◆第15話

 晴天の空に灰色の雲が広がり始め、それから程なくして大きな雨粒がぽつりぽつりと落ちてきた。雨は、すぐに本降りになった。

「宰相様、その鳥かごはなんです?」

 コルダは、外廷と王宮を繋ぐ廊下の途中で足を止めた。腰をかがめて、ラディエが持つ大きな鳥かごを覗き込む。すると、かごの中から「こっこっこっ」と鶏の短い鳴き声が聞こえた。

「我が自慢の雄鶏だ。王女殿がいたく気に入っていると娘から聞いていたのを思い出してな」

「まさか、それを王女様にさし上げるおつもりですか?」

「そうだが、まずいことでもあるのか?」

「まずいといいますか……」

 正直なところ、年頃の姫君が雄鶏をもらって喜ぶのだろうかとコルダは疑問に思う。しかし、それは口にせずに、ラディエを清寧殿に案内することにした。アユルはまだ王宮に戻ってきていないし、夕餉までまだたっぷり時間もある。それに、アユルからラシュリルに届けてほしいと預かっているものもあったのだ。コルダは清殿に立ち寄ってから、ラディエと共に遠い清寧殿を目指した。

「コルダ。お前が持っているその桐箱はなんだ?」

「こちらは、陛下が王女様に下賜なさる袿でございます」

「下賜とはいささか大袈裟ではないか? まだ妃でもあるまいに」

 はっはっはっと笑うラディエに、コルダは困ったように苦笑いした。

「それが昨夜、陛下が王女様を寝所にお召しになられまして」

「なに?」

「ですから、陛下が王女様を寝所にお召しになられたのです」

「聞いてないぞ」

「言っておりませんので」

「待て。王妃様は、それをお許しになられたのか?」

「もちろんです。王宮は王妃様が取り仕切るきまり。いかに陛下といえども、掟を破ることはできません」

 ラディエは足を止めた。そして、両手がふさがったコルダに無理やり鳥かごを持たせて、もと来た廊下を引き返す。

「ちょ、ちょっと宰相様。お待ちください、宰相様ーっ!」

「悪いな、コルダ。それを王女殿に渡しておいてくれ。私は陛下のもとへまいる」

「そんな御無体な……」

 桐箱と大きな鳥かごを抱えた半泣きのコルダを残して、ラディエは疾風のごとく去っていった。

「よく降るわね」

 ラシュリルは、吹き抜けの渡り廊下から庭に目をやった。

 清寧殿の母屋と寝所や書庫などがある離れとを結ぶ廊下は、幾重にも折れ曲がって庭の中を巡っている。晴れの日は太陽の陽差しを免れ、雨の日は濡れることなく庭を散策できるように造られているのだ。

 大きな苔の固まりと化した岩、花芽をつけ始めた桜と対に植えられた橘が、篠突く雨に打たれる。廊下の屋根を叩く雨、木々の葉を打つ雨、枝から遣水に落下する雨。いろんな雨の音が重なって、少し哀愁漂う旋律を奏でる。心に訴えかけるような趣あるカデュラスの風情は、上品で清々しくてとても好感がある。廊下にたたずんで、ラシュリルは雨音に耳を傾けた。

 ――アユル様と出会った時も酷い雨だったわ。

 あの日から、色々なものが一変した。

 アユル様に愛されて、アユル様を愛して、傍にいられるのはとても幸せなことだ。その一方で、恐ろしくもある。エフタル様の辛辣な言葉。カデュラス人ではないというだけでさげすんで、家畜でも見るかのような目をして「お前」と言った。

 ――アユル様もコルダさんをお前と呼ぶけれど、温かさが全然違うわ。

 エフタルの姿や表情を思い出して、ラシュリルはぞくりと肌を粟立たせる。きっと、友好的なのはごく一部で、ほとんどはエフタル様と同じような目で見ている。わたしの存在が、大好きな人の人生に影を落としてしまうのが怖い。同時に、今までどれほど恵まれた環境に身を置いていたのかを思い知る。

 ――皆、どうしているかしら。

 ハウエルとマリージェ、ナヤタに幼馴染の令嬢たち。それから、カリノス宮殿で見送ってくれた面々を思い出して、じんわりと目頭が熱くなる。

 母屋の方からカリンが向かってくるのに気づいて、ラシュリルは袖でそっと目尻を拭った。そして、いつものように笑みを浮かべる。決して、無理に笑うわけではない。カリンのさらりとした尼削ぎの黒髪が左右に揺れる様が可愛らしくて、つい顔がやわらいでしまうのだ。

「どうしたの?」

 ラシュリルが尋ねると、カリンは『コルダ殿』と母屋を指さした。ラシュリルとカリンが客間に行くと、コルダが背筋を伸ばして座っていた。

「こんにちは、コルダさん」

「王女様に、ご挨拶申しあげます」

 いつになく神妙な顔で深々とコルダがひれ伏す。

「どうなさったの、コルダさん。顔を上げてください」

「恐れ入ります」

 コルダはもとの姿勢に戻ると、いつものように目を細めた。そして、ラディエに押しつけられた鳥かごをそそそっとラシュリルの方へ両手で押した。

 こっこっこっ、ばさばさばさっ。

 どこかで聞いたような声と音に、ラシュリルとカリンの目が点になる。

「宰相様からお預かりいたしました。どうぞ、お受け取りください」

「どうぞって、コルダさん」

「申し訳ございません、王女様。返品は承りません。どうぞ、お受け取りください」

 ラシュリルは、カリンと顔を合わせてぷっと吹き出した。鳥かごを覗けば、雄鶏が鋭い眼光を向けてくる。カリンが庭に雄鶏を放ってやると、彼は雨の中、新雪のように真っ白な体を堂々と伸ばして新居の探検に出かけていった。

「雄鶏さんはここが気に入ったみたいね。宰相様に御礼をしなくちゃ。コルダさんにも」

「あの、王女様。実は、わたくしがお届けしたかったのは雄鶏ではなくこちらなのです」

「まだ、なにかくださるのですか?」

「はい。アユル様が、こちらを王女様にと」

 コルダが、桐箱を開けてたたまれた衣を広げてみせる。深い群青色の袿。キリスヤーナの瑠璃で染めた逸品だとすぐに分かる。ラシュリルは、コルダから袿を受け取って愛おしそうに胸に抱きしめた。ふわりと、ほのかに、桂花の香りがする。

「歓春の宴の前日でしたか、アユル様がご自分でお香を焚きしめておられました」

「……そう。嬉しい」

「いかがですが、王女様。王宮の暮らしは思いのほか、窮屈ではございませんか?」

「窮屈ではないけれど……」

 エフタルの顔が頭をよぎって、ラシュリルは言葉を詰まらせる。コルダが、桐箱から花のついた切り枝を出してラシュリルに渡した。

「清殿のお庭に咲いている桃の花です。もう春でございますね」

「え、ええ」

「わたくしは、長い年月をアユル様の傍で過ごしてまいりましたが、あんなに優しい顔で花を摘むアユル様を初めて見ました。王女様のためなら、アユル様はどのようなことでもなさるのでしょう」

「コルダさん……」

「王女様。詳しくは申しあげませんが、わたくしは罪人の子です。それでも、こうしてアユル様にお仕えしております。王女様は、もう充分にアユル様の御心をご存知のはずです。アユル様をお好きなら、強くおなりくださいませ」

 庭で、こっこっこっと雄鶏が鳴く。大降りだった雨は、いつの間にか小雨になっていた。

 貴人たちの屋敷が並ぶカナヤの大通りを抜けて、花街の方へ下った鄙びた所に、年老いた男が一人で暮らしている。

 この男、若いころは才能ある絵師として名が通っていたのだが、今から二十年ほど前に売れる絵を描けなくなった。顔料を溶かす薬品が目に入ってしまい、失明こそ免れたが、視覚から色が消えてしまったのだ。

「頼んでおいたものは出来上がっているか?」

 滅多に人が訪ねてくることのないあばら家に例の武官がやってきたのは、男が具のない汁粥のような粗末な昼飯をすすり終わった時だった。

 絵師として、皆がうらやむほどの大金を稼いでいたのは遥か昔の夢話だ。今は、時々こうして舞い込んでくる胡散臭い仕事をこなして、ちまちまと稼いだ小銭で命を繋いでいる。

 白と黒しかない男の視界は摩訶不思議で、紙に書かれた絵の輪郭を、その細部まで正確にとらえる。そして、絵師の才能は、視覚で捉えた絵を正確に模写した。それは絵に限らず、文字でも一緒だった。

「へぇ」

 男は、晴れた日の昼間でも薄暗い部屋の奥から、筒状に丸めた書簡を数本抱えて武官の前に座った。そして、書簡を床に並べて、そのうちの一本を武官に取ってやった。武官が、鳥の瞬膜のように白く濁った男の両目に顔をしかめ、渡された書簡を広げる。それには、確かにエフタルから渡された走り書きと同じ文言が、カデュラス国王の筆跡で書かれていた。

「さすがだな」

「へぇ。これ以外に、なんの才もねぇもんで」

「たいしたもんだ」

「見本に預かったやつは、こっちで燃やしちまってもかまわねぇかい?」

「そうしてくれ」

 男は武官の目の前で、床に並べた書簡を一本ずつ囲炉裏の火にくべる。燃えていくカデュラス国王直筆の書簡。それらはすべて、アユルが即位前に書いたものだ。武官は、雨に濡れないように偽の書簡を布に包んで懐深くしまう。それから、銭の入った袋を出した。

「謝礼だ。分かっているとは思うが、このことは」

「金さえもらえればそれでええ。忠告なんざいらねぇよ。この老いぼれは絵師を辞めてから、てんで人とのつき合いがねぇ。それに、貧しい生まれで字も満足に読めねぇのよ」

 男が、しっしっしっと手で武官を追い払う。武官は、周りを警戒しながら男の家を出て傘を広げた。向かう先は、件の茶店だ。通りの石畳を、武官は小走りで駆け抜けた。

「よく降る」

 はめ殺しのガラス窓を伝う雨に、カリナフは深いため息をつく。

 春の訪れを祝ったばかりだというのに、今日の雨で華栄殿の庭に残る宴の跡も流れてしまっただろう。春を謳歌する彼の人が幸せであるようにと、ひとさしの舞に込めた願いも届くことなく虚しく散った。

「カリナフ様」

 武官の低い声がして、部屋の扉が開く。カリナフは手酌で酒をあおって、あたかも今までそうしていたかのように装って武官を迎えた。

「書簡はできたか?」

「はい」

「見せてみろ」

 武官が、懐から布に包まれた書簡を出す。彼の体温で温もったそれに、カリナフは真剣な面持ちで目を通した。

「驚いたな。見慣れた陛下の手蹟そのものだ」

「見事なものでございましょう?」

「これを書いたのは何者だ」

「絵師です」

「絵師だと?」

「はい。花街の隅に住んでいる、昔は名をはせた有名な絵師だった男でして、今は」

「その者の人となりに興味はない。逃さぬように見張っておけ」

「わ、分かりました」

「書簡をエフタル様に届けて、キリスヤーナの使者が陛下に謁見する日を聞き出してこい。ここで待っている」

 行け、とカリナフが書簡を武官に戻して、顎をくいっと小さくしゃくる。武官が再びカリナフの元に戻ってきたのは、数時間後のことだった。

 夕暮れ時になって、カリナフはやっとダガラ城の朱門をくぐった。勤めを終え、皇極殿から朱門へ向かう貴人たちが、すれ違う度に深々と頭をさげていく。はじめはそれに応えていたカリナフだったが、次第に面倒になって、扇で顔を隠して歩速を早めた。

「朝議をさぼるとは何事ぞ」

 皇極殿に着くと、仁王立ちのラディエが腕を組んで待ち構えていた。

「申し訳ございません、宰相様。諸用がございまして」

「朝議よりも大事な用か?」

「ええ。それよりも、まだお帰りになられないのですか? 残業とは、大変ですね」

「そなたと二人そろって清殿にこいと、陛下に言われているのだ」

「さようでございましたか」

 悪びれた様子もなく笑うカリナフを恨めしそうににらんで、ラディエが「行くぞ」と歩き出す。二人は、外廷と王宮を取り次ぐ女官に先導されて清殿に向かった。

「実はな、カリナフ」

 前を歩く女官に聞こえないように、ラディエは小声でカリナフに語りかける。

「陛下が、キリスヤーナの王女を妃になさるそうだ」

「は?」

「話せば長くなるが、そういうことだ」

「分かるように説明ください」

「かくかくしかじか、ここではそれしか言えぬ」

「宰相様、ふざけないでください」

 カリナフが眉間にしわを寄せたところで、女官が清殿の扉を開けた。中から出てきたコルダが、ラディエとカリナフの顔を交互に見て、陛下がお待ちですと会釈した。

 ラディエとカリナフが、清殿の書斎でアユルに臣下の礼をとる。

 まず、カリナフが朝議をすっぽかしたことを詫びてその理由を説明する。エフタルの家に出入りしている武官と茶店で会って書簡を見たと言うと、ラディエが彫りの深い顔をしかめて語気を強めた。

「なんだと? エフタルが、また偽の詔書を?」

「はい。キリスヤーナ国王を捕らえて処刑せよと書かれておりました。武官の話では、それをサリタカル国王に送るつもりだそうです」

「サリタカル国王に送ってどうする。いきなりそのような書簡を受け取っても、サリタカル国王が応じるわけがなかろう」

「ええ。ですから、エフタル様はちゃんと用意なさっておられます。陛下に絶対の忠誠を誓うサリタカル国王が、偽の詔書を信じて素直に従うような口実を」

 はらりと優雅に扇を広げて、カリナフがアユルを見据える。アユルがそれに応えるように片眉を上げると、カリナフは平然とした顔で驚くことを口にした。

「近々、キリスヤーナ国王の使者が、直々に書簡を渡したいと陛下に謁見を求めてまいります。その使者に謁見をお許しください、陛下。その者はエフタル様が用意した偽物で、陛下の御命を狙っております」

「貴様……。なにをぬかすか、カリナフ!」

 ラディエが、怒りをあらわにカリナフの胸ぐらをつかむ。無理もない。陛下に向かって、死ねと言っているに等しいのだから。カリナフは、私を殴って気が済むのならとラディエに右の頬を向けた。

「少し落ち着け、宰相。カリナフは、こちらにとっても絶好の機会だと言いたいのだろう」

 アユルが顎をしゃくると、ラディエは鼻息を荒くしたまま席に座った。カリナフが乱れた衿を整えて、陛下の御身は必ず守るとアユルに言った。

「よい、自分の身くらい自分で守る」

「恐らく、相手は刺客としての訓練を受けた者だと思われますので、護衛をつけます」

「それでは使者が警戒する」

「しかし!」

「余の心配はいらない。キリスヤーナで身を持って学んだからな。そなたは、エフタルと使者に我々が謀に気づいていることが知れぬよう、うまく手配しろ。それから、宰相は矢じりと調書をいつでも出せるようにしておけ」

 はい、とラディエとカリナフが声をそろえる。アユルは満足げに表情を崩した。あとは、偽の詔書に王印を押す隙を与えてやればいい。

「ところで、陛下。キリスヤーナの王女を妃にすると宰相様からうかがいましたが、本当ですか?」

 カリナフが、神妙な面持ちでアユルに問う。「ああ」とだけ答えて黙るアユルに代わって、ラディエが口をはさんだ。

「驚くなよ、カリナフ。陛下と王女殿はその、随分と前からそういう仲なのだ」

「意味が分かりません。随分前とはいつからです? キリスヤーナでそうなったのですか? 宰相様が同行していながら、なんたること」

「違う、違う。キリスヤーナに行かれる前からだ」

「王宮から出たことのない陛下が、いつそのような相手に出会ったとおっしゃるのか。カデュラスの者ならいざ知らず、他国の王女ですよ? 嘘も大概にしていただきたい。このカリナフ、そのような戯言に騙されるほど阿呆ではございません」

「そう言われてもだな……」

 ラディエがしどろもどろになる様子がおかしくて、アユルはたまらず声を立てて笑ってしまった。

 同刻、華栄殿ではタナシアが衣を選んでいた。衣桁に一枚ずつ掛けられて、広い部屋いっぱいに並べられたそれは、タナシア自身のものではなく妃になる王女のものだ。

「どれも王女殿に似合いそうで、迷ってしまいますね」

 細い指で薄紅色の衣を手繰り寄せて、タナシアがカイエに言う。王妃様は人がよすぎます、とカイエがむすっとした顔をする。タナシアは、それをやんわりとたしなめた。

「わたくしも、晴ればれとした気持ちではないのですよ」

「では、なぜあの方のために衣装を整えてさし上げるのですか?」

「王女殿ではなくて、陛下のためです」

「陛下の……、でございますか?」

「そう。落ち着いて読んでみたら、宣旨には王女殿に与える位が書かれていませんでした。わたくしに任せるということなのでしょう」

「王宮を管理なさるのは王妃様なのですから、当然ではございませんか」

 そうですね、とタナシアは白い袿を衣桁から取って、先程の薄紅色の衣に重ねる。そして、春らしくていいとうなずいた。

「陛下はこの世で一番尊い御方。わたくしに王女殿の位はこうせよと命じればよいのに、それをなさらない。王妃であるわたくしを立ててくださっているのよ。陛下の温情に、わたくしもお応えしなくてはね」

「ですが、王妃様。今宵もお召しになられるほど、陛下はあの方を」

 カイエがはっと口を閉じる。タナシアは、明るい色目の重ねからカイエに視線を移した。今まで見たことのないような冷えた目を向けられて、カイエが「お許しを」とひれ伏す。

「言ったでしょう? 陛下はこの世で一番尊い御方だと。最も高貴な血を受け継ぎ、そのようにお育ちになられたのですもの。ご自分にふさわしいのは誰なのか、それが分からなくなる程、王女殿に溺れたりはなさらないわ」

 清寧殿はとても静かだった。

 カリンが、ラシュリルの髪を梳いて扇でそろりとあおぐ。雨の日は、髪が乾くのに時間がかかる。夜のお召しの知らせが来たのは、ついさっきのことだ。準備が間に合わないように、華栄殿の女官がわざと遅くに知らせたのだ。カリンにはそれが分かったが、異国で育った王女にカデュラス流の意地悪は通用しないらしい。

「カデュラスの苺は、少し酸味があって美味しいわ。キリスヤーナの苺よりも好きかも」

 幸せそうな笑顔で苺の果実茶を味わうラシュリルに、カリンもつられて笑ってしまう。しかし、のんびりとしている場合ではない。髪が乾ききらないうちに清殿へ渡る時間になってしまった。カリンは、急いでラシュリルの髪を結わえて送り出した。

 アユルがラシュリルを待っていると、華栄殿の女官が清殿を訪ねてきた。なんでも、ラシュリルに下賜する衣を選ぶのに王妃が苦心しているのだと言う。

 手短に済ませると確約のもと、アユルはしぶしぶ華栄殿へ赴いた。確かに、部屋いっぱいに衣が並んでいるところをみると、王妃が苦心しているというのはあながち嘘ではないようだ。王妃にしてみれば、初めてのことなのだから仕方がない。アユルはタナシアと一緒にラシュリルに似合いそうな色目の衣を選んだ。

「陛下にお越しいただいてようございました。わたくし一人では決めきれなくて」

 一段落して、タナシアがアユルに茶をすすめる。もうラシュリルが清殿に着いたころだ。アユルは引き留めようとするタナシアを一瞥した。

「余は穏やかに暮らしたい。王女と懇意にしろ」

「おおせのままに。陛下の御心を満たしてさし上げることが、王妃であるわたくしの務めですもの」

 いつもと、どこか王妃の様子が違う。直感でそう思った瞬間、甘えるような声で「陛下」と言って、タナシアが胸になだれてきた。胸元の衣をつかむ白く細い指と近づく朱唇。タナシアの不意打ちに、アユルは戸惑った。その隙を逃さぬとばかりに、タナシアがアユルにすがりつく。

「陛下、今宵はわたくしとお過ごしくださいませ」

「なにを言っている。王女を清殿に待たせているのだぞ。余に恥をかかせる気か」

「お願いでございます。陛下がわたくしに夫婦の情を持ってくださっているのなら、王女殿と懇意にいたします。異民族である王女殿が不憫な目にあわないように、然るべき位を与え、陛下の穏やかな暮らしに決して波を立てないとお約束します」

 タナシアが、アユルの胸に両手をついて体を伸ばした。

 煌々とともった燭台の火に、タナシアのまつげの震えが照らされる。唇が触れそうになったところで、アユルは冷静を取り戻した。

 王妃こそが王宮の主だと暗に示しておけば、満足すると甘く見ていた。呼び出した狙いはこれだったのか。大人しく気弱だと思っていた王妃が、取引きを持ちかけてくるとは……。

「その言葉に二言はないだろうな」

「ございません、陛下」

 アユルは、タナシアと目を合わせたまま女官を呼ぶ。それは、心と体が乖離する瞬間だった。

「今宵はここで王妃と過ごす。王女を清寧殿へ送るようコルダに伝えろ」

 どっぷりと夜が更けたころ、アユルは黒髪を乱したまま寝息を立てるタナシアの眠りを妨げないように寝所を抜け出した。ただ体に巻きつけただけの着物の上に表着を羽織って華栄殿を出る。外は、ひどい雨だった。

 王として、ラシュリルの妃としての位を決めるのは簡単なことだ。しかし、それでは臣下たちが納得しない。だから、王宮に入った時のように、王妃が取り計らうことに意味がある。臣下たちは、王妃の後ろにいるエフタルを敵に回すような真似は絶対にしないからだ。それに、今の状況で王妃の嫉妬がラシュリルに向くのはよくない。目の届かぬところで毒など盛られたら、一巻の終りだ。

 階をおりて、裸足のまま真っ暗な庭に立つ。目を開けていられないような激しい雨に打たれて、瞬く間に全身がずぶ濡れになった。それに構わず、裸足のまま玉砂利の上を歩く。まるで、自分の体ではないような虚無感だった。

 濡れた衣から、不快な匂いがする。この身を差し出して得られるのなら、いくらでも差し出す。痛くも痒くもない。だが、もう、うんざりだ。あとどれだけ王妃を抱けば、雨はやみ、夜は明けるのか。

 闇雲に歩き続け、気がつけば清寧殿の前に立っていた。

 王宮のはずれにある質素な御殿は、明かりもなく巨大な影のようにそこにある。かつて、ここにはアイルタユナとコルダが住んでいた。わずらわしい王宮の喧騒を逃れた、静かでいい所だ。

 アユルは小さな門をくぐって清寧殿の敷地に入ると、そのまま御殿の階を上がって戸口の傍に座り込んだ。壁に背を預けて、真っ暗な庭に視線を泳がせる。

 どれほどそうしていただろうか。きぃと蝶番の軋む音がして、アユルは自分でも分かる程、大きく目を見開いた。少しだけ開いた扉から、ひょこっとラシュリルが顔を出したのだ。

「アユル様?」

 ラシュリルが、廊下に出て近づいてくる。

「起きていたのか。もう真夜中だぞ」

「なんだか眠れなくて……。離れに行こうとしたら、物音が聞こえて見にきたのです。そしたら、アユル様がいるんですもの。会いたいって思っていたから驚きました」

 嬉しそうに顔をほころばせて、ラシュリルが目線を合せるようにすぐ傍に座った。愛らしい笑顔に心が解けていく一方で、嫌な不安が湧いてくる。コルダからなんと聞いて清寧殿に戻ったのだろう。今まで王妃と一緒だったと知っているのだろうか。

「不用心だな。私だったから良かったものを」

「お説教なら中でゆっくり聞きます。その濡れた服をどうにかしないと、風邪を引いてしまいますよ」

「よい、そろそろ清殿に戻ろうと思っていたところだ。そなたも休め」

 ラシュリルは、立ち上がってアユルの腕を引っ張った。衣から水が滴るほど濡れている。大体、こんな時間にこんな所に一人で座っているなんておかしい。コルダさんから、アユル様は急用で戻れなくなったと聞いた。どんな用だったのかしら。いいえ、今はそんなことはどうでもいい。

「とにかく中に入ってください。すぐにコルダさんを呼んできますから」

「よいと言っているだろう。私から離れろ、ラシュリル」

「なぜですか?」

「王妃を……」

「王妃様がどうしたのです?」

「王妃を抱いてきた。私の体から王妃の匂いがする……。だから、近づかないでくれ」

 空を切り裂くように紫色を帯びた閃光が走り、それからすぐに地を揺らすような雷鳴が轟く。雷光に浮かぶ、アユルの顔を流れる雨の筋。それが涙のように見えて、ラシュリルはなにを考える間もなく、咄嗟にアユルを胸に抱き締めていた。

「いつもと同じですよ。アユル様の香りがします」

「……許せ」

「どうして謝るのです。アユル様は、悪いことなんて一つもしていないのに」

 びっしょりと濡れて冷えたアユルに、体温を分けるように強く抱く。背に回された腕が、力強く抱き返してくる。心の痛みが伝わってくるようだった。それなのに、ただ抱き締めることしかできない無力さが歯がゆい。

 しばらくそうしていると、アユルが顔を上げた。アユルは、「落ち着きましたか?」と尋ねるラシュリルの頬にくちづけた。そして、無言のまま階をおりて、雨が叩きつける暗い庭に消えていった。ラシュリルは、アユルの唇が触れた頬を手でおさえる。

 ――あんなに悲しそうな顔、初めて見たわ。

 それから数日後、ラシュリルは王妃から位と高価な衣装を賜り、正式にカデュラス国王の妃となった。そしてこの日、キリスヤーナ国王ハウエルの使者がダガラ城を訪れた。

「本当に、護衛はつけなくてもよろしいのですね?」

 カリナフが、皇極殿に向かうアユルを引き止めた。皇極殿の広間には、いつものように官吏たちが並び、キリスヤーナ国王の使者がカデュラス国王に謁見する時を待っている。

 皆の前で使者を捕らえることができれば、こちらにはとても都合がいい。だが、それには危険が伴う。陛下が襲われてこそ、捕縛が可能になるのだ。絶好の機会を逃すまいと進言したのだが、やはりいざとなると躊躇してしまう。陛下は国の根幹であり、大陸の安寧の礎である。もし、万が一のことがあれば取り返しがつかない。

「いらないと何度言わせる気だ。くどいぞ」

「……やはり、やめておきましょう。もしもの事があれば一大事。別の方法を考えます」

「そのような時間はない。どうした、カリナフ。そなたらしくない言葉だな。怖気づいたのか?」

 そう言いながら、アユルが腰から脇差しを抜いてコルダに渡す。カリナフは目を見張った。

「陛下。護衛はいらぬとおっしゃりながら、脇差しを侍従に預けるのですか? 相手はただの使者ではないと申しあげたはずです」

「分かっている。油断させるために丸腰になっただけだ」

「陛下が書簡をお受け取りなる瞬間を狙って、至近から確実に狙ってくるでしょう。まさか、その腰の扇ひとつで敵の刃を躱すおつもりですか? 無謀なことをお考えなら、尚更やめるべきです」

「扇ひとつあれば十分だ。そなたは余計な心配をせず、いつものように座って見ていればよい」

「陛下!」

「勘違いするな、カリナフ。無謀なことを考えているのは向こうであって余ではない」

 一瞬、アユルの黒い瞳孔が赤い光をともす。気のせいか、とカリナフがアユルの目を覗き見た。それを横目に、アユルは薄笑いを浮かべて廊下を歩き始める。

 ――傷つけるだけでは足りず、殺しにかかってくるとは大胆な。

 娘が王子を産む日を待ちきれず、とうとう自ら王の座につくつもりか。若造ごとき、簡単に屠れるとでも思っているのだろうか。随分となめられたものだ。

 アユルは、カリナフを従えて皇極殿に一歩踏み入る。そして、脇差しを持ってついてこようとするコルダを制した。中に連れていけば、コルダは身を挺してこの身を守ろうとする。貴妃様から託された大切な命だ。今日ばかりは、心を鬼にして置き去りにしなくては。

「コルダはここで、余が出てくるのを待て」

「いえ、陛下。わたくしもまいります」

「行くぞ、カリナフ」

 コルダを残して、閉じた扉の向こうで王の御成が告げられた。

「カリン、雄鶏さんに餌をあげてきて」

 うん、と尼削ぎの頭を揺らして庭におりるカリンを見送って、ラシュリルは静かに筆をおいた。同時に、深いため息がもれる。

 あの雨の夜を最後に、アユルとラシュリルは一度も顔を合わせていない。毎朝、雄鶏の餌を持ってくるコルダから変わりなくお過ごしだと聞いて、少しは安心した。けれど、やはり顔を見ないことには落ち着かない。

「いい天気」

 ラシュリルは、開け放たれた窓に目を向けてぽそっとつぶやく。

 窓から少し離れた部屋の脇で、衣桁に掛けられた目も覚めるような豪華な衣が、帳のように風に裾をはためかせている。それは先日、位と一緒にタナシアから下賜されたものだ。

 王宮を取り仕切るのは、王妃様のお役目。当然、わたしの位を定めたのも王妃様だということ。そう考えると、どうしてもあの夜のことが気になってしまう。わたしを清殿に呼んでおいてそれを反故にするなんて、アユル様は絶対にそんなことはなさらないはず。なにか、事情があったのだと思う。

 ――激しい雨の中を、どんな気持ちで歩いてきたのかしら。

 雨に濡れた悲しげな顔が頭から離れなくて、胸が締めつけられる。許せと言った声も弱々しく震えて、もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。

「少しでいいから、お会いできないかしら……」

 そう思っても簡単にはいかない。王宮の規範は厳格に守るべきもので、王もしくは王妃の許可なしに、妃が一存で王の居所を訪ねるのは御法度だ。勝手をして見つかったあかつきには、厳罰が待っている。

 コルダは命じられたとおり、皇極殿の廊下にじっと座してアユルを待っていた。実は先程、朝議が行われている広間の方からおぞましい叫び声が聞こえてきた。

 ――アユル様の身に、なにかあったのでは?

 立ち上がっては思い改めて座り、また立ち上がっては座り。コルダの額には、大粒の汗が浮かんでいた。アユル様は、出てくるのを待てとおっしゃった。必ず、無事お戻りになる。念仏のように心の中でそう言いながら、膝の上で拳を握って衝動に耐える。

 どのくらい経っただろうか。コルダにしてみれば、一日も二日も経ったかのように長い時間だっただろう。荒々しく扉が開いて、アユルが出てきた。

「アユル様!」

 コルダは一目散にアユルに駆け寄ると、全身をくまなく確認した。そして、安心した様子でほっと息を吐いて胸をなでおろした。叫び声が聞こえた時は慌てたが、どこも怪我はしていないようだ。いつものにこやかな顔に戻ったコルダに、アユルが持っていた金の筒を手渡した。

「こちらは?」

「ハウエルの書簡だ。清殿に戻って綺麗にしてくれ。少し汚れてしまった」

「かしこまりまし……」

「どうした?」

「これは……、血ですか?」

 コルダは眉間にしわを寄せた。純金の筒に、べっとりと血糊がついている。少し汚れてしまったという程度のものではない。

「私としたことが、刺客を仕留める時にうっかり力加減を誤ってしまった」

「アユル様がご自分で始末なさったのですか?」

「コルダ、詳しい話はあとだ。ラシュリルに書簡を見せて、ハウエルの字に間違いないかを確かめたい。そのように物騒なものを見たら、ラシュリルが驚いてしまう」

 アユルが外廷と王宮を繋ぐ廊下を渡っていると、タナシアが華栄殿から出てくるのが見えた。アユルはコルダを先に行かせると、しばし足を止めて華栄殿をながめた。

 清殿をはるかに凌ぐ豊かな色彩は、王宮に並ぶどの御殿よりも美しく華やかで清々しい。天にいるという仙女が住んでいそうなたたずまいだ。

 あの夜、王妃はラシュリルと懇意にすると言った。だが、所詮、それは絵空事でしかない。かつて母親がそうであったように、華栄殿に住む者は王妃という立場ゆえにあらゆるものに嫉妬する。

 若造を殺し損ねた愚か者と王の女に嫉妬する王妃。次に二人が華栄殿で顔を合せる時、ハウエルを始末する書簡が動く。王妃は必ずエフタルの求めに応じるはずだ。邪魔な妃を正当な理由で王宮から追い出せるのだから。

 外廷と王宮を取りつぐ女官が向かってくる。アユルは女官と顔を合わせないように、急いで清殿に戻った。

 そのころ皇極殿では、武官たちが右往左往していた。彼らに指示を出して動かしているのは、ラディエとカリナフだ。

 カリナフが武官から得た情報通り、キリスヤーナ国王の使者を名乗る三人の男は刺客だった。カデュラス国王への謁見が叶うと、次は直々にキリスヤーナ国王の書簡を受け取ってほしいと要求してきた。

「一体、なにが起きたというのだ?」

 ラディエが吐き気をこらえながら、仰向けに倒れた刺客に近づく。男は目を上転させて、苦悶に顔を歪めたまま絶命している。周囲には男の血が飛び散って、畳の上に大きな血だまりができていた。

 陛下が書簡を受け取ろうと、高座をおりて使者の前にかがんだ時だった。ここに倒れている男が、目にも止まらぬ早業で短剣を陛下めがけて振りおろした。これはだめかもしれない。瞬間的に、そんな絶望的な考えが頭をかすめた。しかし、その絶望的な考えは一瞬で霧となった。振りおろされた短剣は、陛下の頸動脈に刺さる寸前で、見えないなにかに弾かれてしまったのだ。男は陛下を見ておびえ、小さくうなっていた。そうこうしているうちに、陛下が腰から扇を抜いて、その柄を男の喉に突き立てた。

 真っ赤な鮮血が吹き上がると同時に響いた、つんざくような男の悲鳴。恐らく、誰一人目の前で起きたことを理解できなかったはずだ。ラディエは、自分の扇を握ってまじまじと見た。どのようにすれば、少し力を込めるだけで折れてしまいそうな白竹の柄で人を刺せるのか。不思議で仕方がない。しかし、なにはともあれ、陛下は傷ひとつ負うことなく刺客を捕らえた。

「カリナフ、ここはそなたに任せる。私は、キリスヤーナ国王をここへ呼ぶ手配をしてくる」

「……はい」

「そなたも驚いたか」

「……ええ。ところで、エフタル様の御姿が見えませぬが……」

「さっき、どさくさに紛れて出ていった」

「まさか、逃げたのではありませんか?」

「エフタルはまだ、私たちに見破られていることを知らぬはずだ。それに、皆もキリスヤーナ国王の仕業だと思っている。私がエフタルなら、逃げるよりも次の手を打つが……」

 アユルは、王宮の広大な庭の一角にある池の畔でラシュリルを待った。ここは王宮の奥まった場所で、滅多に人は来ない。アイルタユナの事件が起こる前は、コルダとよくこの池で泳いだものだ。しばらく待っていると、コルダがラシュリルを連れてきた。アユルは、ラシュリルの装いに目を細める。キリスヤーナの瑠璃で染めた袿が、とてもよく似合っていた。

「急に呼び立ててすまないな」

「いいえ。アユル様のお顔を見られて安心しました」

 そうか、といつもの調子で言って、アユルがラシュリルの手を取った。ラシュリルは一瞬だけ戸惑って、アユルの手をぎゅっと握り返す。

「コルダは清殿に戻っていろ」

「かしこまりました」

 一礼して深緑の木々が茂る庭に消えてゆくコルダの背を見送って、二人は池の中島に架かる切石の反り橋を渡った。

「気をつけろ。私は何度か池に落ちたことがある」

「ふ、深いのですか?」

「さあな」

 ラシュリルは怖くなって、アユルの手を両手で握りしめた。紺碧色の池の水は不透明で、どれくらいの水深なのか見当もつかない。時折、魚が跳ねて水面に波紋を描いた。

 橋を渡りきると、小さな四阿があって、大人が二人並んで座れるくらいの腰掛けが置かれていた。二人は、それに座って一息ついた。

 四方を池に囲まれた中島は、まるでぷかぷかと水面を漂う小舟のようだ。それに、王宮とは思えないほど静かで、切り取られた別の世界にいるような心地よさだった。

「わたしに見せたいものがあるって。コルダさんに聞きましたけれど」

「ああ。ハウエルの字で間違いがないか、これを確認してくれ」

 アユルが、金色の筒を差し出す。コルダが洗ってくれたお陰で、惨劇の痕跡は見事に消えている。ラシュリルは筒から書簡を取り出して読むと、ふふっと笑みをこぼして大きくうなずいた。

「間違いありません。お兄様の字です」

「嬉しそうだな」

「だって、身の潔白を明らかにしてわたしを迎えに行きたいって書いてあるんですもの」

「キリスヤーナに帰りたいのか?」

「いいえ。そうではなくて、アユル様の肩の傷のこと……。お兄様が仕組んだことだなんてどうしても信じられなかったのです。あっ、でも、誤解なさらないでくださいね。わたしは別にアユル様のお考えに口を出すつもりはなくて、ただお兄様を」

 分かっている、と言葉を遮ってアユルはラシュリルを抱き寄せた。美しい黒髪に触れて指で梳けば、優しく甘い香りが漂う。会いたかった。胸からあふれる歓びをおさえて、華奢な体を強く抱き締める。

 ふと目を池の淵に向けて、アユルは柄にもなく背筋を凍らせた。

 ここは、滅多に人が来る場所ではない。庭をそぞろ歩いて、偶然ここに辿り着いたのだろうか。だとしたら、とんでもない偶然だ。

 ――なぜ、王妃がこのような場所にいる。

 顔までははっきりと見えない距離ではある。しかし、王妃はしっかりとこちらを向いている。いつからそこにいたのかは知らないが、こちらに気づいていることは確かだ。当たり前か。王宮にいる男は、私とコルダしかいないのだから。

「お、王妃様。早くここを離れましょう」

 タナシアの背後で、カイエが声を震わせる。タナシアは、四阿をじっと見つめた。

 少し気分を変えようと庭を歩いていたら、陛下の侍従が一人でおかしな所から姿を現した。どこへ行っていたのかしら。気になって、侍従が出てきた方へ足を向けた。けれど、ただ雑木林があるだけで、引き返そうかと思ったら水音がして……。

「王妃様。妃とたっ……、戯れているところを盗み見るような真似は……」

「そうですね。でももう遅いわ、カイエ。陛下は気づいてらっしゃいます。じっとこちらをご覧になっているもの」

「……そんな」

「困りましたね。どうしたものかしら」

「不届きな妃をご注意あそばしませ。このような人目につく場所で、なんとはしたない」

「二人のもとへ行って、陛下の行いをとがめるの? 陛下の御前で、感情任せに妃を罰するの? そのようなことをしたら、わたくしが陛下から処罰されてしまいます」

 アユルは、ラシュリルの肩越しにタナシアを見たまま腕に力を込めた。

「あの、アユル様。外では、誰かに見られたら……」

 ラシュリルが、アユルの拘束から逃れて周囲を見回そうとする。アユルは自然な動きでラシュリルの頬を両手で包むと、鼻先を擦るように顔を近づけた。

「このような場所には誰も来ない」

「本当ですか?」

「そなたに嘘を言ったことはないと思うが」

「確かに、そうですね」

 はにかんだあと、ラシュリルが頬を染めてにこりとした。ラシュリルが傍で笑ってくれるのなら、どのようなことでもすると心に決めた。諍いのもとを断ってこそ、この笑顔は守られる。あの夜、踏みしめた玉砂利の感触と体中にまとわりついた王妃の匂い。思い出すだけで身の毛がよだつ。アユルは、ラシュリルの目を見つめてほほえんだ。

 ――私は、ラシュリルと添い遂げるために王妃を殺す。

 腰掛けに置いた書簡の筒が、四阿の床の上に転げ落ちて甲高い金属音を立てる。アユルはついばむような口づけを何度か落として、舌先でラシュリルの唇をこじ開けた。そして、甘い吐息と舌を絡め取りながら唇を貪った。

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