◆Story 07

 彩の寝息が規則正しくなったころ。
 仁寿は、そっとベッドをおりて服を着た。床に散らばっている彩の服と下着をたたんで、フットベンチに置く。それから一度、彩の寝顔を覗いて部屋の照明を消すと、静かに寝室をあとにした。

 今日の夕方、担当している入院患者の多職種合同カンファレンスのあと仁寿が医局に戻ると、いつもならまだ仕事をしているはずの彩の姿がなかった。同期の研修医からめずらしく定時に帰ったと聞いて、仁寿は消灯された人気のない血管造影室の前で彩に電話をかけたのだった。

 ――もしかして……。

 具合が悪いのかな。昨日も今日もそんな感じではなかったような気がするけれど。
 その時の胸の内は、心配なのか不安なのかよく分からない気持ちでいっぱいだったように思う。冷静に考えれば、彩さんにも当然プライベートがある。それに、不眠になるのは年に一度か二度だといっていたから、焦る必要なんてなかったのに。

 体に残る気怠さを払拭するように、廊下を歩きながら頭を振ってギアを切り替える。
 二年間の初期研修が終わるまでに、定められた種類の疾患や症候についてレポートを作成しなくてはならない。今日はその症候のうち、最近経験した一つの症例についてまとめるつもりでいた。それ以外にも、定例の振り返りで使うポートフォリオとして、ほぼ毎日その日に実践したり学んだり、とにかく医師として経験し、関わったすべてを記録に残している。

 病院では業務をこなすのが精一杯で、ほかに費やす時間がない。だから仁寿は、夜な夜な無音の静かなリビングでポートフォリオ作りに勤しんでいる。

 リビングに向かう途中で、バスルームに寄って洗面台の前に立つ。仁寿は、冷水で顔を洗うと、正面の鏡を手前に引いて鏡裏の棚からメガネを取った。オーバル型のナイロール。いまいちトレンドと自分に似合うものが分からなくて、眼鏡店の店員にすすめられるまま選んだ無難な黒のフレームだ。それをかけて、髪を手櫛で整えながらバスルームを出る。

 車の運転に必要な視力に少し満たない程度の近視で、裸眼で生活しようと思えばできなくはない。しかし、視界がはっきりしなくて目が疲れるし、なにより仕事をするうえで支障があるから普段はコンタクトを使っている。

 お風呂に入る時にコンタクトをはずして、いつもならメガネをかけるのに今日はそれをしなかった。実をいうと今日だけではない。土曜日の夜もそうだった。少し視界がぼやけているほうが、都合のいい時もあるからだ。

 ――彩さんは目がきれいだから、直視するとこっちの心臓がもたないんだよね。

 リビングの照明をつけて、テーブルに置いたままになっていたグラスを洗う。
 仁寿は高校二年の夏休みを、仕事でスウェーデンに滞在していた父親のもとで過ごした。
 海外は初めてではなかったけれど、最後に日本を離れたのは小学校入学前で、スウェーデンの公用語なんてかじったこともなかったから好奇心より不安のほうが勝っていたように思う。しかし、実際に行ってみると、英語を話せる人が多くて言葉の壁はまったくといっていいほど感じなかった。

 父親の住まいはストックホルムの住宅街の一角にあって、近くには同じ年頃の学生がたくさん住んでいた。高校や大学などの教育機関が充実していて、立地がよかったからかもしれない。

 父親が親しくしていた隣人宅に滞在の挨拶にうかがったのをきっかけに、翌日から近所の学生が訪ねて来てくれるようになった。スウェーデンの学校もちょうど休みの時期で、一緒に遊びに出かけたり図書館へ勉強しに行ったり、男子も女子も見知らぬ異邦人にフレンドリーに接してくれる親切な人たちばかりだったのが印象的だ。そのうちの数人とは、今でも時々メールで連絡を取り合っている。

 スウェーデンで過ごすのもあと一週間ほどになったある日、仲良くなった近所の学生に誘われて南部のスモーランドを訪れた。バルト海に面していて、美しい海岸線が有名なのは知っていたけれど、スウェーデンのガラス工芸の歴史がこの地から始まったと知ったのはこの時だった。

 洗ったグラスを水切り台にふせて、タオルで手を拭う。
 スモーランドにある工房の店で、一目惚れして買ったグラス。特に青色が好きなわけではないけれど、北欧の青は日本の青より色素が薄く澄んでいてすごく目を惹かれた。

 ――彩さんも気に入ってくれたみたいで、よかった。

 スウェーデンでの生活はたった一カ月ほどだったが、風土や気候、国に根づく思想や文化、なにもかもが違う国での生活はそれまでの考え方を一新するくらい刺激的で、当時を振り返ると楽しい思い出ばかりが脳裏に浮かぶ。

 ――真面目な話もくだらない話もたくさんしたなぁ。

 なにもかもが日本とは違うといっても、年頃の男子が話す内容に国境はない。男子五人で庭のベンチに腰かけて、沈みゆく夕日に顔を赤く染めながら話すのは恋愛についての話題がほとんどだった。ただし、恋愛対象の性別にこだわらないところはさすがだと思う。

 What kind of girl are you attracted to?

 一人の男子に尋ねられて、返事に窮したのもいい思い出だ。もちろん、これは仁寿が自分の心と体の性を男性と認知していて、恋愛対象が女性だと明かしたうえでの質問だった。

 よく笑う人には好感を持つ。優しい人は確かに安心するし、頭のいい人なら話に飽きない。しかし、それが恋愛と結びつく魅力だろうかと自問自答すると答えが出ない。グラスと違って、人の魅力を一般的な価値観で判断して、ありきたりな言葉でそれをあらわすのは難しいから。

 そもそも、一般的な価値観ってなんだろう。掘り下げるとキリがなくて、軽く頭が混乱してしまう。
 日本では時間つぶしのような中身のないただの恋バナも、国が違えば意味合いも深さも変わる。ちょっと性的な内容も含んだ彼らとの会話は、恋愛の枠にとどまらず、人を好きになるってどういうことだろうと真剣に考えるきっかけを与えてくれた。

 ――僕は、どんな人と一緒にいたいのかな。

 スウェーデンでの日々を思い出しながら、ダイニングテーブルのイスに座ってタブレットの電源を入れる。向かいのイスに置かれた彩の青いハンドバッグと背もたれに掛けられた上着に、仁寿の顔が無意識にほころんだ。

 ――彩さんが惹かれるタイプって、どんな人なんだろう。

 以前、医局でお昼ご飯を食べながら、彩さんと北川先生が動画を見て「こういう人いい」と言っているのが聞こえて、興味本位で背後からそっとその動画を覗いたことがある。それは、ミドリフグとかなんかそんな名前の熱帯魚の動画だった。

 残念ながら、いまだにミドリフグの動画から連想する「こういう人いい」の意味は理解できていない。ちょっと凹む。でも、いつか分かる日が来るといいな。そして、僕もミドリフグになれたら嬉しいなぁなんて思ってしまうから不思議だ。ほかの人では、絶対にそうは思わない。

『わたしの名前、あやじゃなくていろって読むんです。今日は、遠いところお越しいただいてありがとうございます。よろしくお願いしますね、藤崎さん』

 初対面のワンシーンが、鮮やかによみがえる。少し照れたような笑顔に柔らかなトーン。名簿を指さす仕草に不慣れな感じはあっても、落ち着いた人なんだと直感で思った。直感っていささか不確かで頼りないけど、彩さんに関してははずれてない。

 仁寿は、タブレットの画面にタッチペンを走らせて肺の絵を描く。一方、頭の隅では病院での彩を思い浮かべていた。

 普段の彼女は、ストレスしかなさそうな医局秘書の仕事を淡々とスマートにこなしている。下っ端の僕なんか戦々恐々としてしまう看護師長たちが、信頼していろいろと相談しに来ているところにも、彼女の仕事が周りからそれなりの評価を得ているのは明らかだ。

 人の話を聞くのも上手で、他人の話には上手につき合うけど、自身のことはあまり話さない。だから、彼女のプライベートは謎に包まれている。かと思えば、医局で医師たちがスピノザについて雑談していた時に、カントやヘーゲルの言葉を用いた冗談で笑いを取っていて、彩さんの知識の広さに驚かされた。

 本好きな先生とは本の話を、数学好きな先生とは数字の話を。コミュニケーションの一環なんだろうけど、非常勤医や研修医まで数えると四十名近い人数の医師を相手に、毎日すごいなぁと純粋に尊敬する。とにかく根が真面目で、努力家なのだと思う。

 医師たちが「彩さん」と親しみを込めて呼ぶのは、彼女が五年もの間コツコツと積みあげてきた日々の努力の成果だろう。

 ――よし、できた。

 着色した肺の絵を保存して、症例についての考察を文字で入力していく。
 仁寿がこの病院を研修先に選んだのは、様々な病気に遭遇できる病院だからだ。彩のことは好きだけど、仕事とそれはまた別の話で……。

 ピコン。

 キッチンのカウンターから、スマートフォンがメッセージの受信を知らせる。仁寿は手を止めて席を立つと、キッチンのカウンターからスマートフォンを取った。

 病棟に勤める看護師からのメッセージだ。病棟からの呼び出しなら、病院から渡されているスマートフォンに電話が来るはずだから、仕事とは無関係の要件だと容易に察しがつく。同期のよしみで連絡先を交換して、時々こうして連絡が来るけれど、仁寿から連絡したことは一度もない。

『仁先生、こんばんわ!
 明日の夜、ちーちゃん達とご飯食べに行こうと思うんだけど、仁先生もどうですか?』

 新卒の同期とはいっても、看護大は四年制だから年は向こうが下だ。ハートがちりばめられた、元気いっぱいのメッセージがかわいくて思わず笑ってしまう。ところで、ちーちゃんって誰だろう。おそらく病棟の看護師さんの誰かなんだろうけど、愛称を言われてもぴんとこない。

『お疲れ様。ごめん、明日は当直』

 文字だけの返信と通知をオフにしてアプリを閉じる。
 ポートフォリオ作りに集中しようと、キッチンカウンターにスマートフォンを置いて席に戻ると、今度はダイニングテーブルに置いてある彩のスマートフォンの画面が光った。

 マナーモードに設定してあるのか、音は鳴らないが誰かからの着信らしい。もうじき日付が変わろうとしている時間に、一体なんの用事だろう。

 仁寿は、頬杖をついてスマートフォンの画面を冷ややかに眺める。いつまでも光り続ける画面に表示された、「篠田先生」の文字。

 ――篠田先生、確か今日は当直だったな。

 医者なら呼び出しか支援要請の可能性がある。しかし、彩は医局秘書だ。

 ――もしかして、誰かと間違ってかけてるとか?

 いろいろと憶測してみるが、仁寿には篠田がどういう要件で彩に電話をしているのか皆目見当もつかない。

 真面目な彩さんのことだから、僕と一緒じゃなければマナーモードにしなかっただろうし、間違いだろうがなんだろうが、こんな時間でも律儀に電話に出るんじゃないかな。

 心身の健康は睡眠にも影響する。病院で一日中気を遣った挙句、家に帰ってからもこれでは気の休まる暇がない。

 ――彩さんの休息を邪魔しないでよ。

 電話に出て「もう夜中ですよ」とでも言ってやろうか。スマートフォンに手を伸ばしかけて、仁寿はすぐに踏みとどまった。

 ――彩さんには、彩さんの立場がある。

 彩のスマートフォンを裏返して、タブレットの画面に集中する。考察を入力して、次に一日の記録を別のファイルに書いた。

 午前一時すぎ。仁寿が寝室に戻ると、彩はベッドの隅に丸まって眠っていた。起こさないように慎重にベッドにあがって横たわる。そして、彩を背中から抱くように体をくっつけた。

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