ある日の夕暮れのこと。
アユルは、残暑をやわらげるような淡色の衣を着た愛娘を抱いて、王宮の奥にある池の畔まで歩いた。
セシルは、この夏ふたつになった。じっとしているのは食事と睡眠の時だけで、一日中あちらへこちらへ好奇心の赴くまま快活に走り回っている。女官たちが抱くと、自由を奪うなと泣いて暴れて抗議するセシルだが、父親に抱かれている時だけは大人しい。鉱石のようにきらきらとした青いまなこを凝らして、普段見ることの出来ない高さからの眺望を楽しんでいる様子だ。
よほど荒れた天候でない限り、アユルは毎日欠かさず、同刻にセシルと二人でこの池を訪れる。先王を反面教師として親政をとる今、朝から夕まで皇極殿かその書院にこもる日々。夕食の支度ができるまでの僅かな間が、父娘水入らずで過ごせる貴重な時間なのだ。
池の畔で地におろしてやると、セシルは慎重に池へ近づいて水面を覗いた。落ちたら危険だと理解しているようで、普段のように勢いよく駆けることはしない。
底の見えない紺碧色の水を、金色の鱗が揺らす。それに気づいたセシルが、つぶらな目を一際大きくした。
「とと! とと!」
興奮して嬉しそうに水面を指さすセシルの横で、アユルは懐から魚の餌を包んだ紙を取り出す。それは、コルダが炊いた芋を潰して練ったもので、食いしん坊のセシルがつまみ食いをしてもいいように少しだけ甘い味がつけてある。
「セシル」
アユルが視線を合せるようにかがんで餌を手渡すと、小さな指先がそれをつまんで池に放り投げた。瞬く間に紺碧の水面がうねり、大きな魚が口をぱくぱくさせて群がってくる。セシルは、頬の中ほどの長さに揃えられた漆黒の髪を手で払いのけて、夢中で餌を投げた。ばしゃばしゃ、と水と尾びれがじゃれ合うように飛び跳ねる。セシルが、「きゃぁ!」と歓声を上げて笑った。
「面白いか?」
アユルの問いかけに答えるように、セシルがぷにっとした白い頬にえくぼを作る。無邪気で愛嬌たっぷりの笑顔は、母親のそれと瓜二つだ。ラシュリルもこのように愛らしい子だったのだろう。アユルは愛する妃の幼きころを想像して、蜜のように甘い感情を心に募らせるのだった。
餌を全部投げ終えて、セシルが物足りなさそうにアユルの手に乗った包み紙を覗く。夕焼けが西の空にしぼんで、辺りが暗くなってきた。アユルは空になった餌の包み紙をしまうと、セシルを抱き上げた。
「とと……」
「また明日、連れてきてやる」
女官たちが清殿の一室に膳を並べる間、ラシュリルは自室でセシルの湯浴みの用意をする。
木箱から取り出した小さな湯帷子は、女官たちに指南してもらって自分で縫ったものだ。頑張って八着ほど手縫いしたが、どれも「貴妃様、とてもお上手ですわ」の割に少しゆがんでいる。
セシルの袿を衣桁に掛けて香を焚いていたカリンが、ラシュリルに近づいてとんとんと肩を叩く。傍の桐箱を見ると、セシルが明日着用する単衣と袿が綺麗にたたんで入れられていた。
少し前から、セシルは女官たちと別室で眠るようになった。夕食の後に女官と一緒に出ていって、翌朝の食事まで済ませて戻ってくる。これは王宮での慣例でもあったが、もうひとつ大きな理由があった。王女誕生から月日がたって、臣下たちが世継ぎの心配をし始めたのだ。
もし貴妃様に兆しがなければ、高家の者を何人か選んで入宮させる。外廷ではそんな話が出ているらしい。それで、女官たちが配慮しているというわけだ。
ラシュリルは、桐箱にセシルの湯帷子を収めて立ち上がった。
「そろそろアユル様がお戻りになるわね。わたしたちも行きましょうか」
部屋を出るラシュリルの後ろを、桐箱を持ったカリンがついていく。食事をする部屋の前に着くと、ちょうど、セシルを抱いたアユルが向こうからやってきた。
「おかえりなさい、アユル様」
「食事の用意は出来ているか?」
「出来ていると思いますよ」
「早く食べさせてやれ。よほど空腹なのだろう。先ほどから、指についた魚の餌を舐めている」
呆れた様子のアユルときょとんとした顔で指を口に入れるセシル。二人を交互に見て、ラシュリルの顔に自然と笑顔があふれる。
いつものように、ほっぺたが落ちそうなほど美味しいコルダの料理を食べ終わると、セシルは満足した様子で女官に手を引かれて部屋を出ていった。
清殿の女官たちの顔ぶれは、セシルが生まれる前から全く変わらない。そのお陰か性格か、セシルは人見知りというものをあまりせず皆に懐いている。両親と他の区別はあるようだが、ご飯を食べさせてくれるコルダと遊びの相手をしてくれる女官が大好きだ。
「セシルは幸せですね。皆さんに大切にしてもらって」
セシルがいなくなった部屋は、ほっとため息が出るほど静かになる。
これから朝までは夫婦の時間だ。以前なら、ただただ喜ばしい時間だった。もちろん今だって嬉しい。けれど、素直に喜べない。セシルのことが気になるし、皆に世継ぎを期待されているのかと思うと、その重圧に押し潰されそうになる。
「そうだな」
アユルが、短く返事をしてコルダを呼ぶ。コルダが、すすけた地味な色合いの小袖をラシュリルの前に置いた。
「これは?」
「それに着替えろ、ラシュリル」
「どういうことですか?」
「いいから、早く」
アユルに急かされて、ラシュリルは隣の部屋で着替えた。元の部屋に戻ると、アユルも濃紺の小袖に黒い袴姿になっていた。明らかに就寝する格好ではない。
「わたくしは。先に行って馬を引いてまいります。アユル様は皇極殿の広場でお待ちください」
「分かった」
首をかしげるラシュリルの前で、アユルとコルダが言葉を交わす。コルダが部屋を出ていくと、アユルは短刀を腰に差してラシュリルの手を取った。
「どこかへお出掛けするのですか?」
「城下へ」
「城下? もう夜ですよ?」
「時間がない。さぁ、行くぞ」
清殿を出ると、宿直の女官が数名、手燭を持ってこちらへ向かってきた。それから逃れるように、二人は階をおりた。
アユルが、ラシュリルの手を引いてすっかり暗くなった庭を足早に進む。明かりが乏しくて、どこをどこへ向かっているのか分からない。月明かりだけを頼りに、玉砂利の庭から雑木林、それから竹やぶのような所を通って、王宮の外壁らしき白壁に突き当たった。そして、身をかがめないと通れない小さな門をくぐった。
――前にもこの門を通った気がする。そう、初めて王宮に入ったあの夜……。
そこから人気のない通路を抜けると、見覚えのある景色が視界に飛び込んできた。
「ここは皇極殿? 不思議だわ……。ねぇ、アユル様。清殿を出てから、どこを通ったのですか?」
「それは秘密だ。私の知らない間に、妃が逃げ出したら困るからな」
逃げるなんて、とラシュリルは声をおさえて笑った。夜闇に紛れるような暗い格好をして宿直の女官から逃げるような行動が、少しの背徳感を抱かせると同時に好奇心をあおる。
大理石の石段を駆けおりた先、皇極殿前の広場に二人が着くと、そこでコルダが黒い馬を一頭連れて待っていた。普段ならまだともっているはずの皇極殿の明かりは消え、松明の傍で警護にあたっている武官がいるだけで、城内は思いのほか静かだ。
「城下でなにをするのですか?」
「それも秘密だ。言ってしまったら面白くないだろう?」
「まぁ……、それもそうですね」
二人を乗せた馬が、蹄の音を響かせながら颯爽と朱門へ向けて駈歩する。一つ目の門を過ぎたあたりに、まばらな人影が見えた。勤めを終えて家路を急ぐ貴人たちだ。馬蹄の音に気づいた彼らは、ふり向きざまに慌てて地にひれ伏す。誰と確かめるまでもなく、ダガラ城内で輿や馬に乗れるのは王家の者だけだからだ。
「陛下!」
ラディエの野太い声が聞こえたような気がしたが、アユルは構わず馬を走らせた。
「月が綺麗ですね」
「もっと綺麗なものを見せてやる」
「なにかしら。とても楽しみです」
歩けば相当な距離だが、馬ならあっと言う間だ。朱門を出て、王都を貫く大通りを下る。すると、中心街には溢れんばかりの人が集まっていた。人通りの少ない脇の小路に入って、二人は馬をおりた。
「夜だというのに、すごい人。さすがカデュラスの王都ですね」
「今日は夏越しの祓いの日だからな」
「お祭りですか?」
「そのようなものだ」
少し待て、とアユルが懐をまさぐる。ラシュリルが待っていると、アユルは雑にたたまれた紙を出して眉間にしわを寄せた。そして、家屋の軒先に吊るされた灯籠の明かりの下でそれに目を凝らした。
「この路地を左に……」
「それは?」
「私は城の外をよく知らないから、コルダに地図を書かせた」
「コルダさんも連れてきたらよかったのに」
「今宵は二人きりがよい」
アユルの言葉に、ラシュリルの頬がほんのり熱を帯びる。
どこに行くにも「お供いたします」とついてくるはずのコルダが、今日はすんなりと二人を送り出した。そのことに今更ながら気づいて、今夜の事は二人の間で計画されていたのだと悟る。
人通りの少ない小路といっても、往来がまったくないわけではない。ただ、華やかさの欠片もない装いのお陰でうまく民衆に紛れ込めているようだ。誰一人、二人に目を留めることなく傍を通り過ぎていく。遠くから、地鳴りのような低い爆音がどぉんと響いてきた。
「急ごう。始まってしまった」
アユルが紙を懐に突っ込んで、右手に妻、左手に馬を引いて小路の角を曲がる。そこから何度か道を曲がった所に、煌々と明かりを灯した宿屋が見えた。どうやら、目的地はそこらしい。
また、どぉん、どぉんと今度は続けて音が鳴った。
宿の前に、そこの主らしき老夫婦がおろおろとした様子で立っている。アユルはその老夫婦に黙って玉佩を見せて手綱を預けると、ラシュリルを連れて一目散に階段を駆け上がった。
「待って、アユル様」
ラシュリルは、息を弾ませながら必死についていく。キリスヤーナにいたころは、こうやって走り回ってばかりだった。そんなことを思い出して、つい笑ってしまう。
二人は、二階の奥にある部屋に駆け込んだ。はぁはぁと息を切らしながら、アユルが通りに面した南側の大きな障子窓を勢いよく開ける。同時に、くらむような色鮮やかな閃光が目に飛び込んできた。そして、少し遅れてあの地鳴りのような音が轟いた。
「花火!」
「見たことがあるのか?」
「はい。キリスヤーナでは、御祝い事の時に必ず花火を打ち上げるので。けれど、色も大きさもここまで立派なのは初めてです」
「そうか」
「ありがとうございます、アユル様。美しいものを見せてくださって」
途切れること無く打ち上げられる花火の閃光と音。窓際に行儀よく座って花火に釘づけになるラシュリルを、背後からアユルがそっと抱きしめる。
「綺麗だな」
「はい、とても。いつもこの季節に王宮まで聞こえてきていたのは、雷ではなくて花火の音だったのですね」
ラシュリルは、体の力を抜いてアユルに背を預けた。
もうすぐ、夏の衣から冬の衣へ更衣するころ。今の瞬間はゆっくりに思えるけれど、過ぎてしまうと一日はあっという間で、歳月はよどむことなく過ぎていく。どれだけ季節が巡り時が流れても、大切に想う気持ちは絶対に変わらない。だからこそ余計に、目に見えない重圧をひしひしと感じてしまう。
共に夜を過ごせば過ごすほど、周りはまだかまだかと期待する。そのうちに、高家の方が妃として王宮に来るかもしれない。幸せな日常の裏に潜む不安に駆られて、ラシュリルはこのところ、以前のように閨でアユルに応えられなくなっていた。
「ラシュリル」
「はい」
「世継ぎのことは、まだ急がなくてもよいと思っている」
「でも、皆さんは……、待ち望んでいるのでしょう?」
「私がよいと言っているのだから、よい」
一際大きな花火が空を赤く染めて、耳をつんざくような音を響かせる。その度に、人々の歓声がどよめきとなって押し寄せた。ラシュリルは、体を抱くアユルの手に自分の手を重ねた。自然に指と指が絡まって、ラシュリルの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「アユル様の言葉は魔法みたい」
「気が楽になったか?」
「はい、とっても」
「爺どもは老い先短く、待つということが出来ないのだ。気に病まずに大目にみてやれ」
「そんな言い方、酷いわ」
笑いながら言うラシュリルの声を、花火の轟音が打ち消す。ぐっと体を引き寄せてられて、ラシュリルはふり返ってアユルの顔を見上げた。向けられるまなざしにも愛情を感じて、心がじんわりと温かくなる。大好き。心の底からあふれるように湧いてくるのは、ずっと変わらない想いだけ。
「アユル様、わた……」
言葉を奪うように、ふたつの唇が重なる。ラシュリルは、身をひるがえしてアユルの首に腕を巻きつける。そして、ぎゅっとアユルを抱きしめた。以前となにも変わらない。唇から伝わってくるのは、愛おしいという気持ちだけだ。
「はぁ……っ」
一瞬だけ離れて、またすぐに境界が曖昧になるほど深くくちづける。大好き。乱れて熱く甘くなる互いの息にくすぐられるように、体の中心に熱が宿っていく。大きな手が背中を撫でる。その動きにすら、肌が敏感に反応してしまう。
――愛して。
声に出来ない言葉を、口の中でもつれ合う舌に乗せる。それに応えるように、アユルがしゅるっとラシュリルの腰帯を解いて衿を左右に割り裂く。はだけた小袖の中で、右の乳房を包み込むように揉んで、親指の腹が淡い中心をかすめた。
体に宿った熱が、全身へ飛び火する。ラシュリルは、ふさがれた口の中でおさえられない声をくぐもらせた。苦しくてもどかしい。嬉しくて幸せ。心の中で混ざり合う様々な思いが、長く乾いていた秘所を潤していく。そこにアユルが触れて、ラシュリルの腰が無意識にぴくりと跳ねた。思わず膝立ちになったラシュリルの胸にアユルが甘く噛みついて、指で恥裂を広げて花芽をまさぐる。ぬるりと指が滑る感触に、ラシュリルは背筋をぞくぞくさせながら必死に耐えた。しかし、耐えるにも限界がある。
「……ぅんんっ!」
つんと尖った胸の頂をちゅうっと強く吸われた途端に、全身が震えて頭が真っ白になった。夜空には、絶えず大輪が咲いてしだれて、火薬の匂いが部屋に流れてくる。靄がかかったような視界に閃光が弾けて、自分が仰向けに空を見ているのだと気づく。
――綺麗な花火……。
そう思ったのも束の間、今度は大好きな人の顔が視界を遮る。凛々しくて、花火よりもずっとずっと綺麗な顔。
うまく体が反応しない夜、嫌な顔一つしないで朝まで手を握って眠ってくれた。次の夜も、その次の夜も、無理強いされたことは一度もない。もちろん、浮気だってされたことはない。愛していると言葉にすればたった一言だけれど、想いは計り知れないほど深くて強い。その言葉のとおり、大事に深く愛されているのがわかる。わたしも深く愛している。大好きなのに、いざとなると体が言うことをきかなくて、それがとてもつらかった。
「わたし、アユル様と愛し合いたい……。お世継ぎとか、そういうことを考えないで、ただアユル様と愛し合いたい」
「私もだ」
瞳を揺らすラシュリルに、アユルがと優しい笑みを返す。そっと頬に添えられたアユルの手に、ラシュリルは甘えるように擦り寄った。
「……んっ」
アユルが、ラシュリルの首筋に吸いつく。赤い跡を点々と描きながら、鎖骨へ、胸へ、柔らかなみぞおちへ。愛しい妻の体に、愛情の証を刻む。
「恥ずかしい……」
ラシュリルが小さく抗議して、軽やかな笑いが肌をくすぐる。そして、淡い茂みにくちづけたアユルが、不意にむくりと体を起こした。
「どうかしたのですか?」
「いや……。今宵は、花火を見せたくて城を出たのだ。このようなことをするためではなかった」
ばつが悪そうに、アユルがこめかみの辺りを人差し指で掻く。その仕草がかわいくて、ラシュリルは両手で顔を覆って身悶えた。
「どうした?」
「なんでもありません」
「ほら、起きろ」
「はい」
アユルが、ラシュリルを起こして着物の衿を合わせながら「すまなかった」と言う。ラシュリルは「いいえ」と首を横に振った。すると、アユルが「続きは城へ戻ってから」と何食わぬ顔で言ったので、ラシュリルは声を立てて笑った。
「ちちー!」
「いけませんよ、王女さま。そちらにはまだ陛下と貴妃様が!」
「いや、ちちがいい! ちちがいい!」
騒がしい声に、アユルは薄っすらと目を開けた。まぶしい光が、部屋を照らしている。どうやら、見事に寝過ごしてしまったらしい。隣を見ると、ラシュリルは安らかな寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
寝所の向こうから、セシルの元気な声が聞こえてくる。静かに寝床を出て、脱ぎ散らかした夜着を素早くまとう。疲れているようで、ラシュリルは少し身じろいだだけで目覚める様子はない。
――昨夜は、遅くまで相手をさせてしまったからな……。
アユルは、ラシュリルの素肌が晒されないように掛布を整えると、急いで寝所を出て声のする方へ向かった。
「あっ! ちちー!」
アユルに気づいたセシルが、女官の静止を振り切って全速力で突進してくる。アユルは、セシルを両手で受け止めて軽々と抱き上げた。満足したのか、愛らしい顔がにこにこと上機嫌に笑う。
「これ、セシル。またつまみ食いをしたのか?」
困った子だと呆れながら、アユルはもちもちとしたほっぺについた菓子くずを手で払う。そして、腕に乗った重さを抱きしめた。
庭の見える廊下に出ると、既に日が高くのぼっていた。これから支度をしても朝議には間に合わないし、有能な宰相がいるから一日くらいは問題ないだろう。ラディエからはなにかしら嫌味を言われるだろうが、それも致し方なしと腹をくくる。
「コルダ」
「はい、アユル様」
「私の着替えと、魚の餌を持ってこい」
「かしこまりました」
着替えを済ませて、アユルはセシルと一緒にいつもの池へ向かった。セシルが自分で歩くと言うので、その歩幅に合わせてゆっくりと歩く。大人の足でも距離のある場所だ。少し歩いては立ち止まり、花を拾い、実を口に入れながら、二人は時間をかけて池へ辿り着いた。
池の畔にセシルと並んで、魚の餌を取り出す。空腹だったので、セシルと一つずつ餌をつまみ食いしたら美味だった。餌を投げ終えると、今度は石板の橋を渡って池の真ん中にある四阿まで行った。今日は、たっぷりと時間がある。アユルは、セシルが飽きるまで遊びにつき合ってやった。
清殿に戻ったのは昼のころ。ラシュリルと他愛もない話をしながら食事をして、風通しの良い縁側でセシルと昼寝をする。その日は、夢のように穏やかで幸せな一日だった。
翌日は、案の定ラディエの小言が待っていた。ラディエといえば愚直の権化だ。真面目一徹、情に脆いが融通は利かない。昨日一日朝議に顔を出さなかったことは大目にみるとして、夜の奇行を見過ごすわけにはいかぬとアユルに詰め寄った。皇極殿の書院で、文机を境界に王と宰相が対峙する。
「陛下。夜に人目もはばからず、堂々と城を抜け出すとは何事ですか。国王が夜遊びに耽っては、他に示しがつきません」
「あれはな、そなたらが悪い」
「なぜ我々が?」
「そなたたちが世継ぎ世継ぎと焦って女官にまで手回ししたせいで、貴妃はすっかり恐縮してしまったのだぞ」
「あ……、いえ、悪気ではなく国の一大事でございますれば……。いやしかし、それがあの奇行とどういった関係が?」
「あの日は、貴妃の気を紛らわそうと花火を見に行っただけのこと。やましいことはしていないのだから、夜遊びでもなければ奇行でもない」
ラディエは眉間にしわを寄せて難しい顔をしたあと、「しかし」と腕を組んだ。そして、陛下と貴妃様が仲睦まじいのはいいことだと、一人で納得してうなずいた。
「こちらからも言いたいことがある」
「なんでございましょう」
「高家の者を入宮させるなど、愚かしいことをするのはやめておけ」
「王宮に妃が一人とは前例がございません。もしもの時は、必要でございましょう」
「必要ない。次にこのような噂が立てば、そなたを杖刑に処す。宰相が下位の武官に尻を叩かれるなど、末代までの恥だぞ」
「なっ、なんたることを!」
「心配ばかりを先立たせるなと、いつも言っているだろう。世継ぎのことも然りだ、宰相」
ラディエが、ぬぬぅと声にならない小さなうめき声を上げる。アユルは、涼しい顔で文机に視線を落として筆を手に取った。
セシルが三つになった年の冬、再び皇極殿に中年たちのすすり泣きが響く。今度は王女の時よりも盛大に長く、中年たちはすすり泣いた。待望の王子が誕生したのだ。
特に、国を預かる大宰相ラディエにおいては、王子誕生の喜びに耐えきれず気をやり、武官に抱えられて皇極殿から運び出される始末。これでは尻を叩かれるより恥ではないか、とアユルは高座で大笑いした。
慣例にならって、生まれて一月後に王子はハユマと名づけられた。これは、歴代の王の名からつけられたもので、ハユマが王位を継ぐ者であることを示している。
姉になったセシルは、大人たちの真似をして弟の世話に勤しんだ。もう、魚のことなど忘れてしまったのだろうか。父娘で池に行くこともなくなってしまった。
ある日、アユルが朝議を終えてラシュリルのもとへ行くと、小さなハユマを抱いたラシュリルとセシルが楽しそうに話しをしていた。
「おかえりなさい、アユル様」
「ちちうえ!」
アユルが腰をおろすな否や、セシルが膝の上に陣取る。セシルは、背も伸びて体も重たくなった。弾力のある柔らかい手を握れば、可愛らしい顔が無邪気な笑み返してくる。
「ちちうえ、だいすき!」
「そうか」
大きくなるにつれて、ますます愛おしい妃に似てくるセシルを、アユルは力いっぱい抱きしめた。そして、いつか手元を離れるその日まで、変わらぬ愛情をそそぐと決意を新たにするのだった。