時刻は午後六時半。
終日晴れの予報は大きくはずれて、昼過ぎから降りだした雨は、地面を叩きつけるような本降りになっていた。
彩は、職場の傘立てから貸出用の傘を拝借して職員通用口を出た。男性用の黒い無地のそれを広げて、雨ににじんだ歩行者用の信号が赤から青に変わると同時に小走りで横断歩道を渡る。そこで、予約しておいたタクシーに乗った。
小柄な中年の運転手が、上半身をひねって制帽の下のくぼんだ目を彩に向ける。
「ヒロサキさん?」
「はい、そうです」
「どちらまで?」
「銀天街までお願いします」
「はいよ」
目的地までは、車で十分かからないくらい。駅前通りを過ぎたところでタクシーをおりて、銀天街のアーケードを歩く。水曜日の夜、足元の悪い繁華街のはずれは人通りもまばらだ。両脇の店舗はそのほとんどが、昼夜シャッターがおりたままになっている。
ポタ……ポタポタと頭に水が落ちてきて、閉じた傘を急いで開く。
さびれた商店街は雨漏りがひどくて、アーケードはその役割をまったく果たしていない。傘の下から天井をあおいで納得する。天井は穴だらけで鉄骨がむき出しだった。
――晴れた夜なら銀天街の名に恥じない美しい星空を拝めるのだろうけど。
センチメンタル味のため息をついて、傘をさしたまま前を向く。
向こうから、若い男女が寄り添いながら歩いてくる。制服ではないから断定はできないが、見た感じ高校生くらいの年齢だろうか。一本の傘の中で腕を組んで、お互いの顔を見ながら笑ってとても楽しそうだ。
「お好み焼きがいい」
「えーっ、俺はラーメン食いたい」
すれ違いざまに聞こえた二人の声に、思わず表情がゆるむ。
彩が足を止めて振り返ると、そのカップルはアーケードの端でひっそりと営業しているお好み焼き屋の前で立ち止まった。そして、ラーメン食いたいと言っていたはずの男子が、彼女と一緒にメニューを指さし始める。
――かわいいなぁ。
心の中でつぶやいて、彩は先を急いだ。
アーケードの途中で脇道に入って、親友と待ち合わせをしている飲食店を目指す。街灯がとぼしく、二人並んでは歩けない細い路地にその店はある。営業中と書かれた小さな看板が目印なのだが、常連客でなければ、ここが飲食店だなんてまず気がつかないだろう。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
彩が店に入ると、オーナーが調理場から顔を出した。ハスキーボイスがかっこいい、四十歳くらいの女性だ。
「彩、こっち!」
カウンター席から、待ち合わせ相手の北川由香が手をふる。彼女とは小学校からの同級生で、高校まで一緒だった。彼女は努力に努力を重ねて夢を叶え、内科の専攻医として彩が勤める病院で日々研鑽を積んでいる。
「早かったね、由香」
「うん。今日は彩とゆっくり話しするぞーって、六時前に脱走してきた」
「そうなの? 由香が医局を出たの、全然気がつかなかったよ。上級医の先生に見つからなかった?」
「大丈夫。茅場先生が、病棟の患者さんのI.Cやってる時間を狙っての犯行だから」
「さすがだね」
「でしょ。まぁ、明日ちくりと十言くらい言われるだろうけど」
「間違いない」
彩は笑いながら由香の隣に座って、カウンターの下のカゴにハンドバッグを入れた。職場からの連絡に備えて、スマートフォンだけは目につく所に置く。
店内に、客は彩と由香の二人だけ。まったりと眠気を誘発しそうなオレンジ色の照明と絶妙な音量で流れるジャズが耳に心地いい。
「今日は、なにを食べたい?」
オーナーが尋ねて、「そうねぇ」と由香が腕組みする。この店に決まったメニューはない。食べたいもの、食材、味、食感などを言えば、オーナーが勝手に作ってくれるシステムだ。オーナーが作ってくれるご飯は、どれもほっぺたが落ちるほどおいしい。
「鶏をカリッと焼いたのをお願いします。さっぱり味で」
「じゃあ、私はそんなに辛くないペペロンチーノにしようかな。あと、ピンク・レディを。彩はハイボールでいいよね?」
「うん!」
了解、と調理場からハスキーボイスが返ってくる。すぐにピンク・レディとハイボールが出てきた。二人は、グラスを軽く合わせて乾いた喉を潤す。
「うーん、生きかえる!」
「ほんとだね。ところで由香、最近ちょっと表情が暗い気がするけど、なにか困ってることがあるんじゃなの?」
「……ある。ちょっとだけ愚痴ってもいい?」
「いいよ。親友として真剣に聞くし、必要なら医局秘書として問題解決に努める」
「よし、頼んだ」
彩は、共感の相槌をうちながら由香の愚痴につき合う。
医局秘書というと雑用係だと思われがちだが、みんなの潤滑剤になるのが役割だったりする。人間関係とか働き方、時には人に話せないプライベートな内容まで、医者同士だからこそ、多岐にわたっていろいろとあるもので……。
勤務の組み方でそれが解消できるならそうできるように尽力するし、話を聞くだけでいいなら聞く。目に見えない綻びと摩擦の係数を小さくするために奔走する地味な役回り。神経が擦り切れるくらい気を遣うし、裏方に徹する華のない仕事だなってつくづく思う。
正直にいうと、明確な権威勾配が存在する医療業界で、ヒエラルキーの頂点にいる個性派ぞろいの集団を相手にしていると、頭がおかしくなるくらい本気で悩んで、胃がきりきりと痛む時がある。残業した帰りに、職員通用口を出たところで涙が出て、何度退職の二文字が頭をよぎっただろう。
しかし、建築士の資格を取ったあと転職のタイミングを逃しているうちに、父親が病気を理由に仕事を辞めて設計事務所を継ぐ必要がなくなってしまったのもあって、結局、勤続五年目を継続中だ。
とはいえ、四六時中嫌な気持ちで仕事をしているわけではない。なんだかんだいっても、先生たちは尊敬できる素晴らしい人ばかりで、普段は気さくで優しいから、この仕事を続けていられるのだろう。
病院に休みなんてない。途切れのない二十四時間を限られた人数で診ていくのだから、医師の勤務はとてもハードだと思う。
出勤すると、毎日のように当直ではない先生の時間外勤務報告書が机に置いてある。救急か病棟か、とにかく当直医だけでは手がまわらずに呼び出されたのだろう。報告書に記入された時間を見ると、二十三時から翌朝四時までとか、夜間から深夜にかけて何度も病院に来たような記載まである。
夜中に呼び出されたからといって、翌日の勤務が免除されるわけではない。始業前のカンファレンスに参加して、午前の外来にも出る。もちろん、前日も一日仕事をした挙句、だ。
空いたスキマ時間に医局の机に突っ伏している姿を見るたび、先生たちはいつ人間らしい睡眠をとっているのだろうと不思議で仕方がない。働き方改革なんて、少なくともうちの先生たちにとっては宇宙の話なんじゃないかな。今、目の前で話している由香だってそう。
彩は医師たちの勤務を間近に見てきて、少しでも快適に仕事をしてもらうにはどうしたらいいのか考えるようになっていた。
「聞いてくれてありがと、彩」
ひとしきり愚痴を言った由香が、すっきりとした顔をする。彼女はいつもこうだ。たまった鬱憤を吐きだして、そのあとは二度とネガティブな話はしないし引きずらない。
「どういたしまして」
「そういえば、藤崎君たちそろそろ院外研修に出るんだよね?」
「ああ……、うん」
彩は、壁の隅っこに掛けられたカレンダーに目を向けた。オーナーの予定だろうか。十月二十七日に大きな赤丸がついている。
「来月から竹内先生が総合病院の外科行って、亜弓先生が医師会の救急でしょ? それから、藤崎先生は精神科。ほかの科もローテートするから、みんな半年は帰って来ないね。でも、どうしたの? 急に研修医の話なんか持ち出して」
「懐かしくてさ。鍛えられて帰って来るんだろうね」
「そうだね。特にうちは研修医に甘いから、よそでは苦労することも多いと思うよ」
「あのさ、彩。直球で聞くけど、彩は藤崎君のこと本当になんとも思ってないわけ?」
昔から、由香にはどんなことも包み隠さず話してきた。苦い初体験も不眠のことも、由香にだけは打ち明けている。彼女だけがこの世で唯一、信頼できる拠り所といっても過言ではない。それくらい彩は由香に信頼を寄せて、由香も同じように彩に心を許している。
由香は、彩が仁寿に告白されてそれを断ったのも知っている。もっとも、彼女は仁寿とも仲がよくて、いろいろと彼からの相談にも乗っているらしい。しかし、どんな相談を受けているのかは秘密だそうだ。肝心なところは口がかたい。
「あのね、由香。実はさ……」
ハイボールに浸かった丸氷が、カランと涼やかな音を立てる。彩が声をひそめると、由香が目を大きく見開いた。
「うっそ。家に泊まったって、いつよ!」
「土曜日」
おまたせ、と料理が運ばれてきた。とりあえず食べようか、と由香は彩の言葉を飲み込むように一人頷いて、フォークに巻きつけたそんなに辛くないペペロンチーノを頬張った。
「驚かせて、ごめん」
「そりゃ驚くよ。もう恋愛で傷つきたくなくて、彼の求愛を突っぱねたんじゃなかったっけ?」
「まぁ、うん……。いろいろあって、おしに負けちゃったというか」
「確かに彼、ブレずに我が道をいくタイプだもん。あの精神力は強烈。いかにも温厚そうな見た目してるから、余計にガツンとくるよね」
「それもあるけど……、完全にわたしが悪かった」
「へぇ、そう」
由香が、意味ありげに笑う。
土曜日はいつものようにお昼一時過ぎにタイムカードを打刻して、病院から少し離れた職員専用駐車場に向かった。途中でメッセージの受信音が鳴って、バッグからスマートフォンを取り出してみたら母親からだった。
『元気にしてるの
たまには帰っておいで』
改行をはさんで、二つ並んだ短文。車で片道一時間ちょっとの距離なのに、気づけば一年近く実家に帰っていない。お父さんが心配で東京から帰って来たのに、忙しさにかまけて逆に心配をかけている。ごめんねと心の中で言いながら、車に乗って返事を打ち込む。それに夢中になっていると、突然、助手席のドアが開いて藤崎先生が乗り込んできた。
「ふーっ、間に合った」
彼が、息を整えながらドアを閉める。驚きのあまり声が出なかった。そして、どうにか声を絞り出した時には、彼はシートベルトを締めて、いつでも出発してオーケーだよ! と言わんばかりの状態になっていた。
「……あの、藤崎先生。失礼ですけど、おりてくださいませんか?」
「一緒に帰ろうよ」
「いえ、すみません。予定があるんです」
「予定って?」
……はい?
いきなり乗り込んできてなに言ってるの?
どうしてプライベートな事情をあなたに教えなきゃいけないの?
喉の奥でわだかまる言葉をぐっと飲み下す。眠れない夜の、嫌な動悸がし始めた。強烈な眠気を感じるのに、目を閉じれば地獄のような拷問が待っている。この恐怖から逃れる方法は一つ。絶対に、由香以外には知られたくない。知られてはいけない。
「彩さん?」
顔を覗き込まれて、どこに視線を向ければいいのか分からなくなった。
貴重な時間がつぶれていく。家に帰ってシャワーを浴びて、バーに行って、早く不眠から解放されたい。それに、二人きりのところを誰かに見られたら。圧倒的に女性が多い職場で、一度変な噂が立つととても厄介なのに……。
「ちょっと気晴らしに行きたくて」
「僕も行っていい?」
「だめです」
「ひどいなぁ、即答しないでよ。そんなに僕が嫌い?」
柔らかな笑顔が、ちくりと心に刺さる。彼は、人当たりがよくて優しくて、欠点を見つけるほうが難しい人だ。交際は断ったけれど、嫌いなわけではない。
先生は、睡眠導入剤を服用するように男と寝る女(わたし)とは違う。彼にふさわしい、素敵な女性と楽しい恋愛をするべきじゃないだろうか。だから、きっぱりあきらめてもらうために決心した。軽蔑されたらそれも本望。彼の未練を断ち切るために、言ってしまおうって。
「先生がどうのじゃなくて……。困るんです、先生が一緒だと」
「困る?」
「はい。相手を探しに行くので」
「相手って、なんの?」
「セックスの相手です」
先生は、期待どおり目をぱちくりさせて、とても驚いているような顔をした。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、探さなくてもここにいるじゃない。にこやかに、さらりと、そんなことを言われたような気がする。
「で、ちゃんとつき合うの?」
由香が胸まである巻き髪を耳にかけて、彩の顔を覗き込むように見る。彩は、その視線から逃れるように、グラスに残ったハイボールを一気に飲み干した。
本当に、わたしが悪かった。
おいしいはずのハイボールが、ただシュワシュワと炭酸の刺激だけを残して喉を落ちていく。医局秘書として、大切な初期研修の二年間をしっかりサポートしなきゃいけないのに、わたしは一体なにをやっているのだろう。
カラン、と空になったグラスの中で、小さくなった丸氷が鈍い音を立てる。
「つき合わない」
「なんで?」
「先生には、研修に集中してもらわないといけないから」
「藤崎君のこと、嫌いってわけじゃないんだね?」
「嫌いじゃないけど……。わたし、藤崎先生をそういう対象として見てない」
「藤崎君は、彩をそういう対象にしか見てないよ」
「よく分からない。わたしなんかよりいい人がたくさんいるはずなのに、なんでだろうね」
「でた、わたしなんか論。彩ってさ、なんでそんなに自己肯定感が低いわけ? あれだけ仕事もてきぱきこなして、見た目も性格もなんら問題ないのに」
「それは由香が親友の目で見てくれてるから」
「あのね、彩。最近は、不眠だけじゃなくて病気でもいっぱい悩んで泣いたでしょう? だから私、彩にはたくさん笑ってほしいって思ってるんだよ」
「ありがとう。由香の優しさがしみて、涙が出そう」
「こんなことで泣かないで。涙がもったいないじゃないの」
照れるように笑って、由香がカクテルを注文する。オーナーが、カクテルとハイボールをカウンターに置いた。オーナーは、彩がハイボールしか飲まないのを知っているのだ。
二人が「ありがとう!」と元気な声を揃えると、オーナーは「ゆっくりしていきなね」と言い残して厨房に入っていった。
「藤崎君に病気のことは話したの?」
「ううん。不眠については成り行きで話したけど、そこまで重たい話はさすがに……」
「話してみたらいいのに。彼、全力で受け止めるんじゃない?」
「そう……、かな。でも、迷惑にしかならないと思う」
「頑固だなぁ、彩は。五年も片想いするって、彼の精神力を考慮しても並大抵じゃないよ。なにはともあれ、一線をこえたら一瀉千里。これから覚悟しておいたほうがいいわね」
「ど、どういう意味よ」
彩が、動揺をごまかすように髪を触る。その時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面に「藤崎先生」と表示されている。それに気づいた由香が、早く出なよと肘で彩を小突く。
「病院でなにかあったのかな。ちょっとごめんね」
「いいよ、気にしないで。ほら」
覚悟なんて物騒な言葉を聞いたからか、さっき飲んだハイボールが喉に引っかかってごろごろいう。彩は咳払いをして画面をタップすると、「はい、廣崎です」と仕事用の声で電話に出た。