◆第17話

 先王マハールの御代、王宮には王妃と他に十八人の妃がいて、おびただしい数の女官が暮らしていた。王宮の記録を見ると、歴代の王の中には三十余名の妃を持った者もいる。

 ダガラ城の奥に造られた王宮という豪奢で広大な檻の中で、崇高な神の血筋は守られ、千数百年もの永きにわたって受け継がれてきた。

 重なった二人の影。

 御年二十五になられるまで独り身でいた陛下が異例なのであって、このような光景は王宮の茶飯事だったのだろう。

 高家に生まれた女人なら誰もが王宮での暮らしに憧れ、妃の座を夢見るのだと聞かされて育った。お前はその頂に座り、神の隣に立つことを許されるのだとも言われた。父上の言葉は、それこそが至高の幸運であるかのような響きを持っていた。しかし、カデュラス国王の正妃になった幸運は、同時に不運なのだと思い知らされる。すがっても、夫は花園を舞う蝶のように、ひらひらと移り気に飛んで行ってしまうのだから。

 タナシアは、四阿から目をそらすように体の向きを変えた。

「華栄殿に戻りましょうか、カイエ」

「は、はい。王妃様」

 しゃらん、と歩みに合わせて髪にさしたかんざしの澄んだ音が響く。タナシアは池から離れた所で足を止め、四阿をふり返ってきゅっと唇を噛んだ。二つの人影はひとつになったまま、一向に離れる気配がない。

 ――いつまで、ああしているつもりなのかしら。

 日の高いうちから、それも外で……。やはり、異国の者を侍らせるべきではなかった。きっと、王女が陛下にあのような破廉恥な行いをさせているに違いない。誠実で気品に満ちた御方がああも堕ちてしまわれて、なんと憐れなのでしょう。

「カイエ。先に行って、父上を華栄殿に呼んでください」

「かしこまりました」

 カイエが急ぎ足で立ち去る。それを見送って、タナシアはゆっくりとした足取りで雑木林を歩いた。

 あれはそう、確か、一度目の書簡を持ってこられた時だった。先の王妃様がどのように王宮を治めておられたのか、父上がちらりと口にしたことがあった。

 ――ひと匙、毒を盛ればよい。

 恐ろしいと思ったけれど、今はそれも必要なのではないかと思えてしまう。陛下の尊厳を、王妃としての立場と矜持を守るには、相応の覚悟がいるのではないかしら。

 あやめの扇から桂花が香った瞬間、わたくしの心は陛下だけのものになった。王女が現れる前に戻れば、きっと思い出してくださるはず。婚儀の日を心待ちにしていると綴ったお気持ちと美しく優しい笑顔を。それに、夫婦の情を持ってくれるのなら王女に然るべき地位を与えると言ったわたくしに、陛下はお応えになった。それをないがしろにして王女を寵愛なさるのなら、飛んで行ってしまわないように蝶の羽をもいでしまえばいい。蝶を誘惑する悪しき花をつまんでしまえばいい。

「王妃様に、ご挨拶申し上げます」

 アユルのものと聞き違えそうなほどよく似た低い声に、タナシアはびくりとして顔を上げた。考え事をしているうちに、いつの間にか清殿近くの庭に出ていたらしい。視線の先、渡り廊下で一人の青年が座ってひれ伏していた。

 タナシアが階を上がると、青年は広げた扇で顔を隠して体を起こした。白い表着の上を、さらりと黒髪が流れる。ダガラ城に入城を許された男子で、垂れ髪なんて破天荒な恰好をしているのは一人しかいない。ティムル家のカリナフだ。

「宴では素晴らしい舞をご披露いただきました。礼を言います、カリナフ殿」

「礼など恐れ多いこと。王妃様に春の歓びをお届けできたのなら、私の喜びも一入でございます。お望みであれば、いつでもお呼びください。王妃様のために舞いますので」

「当代一の舞い手と名高いあなたの舞をいつでも見られるなんて、とても贅沢ですわね」

 優雅な所作で口元を袖で隠して笑顔を見せるタナシアに、カリナフが扇を下げて優しい目を向け「王妃様の特権でございます」と冗談めかして言った。

「ところでカリナフ殿。王宮でなにをなさっておいでなのです?」

「陛下にお目通り願いたく、清殿を訪ねるところでございました」

「……そう。陛下はしばらくお帰りになられないと思います。陛下の侍従に伝えておきますから、外の御殿でお待ちになってください」

「はて。取り次ぎの女官はそのようなこと言いませんでしたが」

「女官は知らないのでしょう。陛下が妃と仲睦まじくお戯れになっていることを」

 なんと、と驚くカリナフの横をタナシアが通り過ぎる。カリナフは、先程と同じようにひれ伏してタナシアに礼をとった。

「……っん、もう、だめです。人に見られてしまいます」

 唇が離れた隙に、ラシュリルはアユルの肩に手をついて力いっぱい押した。そして、アユルの唇に赤い紅がついているのに気づいて、懐から取り出した懐紙で顔を真っ赤にしながらそれをそっと拭った。

「このような所には誰も来ないと言っただろう」

「ですが、王宮にはたくさん人がいますし……」

 きょろきょろと辺りを見回してみると、確かに誰もいない。恥ずかしさを誤魔化すように、ラシュリルは落ちた金の筒を拾ってアユルに手渡す。アユルはそれを受け取って、隣に座れと言った。

「ハウエルを呼んだ」

「お兄様がカデュラスに来るのですか?」

「ああ。それに、そなたの母君と侍女を連れてくるよう命じてある。ゆっくり話す機会を作ってやるから、楽しみにしていろ」

「嬉しい! ありがとうございます、アユル様!」

 ラシュリルが勢いよく飛びついて、アユルがそれを抱きとめる。ついいつもの調子で、またやってしまった。

「押し倒されるのかと思ったぞ」

「……ごっ、ごめんなさい」

「冗談はさておき、礼を言うのは私の方だ。あの夜、そなたの優しさに救われた」

「そんな……。わたし、アユル様になにもしてあげられませんでした」

 それどころか、わたしのせいでアユル様は苦しい思いをしていたのに。それは口にせず、ぐっとこらえる。傷口を広げるような言葉は言いたくなかった。

 カデュラス人ではないわたしが、王宮に住んで身分を賜る。カデュラスに根づく考えを思えば、王妃様の気遣いだけでそれが叶うはずがない。アユル様の庇護があってこそなのだと、ラシュリルはアユルの悲しい表情を思い浮かべた。そして、もう二度とあんな顔をしてほしくないと切に願う。

「そのようなことはないぞ、ラシュリル。私はあの時、心から愛されているのだと実感した」

 ありがとう。ラシュリルを強く抱きしめて、アユルが静かに言った。

 タナシアが華栄殿に戻ると、すでにエフタルが客間に座して待っていた。眉間に深いしわが刻まれた顔を見るに、機嫌はよくなさそうだ。

「お待たせしてしまって申し訳ございません、父上」

 上座を占領して堂々としているエフタルを横目に、タナシアは席に着いてカイエが淹れた茶で喉を潤した。

「タナシア。あの女は何者だ」

「あの女とは?」

「異民族の女のことだ」

 ああ、とラシュリルの顔を思い浮かべて、タナシアは茶器を置いた。

「貴妃がどうかいたしましたか?」

「王子を産んだわけでもないのに貴妃の位を与えるなど、お前は一体なにを考えておるのだ。貴妃とは王妃に次ぐ身分であるぞ。分かっているのか?」

「お怒りをお鎮めくださいませ。仕方がなかったのです」

 エフタルは、ぎりっと奥歯を噛み締めて黙り込む。若造を殺し損ねた。捕らえられた偽の使者の調べが進めば、今度こそ一巻の終わり。それから、若造がキリスヤーナから連れてきたあの女……。

 ――なぜ、キリスヤーナの王女がアイルタユナの玉佩を持っている。

 まさか、アイルタユナが宿怨を晴らすために遣わしたとでもいうのか? 馬鹿ばかしい。とにかくキリスヤーナ国王諸共、早急に始末しなくては。

 エフタルは、書簡をタナシアに渡した。

「先程、キリスヤーナ国王の使者が陛下を害そうとした」

「なんですって?」

「幸いにも陛下には何事もなかったが、あの女はキリスヤーナ国王に陛下を殺せと命じられているかもしれぬ」

「……なんたること」

 タナシアは、状況を理解できずにうろたえた。それが本当なら、さっき目にしたものはなんだったのか。陛下は、自分を害そうとした者の縁者とあのようなことを……?

「タナシア。一刻も早く手を打たねば、陛下があの女の手にかかってしまうぞ」

 エフタルの畳み掛けるような言葉が、タナシアの胸に警鐘を鳴らす。

「この書簡があれば、陛下を守れるのですね?」

「そうだ」

「ですが、前の時とは違って、今は陛下がおられます。清殿に忍び込んで王印を押すのは無理です。どうすればよいのでしょう」

「陛下が朝議に出ている間にやれ」

「分かりました」

 アユルは、ラシュリルの手を引いて清殿へ急いだ。コルダが血相を変えて、カリナフ様がお待ちになっていると知らせに来たのだ。コルダが青ざめていたのは、王妃から池へ行って陛下を呼んでくるように言われたからだ。

 アユルとラシュリルが清殿の広間に行くと、カリナフが礼をとって出迎えた。カリナフは、ラシュリルをちらりと見て、内密の話だとアユルに言った。

「ラシュリルは、コルダと庭を見てくるといい。春の花が咲き始めて、彩りが美しくなってきたところだ」

 はい、と顔をほころばせて、ラシュリルが部屋を出ていく。それを見守るようなアユルのまなざしに、カリナフはふっと笑って扇を広げた。

「仲睦まじく戯れていると王妃様からお聞きした時は耳を疑いましたが、本当のようですね」

「王妃に会ったのか?」

「ええ、陛下がお戻りになられる前に」

 たいして興味がなさそうに、アユルが「そうか」と言う。

「宰相様は、キリスヤーナ国王を呼び寄せる手配をなさっておられます。刺客は二人とも捕らえて、城内の牢に入れました」

 アユルが、黙ってうなずく。カリナフは、警戒するように辺りを見回した。

「エフタル様が、華栄殿へ行かれたようです」

「いつだ」

「今、でございます」

 それは、ハウエルを殺せとサリタカル国王に命じる書簡が、王妃の手に渡った可能性を示唆している。長い歴史の中で、四家の者が裁かれたことは一度もない。初代王が与えた永世の身分は、そう簡単には剥奪できないものだ。王の身を傷つけた罪だけでは、牢にぶち込むのが関の山だろう。しかし、王の書簡を偽造した罪は重い。

 アユルの顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。

 あとは、王妃が書斎に入って王印を押す機会を作ってやればいい。そうすれば、エフタルだけではなく、王妃まで正当な理由で処せる。

「今日は大変な目に遭われたというのに、妃とお戯れになった挙句、そのように笑いを浮かべて……。私は、陛下が恐ろしくてなりませぬ」

「そなた、狩りは嫌いか?」

「狩りですか?」

「ああ。獲物に気づかれないように追い詰めていくのが、狩りの醍醐味というものではないか」

「……なるほど」

「話はそれだけか? 余はもうしばらく貴妃と戯れたいのだが」

 アユルが、笑いながら席を立つ。カリナフはそれを呼び止めて、額を床に擦りつけるようにひれ伏した。

「陛下にお願いがございます」

「大袈裟な。何事だ、カリナフ」

「陛下、どうか……」

 アユルは、カリナフの言葉に耳を疑った。

 それからの数日間は、このところの騒ぎが嘘のように平和だった。外廷から、朝議の始まりを告げる太鼓の音が聞こえる。

「王妃様、お一人で大丈夫ですか?」

「ええ」

 気丈に答えてみるが、心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動して、書簡を持つ手もじっとりと汗ばんでいる。

 ――もう、これきりなのだから。

 胸によぎる罪悪感を打ち消すかのように、タナシアはそう自分に言いきかせる。ことが済めば、陛下は王女を失った悲しみに暮れるでしょうけど、それも一時的なこと。以前のように、わたくしのもとへ戻ってきてくださる。絶対に――。

 タナシアは、華栄殿を出て入念に辺りをうかがった。女官もまばらで、人の目は極めて少ない。ちょうど、女官たちが各々の持ち場で仕事に勤しむ時間だからだ。カイエを残して、足早に清殿へ伸びる廊下を渡る。もとから女官のいない清殿は、裸同然で完全に無防備だった。清殿の妻戸を開くと、扉が重たく軋みながらタナシアを殿内へ招き入れた。その一部始終を、誰よりも王に忠実な男が見ていたことに、タナシアは気づけなかった。

 不穏な風のそよぎは、清殿や華栄殿から遠く離れた清寧殿には一切届かない。用済み女の墓という気味の悪い異名を持つ清寧殿は、王宮の時の流れから取り残されたように静かだった。ここは代々、王の寵愛を失った妃の住処として使われてきた。タナシアに懐疑心を抱かせないようにラシュリルを入宮させ、誰の干渉も受けない自由な暮らしをラシュリルに与える。アユルはそう考えて、ラシュリルの入宮に際し、ここをラシュリルの居所とするようタナシアに命じたのだった。

「できたわ!」

 ラシュリルは、童女のような歓声を上げた。その横で、カリンがつぶらな瞳をきらきらと輝かせる。他の御殿と違って、清寧殿には日常生活に必要な設備が整っている。食事もその一つで、王宮の台盤所からわざわざ膳を運ばなくてもいいように厨房が設えてあった。どの王の御代か正確な記録は残っていないが、ある妃が食事に悪戯をされたり毒を盛られたりするのを防ぐために、禄を貯めて造ったのだそうだ。

「カリン、一つ食べてみて」

 たすきを解きながら言うと、カリンが皿に盛られた焼き菓子を一つつまんで口に入れた。もぐもぐとカリンの頬が動いて、焼き菓子を嚙み砕く音が聞こえる。

 正式な妃となったラシュリルに、初めての禄が金子で給与されたのはつい先日のことだ。びっくりして目が飛び出るくらいの額だった。受け取りを辞退すると、女官長から、陛下と王妃様のご厚意を無下になさるおつもりかと、あからさまに不快な顔をされた。さらに、受け取ってもらわないと私が罰せられると女官長が言うので、仕方なく三分の一だけいただいた。それでも相当な額だ。好きに使っていいと言われて、ラシュリルは困り果ててしまった。

 しかし、積まれた金子を見れば欲が湧くのは人の性。

 ラシュリルは、カリンに城下の市場で焼き菓子の材料をそろえてほしいと頼んだ。カデュラスの菓子も嫌いではないけれど、やはりキリスヤーナの甘い味が恋しい。

『普通は衣、髪飾り、お化粧品を買う』

 とカリンが紙に書くと、

「そうなの? でも、それではお腹は満たされないもの。焼き菓子の方がいいわ」

 と笑顔で答えが返ってきた。使いの女官に買うものを記した紙を渡しながら、カリンはラシュリルとのやりとりを思い出してくすっと笑ったのだった。

「おいしい?」

 ラシュリルは、不安げに尋ねた。カリンが焼き菓子をゆっくり味わって、『おいしい』と蕩けるような笑顔で左右の頬を両手で包む。

 マリージェの隣で、味見役を務めた甲斐があったというもの。記憶だけを頼りに作ったから自信がなかったのだが、カリンの顔を見るにカデュラス人の舌にも合うようだ。一つ残念だったのは、焼き菓子に合う紅茶が手に入らなかったことだ。

「よかった」

 嬉しそうに笑って、ラシュリルは衣桁に掛けてある袿を羽織った。焼き菓子の皿に布をかぶせて、カリンにそれを預ける。二人は、清寧殿を出て長閑な日差しがそそぐ庭を歩いた。足元から、ざくざくと玉砂利の気持ちいい音がする。

 御殿が立ち並ぶ一角にさしかかって、ラシュリルはいつもと違う様子に足を止めた。いつもなら、あちらこちらから女官たちの視線が刺さるのに、今日は人影もまばらで喧騒もない。

「変ね」

 ラシュリルは、カリンと目を合わせて不思議そうに小首をかしげた。

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