ほんの数分しかたっていないのに、さっきの気配が嘘のようにてきぱきと動いている。すっかり普段の仁寿だ。どうやら、完全に目が覚めたらしい。

「洗濯物は、わたしが干しておきますね」

「ありがとう、助かるよ」

「いいえ」

「あ、そうだ」

 にんまりと笑いながら、仁寿がトースターに食パンを二枚入れる。

「なんですか、その不敵な笑みは」

「あとでここの鍵を渡すね」

「鍵?」

「だって、今日は僕が先に出るから彩さんに鍵をかけてもらわないと」

「あ……、そうですね。じゃあ、お借りして病院でお返しします」

「それでもいいけど、病院は危険じゃない? 竹内とか嗅覚が鋭いから、気づいちゃうかもしれないよ。僕たちのただならぬ関係に」

「脅しですか?」

「違うよ。もし誰かに知られたら、秘書さんの仕事に差し障りがあるんじゃないのかなっていう、僕のささやかな気遣い」

「もう、先生。さわやかな笑顔でぞっとするような冗談言うの、やめてください」

「はい、彩さん。これ、お願いね」

 冷蔵庫から出したバターとジャムをカウンターに置いて、仁寿がお湯を沸かす。彩は、手際のよさに感心しながらそれをダイニングテーブルに運んだ。シャツが後ろ前なのは、まぁいいか。本人は気づいていないみたいだし。

 コーヒーのいい香りが漂ってきて、チンッ! とトースターが軽快に鳴る。仁寿が、焼きたてのトーストと生野菜が乗った皿、それからコーヒーをダイニングテーブルに並べた。

「彩さん、食べよ」

「はい」

 ダイニングテーブルで向かい合って、いただきますと声を揃える。食べやすいように四つ切にされたトーストにいろどりがきれいな野菜のサラダ。あまりパンは好きじゃないけれど、食欲をそそられる。

「先生は寝起きが弱いんですね。当直の時、どうしてるんですか?」

「そうなんだよ。目が覚めるまでがね……。当直の時は、当直室のベッドは使わないようにしてる。寝入っちゃうとコールされてもすぐに頭が働かないから、医局のソファーで座って目を閉じるだけ」

「それだと体が疲れませんか?」

「最初はね。でも、もうすっかり慣れた」

「慣れるものなんだ……。今日の当直は鈴木先生でしたっけ。先生は初めてですよね、鈴木先生と当直に入るの」

「うん」

「鈴木先生は引きが強いから、眠れない夜になるかもしれませんね」

「鈴木先生って本当にすごいらしいね。この前は竹内が、CPA (心肺停止)の救急搬入と病棟の急変が立て続けにあって、どうにかなりそうだったって言ってた。あのタフな竹内がだよ?」

「わたしも竹内先生からお聞きしました。鈴木先生は、あれくらいの忙しさと緊張感がちょうどいいって笑ってましたけど」

「さすが、もともと救急やってた先生だけあるよね。今夜も忙しい夜になるといいな」

「先生は救急に興味があるんですか?」

「んー。興味はあるけど、性格的には救急向きじゃないと思う。ただ、経験ってすごく重要だからさ」
「なるほど」

 フォークに刺した生野菜を頬張りながら納得したように相槌を打つ彩に、仁寿がにこやかにほほえみかける。

「ああ。いいなぁ、こういうの」

「なにがですか?」

「何気ない日常こそ幸せ。彩さんと話していると、そのとおりだなって実感する」

 奥歯で噛んだトマトの果汁が、フルーツみたいに甘く口に広がる。仁寿の言葉がくすぐったくて、彩の顔がほんのり朱に染まった。
 言われてみればそうかもしれない。先生とは、特段気を遣わなくても自然に話している気がする。

「あ、そうだ彩さん。忘れないうちに、鍵を渡しておくね」

「は、はい。すみません」

 仁寿が「ごちそうさま」と言って席を立つ。そして、空いた食器をキッチンにさげて、ダイニングテーブルに二種類の鍵を置いた。エントランスと玄関の鍵だ。

「それは彩さんのだから、返さなくていいよ」

「わたしの……?」

 食べかけのパンをコーヒーと一緒に飲み込んで、彩は仁寿の顔を見上げた。仁寿が、どうしたの? というように少し目を大きくする。

「わたしがここに住んだら、先生の邪魔になりませんか?」

「どうして邪魔になると思うの?」

「だって、院外研修が始まったら大変でしょう?」

「大変だろうけど、彩さんが邪魔になるなんてことはないよ。そもそも、邪魔なら一緒に住もうとは言わない」

「あの、先生」

「ん?」

「もうすぐ保健所の立ち入り調査の時期が来たり医大の訪問があったり、これから仕事が忙しくなります。わたしは、たくさんの物事を同時にこなせるほど器用ではなくて。それに……」

 恋愛するのが怖い。その一言はぐっとこらえて喉の奥に閉じ込める。

「いろいろ時間がかかってしまうかもしれません。それでもいいですか?」

 彩は、すみませんと謝ってバツが悪そうに顔を伏せた。

「彩さん」

 仁寿が、目線を合わせるように床にしゃがんで彩の顔を覗き込む。

「僕は、彩さんを所有したいわけじゃないよ」

「……はい」

「今みたいに、彩さんの気持ちとか思っていることとか、なんでも話してくれると嬉しいな。僕は、彩さんをもっと知りたいし理解したい」

 まっすぐで優しい仁寿のまなざしに、彩は目をそらせなくなった。
 どきどきするのとは少し違う。先生の言葉には、からからに乾いた砂に染みる水のようにじわりと心を潤す不思議な力がある。過去にとらわれたまま怖がってばかりでは、きっとなにも変わらない。先生なら信じても大丈夫なのかも……。
 彩が、仁寿の目を見つめて小さく頷く。同時に、仁寿の顔がくしゃりとほころんだ。

「よし、僕は病棟の採血に行ってくる」

「やる気がみなぎっていますね、先生」

「でしょ? 今朝は彩さんの声で目が覚めたから、明日の昼まで溌溂と頑張れるよ」

「当直明けは無理せず、ちゃんとお昼で帰ってくださいね」

「うん、分かった」

「シャツは後ろ前だけど素敵ですよ、頑張る研修医」

「え?」

 目を丸くして立ちあがった仁寿が、自分のティーシャツを引っ張って愕然とする。

「ほんとだ。まさか彩さん、起きた時から気づいてたの? 経験って重要だとか真顔で語ったの、全部台無し! 恥ずかしいなぁ、もう」

 朝六時四十分。
 遮光カーテンを開けたリビングに、オレンジ色をした盛秋の朝日が差し込む。例の重たいリュックサックを背負った仁寿を見送ったあと、彩は二人分の食器を洗って仁寿の服を干した。

 洗濯した自分の服をビニール袋に入れて、ほかの荷物もまとめる。仁寿から渡された鍵は、失くさないようにアパートの鍵と一緒にキーケースにしまった。それからスマートフォンを見て、篠田からの着信に気づく。

 ――夜中に電話してくるなんて、なにかあったのかな。

 前にも夜に篠田から電話がかかってきたことがある。その時は、翌々日の当直を変えてほしいという内容だった。

 身だしなみ程度の軽いメイクと着替えを済ませて、仁寿のマンションを出る。十分ちょっとの距離を歩いてアパートに戻ると、いつも出勤する時間になっていた。荷物の中から洗濯物だけを取り出して、ささっと干す。そして、検査の予約票と診察券、保険証をファイルに挟むと、彩は急いで職場へ向かった。

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