サリタカル国王から、キリスヤーナ国王がサリタカルの王都に到着したとの知らせが届いた。
皇極殿では、キリスヤーナ国王の処遇について議論がなされていた。襲撃の件といい、使節の件といい、キリスヤーナ国王は命をもって償うべきである。いいや、それでは足りぬ。五族誅殺がよろしかろう。などと時折、物騒な言葉が飛び交っている。
アユルは、高座で脇息にもたれかかって視線を漂わせた。五族誅殺を訴えたのは、ラディエの横にいるエフタルだ。アユルには、わずかな焦りがあった。カリナフの報告を受けてから、朝議に出ている間はコルダに清殿を見張らせている。しかし、王妃に動きはない。
――偽の詔書は、本当に王妃の手に渡っているのか?
華栄殿の中での出来事は、アユルにも把握できない。女官の一人でも手懐けておけばよかったかと後悔して、そんな気は毛頭起きないと思い改める。手詰まりの状態だった。
しかし、どうしたものかとアユルが天井に目を向けた時、コルダがしずしずと皇極殿に入ってきた。コルダは、朝議の邪魔にならないようにアユルのもとへ行き、懐から清殿の鍵をちらりと覗かせた。王妃が、罠にかかったという合図だ。
「しばし王宮へ戻る。皆は構わず続けろ」
そう言って立ち上がったアユルに、鎮まった皇極殿の視線が一気に集中する。かしこまりました、と返事をするラディエの横からエフタルが身を乗り出した。
「陛下、お待ちください!」
エフタルの鬼気迫る必死の形相。それは、アユルに確信を持たせるのに十分だった。
「どうした、エフタル」
「キ、キリスヤーナ国王の処遇について、陛下のお考えをお聞きしておりませぬ」
「しばし、と言っただろう。すぐに戻る」
「ですが!」
これ、とラディエがエフタルの肩をつかむ。アユルは、エフタルに冷たい笑みを向けて高座をおりた。皇極殿を出て、早足で王宮へ急ぐ。清殿近くの庭に、ラシュリルとカリンの姿が見えた。二人が、アユルとコルダに気づいて近づいてくる。アユルは廊下からラシュリルに声をかけた。
「このような所で、なにをしている」
「焼き菓子を作ったので、王妃様に召し上がっていただこうと思って持ってきました」
「そうか。生憎だが、王妃は諸用に出ている。先触れをしなかったのか?」
「はい、うっかりしていて……。では、出直しますね」
ばつが悪そうに苦笑いするラシュリルに、次からは先触れをしろよと言いかけて、アユルは言葉を飲み込む。次の機会などないことを思い出したのだ。
「せっかく来たのだから、華栄殿で王妃を待つといい」
「いいのでしょうか」
「よい」
「分かりました。そうします」
ラシュリルが、華栄殿の方へ体を向ける。アユルは、ラシュリルの背中に「私の分も残しておけ」と言葉をかけた。ラシュリルとカリンが、楽しそうに顔を見合いながら遠ざかっていく。
アユルは、清殿の妻戸の前に立った。コルダが施錠した扉。中に、王妃が閉じ込められている。白木の扉に触れると、獲物が罠に掛かった生々しい感触がした。
「コルダ、鍵を開けろ」
「はい」
蝶番の重たい音がして妻戸が開く。しかし、そこに王妃の姿はなかった。おそらく、王妃は施錠されていたことにも気づいていないのだろう。アユルはにんまりと口の片端を上げて、一直線に書斎を目指した。
本当に長閑な気候だった。春鳥のさえずり、窓から入ってくる風も太陽の光。なにもかもが、清々しく感じられる。
タナシアは、文机に広げた書簡を見つめた。一度目よりも簡単だった。押された王印を指先でなぞると、無意識に安堵のため息が唇から漏れた。
ずっとここにいたい。こそこそと隠れて忍び込むのではなく、いつか、ここで陛下と過ごしてみたい。書物を読む陛下の横顔を飽きるほどながめて、他愛もない話をして。夢見るだけで幸せ。
顔を上げて、書簡から正面に目を向ける。そこは、書斎の入り口だった。閉じた扉にアユルの優雅な立ち姿を投影して、タナシアのまなざしが恍惚とする。今日は、なに色のお召し物をまとっておられるのかしら。白でも黒でも、赤でも紫でも、陛下はどのような色を召されても美しい。タナシアの視線がうっとりと熱を孕み、ぴたりと閉じた扉が呼吸の音よりも静かに開く。泡が弾けるように、夢と現実が入れかわった。一瞬のことだった。
「どうして……?」
タナシアのつぶやくような独り言を、黒衣の裾のはためきが撃ち落とす。
近づいてくるのは、恋しく想っていた夫。二人で過ごせたらと願っていたのは確かだけれど、こんな状況を望んでいたのではない。
朝議に出ているのではなかったの? 父上はなぜ、陛下を皇極殿に引き止めてくれなかったの? いえ、そのようなことより早く逃げなくては。逃げる……? どこへ?
タナシアの思考がばらばらに散って錯乱し始め、硬直した体のあちらこちらが震えだす。
「これは、王妃。余の書斎でなにを?」
文机をはさんで向かい合う涼やかな顔に、タナシアはたじろいで言葉を失った。アユルの目が、文机に広げられた書簡に向く。カリナフから聞いていたとおり、サリタカル国王にハウエルを始末させる内容だ。自分でも見分けがつかないほど、筆跡を完璧に真似てある。再び視線を戻すと、おびえきったタナシアの顔に汗がにじんでいた。
「この詔書はなんだ」
「……い、いいえ、これは」
「王印は、引き出しにしまってあったはずだが?」
アユルは、タナシアの横に屈んで王印を桐箱に収める。そして、文机の脇に積まれた書簡の山から一つ手に取ってタナシアの耳元に顔を近づけた。
「そなたは、以前にも同じことをしたはずだ」
「な、なにを……」
「白を切るつもりか?」
「わ、わたくしには覚えがございません」
「やはり、そなたは余を若造とさげすんだ父親と同様に、余を見くびっているようだな」
「いいえ、いいえ! わたくしは陛下をお慕い申し上げております。見くびるなど、そのようなこと断じてございません!」
信じてくださいと、タナシアが必死に首を横に振る。アユルはそれを鼻で笑った。
所詮、王と妃を繋ぐのは利害でしかない。自覚があるのかどうか知らないが、王妃にはそれがちゃんと刷り込まれている。妃がねとして育てられるとは、そういうことだ。だから、一度目の罪を平然と強かに隠し通せたのだろう。
見逃せば次、さらに目を瞑ればまた次。王妃が王宮に残れば、これから多くの罪にその手を染める。そして、必ずラシュリルにも魔の手が伸びる。多くの妃を持ちながら、子を一人しか遺せなかった先王がいい例だ。四家から嫁いだシャロアという権力者に屈したからこそ、赤子が生まれる度に死に、孕んだ女が紺碧色の池に沈んだ。
浄土のように明媚なのは、建ち並ぶ御殿や塔の意匠だけで、中身は血の池がふつふつと沸いた地獄絵図のような世界。それが王宮なのだ。
「覚悟しろ。余は、そなたが思うよりずっと残忍だ。裏切る者を絶対に許さない」
手で首を締め上げるようなアユルの低い声に、タナシアはひっと息を詰まらせて凍りついた。
アユルの黒衣に焚き染められたお香の香りがふわりと漂って、それにつられるように魂の抜けたタナシアの顔が横を向く。
「陛下」
恐怖に震えて今にも消えてしまいそうな声は、ただ鋭利な視線を呼び寄せただけだった。どうしたら、こんなにも冷たい目を人に向けられるのか。タナシアは、無限に広がる闇のようなアユルの目を見て戦慄する。
「陛下、お願いでございます。信じてくださいませ。わたくしは、本当に陛下をお慕い申し上げているのです」
タナシアの必死な表情が先程のエフタルの顔と重なって、アユルは思わずゆるみそうになった口元を引き締める。そして、書簡を紫檀の軸に巻いて、短刀の切っ先をそうするように軸先を白い喉元に突きつけた。
「陛下は、王女殿の兄に命を狙われたのでございましょう? ですから、わたくしは陛下をお守りするために……!」
「黙れ」
「陛下!」
「余の命を狙ったのは、キリスヤーナ国王ではない。いつまで王命を無視してしゃべり続ける気だ」
ラシュリルは今頃、華栄殿で王妃を待っているのだろう。だが、ことが終わるまでじっとしておいてほしかっただけで、王妃と会わせる気はさらさらない。王宮で繰り広げられるおぞましくて陳腐な闘争を、ラシュリルが知る必要はないのだ。それから、私の残酷さも――。
「立て。これから皇極殿でそなたの罪を明らかにする」
タナシアの目からほろりと涙がこぼれて、きらびやかな衣装に落ちる。やがてそれは、ぽつぽつと厳かに降る雨粒のように、次から次へと正絹の上で音を立てて弾けた。
アユルは、タナシアの手首を乱雑につかんで立ち上がると、二巻の詔書を持って清殿を出た。
「あの」
ラシュリルは、肩をすくめて女官に話しかけた。女官はラシュリルをきっとにらんだまま、つんとした顔をして返事をしない。カリンが応戦するようにつぶらな瞳で女官をにらみ返して、ようやく「なんでございましょう、貴妃様」と棘のある声が返ってきた。
そもそも王宮の女官たちはラシュリルに友好的ではないが、特に華栄殿の女官はあからさまに敵意のようなものを向けてくる。異民族であるうえに、王妃様から陛下を奪う悪しき存在なのだから当然だ。
「飲み物を用意していただけませんか? できれば、香りのあるものを」
「はい?」
「王妃様に召し上がっていただきたくて焼き菓子を焼いたのですけれど、紅茶がどうしても手に入らなくて……。王妃様がいつも飲んでいらっしゃるもので、香りのついたお茶などないですか?」
はあ、と顔をしかめた彼女は、いつも王妃様の傍らにいる女官だ。
――えっと、名前は……。
いつだったか、なにかあればカイエという女官に申しつけてとタナシアに言われたのを思い出して、ラシュリルは「カイエさん」とにこやかに呼びかけてみた。ふいに名前を呼ばれて、カイエの険しい顔が崩れる。しかし、それは一瞬のことで、すぐにまた愛想のない表情に戻ってしまった。
「キリスヤーナの菓子など、王妃様のお口に合うはずがございません。それに万が一、毒などが入っていたなら一大事です」
ラシュリルは皿に被せた布を取って、焼き菓子を一つ食べてみせた。横からカリンも同じように頬張って『甘い』と幸せそうな顔をする。人に害のある毒ではないけれど、ある種の毒であることは間違いない。菓子の甘さは一度覚えたら最後、これなしでは生きていけなくなる。
「ほら、毒なんて入っていないわ。カイエさんも一つどうぞ」
ラシュリルは、皿から焼き菓子を一つ取ると、カイエの手に乗せてにっこりと笑った。眉間にしわを寄せたカイエが、しぶしぶ焼き菓子を口に入れて袖で口元を隠す。そして、もぐもぐと咀嚼して小声で「美味しい」と言った。
ラシュリルが「よかった」と嬉しそうな顔をすると、カイエは少し悔しそうに唇を噛んだあと、観念した様子で茶器を用意してくれた。
「カイエさん、それはなんですか? 可愛らしい花ですね」
「こちらは、王妃様が好んでお飲みになられている菊花茶の小菊です」
「菊花、茶……」
「貴妃様のお国にもございますか?」
「いいえ。けれど、飲んだことはありますよ。お兄様が先王様に謁見した時に、カデュラスで買ってきてくださったの」
「さようでございますか」
「でも、煎じたお茶しか見たことがなかったから……。菊ってこんなに綺麗な黄色をしているのですね」
「小菊という種類の菊でございます。陛下から賜って大層お気に召したようで、王妃様は毎日朝と昼にこちらを飲んでおられます」
そう、とつぶやくように言いながらラシュリルは思った。菊花茶の話をどこかでしなかったかしら、と。乾燥した黄色の小さな菊花が入った器をながめて、記憶を遡る。確か、飲んではいけないと言われたのではなかった? 記憶が鮮明になるにつれて、どくんどくんと鼓動が激しい律動に変わっていく。王宮で煎じられる菊花茶を飲むと――。
神妙な面持ちで急に黙り込んだラシュリルに、カイエが「貴妃様?」と言った。
陛下とコルダは何かを示し合わせていたに違いない。ラディエとカリナフは、がやがやと騒がしい皇極殿でアユルの帰りを待ちわびていた。しばしと言った割には長い気がする。しびれを切らしたラディエが立ち上がろうとした時、通用口の襖が静かに開いてアユルが戻ってきた。その後ろを、うつむいたタナシアがついてくる。
朝議の場に、王妃が姿を見せるのは稀だ。仲睦まじい国王夫妻の噂を耳にしていた官吏たちは、タナシアを見て頬を紅潮させひそひそと声をひそめた。アユルが高座に腰をおろして、ラディエを傍に呼ぶ。そして、手に持った二つの書簡をラディエに手渡した。
タナシアが部屋の隅に座り、高座のアユルに向かって深々とひれ伏す。王妃とは王の隣に並ぶ唯一の者であり、臣下と同じ場所に座ることなどあり得ない。床にひれ伏すとはどうしたことか。官吏たち、ただならぬ光景に驚いて固唾をのむ。
「王妃様。そのような所にかしこまって、どうなされたのです? どうぞ、陛下のお隣に」
カリナフの落ち着いた声が、静まり返った皇極殿に響く。タナシアは、びくりと身を震わせて「いいえ」とか細い声で答えた。
カリナフがタナシアから向かい側に視線を移すと、エフタルが魂の抜けたような顔をしていた。カリナフは、ぱらりと扇を広げて顔の半分を隠してほくそ笑む。念願叶う瞬間が近づいている。そう確信したのだ。
「宰相」
「はい、陛下」
「今そなたに渡した書簡を読み上げろ。一言一句、絶対に間違えるな」
「かしこまりました」
ラディエは咳払いをして、サリタカル国王から預かった銅の交易に係る詔書から順にキリスヤーナ国王を始末せよとサリタカル国王に命じる詔書まで読み上げた。少し間をおいて、一人の文官が「陛下」と声を上げる。
「キリスヤーナ国王には死を以て償わせる。それが陛下のご意向でございますか?」
文官が言うと、今度は別の文官が「陛下」と口をはさんで、最初の詔書にあった銅の量が報告と違っていると指摘した。
「それに、サリタカル国王に命じてキリスヤーナ国王を死罪に処するとは。これが陛下のご一存ならば、今一度お考え直しくださいませ」
「一存もなにも。どちらの詔書も、余には覚えがない」
「覚えがないとは、いかがな意味でございましょう」
アユルは脇息に肘をつき、エフタルを見てふっと軽く笑った。いつもの堂々とした威勢はどこへやら。エフタルは青ざめた顔に玉汗を浮かべていた。
「王妃に聞いてみろ。先程清殿に、戻ったら王妃が余の書斎でその詔書を広げていた」
ざわ、と殿内がどよめく。どよめきは小波のように末席から押し寄せて、またたく間に隣の声も聞こえない程の大きさになった。これでは話にならぬと、ラディエが扇で床を打ちつけて「静かにせぬか!」と怒号を飛ばす。殿内がしんと静まり返ったところで、カリナフがタナシアに向かって口を開いた。
「忍び込むとは聞き捨てなりませんね。清殿は陛下の許しなく入ってはならぬ聖域。それを王妃様が知らぬ道理がございましょうか。ご説明ください、王妃様。清殿の書斎で陛下が知らぬ詔書を広げて、なにをなさっておられたのですか?」
タナシアは顔を上げて、おびえた目でカリナフを見返す。カリナフは、優雅な舞を舞う姿とはまるで別人のようだった。淡々とした声も顔立ちも、陛下と同じで怖い。まるで、切り立った崖に追い詰められたような恐怖に支配される。逃げる場所などない。だから、早く罪を告白して楽になってしまいたいのに、出てくるのは涙ばかりで言葉は一つも浮かんですらこない。
「王妃様が、詔書をお書きになられたのですか?」
「いいえ、カリナフ殿。わ、わたくしは陛下の書斎で、詔書に王印を押しました」
再びざわめき立つ官吏たちを、ラディエが制する。カリナフは席を立ってタナシアの傍に座ると、アユルにちらりと目配せした。
「では、どなたが詔書を書いたのですか?」
タナシアは涙をこぼしながら、とても悲しそうな顔で父親を見た。同時に、皆の視線が一気にエフタルに集中する。
「すべて、わたくしと父上がしたことでございます」
「タナシア!」
エフタルが叫び、板張りの床を拳で殴りつける。
「わ、私ではない」
うわ言のように口走るエフタルの胸ぐらを、ラディエが荒くつかんだ。
「なんということだ」
「詔書の偽造など、前代未聞だ」
「まさか、大臣様がそのような」
がやがやと言葉が飛び交う中、一人の文官がのっそりと立ち上がって口上した。カデュラスの法に精通する老齢の文官だ。
「長い歴史の中で、一度もなかったこと。四家の当代と王妃様が死罪相当の重罪に手を染めるとは、国を揺るがす事態になりかねませぬ。陛下、厳正なる取り調べを」
そのつもりだと、アユルは立ち上がった。
「今この場で申し渡す。エフタルの身分を剥奪して無位の平民とする。タナシアも廃妃として、王家が与えたものをすべて召し上げる。カリナフは、二人を投獄して徹底的に調べろ」
アユルは高座をおりる間際、エフタルをふり返って拳を握った。
アイルタユナの不義密通の相手。こんな男をかばって、貴妃様は一族を道連れに非業の死を遂げた。残されたコルダの想像を絶する悲しみを、苦しみを、この男はなに一つ知らない。エフタルの罪をすべて暴き、この手で息の根を止めてやる。
「カリナフ。エフタルが口を閉ざした時は、両手両足の爪をはいで指をひとつずつ切り落とせ。死なない程度に生かし、必ず白状させろ」
「御意」
ラシュリルは、タナシアを待っていた。カイエに行き先などを聞いてみたけれど、知らないと一点張り。いつごろ帰ってくるのか、まったく分からない。とうとう西陽が差し始めて、コルダが華栄殿を訪ねてきた。コルダは女官たちと言葉を交わしたあと、客間にいるラシュリルに王妃様は戻ってこないと告げた。
「ねぇ、コルダさん。王妃様の諸用ってなんだったのですか? こんなに長い時間お姿を見ないなんておかしいわ。なにかあったのではないかと心配で……」
「申し訳ございません、貴妃様。わたくしは存じ上げないのです」
「……そうなの」
「貴妃様、アユル様がお待ちです。わたくしと一緒に清殿へお越しください」
分かりました、と焼き菓子の皿を手にラシュリルは重い腰を上げた。そして、カリンに菊花の入った器を持ってくるように言った。
華栄殿を出て、廊下を渡る。やはり人影はまばらで、いつもの王宮とは違う気がする。
コルダに案内されたのは、清殿の奥にある広い部屋だった。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央にぽつんと置かれた文机で、アユルが書物を読んでいた。
「来たか」
書物を閉じたアユルが、ラシュリルに手招きする。ラシュリルはカリンから菊花の入った器を受け取って、アユルの近くに座った。夜の気配が色濃くなり、部屋の中が翳って薄暗い。コルダが燭台に火をともすと、暖かな橙色の光が部屋を満たした。
「ラシュリルと話がしたい。二人はさがっていろ」
アユルが、コルダとカリンに命じてラシュリルの手をつかむ。ゆらゆらと、揺れる炎に照らされるアユルの顔。いつものように優しい目をして、口元は弧を描いているのに、どこか近寄りがたい雰囲気がある。ラシュリルはアユルの手を握り返して、少し困った顔をした。
「アユル様、お聞きしたいことがあるのです。王妃様がどちらに」
「私の分をちゃんと残してあるのだろうな」
「えっ?」
「焼き菓子のことだ」
口調こそ穏やかだけれど、明らかに言葉を遮られた。胸がどきどきと早鐘を打って、手が汗ばむ。大体、この広い部屋はなんなのだろう。ラシュリルは心細くなって、肩をすくめて部屋を見回す。あるのは文机ひとつと照明だけで、他にはなにもない。本当に今日は、皆どうしたというの?
「ラシュリル」
自分からそれた視線を呼び戻すかのように、アユルが名を呼ぶ。
「明日の朝、清寧殿から荷を届けさせる」
つぶさに意味を理解できなかったラシュリルは、驚いた顔で視線をアユルに戻した。
「どういうことですか?」
「今宵は私と過ごし、そのままここへ居を移せ」
「居を移せって。わたしが、ここに住むのですか?」
「そうだ。この部屋と次の間、その隣の部屋も好きに使ってよい」
にこやかな笑みを浮かべて、アユルが流れるような所作でラシュリルの袿の衿をつかむ。そして、するりとそれを脱がせて、代わりに自分が着ていた黒い表着をラシュリルの肩にふわりと掛けた。その風に、燭台の炎が濁った音を立てて揺れる。
本当は、お兄様とお義姉様のように仲良く寄り添って日々を過ごしたい。けれど、カデュラスの夫婦の形はとても複雑だ。アユル様の妻は一人ではなく、好きだとか愛しているという気持ちや言葉より政治的な価値がなによりも大事だという。
――どんなに愛していても、わたしではアユル様の役には立たない。
アユル様にふさわしいのは、王妃様のような人。これから先、そういう人が妃として王宮に来るかもしれない。わたしは、アユル様を信じている。だから、アユル様を悲しませるようなことはしたくないし、我慢もする。アユル様のことが、なによりも大切だもの。それなのにわたしは今、アユル様の立場よりも自分のことを考えている。愛されて、身にあまりある幸福の中にいるのに、一つ屋根の下いつも一緒にいられるって心の底から喜んでいる。
「どうした、不満か? ならば、気に入る部屋を選べ。書斎以外ならどこでも」
「いいえ、アユル様。夢みたいで、嬉しくて」
「夢ではないぞ」
アユルの指が、ラシュリルの頬を軽くつねる。不意をつくアユルの行動に、ラシュリルは気が抜けたように笑った。
「本当に、いいのでしょうか」
「よいから居を移せと言っている」
「王妃様は……。この事をご存知で、お許しになられたのですか?」
「なぜ、王妃の許しがいる」
「だって、王宮を取り仕切っていらっしゃるのは、王妃様なのでしょう?」
「知っていようがいまいが、王妃には関係のないことだ」
つねったラシュリルの頬を指先でなでながら、アユルが「私の言うとおりに」とつけ加える。ラシュリルは、肩に掛けられた表着に袖を通してこくりと小さく頷いた。すると、アユルが満足そうに笑んで、視線をちらりと横に向けた。
「腹が減ったな。焼き菓子は明日いただくとして、ひとまず夕食にしよう」
「はい」
「その前に聞きたいのだが、その菊の花は華栄殿で出されたのか? 私と会った時は持っていなかったと思うが」
ラシュリルはどきりとした。笑みの消えた顔に射抜くような目。初めて会った時と同じように威圧すら感じて身がすくむ。声の響きには、明らかな疑いが含まれている。迂闊だった。どうして、菊花茶のことをアユル様に聞こうと思ったのか。華栄殿に置いてくるべきだったと、ラシュリルは後悔した。言葉に詰まっていると、矢継ぎ早に次の質問が飛んできた。
「飲めと言われたのか?」
「違います。王妃様の好きな飲み物を用意してほしいと頼んだら、これが……」
「飲んではいないのだな?」
「はい」
そうか、と言ってアユルがコルダを呼ぶ。アユルは、コルダに食事を用意するように命じてラシュリルが着ていた袿を手渡した。
「清寧殿からラシュリルの衣を取ってこい。それから、これは今宵のうちに焼き捨てておけ」
「かしこまりました。ところでアユル様、カリナフ様がお会いしたいと申されているようで、少し前に皇極殿より使いの者がまいりました。火急の用でなければ明日にしていただきましょうか」
「そうしてくれ。明日の朝議前に書斎へ来るよう伝えろ」
「分かりました。では、すぐに食事と貴妃様の衣をお持ちいたします」
コルダが、袿を手に立ち上がる。そろそろとコルダが一歩進むたびに、薄桃色と白が重ねられた袿が正絹のなめらかな光沢を伴って、蝶の羽ばたきのようにひらりひらりとひるがえる。その儚げで寂しい光景に、タナシアの顔が脳裏をよぎった。
「アユル様、あの服は王妃様からいただいたものです」
「知っている」
だから処分するのだ、とアユルが言う。その表情と声は冷ややかで、いつもの優しく温かな雰囲気の片鱗もない。まるで、これ以上の追求は許さぬと釘をさされたかのようだった。
すぐに、カリンが清寧殿から袿を取ってきた。それからコルダとカリンは、手際よく二つの膳を並べた。二人は隣の部屋で控えていると言って、コルダが菊花の入った器を、カリンが焼き菓子が盛られた器を持ってしずしずと部屋を出ていった。
カデュラスの食事は、彩りが美しくて味も上々だ。特に王宮の食事は格別で、貴人たちでも口にできないような高価な食材がふんだんに使われている。ラシュリルは目の前の膳を見て、ほうっと感嘆のため息をついた。いつもの膳よりも皿数は多いし、その一つ一つに細工の凝った鮮やかな色の料理が乗っている。普段の食事よりも豪華だ。
「王宮の料理を作る人は、手先も器用なのですね。料理というより芸術品だわ」
「私が口にするものは、すべてコルダが作る」
「コルダさんが?」
「驚いたか」
「とっても。コルダさんって、魔法使いみたい」
「妖術使いの間違いだろう」
「ご冗談を。コルダさんは、アユル様のために丹精込めて作るのでしょうね。一生懸命な姿が目に浮かびます」
腕をまくって真剣に料理に勤しむコルダを想像して、ラシュリルの顔が花のほころぶような笑顔になる。アユルは、それが嬉しくてたまらなかった。自分と同じように、ラシュリルもコルダを大切に思っているのが伝わってくるからだ。
「今日は私だけではなく、そなたにも真心をつくしたはずだ。だから、嫌いなものが入っていても残さずに食べてやれ」
アユルがラシュリルに微笑みかける。いつもの優しい顔だ。安心したら、急に食欲が湧いてきた。ラシュリルは、根菜の煮物を口に入れて「美味しい」と幸せそうに言った。