「ぁ……ふっ」
ソファーの端に置かれたクッションが彩の後頭部をソフトに受け止め、一瞬離れた仁寿が彩に噛みつくようなキスをする。彩はそれを拒むように口をギュッと閉じたが、いとも簡単に舌でこじ開けられてしまった。口内を舐めまわされて、舌を引っ張られて強く吸われて。執拗に息を奪われるうちに、頭がじんとしびれてぼんやりし始めた。
「は……ぁ……ぅうんっ」
息が苦しい。先生、やめて。
彩は、助けを求めるように仁寿のシャツの袖を握りしめた。
「……彩さん」
濡れた唇に甘い声がかかる。きつく閉じていた目を開けると、鼻先が触れるほど間近に仁寿の顔があった。洗い立てのサラッとした前髪から、キラキラとした黒い瞳が覗いている。いつもと変わらない、優しいまなざし。だけど、じっと見つめてくる視線が、熱い。
恥ずかしさのあまり顔をそらす彩の頚部に、仁寿の手が触れて鎖骨から胸へおりていく。服の上から触られているのに、手のぬくもりが生々しく肌に染みこんでくる。
「だめ……」
全速力で走ったあとのように息を乱して、彩は顔をそむけたまま仁寿の手首をつかんだ。
深呼吸で息を整える間に、じんとしびれてぼんやりしていた頭のモヤが晴れて冷静になる。
不眠の時みたいにできない。
先生と間違った関係を、いつまでも続けてはいけない。しかし、どう切り出せばいいのだろう。
どんな仕事でも職場での信頼関係は大事だ。出会って五年。少しずつ築いてきた信頼関係があるから、なにに興味があるのか、将来どの科に進みたいのか、彼は初期研修についての考えや希望を忌憚なく話してくれるし、こちらも研修に係る仕事をするうえでとても助かっている。
それに、初期研修が終わってもよそへ行かずに残ってもらうのが、病院の願いであり課題でもある。年度末になると、二年間の初期研修を無事に終了した研修医たちが巣立っていき、笑顔でそれを見送った上司が医局の隅で頭を抱える光景を毎年見て来た。
もとより、彼はこの地に縁もゆかりもない人だ。先日職場で話した時は三年目以降も残る気でいると言っていたが、これが原因の一つになって辞められたら困る。だから、どう話しをすればいいのか悩んでしまう。
――でも、やっぱりおかしいよ。こんなの。
彩の口から、小さなため息が漏れる。大丈夫、話せばきっと分かってくれる。あと数日もすれば院外研修が始まって、少なくとも半年は特別な用事がない限り顔を合わせなくて済む。半年もあれば、お互いなにもなかったように過ごせると思うし、大人だから仕事と割り切ってやっていけるはずだもの――。
よし、と気合いを入れて話を切り出そうとする彩の顔つきが神妙になり、無意識に仁寿の手首をつかむ手に力が入る。
「もしもぉーし、彩さーん」
仁寿が、黙り込んだ彩を呼ぶ。彩が声に反応して顔を向けると、ほっぺたをプクッと膨らませた仁寿が口を尖らせていじけていた。
――ほんと先生は、癒し系だなぁ。
彩は、仕事のストレスをリセットするために、帰宅したあと癒しを求めて熱帯魚の動画を黙々と眺めていた時期を思い出す。仁寿の表情は、その動画に出てきた愛らしいミドリフグを彷彿とさせた。あの愛らしい姿と動きは、癒し効果抜群だった。
「は、はい。どうか、しました?」
「どうもこうも……。キスしたら神妙な顔をされて、さらに手首を締めあげられるってどうなの」
「あ……、すみません」
パッと仁寿から手を放して、彩はもう一度「すみません」と繰り返す。
「彩さん、今なにを考えてたの?」
「いえ、あの……」
「うん」
「わたしのせいで先生に迷惑をかけてしまって……。本当にごめんなさい」
「迷惑って?」
「先日と今日の、いろいろです」
「ふぅん、そっか」
仁寿が、彩に覆いかぶさって腰を抱くように腕を回す。次の瞬間、視界がぐるりと反転して、二人の体がソファーからフローリングに転がり落ちた。びっくりしたのも束の間、彩は体を起こして真っ先に仁寿の無事を確認する。
「先生、大丈夫ですか?!」
臨床研修プログラムには研修の日数が定められていて、規定の日数以上を休んだり研修を中断したりすると、その分だけ研修が長引いてしまう。ケガや病気、妊娠出産など理由の如何を問わないから、こんなことでケガなんてされると大変だ。
「大丈夫」
「よかった。気をつけてくださいね」
「彩さんが優しい」
「いえ。先生には、病気やケガなく研修に励んでいただかないといけないので」
立ちあがろうとして、ふと違和感を覚える。仁寿の顔と自分の下にある胴体を順に見て、彩はぎょっとした。ソファーから転がり落ちた時に、体の位置が入れかわってしまったらしい。仰向けの仁寿に跨って、ちょうど骨盤のあたりにお尻が乗っていた。
「あぁ、いい眺め。彩さんに攻められるのもいいかもしれないね。想像するだけで、どきどきする」
赤面する彩に、満面の笑みで仁寿が言う。お尻に異質なモノが当たっているのに気づいて、彩の顔はますます紅潮した。
「恥ずかしいから、そういう冗談はやめてください」
「冗談じゃないよ。割と本気」
「もう……」
困ったように眉尻を下げながら、彩は罪悪感を抱く。
仕事上の都合あれこれは、完全な建前だ。先生の気持ちを知っているのに、不眠から解放されたい一心で先生を利用した。
――わたしは、ずるい。
そういう対象に見ていないと言いながら、きっぱり断りきれない。矛盾だらけの優柔不断な行動と気持ちで、善良な先生を弄んでいる。なんて情けないんだろう。
「先生、今日は家に帰ります。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
彩は、肩を落としてうつむく。とても仁寿の顔を見ていられない心境だった。
「さっきからどうも腑に落ちないんだけどさ、どうして迷惑なんだろう」
「だって……」
「五年も片想いするほど、僕は彩さんが好きなんだよ。抱きしめてキスしたいし、その先もしたい。僕には、嬉しい気持ち以外なにもないけど」
よいしょ、と仁寿が上半身を起こす。
「でも、そうだよね」
仁寿の手の平が頬に触れて、彩の体がぴくりと震えた。
「彩さんの同意を得ずに、無理強いするのはだめだった。ごめんね」
にこりとほほえんだ仁寿の優しいまなざしと声が、視覚と聴覚からじんわりと心にしみこんでいく。頬に添えられた手の温度まで優しくて、まるで春の陽だまりみたいだ。彩は、返す言葉を見つけられなくて、代わりに首を横に振ることしかできなかった。
「ねぇ、彩さん。一つ聞いてもいい?」
仁寿が真顔になる。
「……なんですか?」
「いつ、手術したの?」
一瞬、なにを聞かれたのか分からなかった。
病気のことは、心配をかけたくないから両親には内緒にしている。親友の由香と、休職するために職場の上司と総務の担当者にしか話していない。
「どうして知ってるんですか? 由香に聞いたんですか?」
「違うよ。北川先生は、絶対にそんなこと教えてくれない。彩さんの部屋に、検査の予約の紙があったから」
アパートは、たまに女友達が遊びに来るだけの完全なプライベート空間だ。予約票の存在なんて気にも留めていなかった。迂闊だった、と彩は内心で深く反省する。
「さっき、夕飯を食べながら彩さんについて考えてた。傷、目立たないね。全然気がつかなかったよ。腹腔鏡で手術したの?」
彩が小さく頷くと、ぎゅっと抱きしめられた。
右の卵巣に腫瘍が見つかったのは二年前の梅雨。
初めて、婦人科で子宮頸がん検診を受けた。こっちの恥ずかしさを完全に無視して、機械的に開脚させる内診台に危うく失神しそうになったっけ。
父と変わらない年頃の医師が、カーテンの向こうで膣に器具を突っこんで粘膜を採取する。それから子宮と卵巣も見ると言って、エコーを挿れた。エコーの先端でぐりぐりと中を探られるのは、正直ちょっと痛かった。
そのあとの診察で医師に説明されたのは、子宮頸がんの検査結果が出るまでに日数がかかることと、右の卵巣が少し腫れているということだった。
「若い女性に多いんですよ。右の卵巣に嚢胞ができています。大抵、問題はありませんが、早めに治療したほうがいいので大きな病院で検査を受けてください。紹介状を書きますから」
「嚢胞……?」
「血液とかが溜まった袋です。手術してそこだけくり抜いてしまえば、卵巣自体は取らなくて済むから心配しなくてもいいですよ」
生理痛がひどい時はあったがほかに自覚症状はなかったし、婦人科でも心配しなくてもいいと言われていたから、紹介された病院を受診したのは検診を受けてから二カ月くらいあとだったと思う。そこで造影CTとかMRIとか詳しい検査をしてもらったら、ただの嚢胞じゃなくて腫瘍だった。
今は基準が細かくなったから、良性と判断しても問題ない程度だけど境界型でした。あと半年、一年後だったら深刻だったかもしれない。早く見つかってよかったですね。
退院の前日。手術した医師の病状説明を聞いて、もし検診を受けてなかったら……と想像してぞっとした。
「ほかには?」
仁寿が、彩を抱きしめる腕の力を強める。
「ほか?」
「うん。彩さんが、僕とつき合うにあたって障害だと思っているもの。この際だから、全部教えてよ」
「そんなの、たっ……たくさんあります。わたしは先生と違って普通の家の生まれだし、資格は持っているけどただの事務職だし……。それに仕事上、先生とは」
唇に触れるだけの軽いキスで、言葉をさえぎられる。
「もういいよ。ほかはたいして問題なさそうだね。僕を嫌いだって言われたら、潔く家に帰してあげようかと思ったけど。やめた。嫌いに勝る障害なんてないから」
「は……?」
仁寿が、唖然とする彩の髪に鼻先をつけてクスクスと笑う。
「彩さんから僕と同じ匂いがする」
「そ、それは……。シャンプーとかいろいろ、図々しく使わせていただきましたから」
「幸せだなぁ。毎日こうやって彩さんを抱きしめられたらもっと幸せなんだけど」
「おおげさですよ。毎日一緒にいたら、きっとすぐに嫌いになります」
「試してみる?」
「はい?」
「来月から院外研修が始まるから、彩さんと会えなくなるでしょ? 面談とかで顔を合せる機会はあるんだろうけど、仕事のほんのちょっとした時間しか彩さんの顔を見られないなんて嫌だしさ」
「おっしゃってる意味がちょっと」
「一緒に住もうよ、ここで」
「だめ。絶対にだめです」
「往生際が悪いなぁ、彩さんは」
待って、待って。
急展開過ぎて頭が全然追いつかない。
彩は、顔面蒼白で仁寿を見た。くしゃっとほころんだ顔。仔犬のように笑顔がかわいくて優しい藤崎先生。病気の重たい話をしたはずなのに、服越しに触れる股間はしっかり臨戦態勢で。シリアスな我が心の声諸々が、ものすごく間抜けに思えるのは間違いない。
――えっと、一緒に住むってどういうことですか?
ごくん。
生唾を飲み込んだ拍子に、彩の首が上下に揺れる。
「もう寝る時間だね。彩さんの了承も得たし、ベッドに行こうか」
違うんです、先生。今のは、了承の頷きではなくて生唾を飲んだだけ、なんて説明文は声にならないまま喉の奥に流れていった。